第17話 大原の訪問
大原がすみれの家を訪れたのは、それから二週間後の土曜の、雨降る午後のことだった。
紺色の真新しいスーツを着て来た大原は、まるで就活生のように初々しかった。
一方航は、いつもの青いダンガリーシャツにチノパンというラフな格好だった。
客間は畳の和室で、桔梗の位牌が供えられている仏壇と和箪笥、そして部屋の真ん中には横長の大きな机が置かれている。
そこにすみれと大原は並んで座り、向かい合うような形で航があぐらをかいた。
机にはすみれが淹れた、緑茶の入った湯飲み茶わんがそれぞれの前に置かれ、大原は緊張を隠しきれずにガチガチに固まりながら、お茶を啜っていた。
恋人でもない女の保護者と向き合うなんて大役を押し付けてしまい、大原には本当に申し訳ないことを頼んでいるという自覚はあった。
けれどこうでもしないと、自分の気持ちがぐらついてしまいそうになる。
「はじめまして。すみれの叔父です。よろしく。」
航は穏やかな笑みを浮かべながら、大原に右手を差し出し、握手を求めた。
大原もおずおずと右手を出して、航の手を握り返す。
「はじめまして。あの・・・すみれさんとお付き合いさせていただいている、大原悠と申します。どうぞ、よろしこ・・・あっ、よ、よろしくお願いします。」
緊張の為か大原は噛みまくり、どもりがちになった。
「そんなに緊張しないでくれ。取って食ったりしないからさ。自分の家だと思ってくつろいでよ。」
「は、はい。」
大原はなおもガチガチになりながら、額に浮かぶ汗をハンカチで拭いた。
「そうやって汗をかいているところを見ると、君は暑がりなのかな?」
おもむろに航が会話の口火を切った。
「いえ、どちらかというと寒がりだと思います。」
大原がそう答えると、航は訥々と語りだした。
「そうか。寒い冬は嫌だよな。布団から飛び起きて冷たい空気に自らの身体を投げ出すのも、手袋を忘れた時のかじかんだ指先も、どうにも喜ばしくない。しかし君にとっていいニュースがある。どうも今年は暖冬らしい。嬉しいだろ?」
「そ、そうですね。」
「しかし地球にとってはどうだろう。冬が暖かいという気候変動は果実などの作物が育つ上で多大な影響を及ぼす。健康で正常な花を咲かせ実をつけるためには、ある温度以下の時間が必要なんだ。冬が短くなることによって、木々が目覚め、花を咲かせる時期が早まっている。したがって蜂などの受粉媒介生物が来ず、果実の収量が減少し、果樹園農家に大きな損失を与える可能性がある。」
「は、はあ・・・。」
大原は航が力説する、暖冬と果実の減少の関係性についての講釈に、きょとんとした。
「つまり俺が何を言いたいかというと、君はすみれにとってどのような影響を与える人間なのか・・・良い影響か悪影響なのか・・・それとも全く影響を及ぼさないのか・・・まあ全く影響を及ぼさない付き合いというものに意味があるのかどうかは判らないが・・・とりあえず今日はそれを見極めたいと思う。そのためにこんな雨の日に、しかも大切な土曜日にご足労願ったわけだ。それについてはあらかじめ謝っておく。申し訳なかったね。」
「い、いいえ。とんでもないです。お招き頂きまして・・・光栄です。」
大原は改めて頭を下げた。
そして航による大原の身辺調査のようなものが始まった。
「君はすみれのどういう所が好きになったんだ?ルックスか?それともちゃんと内面を見てくれているのかな?」
大原は少し考えたあと、しどろもどろになりながら答えた。
「・・・僕は野口さ・・・すみれさんの優しくておもいやりのある性格に惹かれました。自分以外の人間の心の痛みを半分引き受けてくれる・・・すみれさんはそういう人です。僕はそれで何度も救われました。もちろん外見も可愛らしくて僕にはもったいない女性だと思います。」
「そうか・・・。君はすみれの内面もよく理解してくれているようだな。」
航はそう言って何度も頷いた。
その後も航は大原の趣味や好きな食べ物、運転免許証の有無まで細かく質問し、大原もそれにたどたどしく答えていった。
そんな航と大原の問答をハラハラしながらすみれは聞いていた。
大原君、ごめんなんさい、と心で謝りながら・・・。
「さて。大原君のご家族はどんな方達なのかな?」
「はい。父は設計技師をしていまして母は専業主婦です。父は少し神経質なところがありますが、家族思いで僕が小さい頃にはよく競馬場へ連れて行ってくれました。母は自宅で手芸教室を開いていまして、手先が器用です。」
「競馬場?お父上は競馬を?」
「はい。大きな賞のときだけですけど。」
「いわゆるG-1レースというヤツだね。天皇賞、皐月賞、有馬記念、宝塚記念、ダービー・・・。それら全部?」
「あ・・・全部かどうかはちょっとわからないですけど。」
「まあお父上のことはいい。君はどうなの?ギャンブルはやるの?競馬やパチンコにハマったりしてない?」
「いや、一切しません。」
「ならいい。ギャンブルで金遣いが荒い男とすみれを交際させるわけにはいかないからな。・・・あと、これは一番大事なことだが、キャバクラや風俗へ行ったりはしていないだろうね?」
「い、行ったことありません。」
「航君!大原君は真面目な人だよ。そんなことするわけないでしょ!」
すみれが思わず口を挟むと、航は厳しい顔をして言った。
「すみれは黙ってなさい。こういうことは初めにちゃんと確認しておかないと、後々泣きをみるのはお前なんだぞ。」
航はなおも大原を質問攻めにしていった。
「酒は飲むの?酒の席で乱れたりしない?」
「たしなむ程度です。」
「家族仲はどんな感じ?」
「父も母も物静かで喧嘩ひとつしない夫婦です。僕もそんなに怒られた覚えもないですし、まあ普通の家族です。」
「ご兄弟は?」
「7つ年上の姉がひとりいます。もう結婚していて3歳の子供もいます。義兄さんの仕事の関係で今は名古屋に住んでいます。姉も母に似て穏やかで優しくて、姉弟仲は良好です。」
「そうか。じゃあすみれを嫁に出しても姑や小姑にいびられることはなさそうだな。いや、それは会ってみないとわからないか・・・。」
「航君!私達、結婚なんてまだ考えてないよ。ねえ、大原君。」
「はあ。まあ・・・。」
すると航は見たこともないような真剣な顔で、大原をみつめた。
「すみれと付き合うなら、結婚するつもりで付き合って欲しいな。すみれを一生幸せにする覚悟のない男には、すみれを渡すことは出来ない。浮気なんてもっての外だ。すみれを傷つけるようなことがあったら、俺は全力で君からすみれを奪い返す。」
「・・・・・・。」
すみれは航による大原への厳しいチェックに、少し驚いていた。
航はすみれの恋に諸手を上げて賛成するだろうと思っていたからだ。
航はなおも言い募った。
「すみれは人生の早い時期に大切な家族を失っている。だからすみれには温かい家庭を築いて欲しいと思っている。大原君、君にはこれから未来永劫、誰よりも何よりもすみれの事を一番に考えて欲しいんだ。それを約束してくれるなら、すみれとの交際を認めよう。」
大原は航の言葉にまっすぐに答えた。
「はい。僕はすみれさんを一番に考え、大切にします。」
「・・・わかった。それを聞いて俺も安心した。すみれもこれからは大原君を一番に考えて生きていくんだぞ。」
私の一番は航君なのに・・・。
でももうその言葉を二度と発することは出来ないのだ。
「・・・はい。」
すみれは偽物の笑顔を貼り付けて、ただそれだけをつぶやいた。
その後、すみれは大原を駅まで送った。
外はもう雨が上がり、傘も必要なかった。
大原は顔を顰めながら大きなため息をついた。
「野口さんには悪いけど、なんだかすごい罪悪感だ。」
すみれは大原に向かって首を横に振った。
「ごめん。本当に大原君には悪いことをしたと思っている。私も航君があんなことを言い出すなんて思ってもみなかったから・・・。」
駅までの道すがら小さな児童公園があり、すみれと大原はその公園にしつらえてあった古いベンチに座った。
すみれは自動販売機で温かいペットボトルのコーヒーを買い、大原に手渡した。
「とりあえず今日のお礼。あ、もちろんこれで終わりにするつもりはないよ。大原君の頼み事ならなんでもするつもりだから。これから一緒に飲みにいくときは私が全額出すし。」
「そんなことはどうでもいいけどさ。」
大原はペットボトルの蓋を開け、コーヒーを一口含んだ。
その少し怒ったような声に、すみれの身体は小さく縮こまった。
「野口さん、叔父さんにめちゃくちゃ愛されてるじゃん。」
「それは姪としてだよ。もしくは娘に対する愛情。」
「そうだろうか。僕には叔父さんが一人の男として、君を愛しているように感じたけど。」
「じゃあどうして私の想いを受け入れてくれないの?」
今度はすみれが声を荒げた。
「きっと野口さんは叔父さんにとって神聖な存在なんだ。愛しすぎていて触れられないんだよ。男ってそういうとこあるんだ。」
「・・・こんな嘘ついて、航君を騙して。本当にこれで良かったのかな。私、どうしたらいいんだろう。またわからなくなってきたよ。」
すみれは両手で顔を覆い、俯いた。
そんなすみれの背中を大原がそっと撫でた。
「でも・・・そうだね。君は叔父さんと一回離れてみたほうがいいかも。そうすることで君と叔父さんの関係も変化するかもしれない。」
「変化・・・?」
「そう。それが野口さんにとっていい方に転ぶか、悪い方に転ぶか、それは判らないけれど。」
すみれは公園に遊びに来ている女の子と、その父親らしき男性を見た。
女の子は父親の肩に抱きつき、楽しそうにはしゃいでいる。
航君にとって私は、あの小さな女の子のままなんだ。
そんな私と航君の関係が変わることなんてあるはずがない。
すみれは冷たい風に吹かれながら、父親におんぶされる女の子をじっとみつめた。
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