美学に銃弾は似合わない
――クオッツェリア帝国郊外、国境周辺。
南西に広がる荒野には、絶えず発砲音や硝煙が上がっている。火薬の香りが一帯を支配するこの地域では、血で血を洗う凄惨な環境で、常に死と隣り合わせの毎日。
戦争国家の我が国は、圧倒的な軍事力でいくつもの国を傘下に引き込み、威圧し、蹂躙し、成長してきた。
「くそがっ……」
ここは戦場の最前線。生きるか死ぬか、すべて運によって決まる治外法権。
青い瞳を持つ青年は出来の悪い銃をもち、荒野にある岩へ身を寄せていた。
まともに薬莢が入らない、お粗末なそれを叩きながら荒い息を吐いている。
『…番隊に…告ぐ、退却…よ!退…きゃ……せ』
『やめろ!やめてくれ!死にたくない!あ、…』
耳につけた通信装置から、仲間の声が、悲鳴が、命乞いが聞こえる。戦況は不利であり、前線の仲間の訃報代わりの悲鳴に、頭が狂いそうだった。逃げたい、生きていたい、家族のもとへ帰りたい。そんな青年の願いは、腐れ切った上層部には届かない。
負け戦なのは分かっているのに、撤退の指示が出ることはなかった。
命令に背いて逃げても、待つのは反逆罪による処刑。
「……っは、ぁ…!んぐっ……」
今すぐにでも失神してしまいそうな身体を無理やり覚醒させるように、ポケットから錠剤を取り出し唾液と共に飲み込んだ。
戦場で、死への負担軽減のために麻薬が配られるらしいぜ。そう言っていた同僚は、反逆罪でムチ打たれて死んだ。腫れあがった顔に、面影なんてないほどに。
「あああああああ!くそっ、くそがよっ!!」
こちらへ手招く死の幻影を振り切るように、再び戦線へ身を躍らせた。
ここは普通の戦場と訳が違う。
踏み抜くのは地雷じゃなく、魔法陣。上空からばらまかれるのは焼夷弾でなく、真っ黒な雷光。地面を這うのは、荒野にあるまじき植物の根。
青年が向かっているクオッツェリア帝国は、化け物の国だった。魔法を全ての源とし、人間を凌ぐ驚異的な力で殲滅する。こちらから危害を加えることが無ければ、ただの不気味な国という以外こちらに害はないのに。
その国の地下に、石油や鉱物を筆頭とする希少資源が埋まっていることが分かり、世界は目の色を変えた。不気味で、異質で、かつて我ら人間が奴隷として蔑み迫害を繰り返していた化け物が、一堂に会している国に興味なんてなかった。興味が無かったから、知らなかった。
なのに。
その日から、人間同士で奪い合い、銃砲を向け合っていた時代は終わりを告げた。世界がクオッツェリア帝国へ進撃し乗っ取ることを企んだ。資源。たったそれだけのために何人、何千、何万の兵士を戦場で無駄死にさせたものか。上層部は簡素な計算すらまともにできないほど盲目しているらしい。
くそったれ。なにが進撃だ。乗っ取れるわけないじゃないか。
外交しても無駄、潜入しても無駄、町の構造ひとつすら掴めやしない。
知られているのは、クオッツェリア帝国の幹部と総統、たった七名の顔写真のみ。
「……っ!!」
青年は走り続けた。せめて一矢報いてやろうと。
逃げても、進んでも、待っているのは死だ。砂に足を取られようが、数メートル先を走る同僚が魔法で弾け飛ぼうが、構わず銃を抱えて走った。
俗に言う自暴自棄の末に、青年が見たものは。
「……おや、ここまで来れたのは今月初だね。おめでとう」
血がぶちまけられた戦場に不釣り合いな、青いマントを翻してキセルを蒸かす長身の男だった。
軍服を模しているが機能性のない、ひらひらと口の広い裾を揺らしながら、青年を快く迎い入れる。その瞳には、まるでタトゥーのように白い紋章が浮かんでいる。クオッツェリア帝国の、紋章とされる逆さ十字。
まるで喫茶店のテラス席で茶でもしているような、緩慢で、優雅な動作は、戦場にいることを一瞬でも忘れさせた。
「ここまで来たのなら、少し話をしようじゃないか。頑張ったものにはご褒美を、それが僕のモットーだからね。さ、銃を置いて。君の名前を教えてくれるかい?」
淡いテナーの声は、まるで子守歌のようだ。あれほど死への恐怖で早鐘を打っていた心臓は、魔法にかかったかのように穏やかに凪いでいる。
「ぼくの、名前……」
「うん。君の名前。ママから付けてもらった、大切な名前があるだろう?」
青年の瞳は揺らいでいた。ママ。その一言で、走馬灯のように家族の顔が思い出される。
そうだ、幼い妹が獣医師になりたいと言っていたんだっけ。でも、学費が足りなくて、そもそも重税で生活できないほどに困窮していて、だから……。
『コード1286番!!何をやっている!!!』
通信装置越しの、上官の怒号が脳を殴りつけた。戦場の高揚感か、麻薬のせいか、はたまた魔法か。夢見心地だった青年は、現実に引き戻されることとなった。
怒号に耐え切れない壊れかけの通信装置は、言葉の合間合間に耳障りなハウリングが挟まる。
『お前の目の前にいるのはクオッツェリア帝国の幹部だ!!今すぐ撃ち殺せ!!!』
「あ、え」
困惑する青年に、矢継ぎ早の怒号が襲い掛かる。頭が正常に戻っていく。
理解してしまう。否が応でも、頭が理解しようとする。
フル回転を始めた脳を落ち着けるよう、頭に手を添えるがもう遅かった。
「っあ、ああっ……!」
再び恐怖が全身を這いまわり、言い得ぬ不快感が吐き気すら呼び起こす。
青年は動転しつつも、指示通りに銃を向けた。照準は男の心臓に、引き金に指をかけて狙いを定める。軍隊で何度も殴られながら教わった、人を殺す方法。カタカタと震える手は、青年が人殺しに慣れていないことを示していた。
「可哀想な操り
およよ。男は左手で顔を覆い、下手な泣き真似を披露する。レースの手袋で隠れていた顔だったが、次の瞬間に男の態度は一変した。
「……撃つなら、今だよ?」
手袋の合間から覗いた、深海のような深い青の瞳は蛇のようだった。深い紺の虹彩は、視るものを深海の底へ引き込む魔物。人の手の届かない、救済無き場所へ無理やり引き込んでいくよう。先程までの優しく艶やかな声は、冷たくこちらを嘲笑うナイフなような声に変わり、青年の心を恐怖で突き刺していく。息を飲んだ青年は、恐怖で強張ってしまい、引き金を引いてしまった。
どん、と衝撃。反動で息が止まる、いや、息が止まったのは反動だけじゃないだろう。
至近距離で発射された弾丸によって引き起こされる惨劇に思わず目を瞑ってしまう。ああ、とうとう殺してしまったのか。絶対、妹のためにはそんな、非人道的なことが出来る人間にはならないと決めたはずなのに。
ガタガタと震えながら、銃を取り落とした。荒野の砂の上に膝をつき、目を開くことなく座り込んだ。耳からは上官の歓喜の声が絶えず聞こえていたが、青年は顔を覆って震えるしかなかった。
人を、殺してしまった。それが化け物だとしても、命あるものを。
「……はは、撃てるじゃないか」
ぽんと、肩に手を置かれた感覚。様々な感情に掻き乱されていた、青年の脳に優しく入り込む声。
思わず顔を上げる。確かに撃ち殺したはずの男は、何も変わらずそこにいた。
目の前でしゃがみこみ、青年の顔を覗き込んでいる様子は、とても撃たれた者には思えない。血痕も、銃創も、傷どころか煤ひとつ付いていない。
青年は目を見開き、悲鳴がまろび出そうになった口を抑えた。思わず後退りしようと地面を蹴るが、男に肩を掴まれているため荒野の砂を削っただけだった。
「ご、ごめんなさいっ!幼い妹がいるんです、お金が無いと、家族みんなが飢えてっ」
「あー、怖がらせるつもりはないよ、殺しもしないさ。落ち着いて、話しを聞いておくれよ」
男は困ったように眉を下げて、逃がさないように青年の肩をより強く掴んだ。強く掴んだというが、細腕のためか痛くもかゆくないが……。青年は恐怖に駆られて、
「君の操り師は、この忌々しい機械の先の、根腐れした上官だろう?ほら、いまもキンキンと大声で殺せ殺せと喚きたてている。下手なヴァイオリンを聞くほうがまだマシなほどに。そんな呪詛じみた声に脳を支配されれば、このように思い詰めるのも致し方無いと思うが……」
眼前の指は、するりと青年の頬を撫でた。
その手には、人間的な温かさは何一つ感じなかったが。
「だから、ほら。顔をあげなさい。悪いのは時代と一部の悪人、君は何も悪くないさ」
その、確かに暖かい言葉と共に、耳元のインカムが荒野に吹っ飛んだ。
かくん、少しだけ顔が引っ張られた感覚と、先程よりも明瞭に聞こえる周囲の音。
荒野に吹きすさぶ冷たい風の音は、ただ心地よい春の訪れだけを運んでいた。
「生憎、私はむやみやたらに人をいたぶる趣味はないんだ。出来るものなら、故郷へ帰すのが僕のポリシーだ。ただ、最近はどうもこうも、『化け物ごときに救われた、慈悲を掛けられた、スパイだ』と憤慨し、せっかく助けたのに理由を付けて殺す……。そんな変な人間が増えているからね。手間が増える一方さ」
男は立ち上がり、初めに腰かけていた岩に寄りかかった。そうして、再び懐からキセルを取り出し、葉をつめて口にくわえる。パチン、指を鳴らすとキセルの葉に火が燻った。
「……見逃して、くれるのですか」
青年は、男に問うた。希望に縋るような、懇願するような、か細い言霊に、男はにこりと微笑んだ。
「ああ。君の望むところへ送り届けよう。本当は、人間を逃すことはご法度なんだけれど、これは僕の美学だ。誰に言われようと、変える気はない。誰にだって、愛する家族や友人がいるものだからね」
拍子抜けするほど常識的な、その言葉に青年は銃を地面に置いた。
もはや、殺す理由なんぞ浮かばなかった。青年は、飢えつつある家族のために働いているのであって、お国のためという愛国心は微塵もありはしなかった。
その愛する家族のもとへ帰れるのなら、もう何もいらない。
上官の暴力よりも、指導よりも、仲間からの嘲笑の声よりも、この戦場よりも。
男の言葉は、暖かかった。
「……っありが、ありがとうございますっ……!」
涙を零し、地面に額をこすりつける青年の周りに、青い魔法陣が広がった。
顔をあげた青年の回りは、ライトアップされたかのように青い光がとりまいて、徐々に荒野の景色を滲ませていく。
「向こうに帰ったら、家族を連れて逃げるんだよ。軍は君を追い始めるだろうから」
男は、魔法陣に何かを投げ入れた。青年の膝に当たり、チャリンと音をたてて転がる。青い光を反射するそれは、金の硬貨であった。幾分か薄汚れている上に、今は流通していない何百年前のものであったが、希少性と保存状態の良さから、相当な値に吊り上がることは一目瞭然であった。
瞠目する青年に、青く滲んだ男の影は手を振った。
「もう、ここには戻ってこないでおくれよ」
男が紫煙を吐き出すと同時に、魔法陣は青色の粒子を残して虚空に溶け込んだ。はるか遠く、硝煙の上がっていた荒野は静寂に包まれ、人の気配はしない。一時休戦、侵攻停止。何度も繰り返してきたからこそわかる、独特の空気に男はため息をついた。
「……何百年もおんなじことを繰り返して、飽きないもんだね」
キセルの葉は燃え尽きてしまい、くるりと手の内を回し、筒を指で叩いた。灰になった葉は、荒野の風に攫われた。まるで散骨のようだ。この大地には、散骨どころか葬儀すらされてない、遺体が転がっているというのに。
ここは、何百年と続く戦争の、激戦区であり最前線とも呼べる場所だ。戦争が始まる前は、迫害された化け物や人外、モンスターたちが身を寄せ合う、小さな国だった。この荒野も、硝煙とは無縁の穏やかな砂地であったはずだが、今や当然のように、戦車や歩兵たちが地を荒らしている。
防衛ラインの保守という、見張り台の仕事は終わり。今日も、いつもと変わらない普通の日。
「まったく、誰が放りっぱなしの薬莢や地雷を片付けていると思ってるのか。そうだろう、ロナ」
男は、鈍い雨雲が蔓延る空に声をかけた。一拍にも満たない、少しの静寂を切り裂いて黒い影が舞い降りる。
影の正体は、焼夷弾や爆弾の類でもなく、一人の青年であった。若々しい、眉目秀麗の顔立ち。若干幼さは残るものの、その紫の瞳は鋭さを兼ね備えている。
これだけ見れば、人間だと思うだろう。しかし、その背中には、人間にはあるまじき黒い羽が生えていた。コウモリのように黒く膜を繋ぎ合わせたような、歪で気味の悪い羽であった。
こつん、手入れされた革靴が荒野の小石を蹴飛ばす。空から現れた、少し小柄な青年はめんどくさそうに頭を掻いて、男を睨みつけた。
「また見逃しやがったな?また書記長サマの機嫌が悪くなるじゃねえか。どうしてくれるんだ」
「やだなぁ~。ご機嫌取りはいつも僕の仕事じゃない。ロナはただ、ちゃんと書類を出せば何も言われることはないよ」
ロナ、と呼ばれた青年は、背中の羽を畳み、肩に欠けていた狙撃銃を下ろして地面に座り込んだ。戦場に似合わぬ上物のスーツは煤と砂で汚れ、袖口には赤い血の跡がついている。クリーニング代が高くつきそうだ。そんなことには見向きもせず、ロナは紫の瞳で男を睨みつけていた。
「その、ご機嫌が取れるまでがめんどくさいってことだよ!隈だらけの目で睨まれてみろ、どんだけ肝が冷えると思ってんだ!」
「え~、ロナ君にも怖いものがあるんだね。かわいい愛弟子のロ...い、たたたたっ!髪、髪ひっぱらないで」
「失せろっ!くそハンロ!とっとと軍基地まで跳べ!!!!」
さっきまでの余裕綽々、優美な姿はどこへやら。ロナは立ち上がり、『かわいい』という禁句を口にした稀代の魔術師、ハンロの髪を引きちぎられんばかりに引っ張る。実際、ぶちぶちと数本ちぎれた音がした。
ひぃ〜と情けない悲鳴を合図に、ロナは手を離す。日常茶飯事なのだろうか、引き抜いた青髪を煩わしそうに荒野へ散らした。
失せろと言いつつ、軍基地まで運べという命令を下す。矛盾もいいところだが、ハンロは機嫌を損ねることもなく、頭皮の状態を確認しながら荒野にしゃがみこんだ。
「そろそろお兄ちゃんに優しくしてくれても良くないかな。君の保護者は僕なんだからさ」
「それは書類上の話だ。お前を保護者だと思ったことは一回たりとも無い」
黒いレースの手袋を外し、不気味なほど色白で細くしなやかな指で線を描く。時折、風が線を消してしまう。消えた線を辿り、美しい魔法陣を描き始める。
風が運ぶのは、春の陽気。しかし、その風が吹く先は誰も知らない。知っているのは、人ならざる者のみ。
「辛辣だなぁ。でもそんな照れ隠しも子供らしくて良いと思う…いだだだだっ、髪!髪っ!!身長ちっさいから掴むとこが髪って酷くないかい!?」
「うるせぇ!俺はまだ成長期だっての!!!」
他愛もない言葉を交わしながら、砂地から指が離れた。描き終わった魔法陣は、成人男性が二人入れるほどの簡素なものだ。ハンロはその魔法陣の中心に立ち、軽く踵を打ちつける。それが合図かのように、青い粒子が削った荒野の溝に沿うように集まって、中心から端へと青く染め上げる。
狭いといえば狭いが、それでも充分なようで、ハンロは少しだけ頬を緩ませてロナに手招きをする。
「もう少し大きいの書けよ。狭い」
「充分入れるサイズだよ」
「お前と背中が触れ合わないといけないのが嫌だっつってんだよ」
ロナが魔法陣に一歩を踏み入れると、光はより強く眩しく輝いた。磨かれた革靴に青が反射し、身体が全て魔法陣の範囲内に入ったと同時に。
一際強い光を放ち、二人の姿は戦場から掻き消えた。
「おや、パンの香りがする。お昼時なのをすっかり忘れていたね」
クオッツェリア帝国、南西に位置する軍基地。この国の玄関とも呼べる、巨大な石の門を通った先にある検問所兼最終防衛ライン。
そこが、彼らの生活の場であった。
パンの香りがするのは、北東に広がる城下町からのようで、戦場から戻ってきたハンロとロナは、丘の上にそびえる軍基地の中庭から街を見下ろしていた。
レンガと漆喰で作られた、少し古ぼけた街。中央には高い塔があり、その塔を囲むように水路が引かれている。
見れば見るほど、なかなかに風情がある街だとは思うのだが。
核だ放射能だ、薬物だ、そんな人間の身勝手で棄てられ、形骸化した町の遺構に間借りしているだけで、棄てられた都市を良いように立て替えたりして作り直しているだけの、ちっぽけな国であった。
「あー腹減った」
「書類を出して、ヤヨイの所へでも行ってみよう。夕ご飯の支度してるだろうから」
丘の上の芝生を横目に、軍基地への階段を登っていく。この軍基地だって、人間側の軍基地と比べれば古臭くて叶わないだろう。
本の中で見た魔法学校のような、城を模したアンティーク調の建物。街の中でも一際大きく、小高い丘の上に鎮座するレンガ造りの、機能性に欠けているように見えるそれが、ハンロ達の家であった。
同時に、この国の、最重要施設である。
「ただいま。今帰ったよ」
階段を登った先の扉を開け放つ。一階は町役場を兼ねており、荘厳な広間に似合わぬ木製の椅子がずらりと並んでいる。
窓口という窓口はなく、ただ一人キャソックを着た男性が片っ端から住人の悩みや願いを聞いていた。
扉のあいた音にキャソックの男は振り向いて、にこやかに笑いかけた。
「おかえりなさい、ハンロさん。ロナくん。本日もお疲れ様でした」
「いつもどおり、ここは繁盛しているね。アイン、なにか困りごとはなかったかい?」
「大丈夫ですよ。強いて言えば、デュラハンのユークリッドさん宅の魔力変換機が上手く作動しないようで...。近いうちに見てほしいとのことです」
「分かった。明日の昼あたりに、ライヒェと伺いに行くよ。いつも任せっきりで申し訳ないね」
「いえ。私に出来ることは、国民の皆様に寄り添う事ぐらいですから……」
朗らかに笑うアインと呼ばれた男は、緑の瞳を細めながら首を振った。黒いキャソックに金の糸で刺繍がされたそれを纏う姿は、名だたる枢機卿のようだ。緩くハーフアップされた茶色の髪と、色白で中性的な顔立ちも相まって、まさに神の使いにふさわしい高潔な神父のように思えるだろう。
しかし、その背中には黒い羽が見え隠れしていた。肩を覆う刺繡入りのケープで隠そうとしているものの、まるで自分の存在を教示するように蠢いている。
「ロナくんは怪我とかしてませんか?窓口はお昼に閉めますので、よかったらお菓子でも――」
アインはにこやかに笑いかける。全てを赦すような微笑みを、ロナはきっと睨みつけ、何も言わずに立ち去った。ずんずんと基地内の奥へ進んでいく背中を物寂しそうに眺めたあと、いつものようにハンロへと向き直る。
「……悪魔と聖職者は、相性がわるいものですからね」
「それは生前の話。今のアインは吸血鬼だろう?種族的には僕たちと同等だと思うけれど」
「種族は変われど、やはり生活を変えることは出来なくて。それもまた、ロナくんを苦しめている要因だと……」
アインは、腰にくくりつけられた聖書の背表紙をなぞった。革製の表紙には、焦げた手形がいくつもついている。
血をすする吸血鬼と純潔な神父という、二面性を持つアイン。彼も、ハンロやロナと同じ国を護る幹部の一人。
幹部とはいえ、先程まで戦場にいたロナとハンロとは違う。クオッツェリア帝国の政治や経済、福祉など、国の内部を取り仕切る縁の下の力持ちであった。いくら外部からの脅威を捌ききったとて、内部が腐食していれば意味はない。
国の根幹である軍基地と、国民の声を繋ぐ門番であり、窓口でいることが、アインの仕事であった。
「まあまあ。思い悩むのは後にして。窓口業務は午前中に閉めるんだろう?」
「はい。特に予定もなくて、買い出しにでも行こうかと」
「楽しそうだね。報告書を出したら、僕もついていっていいかい?」
「ええ、もちろん。ルガンさんも、お仕事でお腹がすいているころでしょうし」
うん百年と続いた戦争は、全てを変えた。世界の理を、法律を、あるべき姿をまるっきり変容させた。かつて共存していた化け物は、憎むべき敵となった。かつて人類の友として生きた我らは、コスパの良い奴隷であり殺すことも厭わない下等生物だと、人間の認識がねじ曲げられた。
そんな彼らを護るのが、このクオッツェリア帝国であった。化け物だけの、小さな国。
ロナやハンロ、アインを含めたクオッツェリア帝国を守護する七人を、人間はこう呼んだ。
『七柱の大罪』と。この世の癌で、闇で、紛れもない悪だと。
そして、それらの大罪を取りまとめる国のトップ、総統と呼ばれ崇拝されるクオッツェリア帝国の総統ルガンは、こう呼ばれるのだ。
大罪の中の始まり。最も恐れるべき存在。大罪の中の一柱であり全ての罪の源、『原罪』であると。
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