第七話
七
料理コーナーが終了したところで、イベントは十五分の休憩時間に入った。ほどなくして植木はスタッフの一人に声をかけられ、支配人室に案内された。
その部屋で植木を待っていた支配人の大関から、来場者の一人がゾンビのコスプレをした人物に催涙スプレーで襲われと知らされ、休暇中ののんびりとした気分は消え去り、すぐに職業意識がそれに取って代わった。
植木は、浅草署の刑事課に所属し、今年で六年目。二十八歳の独身者である。
実は最近、都内では、ニュースや新聞で大きく取り上げられてはいないものの、コミックマーケットやハロウィンなど、コスプレをした人たちで賑わうイベント会場で、催涙スプレーによる通り魔事件が頻発していて、所轄署間で話題になっている。
コスプレをした通り魔は、各種のイベント会場で人けの少ない瞬間をみつけ、たまたま居合わせた人間の目に催涙スプレーを吹きかけては逃げ去っていく。
スプレーには毒性はないものの、刺激性はそこそこあるので、噴射された当人は数分間は動きを封じられる。勇敢な被害者が後から犯人を追ったとしても、通り魔は犯行後に衣装を脱ぎ捨て凶器も捨てて行方をくらますので、未だ捕えられていない。
今までの捜査で、通り魔は同一人物で男性らしいこと、犯行後も会場の外には逃走せず、イベントの最後まで居残っているふてぶてしさを持ち合わせているらしいことが分かっている程度である。
金品が盗まれたり暴行を加えるなどの大きな被害はないものの、手口が悪質であるため、警察としては、暴行罪ないしは傷害罪による逮捕を目指しているところである。
「これが、その衣装だ。現場近くの男子トイレの個室で、ウチのスタッフが発見した」と大関は言って、ソファの上に放り出されている物を指さした。
それらは、死人のように生気のない蒼白な顔の至るところに禍々しい血の色をした赤が塗られたマスクと、全身を包む黒色のところどころが裂けているローブに、白い軍手、そして長さ十五㎝ほどの催涙スプレーだった。
その向かいのソファには、二〇代前半の女性と小学生の女の子が悄然として腰をかけていた。
植木は大関に、休憩時間の延長すなわちイベントの一時中断を指示して、被害者である西内遥から詳しい話を聞くことにした。
大学四年生で来春に就職を控えているという遥は、依然として動揺から抜け切れてはいなかったが、気丈な態度で経緯を語った。
埼玉県の大宮市在住の遥は、同じく大宮在住の姪と一緒に来場したが、途中で杏奈を見失ってしまったので、劇場を探し回ったこと。杏奈を見つける前に、通り魔に突然催涙スプレーで両目を襲われてしまったこと。襲われたとき、ちょうど開演三分前を告げるアナウンスが鳴り響いたこと。
(ちなみに、杏奈は、事件発生後、迷子になって泣いているところを劇場のスタッフに無事保護された)
最後に遥は、ぽつりと呟いた。
「襲われる直前、映像や写真で見たのと同じ姿で、スカイツリーが鮮やかに夜空に浮かびあがっていたのが、なぜかとても強く印象に残っていて…
背の低い建物とはかぶっていたけれど、その上は何もさえぎるものがなくて、自らが灯した明かりをキラキラと放ちながら夜空に向かってそびえていました。
美しいスカイツリーから気味の悪いゾンビへの突然の景色の反転。しばらくは頭から離れそうにありません…」
遥から話を聞き終えた植木は、事件が発覚した時点で即刻イベントを中断させなかった大関の優柔不断な処置を責めたが、当の大関はなんだかんだとはぐらかした後で、「まあ、結局は、お前さんに報告したんだから、許してよ。すいませんでした」と小太りの体をかがめ、禿げあがった頭を掻きながら恐縮した様子で謝罪した。
事件の解明が急務と判断した植木は、大関に対する追及は打ちきり、さっそく神希成魅に会うことにした。遥を発見して介抱したのが、他ならぬ神希成魅であったからだ。
植木は、神希に話を聞くべく、休憩中の彼女と副支配人の鵜狩が待つ楽屋へ大関と共に向かった。
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