#06 キレイな手の男②

 アタシと“ストライカー”が親密な付き合いを始めてから半年が過ぎた夏、彼が元々所属しているチーム ───今レンタル移籍中のチームに貸し出している元のチームから戻ってくるようオファーがあった。

そのチームは優勝争いを毎年しているような強豪で北関東にある。アタシにはそこが問題だった。現在のチームは都心から近くでアタシはバイトをしながら彼の家で過ごしている。彼が戻るとなると引っ越すはずで、アタシはそれについて行くべきなのだろうか、アタシは自分の借りている部屋に戻り少しの距離だが遠距離で交際を続けていくのだろうか。ついて行くとなるとバイトは辞めざる負えない。幸せに心弾ませて2人の生活を満喫していたのだが、急に現実的な問題に直面することとなってしまった。

「人数合わせで戻って来いって言ってるだけだろうな……今のオレじゃあそこでのスタメンは厳しいよなぁ……」

レンタルを終えて戻るようにオファーしてきた理由を“ストライカー”は分析した。

強豪チームには代表選手も多くてそちらに主要メンバーがとられてしまううえ、リーグをこなし、合間にカップ戦まで戦い抜かなければならない。とにかく選手層が厚くないとならなくて、その人数合わせに利用されるだけだと彼は思っている。

外国人の優秀な選手と日本代表のFWがいて、その選手達とスタメン争いしなくてはならなくて、“ストライカー”が今よりも活躍できる望みが薄いのは素人のアタシにだってわかる。戻らないという選択肢があるのはわからないが、今以上に厳しい戦いの場に彼が挑むのは心配でアタシは戻ってほしくない。何よりもアタシ自身に究極の選択が降りかかるからだ。

 でも、そんな身勝手なことは言えるわけがない。

アタシ達は向かい合って夕食を食べながらこの話をしていたのだが、アタシはただ相槌を打つだけでなにも意見せず魚を少しづつほぐして食していた。

「結婚して一緒に引っ越す?」

“ストライカー”は唐突にアタシに質問した。

きっとアタシの言いたいことと聞きたいことを察して、ただアタシを連れて行くには心苦しくて、ちゃんとアタシへの責任を取るという意味での発言だったのだろう。

しかしそれはあまりにもいろいろな過程を飛ばしすぎていて

「なんか、それは違う気がする。結婚ってそうやって決めるもんじゃない気がする」

箸を止めてアタシが答えると

「うん、オレもそれは同感……」

と、彼は言って顔色も変えず白米を口に運んでいた。

 結婚を否定するつもりはない、いづれするかもしれないし、しないかもしれない。今はしたいとは思っていない。

彼の箸と茶碗を持つキレイな手に毎日見とれながらこうやって夕食をしている。この先もそんな日々が続くと思っていた。彼について行かなければそれは失われてしまう。バイトを辞めて彼について北関東に引っ越して、彼のために家事をやり、彼との穏やかな日々を送る、そしてそのうち結婚が現実味を帯びる。

それでアタシは満足なのだろうか。

「アタシは、2人でいたい……だけど、なんか、アタシ、自分の人生わかんなくて、まだ……」

「うん、わけわかんないけど、言いたいことはわかるよ。新幹線とかの距離じゃないし、続けていけるよ、きっと」

アタシ達は別々に暮らすことを選択した。

車で1時間半の距離、その距離に負けない自信がアタシ達にはあった。


 別々に暮らし始めてなぜか“ストライカー”がコンスタントに試合に出場するようになり、サッカー選手として自信をつけ始めた。

それは喜ばしいことだが、アタシがいなくても平気なのだと感じて少し寂しくもあった。月2度程、週末から4日くらい彼の家に泊まりに行く、シーズン中なので彼が来ることはない。寂しいと思っていることを悟られないようにふるまった。

日がたつにつれて寂しさは募り、愛されている自信も少しづつ減少していっているのを感じた。アタシが彼との絆への自信を失っていくのと反比例するように彼はサッカー選手として輝きだした。テレビで試合を見ていると活躍している彼の姿に歓喜するのだが、遠い存在になるような気がして素直に喜べないアタシもいた。

そんなアタシの心中に気が付いたのか、電話越しの彼の様子も変わっていき、毎日していた電話の回数も減り、アタシと“ストライカー”の関係に暗雲が立ち込めていた。

 夏に彼が引っ越し、悶々と彼の出世を見守り、年末が来た。

リーグ戦は冬季休みに入っていたが、強豪チームはカップ戦の決勝戦を迎えた。この時には彼はチームのFWとしての信頼を獲得していてスターティングメンバーとして出場した。都心の競技場で行われるこの試合ををアタシは友人と観戦に行ったが複雑な心境は変わらなかった。彼がゴールを決めた時も、試合終了のホイッスルと同時に優勝が決まった時も、彼が優秀選手に選ばれて表彰されている時も、喜んだし彼を誇らしく思ってもいたが、何か心にモヤがかかったかのようで、その熱狂に専念できないでいた。

 試合後、予定次第でウチに来ることになっていたので、アタシは寄り道もせずに帰宅し彼を待った。

彼がやってきたのは22時を過ぎていて、祝勝会があってそこで飲まされたようで少し酔っていた。

頬をほんのりと赤くした彼は右腕をぶっきらぼうに上げて握りしめている白い取っ手のついた大きなビニール袋をアタシの顔の前に差し出した。

「なに?」

飾り気もなにもないただの膨れ上がったビニール袋に対してかわいげの言葉を言って受け取り中をのぞくと、お菓子がたくさん入っていた。

両手でビニールを広げたまま、酔った顔の彼を見ると

「もらったの、すげぇいっぱい。副賞」

と、答えた。今年1年通して行われてきたのカップ戦の中で活躍が目立った新しい選手に贈られるニューヒーロー賞に選ばれて、その副賞に大会スポンサーのお菓子メーカーのお菓子が1年分もらえたというのだ。

「1年分て、どんだけのこと?」

と、言いながら彼はアタシを抱きしめた。

「365個?」

アタシはお菓子の袋を持ったまま彼に抱きしめられていて、アタシと彼の間に挟まったお菓子の箱たちがつぶれていくのを感じながら答えた。

「そんな食えないよな、飽きるし」

酔って体温の上がった彼はアタシを抱きしめたままたわいもないことも言っている。

「だね。でも、ありがと」

と言いながらアタシは泣いた。彼は何も言わずにアタシの頭をなで始めた。アタシの好きなキレイな手でなでられていると思うとうれしくて、熱を持った体に抱きしめられながらビニール袋を握りしめてただ泣いた。こんなに価値のあるプレゼントは他にない。

 この日、アタシと“ストライカー”は本物の関係になったと確信した。住んでいる場所の距離はあっても心の距離はなくなった。


 それから1年、彼はサッカー選手としての地位を確立し一流選手の仲間入りを果たした。元々子供の頃から目はつけられていて素養はあって、才能が遅咲きだっただけだったようだ。アタシは彼の活躍を横目に逢える日を心待ちにしながら相変わらずバイトに精を出し、相変わらず淡々と暮らしていた。

 2週間ぶりに彼の家に泊まりに行く週末がきて、その日は雪が舞っていた。

電車から降りたアタシはキャリーバッグを抱えてタクシーに乗り彼の借りているマンションに着き、キャリーバッグをガタガタと鳴らしながら彼の住む一室の前に来た。

チャイムを鳴らすと想定外の光景が ── いや、想定内だった。

肩より少し短いミルクティ色の髪で、ふんわり系のメイク、大学生時代にはミスコンでいい線までいったけどアナウンサーにはなれなかったふうな、20代前半の女の子が出てきた。

彼女は口を開けたまま目を見開いて何も言わなかった。

アタシが誰なのかはわかったようで、アタシの存在を知ったうえで彼とそういう関係に至ったわけだ。

 奥から異変を察した彼もでてきたが何も言えず、シラケたアタシの目を見てバツが悪そうな顔をした。

ごめんというようなその顔はかわいかったが、

「アタシ、戻るね」

と、言ってクルリと体を反転させて来た道を戻ろうとして玄関の扉を閉めた。マンションのエレベーターを待っていると、慌てたように彼が出てきて「待って」と、言ってアタシの少し後ろに立った。

「待ってって……3人で食事でもするの?」

アタシは冷たく返答した。

「だよな……ごめん……」

「とりあえずアタシが行くよ。駅前のホテルに泊まる」

「後でそっち行くよ」

申し訳なさそうな彼のしんみりした声に絆されることなく、アタシは冷静に会話をしてエレベーターに乗り込んだ。

マンションのエントランスから外を見ると先ほどより雪の粒が大きくなっている。

Simon & Garfunkelサイモンアンドガーファンクルの“A Hazy Shade of Winter”を低音を強めにして頭の中に流した。そのリズムに乗って駅近くのホテルに向かって雪道を戻った。自分を傷つけた現場から早く去りたくて、原曲よりもピッチは早くして脳内再生した。

雪が積もってキャリーバッグの車輪が回らない。重たい気持ちを引きずるように重たいバッグを引きずった。らちがあかなくなって抱えてザクザクと雪を踏みしめて歩みを進めた。

 アタシは駅の横にあるホテルに部屋をとり、荷物を置いてコートを脱いで雪景色の外を眺めながらため息を付いた。

アタシは彼の浮気を知っていた。

1回目は知ってはいたけど知らないふりをして見逃した。

2回目は別れる気などなかったが大騒ぎして彼からの謝罪とシャネルのバッグを勝ち取った。

今までは許してきた。それは多分、彼を愛していたからだ。彼を失いたくなかったのだ。それに浮気はあくまで浮気で彼はアタシを愛していたのもわかっていた。そう言っていたし、それをしっかりと実感できていた。

 1時間後、彼がアタシの部屋を訪ねてきた。

ベッドに横並びに座り、以前のように言い訳もせずただひたすら謝り、アタシのことを愛していると何度も言っていた。アタシは一生懸命な隣の彼をなぜか冷静に客観的にぼんやりと眺めていた。

自分のやってしまったことの後悔と、アタシがだんまりの状況に、彼はうなだれて、背中をまるめて開いた足の膝あたりに肘を乗せてその間に顔をうずめるようにして下を向いている。アタシは指を組んだ彼の手を見つめた。

「ほんと、ごめん」

後悔のにじむ鋭い目つきで首だけを動かしてアタシを見た彼は言った。

アタシは目が合った瞬間に反らして、自分のつま先を見た。

少し黙っていると、アタシがベッドの上に置いている右手の上に彼の左手が乗った。

「ごめん……」

と、彼はつぶやいてアタシの方を見ている気配を感じた。

「アタシは……あなたの手が好き。その手を始めてみた時から触れられたいって思ってた」

アタシは神経を右手に集中させながら続けた。

「でも……」

また言葉を発したら涙があふれた。

「でも、あの子を触った手で、アタシにふれないで!」

自分でも予想しないほど取り乱して声を荒げた。

彼の手はアタシの手から静かに離れていった。彼は何も言わなかった。

それでアタシと“ストライカー”は終わった。

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