行方

 日頃ひごろ、過ぎて(数日が過ぎて)、藤原章成ふじわらのあきなりの熱は下がったが、紀長谷雄きのはせおは、家に留め置いていた。


「病で弱った体をやしなわなくてはいけないからね」

「そこまで、お世話になることはできません」

 かすれた声で、章成は言う。

「……………――友則」

 長谷雄は屏風びょうぶはずれからひげがちの顔(髭の濃い顔)を出し、御簾みすし(すだれし)に紀友則きのとものりを呼んだ。


 簀の子すのこ(建物の外廊下)の日向ひなたで、うつして、冊子そうしじた書物)を読んでいた友則は、御簾の方も見ずに、口を開いた。

(お前)を家に帰すと、長谷雄は大学寮だいがくりょう直曹じきそう(宿舎)に戻って、学ばなければならない。それが嫌なのだ」

「そうっ。そうなんだよっ」

 向き直り、長谷雄は章成に向かって繰り返しうなずく。


 あるだけのきぬを着せられて、紅い下袴したばかまこうぶりけ、ふすま(布団)を掛けて、とこに寝る藤原章成ふじわらのあきなりは、口縁くちびるばかりが紅い青ざめた顔で、笑んだ。


 貫之と同じ十七歳で、ひげも伸び足らず、まるらかな顔ばせ(丸顔)は、病でほそやいで(やせて)、少し下がった目見まみ(目元)は、熱の名残で、潤んでいる。


「では、もう少しだけ、お世話になります」

「そうしたまえ」

 長谷雄は、章成のふすま(布団)を掛け直す。章成は、目を閉じた。



 章成にさえ、赤斑瘡あかもがさであることを、言っていないのだ。兄もまた、赤斑瘡であったことも、言っていない。


 章成を家に帰せない理由よしは、赤斑瘡が、その身にで始めるのが、熱が下がったのちであること。家では、兄の赤斑瘡の祈祷きとうで騒ぎののしりり(大騒ぎ)で、継子ままこの章成の世話をするどころではなく、章成が兄から移されたのではなく、章成が兄に移したと責められることを思いやってか。



――紀友則きのとものりが読んでいるのは、医書だ。紀長谷雄きのはせお祖父おおじ紀国守きのくにもりが、全て焼き捨てたはずの。




 紀長谷雄は、医道をあきらめきれず、菅原道真に頼んで、から商人あきびとから医書を買っていた。



 長谷雄は、章成が寝入ったことを見ると、立ち上がり、御簾みすかかげて(上げて)、簀の子すのこ(外廊下)に出た。

 うつ伏して、冊子そうしを読んでいる友則の側に座った。

 友則は、氷襲こおりがさね(艶のある白の表地おもてじと、白の裏地うらじかさね)の狩衣かりぎぬ、紅の指貫さしぬきはかま)を着て、烏帽子えぼしこうぶり、長谷雄は、檜皮ひはだいろ(茶色)の直衣のうしに、烏帽子をこうぶる。


 漢文からぶみを読んでいるとは思えない速さで、冊子そうしをめくる友則に、長谷雄は言った。

わらわ(子ども)の時に読んだ書物ふみとは、ちがうことも書いてあって、驚くよな」

「そうだな」

祖父おおじ様が医書を焼き捨てた時は、おそろしく、悲しく、むねつぶる想いだったが、こうして新たな医書を読むと、医道は、故事ふるごと(古い知識)を覚えていても、やくなし(役に立たない)と思うよ」

「そうだな」

「――おれの話を聞いてるか、友則」

「そうだな」

「…………」



 熱が下がって、二日ののち藤原章成ふじわらのあきなりの身に、赤斑瘡あかもがさで来て、ようやく紀長谷雄は、赤斑瘡であることを話した。――兄が赤斑瘡であることは、話さない。

 家に友則が入り込んだが、此彼これかれ、話そうにも、祈祷きとうの声がおどろおどろしく、女の泣き罵る(泣きわめく)声も聞こえて、あきらめた。


「このまま、身をやしなっていれば、赤斑瘡は消える。己は、赤斑瘡が出たことがあるから、そばにいても、出ることはない」

 長谷雄は言って聞かせて、章成は黙って聞いていた。


 しかし、章成は、長谷雄の家からいなくなった。

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