三 覚悟

「君に任せて以来、澄人すみと様は以前の明るさを取り戻された。希世きよ様もそうだが、何より、春子はるこさんが大層、喜んでいてね、今後も君に頼みたいそうだ」

 境入さかいりにそう告げられたのは〈殿ノ前あらかのまえ〉の執務室でのことだった。椅子に座り淡々と告げる境入を前に、羽坂はざかは澄人の笑顔を思い出していた。

 シュー・ア・ラ・クレームを食べた澄人は年相応の子供の顔をしていた。そのことに安堵したが、それでも八歳の子の子供らしさを奪うまでに至る専一郎せんいちろうの行動が羽坂には心底、理解出来なかった。亡くなった母親の為に、と澄人に向ける殺意にはどこか異質なものがある。

 羽坂には澄人の件が、専一郎だけではない、何かが絡んでいるような気がしてならなかった。

 だからなのだろうか。

 今後も君に頼みたいと告げた境入の言葉を、羽坂は受け入れた。

 だが、羽坂は軍籍を置いているとはいえ、現在、士官学校在中のいわば、学生だ。通常の学生と違うとはいえ、常に澄人の護衛を出来る訳ではない。それを踏まえても境入が自分に護衛を頼みたかった理由が羽坂は気になっていた。

 ――君しかいない。

 その言葉を思い出す度に何とも言えぬ嫌悪感が喉の奥に満ちる。説明の出来ない違和感が泥のように体にまとっていた。


 次に谷屋家の屋敷に伺った羽坂は、澄人の腫れた左頬を見て激しい怒りを覚えた。澄人の怪我の原因が専一郎であることは澄人が語らずとも明らかだった。

 そして羽坂が澄人と過ごして気付いたのは、澄人が大人の男性を酷く怖がることだった。義兄からの暴力の件もあるのだろう。羽坂以外の初対面の男性を前にすると店員であろうと、羽坂の後ろに隠れて俯くこともしばしばだった。

 そんな中で澄人が羽坂に懐いた理由は分からない。それでも、澄人がこの先も男性と関われるよう、羽坂は身の護り方を教えることにした。

 手首をつかまれた時、抱え上げられた時、ありとあらゆることを想定して、護身術を叩き込んだ。

 澄人は最初こそ驚いていたが、文句を言うことなく、羽坂の言うことを聞いた。澄人は教わったことを一度で覚えたが、八歳の子の筋力だ。それでも羽坂は急所を教え、逃げる時間を稼げるようにした。それだけでも生存率は上がるからだ。

 

 すっかり疲れて眠る幼い体を抱き上げる。羽坂さん、と澄人が寝惚けて名前を呼ぶ度に微笑ましい気持ちが満ちる。同時に、抱えている命の重さに羽坂は恐怖を抱いた。

(俺は、この命を、護れるのだろうか)

 自分の腕の中で眠る子供の体の重みを感じながら、羽坂は白に満ちた庭園を眺めていた。

 谷屋家の事情に深く、関わるつもりはない。いずれこの子供から離れて、自分は元の日常に戻る。

(どうせ、短い間の護衛だ……)

 なのに、この先も続くような予感を羽坂は感じ取っていた。

 そうして半年後、羽坂は澄人の命を狙う者の正体を知ることになった。


 **

「どこだ! どこに逃げた!」

 がなる男達の声が薄暗い路地裏に反響する。

 震える澄人の体を抱きかかえながら身を隠した羽坂は自分達を追う者達の声を聞いていた。がなる男の声には、どこかなまりがある。寒い国特有の癖に近い訛りだ。

(……北西の訛りが入っている。まさか、〈真平良之国〉か?)

「状況は?」

 隣に居る〈護衛師〉の日馬くさま秋良あきらが怪我した左腕を自分で止血しながら羽坂に問う。この状況に慣れているのか、日馬は全く動じていない。取り出したハンケチで傷口を縛りながらも、視線は常に周囲に向けられていた。

「男五人。全員回転式拳銃を手にしています。先程の銃声を考慮しても、全員、後一、二発。……言葉の訛りから、恐らく、〈真平良之国まひらのくに〉の人間だと思います」

 羽坂が国の名前を口にした途端、日馬の顔色が変わった。羽坂はその顔を見て、察してしまった。日馬もまた、羽坂の表情から自分の失態を悟ったのだろう。顔に出たことを悔いた日馬は羽坂から目を逸らした。

(……何故、〈真平良之国〉が澄人を)

「は、羽坂さん……?」

 澄人の怯える声に羽坂は我に返り、澄人を見た。色素の薄い灰色の目が泣き出しそうに潤んでいる。羽坂は自分を叱咤しながら微笑んだ。

(しっかりしろ……! 護衛対象者に不安を抱かせるな)

「……澄人さん。大丈夫ですからね」

 羽坂は澄人の頭をでた。だが、澄人は首を振って、羽坂の軍衣ぐんいすがるようにしがみついている。開きかけた口は言葉を探していた。だが、澄人の言葉を聞く間もなく、男の怒号が背後に響いた。

 羽坂は壁から手を出して回転式拳銃を男に向けて撃った。男の体は背中から倒れ、羽坂は澄人を抱えたまま走り出した。このままだと、澄人に害が及ぶ。〈白幹ノ通しろもとのとおり〉に一度、出ようとすると、軍用車が目の前で停まった。

 車の窓から見える見覚えのある長い髪。真っ赤な唇。何度も見つめあっただろう目と視線を交わした時、羽坂は一瞬で状況を理解した。

(――ずっと、見張られていたな)

 澄人は常に人に護られている。羽坂が護衛を引き受けた後も誰かが常に自分達を見張っていたのだ。その厳重な警備に澄人を狙う〈真平良之国〉の恐ろしさを羽坂は垣間見た。

紘太朗こうたろう! 澄人様をこちらへ!」

 運転席に座っている結奈ゆいなが声を上げる。結奈に問いたいことはあったが、今は澄人の安全が優先だ。

「日馬さん! 澄人と車に乗ってください」

 扉を開けて澄人を先に乗せてから日馬を乗せると、澄人の手が羽坂の袖を引いた。

「羽坂さんは?」

「自分は、やることがありますから」

 澄人は青ざめた顔で首を振った。だが、羽坂は澄人の手を離すと、そのまま扉を閉めた。

「結奈。後は頼んだ」

「了解。紘太朗。怪我するなよ」

 結奈は鼻を鳴らして、車を走らせた。

 車が発進したのを見送った羽坂は再び路地裏に足を踏み入れた。

 結局、男達は諜報課の軍人が捕まえ、羽坂は、そのまま徒歩で総司令部に戻った。


 総司令部の入り口前には門番と並んで、境入さかいりと春子、車椅子に座っている希世きよがいた。そこに澄人の姿が見えないことを不審に思った羽坂は駆け足で近づいた。

「境入中将」

「澄人は!」

 境入に澄人のことを聞く前に希世が羽坂の腕に縋る。その手首の細さにも驚いたが、澄人がまだ戻っていないことに羽坂は青ざめながら境入を見た。

(まさか、何かあったのか)

「澄人様。こちらです」

 背後から声が聞こえ振り返ると、日馬くさまと澄人が車から降りて、こちらに向かっている所だった。

 澄人は呆然としながらこちらを見ていたが、何かに気付いたように目を開くと、その目からみるみるうちに涙が盛り上がり、そして、決壊した。

 手を伸ばし、走る澄人に羽坂は希世を見たが、澄人が向かったのは母の元ではなかった。

「羽坂さん!」

 自分の名を呼んだ澄人に羽坂は驚いた。

 小さな手が自分に伸びた時、羽坂はしゃがんで、自分の元に飛び込んだ澄人をかき抱くように抱きしめた。

 羽坂に抱きしめられた澄人は安堵したように声をあげて泣き出した。怖かった、と声をあげて号泣する澄人に羽坂は胸が締めつけられるような痛みを感じていた。

 同時に戸惑ってもいた。母の元ではなく、どうして、自分なのか――。ただ、戸惑いながらも羽坂は澄人が泣き止むまで、小さな体を抱きしめていた。


 **

「この部屋を使ってください」

 羽坂が案内したのは読書用として使っている部屋だ。壁一面の本棚は引越ししたばかりで、本が埋まっておらず、あちこち空白がある。

 そこに羽坂は使っていない布団を敷いて澄人専用の寝室にすることにした。ここなら自分の部屋と隣接しているので、何かあれば部屋を隔てた連子格子の戸をすぐに開けて様子を見ることが出来る。

 羽坂が澄人を見ると、澄人は色素の薄い灰色の目を輝かせながら、本棚を眺めていた。

「何か読みたい本はありますか?」

 顔を輝かせながら頷いた澄人に、羽坂は心の底からの笑みを浮かべた。だが、すぐに不安が胸に満ちた。


 ――君が察している通り、〈真平良之国まひらのくに〉から狙われている。

 境入からそう聞かされたのは〈殿ノ前〉の境入の執務室だった。

 境入の言葉に羽坂は不快な表情を隠さなかった。然るべき情報共有がなされていなかったのだから当然だろう。

「君には隠していて悪かった。いざとなった時、君には護衛を外れてもらうつもりでいたからだ」

 護衛を外れる。その言葉に羽坂は怒りを覚えたが、表情に出さないように努めた。

「何故、澄人が〈真平良之国〉から狙われているのか、お聞きしてもよろしいでしょうか」

 境入は羽坂をしばらく見つめてから、目を逸らし、俯いた。

「希世様の容貌について、君はなにも聞かなかった」

「聞くべきことではないと判断しました」

 境入は羽坂の答えに微笑みを見せた。

「希世様は〈白胎ノ子しろはらのこ〉だ。次のまほら様へと命を繋ぐ〈産ノ胤うみのいん〉から産まれた子。……その子供である澄人は〈真平良之国〉にとっては脅威でしかない」

「〈産ノ胤〉……」

〈白胎ノ子〉は、まほらのなり損ない、という意味を持つ言葉でもある。この国の産土神であるまほらは、白い髪、白い肌、白銀の目を持つことが条件だった。その子が産まれる時まで産み続けられる〈白胎ノ子〉。そしてそれは、次期まほらへと繋ぐ命の〈産ノ胤〉でもあった。

「〈真平良之国〉は、産土神様の声を取り戻したいと発言しているが、実はそうではない。……産土神の器、神の器と成り得る人間をどの国よりも怖れている」

「器……?」

「希世様は、まほら様の器と成り得る人間だった。そして、次期まほら様への命を繋ぐ〈産ノ胤〉と成る方でもあった」

 羽坂は背中が粟立った。

 それは、澄人がまほらの器となる可能性があったことを示唆するものだったからだ。

「……雪村ゆきむら家は、希世様をお守りしたかったのだろう。谷屋たにや家に助けを求めた。結果、年の差の離れた婚約となった訳だ。でもね、谷屋中将は君も知っての通り、堅物を絵に描いたような人だ。あまりにも年の離れた子との婚約を認めなかった。だから、破談となった。だけど、希世様がね、惚れてしまわれたのさ」

「……え?」

 惚れた、という言葉に羽坂は間の抜けた声を上げてしまった。境入は一瞬、苦笑したが、すぐに表情を改めて続けた。

「谷屋中将に惚れたのさ。希世様は叶わぬ恋と諦めていたが、雪村家は谷屋中将を諦めなかった」

「何故、そこまでして……」

「希世様を〈産ノ胤〉にしたくなかったこと、そして、谷屋家の強靭な血が欲しかったのさ」

 強靭な血。その言葉に羽坂の内に嫌なものが満ちる。今の世になっても家と家の結びつきを強める〈縁之結えんのむすび〉は珍しいことではない。それでも、その結果が今の谷屋家ならば、その結びつきは産まれた子にとって残酷なものであることに思い至らなかったのだろうか。

 その羽坂の気持ちを察したのか、境入は静かに問うた。

「羽坂軍曹。君、澄人様がどうして、希世様の所へ行かなかったのか、不思議に思っているだろう」

 羽坂は迷わず自分の下に走った澄人の姿を思い出し、頷いた。

「はい。普通なら、母の元へ走るでしょう」

「希世様はね、もう、澄人様を抱きしめてやれないんだよ」

 境入の言葉に羽坂は怪訝な表情を浮かべた。

「希世様は、澄人様を出産してから更に、体が弱くなった。……特に骨がもろくなってしまってね、澄人様を抱きしめた時、腕の骨と、あばらを折ってしまった。以来、澄人様は希世様に甘えられなくなってしまったんだよ」

 それを聞いた羽坂は青ざめ、口を開いた。

 羽坂の言おうとしたことを察した境入が手で制する。

「あの子の顔は希世様の血を色濃く受け継いでしまったけどね、髪の色と身体の強靭さは谷屋中将から受け継いだ。心配いらないよ」

 羽坂は自分でも分からない程、深く、安堵の息を吐いていた。それを見た境入は否定するように続けた。

「でもね、不安要素は残った。希世様の器の血が色濃く受け継がれてしまった。どういう意味か、分かるかい?」

「……まさか、依り代ですか」

 境入は頷いた。

「そう。〈しゅ〉しか持たず、その上に〈白胎ノ子〉ではなく、〈産ノ胤〉でもない澄人様は他の誰よりも神に愛されやすい子だ。〈真平良之国〉はそういう子を恐れている。自分の産土神が声を得ることを……何よりも恐れているんだよ」

 ――だから、不安要素の澄人様を、消しておきたいのさ。


「羽坂さん。あがりました」

 澄人の声に羽坂は現実に引き戻された。振り返ると、風呂上がりの澄人が頬を赤くしながら羽坂を見上げていた。

「熱くありませんでしたか?」

「はい。お風呂を先に頂き、ありがとうございます」

 やたら丁寧な言葉に、羽坂は改めて、澄人の境遇を思わずにはいられなかった。

 境入はあの後、澄人を七日程、預かって欲しいとお願いした。総司令部の中に〈真平良之国〉の諜報員が居る疑いがある以上、谷屋家に澄人を置いておけないという判断だった。

 風呂上がりの澄人の髪は濡れている。羽坂は厚みのある未使用のタオルで澄人の髪を優しく拭いてやった。

「羽坂さん」

「ん?」

「私、あの本を読んでみたいです」

 澄人が指差したのは、白い装丁の本だった。銀の箔押しで『風の別れ』とある本はどちらかと言えば大人向けの物語だった。だけど、羽坂は澄人の髪を拭きながら聞いた。

「少し、難しい漢字が多いですが、読んでみますか?」

 澄人は顔をあげて、羽坂を見た。色素の薄い灰色の目は自分を見つめている。

「はい」

「では、明日、一緒に読みましょう」

 全ての用意を済ませて寝静まった夜の事だっただろうか。連子格子れんじこうしで隔てた戸の向こうから、か細い声で自分の名前を呼ぶ声で羽坂は目が覚めた。

 室内は月明かりの柔らかな暗さに満ちている。羽坂は寝台から体を起こし、引き戸を開けた。

 そこには枕を抱きしめて俯く澄人が居た。

「澄人さん……?」

「ごめんなさい……。怖く、て」

 澄人の体が震えている。

「頑張って眠ろうとしたけど、でも、耐えられなくて」

(ああ、そうか。そうだよな……)

 まだ、八歳だ。目の前で襲撃され、怖い時を過ごしたのだ。本当なら母のそばに居たい年頃だろう。だけど、この子は誰にも甘えられなかった。

 母の前で、しばらくの間、離れていても私は大丈夫です、と言った子は、まだ、八歳なのだ。八歳の、子供なのだ。

「澄人さん。こちらにどうぞ」

 羽坂は澄人を自分の部屋に入れた。自分が先に寝台に入ってから、布団をあげてやると澄人は頷いてから、枕を置いて、布団の中に潜り込んだ。布団をかけると、澄人は縋るように羽坂の懐にぴったりとくっついた。羽坂はそんな澄人の体を抱き締めてやりながら、背中を叩いた。

「怖かった……」

 澄人の右手が羽坂の背中に伸びる。縋るように回された手に答えるように羽坂は澄人の体を強く、抱きしめた。

 この時の腕の中にある体の小ささと、温かさを忘れることはないだろう。

 そして、今、思う。自分の分岐点はどこだったのだろうか、と。

 月明かりに満ちた部屋の布団の中で小さな温みを抱きしめている今なのか、それとも、護衛を引き受けた時からだったのか。

 羽坂は澄人の小さな体を抱き締めながら、もう、後戻り出来ないことを悟っていた。同時に、迷ってもいた。これは最早、護衛という範疇はんちゅうを超えてしまっている。

(俺は……どうしたらいい?)

 辞退を申し出るなら今しかない。それでも羽坂は自分の選択肢に辞退が入っていないことを分かっていた。辞退するにはもう、深く関わりすぎてしまったのだ。

 半年という時間はあまりにも長すぎた。

 自分の弟でも、家族でもない、他人である澄人の体を抱きしめながら、羽坂は歯噛みした。これは情か、それとも、同情か。少なくとも、同情ではない。同情は上から目線の感情だ。羽坂は澄人のことを可哀想だとは思いたくなかった。澄人は少なくとも、自分の足で立ち、歩くことが出来る人間だ。

(ああ、ちくしょう……)

 背中に縋る小さな手を、今更、振り払えやしない。

 やがて澄人の寝息が聞こえて来た時、羽坂は覚悟したのだ。揺蕩うような夜の中で、この人を守り抜く、と。


 **

 羽坂の語る昔を聞きながら、高久は目の前の男の覚悟を思い知らされた。羽坂は澄人をずっと、守り続けてきたのだ。それも、〈しろ御楯みたて〉のように。

 自分が思っている以上に、羽坂の覚悟は深いものだった。

 同時にどうしようもない不安が襲って来た。澄人は、依り代となる器を持っている。それは、今後、今回のようなことが起きる可能性が高いということだ。

 そして、澄人は生きている限り、〈真平良之国〉から狙われ続けるということなのだろう。

 それを分かっていて、羽坂はずっと、澄人を見守り続けたのだ。

 それは同時に。

 背もたれを叩きつける音に高久と羽坂が八代を見た。木の背もたれを叩きつけたまま、体を震わせる八代は深く息を吐いていた。

「八代……?」

 高久が声をかけると、八代は俯いたまま、首を振った。荒く息をする八代の、背もたれに叩きつけた拳は更に強く握り締められ、真っ白になっていた。

「……流石、参謀本部。秘したる事項の多いことだ」

 独り言のような声だった。

「これで、〈白山ノ戦〉で〈真平良之国〉の産土神が参戦した謎が解けた」

 八代の言葉に高久も得心した。

「〈真平良之国〉の産土神参戦、将校交代……。羽坂。場合によっては参謀本部、境入中将の責任が問われる事態だということを分かっているのか」

「……ああ」

 短く返答した羽坂に八代は舌打ちをした。

「〈白山ノ戦〉はまだ、記憶に新しい戦争だ。……あの戦い、産土神の参戦は我が軍に動揺を与えた。……祝い呪いは氏子のみ。故に、〈真平良之国〉の産土神が手を下したのは自国の氏子達。〈白幹ノ帝国軍しろもとのていこくぐん〉はそれに巻き込まれる形となった。だが、それは、〈真平良之国〉の目的を根底からひっくり返すものだ。奴らは産土神の為に戦っているんじゃない。なら、まほら様を狙う目的は何だ」

 八代は顔を上げなかった。

「……それはまだ、分かっていない。ただ、〈真平良之国〉の産土神はとうに氏子を祝う気などないようだ。まさか、それを利用して戦争参戦させるとは思わなかったがな……。ともすれば自国の軍隊が壊滅しかねん危うい行為だ」

 羽坂は顔を強張らせながらも続けた。

「……それでも、情報共有はするべきだった。でも、出来なかった」

 羽坂の言葉を受けて、八代は落ち着く為に何度か深く呼吸すると、首を振った。

「違う。お前を責めているんじゃない……! お前にここまでさせた参謀本部に怒っているんだ!」

 八代は顔を上げて立ち上がった。怒りと悲しみがぜになった表情に羽坂の目が戸惑いに揺れている。

「お前は……お前はそれでいいのか?」

 八代の問いかけは、高久も同じく、羽坂に問いたかったことだった。

 澄人を守る。その言葉に嘘はないだろう。だけど、それは、自分の、羽坂自身の人生を、蔑ろにしているのではないか。

 だが、羽坂は微笑んでいた。

 その微笑みの意味するところを、高久と八代は分かっていない。そんな二人を見て微笑みから苦笑へと表情を変えた羽坂は、はっきりと答えた。

「それが、良いんだよ」



 羽坂は苦笑しながら、あの日を思い出していた。高久と八代の表情は、あの日見た境入の表情と似通っていたからだ。

(思えばあれが、最後の分岐点だったのだろうな)

 ――君はもう、この件から手を引いた方が良いかもしれない。

 澄人の護衛を任されてから四年程、経った時のことだった。〈参謀本部棟さんぼうほんぶとう〉の上官室に呼び出された羽坂は境入に切り出されたのだ。

「……何故ですか」

 突然のことに驚く羽坂を前に、境入は淡々と告げた。

「……君は澄人様に情を抱きすぎている。今なら、引き返せる」

 境入は冷静な目で羽坂を見つめている。羽坂は境入の言葉に戸惑いと同時に怒りを覚えていた。それは、自分から澄人を引き離そうとしているのかという怒りでもあった。

「その話ならば、手は引きません。澄人の護衛は今まで通り、続けます」

「羽坂」

「自分が!」

 窘めるように呼ばれた声を払いのけるようにあげた声が、思いの外、大きかったことに羽坂は驚きながらも続けた。

「自分が手を引いたら、澄人はどうなるんですか? あなたが言ったのでしょう。自分しかいないと……!」

 境入は羽坂から目を逸らすことなく、告げた。

「羽坂。ここ最近の君は度が過ぎる。拷問するにしても、男が子をなせなくなる程の損傷を与える必要はなかった」

 境入の声は冷静なものだった。その冷静さを前に、羽坂は自分の熱が静かに引いていくのを感じていた。

「十年、諜報課として拷問を請け負っている人物が出て行く程のあり様だったそうだな。あの男は現時点で、澄人様の命を狙っている、という情報しかなかった。だが、君は先手を打った。それは珍しいことではない。要人に危険が及ぶとあらば、真実がどうあれ、我々は内密に処分してきた。……それでも、君はやり過ぎだ」

「……自分はそうは思いません」

 羽坂は境入の目を見つめたまま、言った。

「澄人に害が及ばないならば、例えわずかな火種だろうと、殺しても構わない。その後で本当のことが分かっても、自分はその罪を負いましょう」

 両者はしばらくの間、視線を逸らさなかった。

 やがて、羽坂の覚悟に呆れたように目を逸らした境入は息を吐いた。

「希世様が亡くなってから、君は、変わった」

 その言葉を羽坂は自覚していた。澄人の母は一年前に亡くなった。それだけではない。この一年で澄人は色んな人との別れを繰り返した。

 澄人にはもう、自分しかいない。そういう思いが羽坂の中にあったことは確かだ。

「……羽坂。君が澄人様のことを大事に思っていることは分かっている。だからこそ、手を引くならば、今しかない」

「お断りします」

 境入は鋭い視線を羽坂に向けた。

「君は……その言葉の意味を、分かって言っているのか」

「いえ。どのような理由であれ、自分が澄人から離れることはありません」

 境入は目を閉じると、深く息を吐いた。

「羽坂。どうして君が選ばれたのだと思う?」

 静かな声だった。この時、羽坂は境入が声を荒げたことがないことに気付いた。同時に、羽坂はこの時、嫌な何かが自分を覆い尽くそうとしているのを感じていた。

「……いや、この問いかけは意地悪だね。選んだ側が問いかけることではない。それでも、聡い君のことだ。どうして自分が選ばれたのか、疑問だったことだと思う」

「そうですね……。澄人が男性苦手なことを思えば、何故、自分だったのか、疑問でした。自分はご覧の通りの見目です。澄人が怖がるとは、考えなかったのですか」

 だが、境入は僅かな笑みを見せた。

「君はその見目で人の心をつかむ。私の部下が言っていた。君を相手にすると、うっかり話過ぎてしまう、と。現に澄人様も初対面で君に懐いただろう?」

 そうして境入は表情を消した。

「ここからは酷な話になるけどね、澄人様は生きている限り、狙われ続けると思う。神の器を、神の声を求める人のいる限り、一生、狙われる。神の手を離れるならば、尚更に」

 だからこそ――と境入は声を低めた。

「……神のことわりくには、

 その言葉が告げる意味を、羽坂は解っている。

 途端、何度も覚えた嫌悪感の正体を、羽坂は今、目の前に突き付けられていた。じわりじわり、と体が熱くなる。

「な、んで」

 ならば、尚更にどうして、自分だったのか。

 羽坂の震える声を前にしても、境入の表情は変わらない。

 表情を変えぬ境入を前にして、羽坂はこの人もまた、覚悟した側の人間なのだと解ってしまった。

 神は、怖ろしく、おぞましいものだ。祝い呪いは氏子のみ。この言葉のあるこの世界で、神の手から逃れる術はない。

 境入は、分かっていて、羽坂しかいないと言ったのだ。

「……恨みますよ。境入中将」

「ああ。恨んでくれ。それでも私は、澄人様を護る道を選んだ」

「なら、最後まで自分を使ってください。まさか、今更、別の軍人を探しますか」

 羽坂が不敵に笑みながら言うと、境入は諦めたように微笑み返した。

「……澄人様のことは君に任せる。神の手を離れた後のことも――全て君に任せる」

 そうして表情を消した境入は羽坂に命じた。

「だからこそ、君は自分の人生を見失うな」

 あの日、境入に言われた言葉が再び自分の目の前にある。

 今にして思えば、境入は分かっていたのだ。もう、あの時点で羽坂しかいないことを分かっていて、それでも、分かり切ったことを問うたのだ。

 あれは、あの人の優しさでもあったのだろう。

 昔を思い出し、語りながら、羽坂は自分が思った以上に澄人に対して過保護なまでの対応をしていたことに苦笑した。あの日から澄人優先に生きて来た。自分の人生を犠牲にしたつもりはない。ただ、幼い体を守るように抱きしめたあの夜から、自分が護ると決意したあの夜から、自分は澄人に惹かれていたのだ。

 それでも、その先に恋はないだろう。年を重ね、神の手を離れた今となっても、澄人に抱く気持ちは愛、だ。他の者には理解出来ぬ年月を重ね、繋いで、結び、もう解けぬまでに固く結んだえにしだ。これを恋とは言わせない。

 言わせるものか。

 ――羽坂さん。

 脳裏を満たすのは澄人の微笑む顔だった。

 あなたの微笑み、笑う、その顔を見たい。ただ、その声だけを聞いていたい。ただ、護りたい。それだけだ。

 なのに。

迫桜高原ノ乱はくおうこうげんのらん〉、〈白山ノ戦はくざんのたたかい〉で羽坂は澄人を護ることが出来なかったのだ。

 汽笛の甲高い音に、遠い記憶へと意識を飛ばしていた羽坂は顔を上げた。顔を上げると、自分を真摯な目で見つめる友の姿が目の前にある。

 友の顔を見つめ、半ば自嘲するように微笑みながら、羽坂は呟いた。

「……俺は、澄人を護り切れなかった」

 高久と八代の顔色が変わるのも構わずに羽坂は続けた。

「俺が、自分の人生において、後悔するとしたら、それだけだ。澄人と共に歩んだ人生を……俺は心の底から良かったと思っているんだ」



 羽坂の言葉に嘘はない。高久は友の言葉を聞きながら、今も尚、『白き御楯』の旋律を奏でる竟鏡尊の窓を叩く音を聞いていた。

 ……揺るがぬ護りの白の御楯らよ。

 それは、羽坂のようだ。誰に何を言われても揺らがぬ護り。それは傍目には異常にも見える揺らがぬ覚悟だ。

「嫌な所ばかり、似通うな、私達は……」

 高久が呆れたように言うと、八代と羽坂は顔を合わせて苦笑した。

「それはお互い様と言うものだ。高久」

 八代は脱力したように背もたれに体を預けた。蒸気機関車はゆっくりと速度を落としつつある。客車の窓から見える景色は妙な明るさを見せたまま、鬱蒼とした山の面を照らしている。

 後少しで、〈鏡山駅かがみやまえき〉に着く。妙な違和の明けぬ空の下でも陰鬱いんうつとした雰囲気を放つ山を前に、羽坂が口を開いた。

「高久。八代。頼みがある」

 穏やかな声ながらも、どこか有無を言わせぬ雰囲気に高久と八代の表情は消えていた。

「……ここから先、俺がどんな選択をしようとも、絶対に手を出さないでくれ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る