学窓の閻魔帳

そうざ

Enma Book of the School

              1


 教育実習の一週間目がつつがなく終わろうとしている。

 最初は終日、教室の後ろで授業を見学し、休み時間や給食の時間に生徒と触れ合って距離を縮めて行くというやり方を採る。

新名にいな先生は彼氏が居ますか?」

「プライベートに関する質問には答えられませ~ん。それに、私はまだ先生じゃないですよ」

「じゃあ、何て呼べば良いんですか?」

「新名さん……ニィナちゃんで良いよっ」

「ニィナちゃん!」

「ニィナちゃ~ん!」

「ニィナちゃ~ん!!」

 実のところ、私は教職に就くかどうかを未だ決め兼ねている。

 子供の将来を大きく左右する教育現場は、教師の労働環境も含めて何かと話題になる。どう考えても楽な仕事ではない。

 残りの三週間で自分の気持ちがどうな風に変化するのか、楽しみのような怖いような、まだそんな段階なのだった。


              ◇


 掃除の時間が終わり、下校する生徒を正門まで見送った私は、直ぐに教室へ取って返した。もう誰も残っていない事を確認したら、今度は職員室で日誌を纏めなければならない。

 カーテン越しに暮れなずむ五月の陽射しが、整然とした机の群れを染めている。

「オッケー」

 独り言をぽつり。

 職員室へ向かおうとして二度見をした。窓際の最後列で小さな人影が身を屈めている。

 津笠つかさオサム――小学三年生にしては小柄な、度の強い眼鏡を掛けた男の子。正直、影の薄い子というのが一番の印象だ。

 津笠君は私が見ている事に気付かず、一心不乱に何かを書き記している。今日の宿題を早速やっているのだろうか。

「津笠君、そろそろ帰らないと」

 お河童頭を載せた首がくるりと回り、眼鏡越しの瞳が私を見詰めた、と思ったら直ぐにまた机の上に集中してしまった。

 そっと近寄り、小さなノートを覗き込もうと再び声を掛けた。

「そんなに一所懸命、何を書いてるの?」

 答えないどころか、手元を隠してしまった。

 この子が同級生と接している場面を、私はまだ見ていない。

「津笠君ってば」

 丸いレンズで拡大された二つの眼球は、完全に私を拒否していた。


              ◇


「それで、津笠君は?」

「急に身支度をして、そそくさと帰ってしまいました」

 職員室で津笠君の話をすると、担任の古森こもり先生が色々と教えてくれた。

 古森先生は教師生活四十年のベテランで、定年を延長するくらい教職に生き甲斐を感じている。

「あの子は入学した頃から変わってましたね。何を考えているのか、よく解らないところがあって」

 津笠君が一年生の時に担任だった女性教師も同じ意見だった。

「大人びていると言うか、感情を見せない子で……でも、扱い易い子でしたよ」

 二年生の時に受け持った若い教師の回答もそれに反しなかった。

「真面目で、勉強も先ず先ず出来て、苛められてる形跡もありませんでしたし」

 それでも何かが気になる。教師志望者の直感と言えば良いのだろうか。

「古森先生は津笠君にどんな指導をされてるんですか?」

「これと言って……別に問題行動は見られませんからねぇ」

 古森先生は心なしか他人事のように話す。

「ノートに何を書いてるんでしょうか?」 

「それは、どうしても見せてくれないのですよ」

「津笠君の事、私に任せて頂けませんか?」

 我ながら軽はずみに大役を引き受けたとは思う。でも、彼の心を開かせる事が出来たら、私は教師に向いているに違いない――そんな風に思えたのだ。


              2


「教師くらい意義のある仕事はありませんよ」

 校長先生の話に熱が籠り始める。どうやら自分に酔うタイプらしい。

 職員会議の終わり掛けに教育実習の意義が話題に上り、いつの間にか校長先生の一人語りを聞かされる羽目になった。が、私はその間も津笠君の事を考えていた。

 津笠君は休み時間もほとんど自分の席を離れない。姿勢を正して窓の外をぼうっと眺めているだけだ。そして時折り思い出したようにノートを開いて何かを書き付ける。

「子供達は日々成長して行きます。そのダイナミズムを間近で見守れるなんて、これはもう教師の特権ですよ!」

 どうすればノートを見せてくれるだろうか。たとえ教師でも強制は出来ない。

当校うちが模範的モデル校に指定されたのは僅か三年前ですが、それ以前は問題の多い学校でした。いじめ、学級崩壊、心を病む教師、その全てを私の代で解決しました」

 何故あのノートの事がこんなに気になるのか、自分でもよく解らない。

「新名さん、聞いてますか?」

「はい、具体的にはどんな取り組みをなさったのでしょうか?」

「え、まぁ……挨拶を習慣付けるとか、笑顔の練習をさせるとか……」

 校長の声が尻窄しりつぼみになり、自分の言葉に確信を持てていない事が恥ずかしいくらい伝わった。先生方は特に口を挟もうとしない。

 これが教育現場の平均値だとしたら、私は実習で何を学べば良いのだろう。


              ◇

 

 お互いの机を付けてグループに分かれるのは、今も昔も変わらない給食の風景だ。

 ただ、お喋りに花が咲くこの時間にも、古森先生は黒板の脇で孤食に徹している。当初から感じてはいたが、古森先生はそれが矜持とでも言わんばかりに生徒との関わりを必要最低限に留めようとする。

 子供達に意見をしなければ、意見を求めようともしない。何かとプリントを配布しては、単に読ませたり、問題を解かせたりと、その間、自身は片隅で黙している。これでは自習と何ら変わらない。コストパフォーマンスを最優先にするような振る舞いには、人間同士の関わりみたいなものがまるで感じられず、どうして定年を延長してまで現場に残ったのだろうかと疑問が湧く程だった。

 私は毎日、子供達と食事を摂る事を心掛けている。給食は子供達との距離を縮める恰好の機会なのだ。

 この日は窓際のグループに入れて貰っていた。

「俺、これ嫌いなんだ」

「私はこれが嫌い」

「じゃあ、交換しよう」

 目の前の子供達と盛り上がりながらも、視界にちらちらと入る津笠君が気になってしまう。

 爪弾つまはじきにはされていないが、打ち解けている様子もない。機械のように黙々と食べ続ける。そして、時折りノートを取り出してペンを走らせるのだ。

「津笠君、食事中はノートを仕舞おうね」

 津笠君の目が私を捉えた瞬間、顔の真ん中に穴を開けられたような奇妙な錯覚に襲われた。

 私の問い掛けをきっかけに、周りの子供達が反応する。

「いつも何を書いてんだよ」

 対面の男の子が無遠慮にノートを取り上げた。園田そのた君というクラスのムードメーカーっぽい子だ。

 ノートを取り返そうと津笠君が立ち上がる。園田君は素早く席を立って逃げる。津笠君は目で追いながらもその場に立ち尽くしている。

「何だこれ……」

 園田君から悪戯な表情が消えた。

「何が書いてあるのっ?」

「見せて!」

「私も見たい!」

 何人かが席を立って園田君の側に集まった。こういう時に我先にと率先するのはいつも同じ活発な顔触れだ。

「えっ……」

 誰もが途端に言葉を失っていた。

「もう終わり。喧嘩になる前にめなさいっ」

 私が今までにない語気で制すると、固まっていた子供の輪が解け、園田君がすんなりと私にノートを渡した。

 この瞬間を待ち望んでいたとは言わない。でも、願ってもいないチャンスだと思ったのは本心だ。

「遊び半分でも、他人ひとの物を勝手に取っちゃ駄目よ」

 そう言いながら、私はり気なくノートに目を走らせた――次の瞬間、小さな掌がノートを奪い取った。

 宝物を取り返した津笠君は素早くそれを机の中に仕舞い、時間が巻き戻ったかのように黙々と食事を再開するのだった。


              3


 放課後の教師は寧ろ忙しい。

 資料を作成したり、翌日の学習用具を準備したりと、各自がばたばたと動き回る。のんびりと休憩している暇はない。

 そんな中、古森先生は泰然としたもので、自席でのんびりお茶を啜っている。楽隠居の縁側というフレーズが浮かんだ。

「先生」

 声を掛けた途端、古森先生の眉根に皺が集まった。厄介事を予感したような反応だった。

「何か、ありましたか?」

「この頃、一部生徒の様子がおかしいと思いませんか?」

「……と仰いますと?」

 気付かない振りをしているようにも見え、私は気持ち、声の調子を高くしてしまった。

「先日の給食の時、一悶着がありましたでしょう?」

「あぁ」

 茶柱でも探しているのか、古森先生は湯飲みの中を見詰めたまま聞いている。

「園田君達、あれから感情の起伏がなくなったと言うか、妙にちゃんとしちゃって――」

「それは問題行動ですか?」

 急に向けられた視線に、私は少したじろいだ。

「問題と言うか……気になりませんか?」

 すると、古森先生は準備していたかのように破顔した。

「子供達は日々気紛きまぐれに変化します。それが成長ってもんですよ。ゆっくり見守ろうじゃありませんか」

 会話を繋ぐ語彙のない自分がもどかしかった。

 教育現場で生まれる問題とは、一体誰にとっての問題なのだろう。子供にとって、教師にとって、保護者にとって、社会全体にとって、誰にとって都合が悪いのだろう。

 自席に戻り掛けたその時、不意に視界が狭まった。一瞬で発熱したかのような感覚だった。

 揺れる職員室を背景に、粗い画素の文字列が現れては消える。それは、一瞬だけ垣間見ただった。

 取り留めなく丁寧に書き込まれた平仮名や片仮名、漢字や数字、アルファベットや記号。何の意味も成さない単なる悪戯書きの集積――或る種の才能なのか、何かしらの症状なのか、その行為が愉しくて仕方がないという濃厚な志向を目の当たりにし、津笠君の頭の中を直接見せ付けられたような気がした。


              ◇


「新名さん……」

 我に返ると、傍らに腰掛けた古森先生が私の様子を窺っていた。見上げた天井は、職員室ではなく保健室のそれだった。

「立ちくらみが……して」

「気負い過ぎかも知れませんねぇ」

 身を起こそうとすると、まだ幾らか世界が回って見えた。どうぞ無理をせず、と古森先生がやんわりと言った。

 養護教諭は席を外しているようだった。保健室に二人切りである事に気まずさを感じていると、古森先生が窓の外に目をやりながら口調を改めた。

「こんな時に何ですが……貴方には先に伝えておこうかな」

「はい?」

「実は私ね、一学期を以て退職しようと思いまして」

「……突然、どうしたんですかっ?」

「前々から決めてたんですよ、初孫が生まれるタイミングで辞めようと」

 校庭から子供達の歓声が引っ切りなしに届く。

「もう大勢の子供達を相手にする胆力はありません。年を取りました。これからは孫との時間を大事にしたいと思います」

 養護教諭が数名の女子生徒を連れて戻り、他愛のない談笑を始めた。放課後の溜まり場になっているらしい。

 古森先生はベッドカーテンをそっと引き、声のトーンを低くして続けた。

「私が新米の頃、学校は目に見えて荒れてましたよ。校内暴力という奴です。当時、私は中学の教師でした」

 古い資料写真や映像が脳裏に浮かぶ。奇妙にアレンジされた制服、暴走するバイク、割れた窓ガラス――私のような若い年代には過剰に戯画化された歪な童話のようにも感じられる光景だ。

「実際に生徒から暴力を受けました。自分が疲弊して行くのがありありと解りました。何度、線路に飛び込む誘惑に襲われたか……結局、休職しましたよ」

「その後、小学校に……?」

「はい、時を経て、改めて小学校教員の免許を取りました。小学生ならば扱い易いだろうと安直に考えました」

 古森先生の目は小動物のそれだった。職員室では最年長の存在が、まるで保護対象のように危うい。

「でも、小学校でも問題は起きます。学級崩壊とかね。人が集まれば必ず厄介事がある。思うようには行かない」

 校庭の声が最高潮に達している。無邪気さが刃になり得るだなんて、当の子供自身は思いも寄らないだろう。

「それでも、いつか理想の学校に、クラスに、子供達に出会えると信じてやって来ました。未練ですよ、未練」

 やがて最終下校時間を告げる音楽が流れ始め、カーテンの向こうの談笑は終わった。校庭に溢れる他人事の声ももう直ぐ消えるだろう。

「そんな或る時、と出会ったんです」

 その指示代名詞が誰を示すのか、何故か直ぐに解った。きっと心の片隅に予感があったのだ。


              ◇


 やっぱり津笠君はまだ教室に残っていた。丁度、帰り支度の最中だった。間に合って良かった。

「津笠君」

 二枚のレンズが傾いた陽射しを反射する。

「古森先生が君に用事があるんだって。今、音楽室で待ってるの」

 眼球は微動だにしない。

「古森先生ね、学校を辞めちゃうんだけど、その前に貴方にお礼を言いたいらしいの。私には何の事だか分かんないけど……」

 瞳孔が素早く縮瞳と散瞳とを繰り返した、ように見えた。

 自分の鼓動が早くなるのが判る。子供に嘘を吐く事自体の罪悪感もそれを手伝っている。

 この教室からなるべく遠く、生徒が出入りし易い場所、と考えたのが最上階の端にある音楽室だった。

 古森先生は話の核心――津笠君が何者なのかについては触れようとしなかった。きっと先生自身もそれを理解出来ていないのだろう。

『恥ずかしい話ですが、私は教師の魂を彼に――』

 津笠君が廊下の角を曲がるのを確認した私は、直ぐに目的の机の中に手を入れた。

「……ない?!」

 思わず声に出た。

 ノートはおろか何も入っていなかった。流石に鞄の中まで勝手に見るのは、と思うが早いか、私はもうごそごそと探っていた。

 やっぱりない。ロッカーの中か――。


「なにしてるんですか」


 汗と震えが同時に襲った。

 彼の甲高い声を初めて聞いた。

 言い訳を考えながらそっと振り返ったものの、津笠君から先制された。

「ノートはここにあります」

 彼は服の下からそれを取り出した。

「センセイ、ウソをつきましたね」

 急に顔が熱くなる。

「音楽室にはダレも居ませんでした」

「……ご免ねっ。先生、勘違いしてたみたい。音楽室じゃなくて別の――」

 ケタケタケタ――と津笠君が笑った。

「おあいこデス」

「え……?」

「音楽室にハ行ってマセン。うそヲつきました、オアイコでス」

「あぁ……相子あいこ、お相子だね」

 鎌を掛けて来る厭らしい子、と思う前に先ずは安心した。大事には至らずに済みそうだった。

「センセイはマダ先生ではナイですね」

「うん、まだ正式な先生じゃない」

「先セイになりタイでスカ」

 何だか色々と見透かされている気がする。一旦は治まっていた汗と震えがぶり返す。

「なりタいデスか」

 津笠君が小首を傾げるような仕草をしたので、私は慌てて答えた。

「迷ってるの。だって、先生の仕事って大変そうだから」

 正直に言った。この子に嘘は通用しないのだ。

「けイヤクすレバいい」

「契約? 何の事?」

 鳩尾みぞおちを硬い物で圧迫されるような、妙な息苦しさが襲い始める。

「ボクと……チゃント……ケイヤく……スレバイイ」

 君は最初からこんな声だっただろうか。もう元の声が思い出せない。

 掲げられたノートの表紙には、紋章のようなものが描かれていた。禍々しい意匠に悪寒を呼ぶ。

 ノートが裏表紙の方から開かれると、そこに無数の黑い蟲がびっしりとこびり付いていた。

 私は声も出せずにたじろいだ。が、よく見れば、それは様々な筆跡が綾なす文字の群れだった。

 何文字か毎にみのようなものが点々と付けられている。

 指紋――というより拇印だ。

「ココニ、ショメイ、ヲ」

 ページの最後辺りに知っている名前が幾つも並んでいた。職員室の面々が脳裏で明滅し始める。名前の主は全て教師を名乗る者に違いない。

「サァ、ドウゾ」

 眩暈に導かれながら、私はに名を連ねた。その途端、わだかまっていた全ての事柄が浄化されて行く感覚に包まれた。

 ツカサと称していた存在が初めて嗤った。

「ヨウコソ、ガッコウユートピアヘ」



              4



 一ヶ月の教育実習が無事に終了した。長いようで短い体験だった。

 全校生徒が帰った後、職員室で細やかな慰労会が催された。

 用意された缶ビールを率先して手にした校長先生は、早速一口啜って一人語りを始める。

「教育界は常に若い血を求めています!」

 長くなりそうだ、と教師達が苦笑いを浮かべ、思い思いに肴を抓む。

「教員不足の昨今でありますから、大学を卒業されたら是非とも――」

 私は間違いなく教師に成る。

「もし我が校に赴任されましたら、その時は大歓迎を――」

 私は間違いなくこの学校に赴任する。

「こんなやり甲斐のある楽しい仕事はありませんよ~っ!」

 校長先生のおどけに一同が沸き立つ。

 取り敢えずはが在籍するクラスの担任教師に成る。最低一年間はの監視下に置かれ、教師の資質を査定されるのが必須の契約事項らしい。

 その後は、どんな学校に転任しても、どんなクラスを受け持っても、どんな生徒に出くわしても、安泰の教師生活が約束される。どんな問題行動の芽も、閻魔帳ノートを使って瞬時に摘んでくれる。

 これは列記とした契約だ。何も恥じるところはない。

 現にこの模範的モデル校に集う面々は、微塵の後ろめたさも持ち合わせていない。従順な生徒に囲まれ、然るべき賃金ほうしゅうを得る事に何の問題があると言うのか。

 何れこの世に存在する全ての教師がちぎるだろう。この地上が真の教育を以てべられる日は決して遠くない。

 私は、不定形に膨張する理想を胸に秘め、缶ビールを一気に飲み干した。

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