青海波

 紀貫之きのつらゆきの舞が乱れた。つられて、紀善道きのよしみちの息も乱れ、しょうが揺れた。

「どうした」

 われがお(得意げな顔)で、正しく舞を続けている定省さだみは、そば(横)の貫之を見る。


 舞をめた貫之は、御簾みすかかげた(すだれを上げた)向こうの、前栽せんざい(前庭)を見ている。



 木も草も枯れ果てた前栽せんざい(前庭)に、鳥甲とりかぶとこうぶり(かぶり)、けざやかな青海波せいがいはもん波模様なみもよう)に飛び交う千鳥ちどり刺繍ししゅうしたほう表着うわぎ)のきょすそ)を長く後ろに引き、左は肩脱かたぬぎにして(表着うわぎの左肩の方は脱いで)、雲のもんに朱色の置きぐち袖口そでぐち)の下襲したがさね(下に着たきぬ)を露わに、指貫さしぬきはかま)にかのくつき、太刀たちいた(腰に着けた)舞人まいうどが一人、立っている。



章成あきなり

 定省は走り出た。

 定省を引き留めようと、伸ばした貫之の手は届かない。


 定省は、物忌札ものいみふだの下がる御簾の内から出て、簀の子すのこ(外廊下)の高欄こうらん(柵)に手を掛ける。

「風邪は静まったのか。よかった」

「お待ちください」

 貫之は定省を抱えるように、御簾の内に引き戻す。定省を抱えたまま、善道に言う。

「善道も出るな」


おれは、赤斑瘡あかもがさ(はしか)が出たことがあるから、もう出ないんだよ」

「赤斑瘡……」

 貫之に聞き返されて、善道は「風邪」と空言そらごといていたことを思い出す。


 善道は慌てて、藤原章成ふじわらのあきなりの方を向く。

「もう治ったんだね、章成。よかった」

「舞を合わせよう、章成」

 貫之に抱えられた定省は御簾の内から身を乗り出して、章成へと言う。

「御簾の内に居てください」

 貫之は定省を引き戻す。


 掲げられた御簾みす(上げられたすだれ)に下がるやなぎふだの「物忌ものいみ」のしょ(文字)は、紀貫之の父・紀望行きのもちゆきが書いたものだ。

 それを知らなくても、貫之には、御簾の内にいれば、心安こころやすきことが(安心だと)分かるのか。

 紀望行のしょは、物の怪もののけえる(とどめる)などと言い散らされて(言い触らされて)、屏風びょうぶに歌を書き、かづもの(ほうび)を得ていたほどだ。



(お前)と舞いたくなんかない」

 章成が言った。

 定省は悲しむ。

「君が、そんな心持ちになるのも、かたない(どうしようもない)。上手に舞えなくて、君を、いみじく(ひどく)わづらわせてしまった(迷惑をかけてしまった)。許してくれ」

「出てはいけません」

 章成の方へ、御簾の内から出て行こうとする定省を、貫之は抱えて引き留める。


 定省は、貫之の腕を振り解こうと、あがく。

「でも、だから、君の童友達わらわともだちの貫之に習って、あやまつことなく舞えるようになったんだ」

(お前)が、阿古久曾あこくそと舞うな」


 章成は高欄こうらんを通り抜け、簀の子すのこに上がると、御簾の内から、わずかに出ていた定省の青鈍あおにびの袖の端を引いた。


 章成の手は、力を込めたとも見えないのに、貫之の腕の中から定省は引き剥がされた。

 引き出した定省を、章成はくびる(首を絞める)。

「お前がいなければ、は、阿古久曾あこくそと青海波を舞える」



 人の皮を被っていたものが、おのれまことに欲することをあらわす。

 それを「鬼」と呼ぶ。



「章成っ、何をしてるっ」

 善道は御簾の内から走り出て、章成の絡み付く指を、定省の首から引き剥がそうとする。

 けれど、鬼の指はすべて、くびられて(首を絞められて)赤む定省の首に喰い込んでいるのに、善道の指先からすり抜ける。まるで、ここにないもののように。


 紀氏きしでありながら、紀善道きのよしみちには、能力ざえがない。鬼を静められないどころか、鬼であることさえ、分からないのだ。


「やめろ、章成っ」

 善道は鬼の腕を掴もうとしても掴めず、ただおめく。

「こんなことしたって、阿古久曾あこくそ――貫之とは舞えないんだよっ。こいつをくびっても、藤原氏が決めた他の誰かが、代わりに選ばれる。貫之が、紀氏が、選ばれることはない。だから、やめろ、章成っ」



 紀貫之は御簾の内、立ち尽くしている。



あまかぜ

   雲のかよ 吹き閉ぢよ

      乙女の姿 しばし止めむとどめん


 天の風よ 雲の通り道を 吹き閉じておくれ

   天女の姿を この地に もう少しとどめたいから


 いとけない(幼い)声が響き、吹き寄せる風が、定省をくびる鬼の指をほどいた。

 崩れ落ち、咳き込む定省を、善道は覆うように抱える。

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