『人食い鬼ロベールと人形姫と手作りのお菓子』
ワカレノハジメ
序
白い霞に包まれた森の縁から、ふと人間の匂いが漂ってきた。
ロベールはその瞬間、強い空腹感を覚えた。
林檎をもいで、無花果を潰して、胡桃を割って、いくら食べてもお腹いっぱいにならない。
どんなに大きい猪や野兎を捕まえて平らげても、空腹が満たされる事はない。
お腹も心も、空っぽだった。
ロベールは自分でも気付かぬうちに、手のひらを開いては閉じていた。
いつの間にか、鋭い爪が伸びていて、違和感を覚えたのだ。
人間の匂いを嗅いだ事で、抑えていた人食い鬼の本性が無意識のうちに出てしまった。
人間の匂いについ反応してしまう自分がひどく情けない。
——ああ、人間が食べたい。
ロベールは自己嫌悪に陥ったが、血生臭い欲求は胸の底でだんだんと熱を帯び、溶岩の如く噴き出しそうになっていた。
ロベールは黒いフリジア帽を被る事で額から生えた二本の角を隠し、茶色い上着を羽織ったサンキュロット姿で、深い森の中を彷徨う。
燃えるような赤い髪に空のように澄んだ瞳を持つ、端正な顔立ちをした青年。
だが、その身に流れる血の半分は人食い鬼で、もう半分は人間のものだった。
どちらも、彼を飢えさせる。
誰かと一緒に笑ったり泣いたりする事ができれば、少しは楽しいのだろうかと考える事もある。
だが、こんな深い森の奥を訪れる者はいなかった。
時々、どこか遠くからやって来た旅人や行く当てのない人間が迷い込んでくるぐらいである。
——ここじゃないどこかに行けばいいのかな?
ここはフランスの最果て、ブルターニュ。
どんよりとした鉛色の空は長い戦を経ても尚、変わる事はなく、人々が皇帝を戴いた今もこの土地には古い神秘が息づいている。
花が咲き乱れる丘も、透き通るような湖も、空一面に広がる綿飴雲も、宝石のように煌めく青い海も、子ども達が元気に通っている寄宿制学校も——陰に潜んで生きる彼にはあまりに遠すぎる。
人食い鬼のこの手は、迷い込んできた誰かを簡単に引き裂き、骨まで砕く。
それなら人間のこの手は、迷い込んだ誰かに、いったい、何ができるのだろう?
——僕は誰かと一緒に笑ったり泣いたり、いつか楽しく過ごせるのだろうか?
ロベールにはいくら考えたところで、答えは判らなかった。
その時、また誰かが、森の中に足を踏み入れた気配がした。
ロベールは茂みに隠れて、息を潜めた。
いやに規則正しい足音が二つ、近づいてくる。
やって来たのは、それぞれ金髪と銀髪をした二人の若い女性だった。
彼女達は召使の仕事に就いているのだろう、簡素な帽子を被り、仕事着と思しき機能的なドレスにその身を包み、地味な外套を羽織っていた。
それより何より、気になったのは、二人共、人間の匂いがしない事である。
ロベールは微かに、油と鉄の匂いを鼻先に感じた。
彼女達はおそらく、人間ではない。
にも関わらず——
ロベールの指先から鋭い爪がするりと伸び、足元の水溜りには一瞬、血に染まった双眸が映り込んだ。
……あれだけ人間に似せて精巧に作られた彼女達なら、どこかに生身を使っているんじゃないのか?
もう一人の内なるロベールが、人食い鬼ロベールが囁いた。
ロベールは木々の合間から彼女達の様子を覗きながら、隠れるべきだと理解していた。
近づけば、戻れない。
我知らず、地面を踏み締め、小枝が折れる音が響いた。
ロベールは深い森に足を踏み入れた人ならざる者との縁が、これから自分の生き方を変える事になろうとは、今はまだ想像さえしていなかった。
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『人食い鬼ロベールと人形姫と手作りのお菓子』 ワカレノハジメ @R50401
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