二 あなたとの過去

 白に満ちた部屋は常に重々しい静寂が支配している。

 当時、十八歳であった羽坂はざか紘太朗こうたろうは白い革張りの長椅子に姿勢を正し、浅く腰掛けていた。対して洋卓テーブルを挟んで向かい合わせに座る境入さかいり家子いえこは深く腰掛けて足を組んでいた。

 境入にてられた〈殿ノ前あらかのまえ〉の執務室は中将の部屋とあってかなり広い。その広さがより一層、静寂に満ちた部屋に重々しさを与えていた。

 参謀本部中将である境入に呼ばれた時、羽坂は何かしたかといぶかしんだが、どうやら、そうではないらしい。

 洋卓の上には二人分の珈琲コーヒーと〈三色旗さんしょくき〉のチーズケーキがそれぞれの目の前に用意されていた。これは何か頼まれるのだろうか、と無言でいると、境入が口を開いた。

「先程、部下がお土産に持ってきたものだ。遠慮なく食べると良い」

「では、いただきます」

 言いながらもすぐに手をつけないでいると境入は少し微笑んで、体を起こした。

「やはり、君はさとい。羽坂軍曹。君をここに呼んだのはどうしても引き受けて欲しいことがあるからだ」

 境入は珈琲カップを手にすると少し飲んでから、ソーサーの上に戻した。

「羽坂軍曹。君には谷屋たにや澄人すみと様の護衛をお願いしたいと思っている」

「谷屋澄人、ですか」

 谷屋と言えば幼年学校からの同期、谷屋専一郎せんいちろうの名が真っ先に浮かぶ。いけ好かない男であまり関わり合いになりたくない為、まともに話したことはないが、何かと突っかかってくる。羽坂はその度にのらりくらりと交わしていたが、それは専一郎のしゃくに障ったようで余計に突っかかられるようになったことを思い出した。まさか、そいつの弟じゃないだろうな、と思っていると思考を読んだように境入が頷いた。

「その谷屋専一郎の弟だ。正しくは異母弟だ」

「異母弟……?」

「ああ。谷屋篤次郎あつじろう中将は九年前、雪村ゆきむら家の御令嬢、希世きよ様と再婚された。実はここが厄介だ。谷屋中将は一度、その婚約を破談にしている」

「破談ですか」

「破談した当時、谷屋中将は二十七歳。希世様は十一歳だ」

 羽坂は思わず、顔をしかめていた。何をどうしたらわずか十一歳で十六も年の離れた男との婚約話が持ち上がるのだろう。羽坂の心情を察してか境入は更に説明を加えた。

「まあ、年を待って婚約するつもりでいたのだろう。だが、谷屋中将の方から婚約を破談したそうだ。雪村家は今もそのことを根に持っている。その後、谷屋中将は二十七で結婚、三十六で妻と死別した。その一年後、希世様と再び婚約、結婚した。そしてすぐに妊娠、出産して澄人が産まれた」

 羽坂は境入の説明を聞きながらこの件が面倒なものであることを感じていた。

 谷屋篤次郎の件については年の離れた配偶者が居るという噂は聞いていたが、噂は噂である為、それ以上のことを聞いたことはなかった。だが、その時、思ったのは人格者である谷屋中将にしては妙だと思ったのだ。

 この件は触れない方が良い。そう判断したのにまさか、ここで話を聞かされることになろうとは――と羽坂は心の内で苦笑した。

「……それにしても何故、自分なのですか? 他に居るでしょう。例えば、高久たかひさ軍曹とか」

 悪いな、高久、と思いながら口にすると境入は得心したように頷いてから即座に否定した。

「高久軍曹か。確かに申し分ない。だが、駄目だ」

 羽坂は境入の言葉の意味が分からず、聞き返してしまった。

「どういう意味です?」

「君は知らなくて良い」

「……分かりました」

 知らなくて良いと言われた羽坂は大人しく引き下がった。高久達の村の等級は秘匿ひとくされている。高久とただすの村は因習絡みで有名だった。双子の片割れを間引く村――。嫌でも耳に入る噂を無視しても軍人である以上、因習の噂は常に付きまとう。

 うんざりする――と珈琲カップを手に取る。

「そこだ」

「はい?」

 いきなり指摘され、羽坂は思わず戸惑いの声をあげた。

「君は相手の反応を見て、すぐに適した反応を返すことが出来る。それはなかなか出来ない能力だ」

「はあ……」

 羽坂は戸惑いながらも珈琲を口にした。なかなかいい豆を使っている、と珈琲の味を堪能していると、予想外の言葉を境入の口から聞く羽目になった。

「この間も東雲しののめ結奈ゆいな少尉とねんごろだったそうじゃないか」

 いきなり下卑たことを言われ、羽坂は息と共に吸い込みそうになった珈琲をすんでのところで止めた。平静を装って顔をあげると境入は至極、真面目な表情で自分を見つめていた。

(これは謀ろうとしているな……)

「何のことでしょう」

 羽坂は淡々と返した。だが、境入は羽坂の反応に気を良くしたようだった。

「やはり、君は諜報に向いている。言っておくが、結奈少尉は私の部下で、諜報員だ」

 羽坂は観念したように息を吐いた。上官が部下のあれこれを探るのは無粋すぎやしないか、と境入の表情を観察したが、どうやら、興味本位で問うている訳ではないらしい。

「ええ。男女の仲になりました。何か問題でもありましたか?」

 境入はいや、と珈琲カップを取った。

「双方の同意あっての行為だ。別に私がどうこう言うつもりはない。だが、諜報課を相手にするのは、やめておいた方が良い。あそこは身内も探る。故に君と遊んだことは嫌でも私の耳に入る」

 言った後で境入は珈琲を飲んだ。

「はあ……」

 結奈が口にしたわけではないのか――と羽坂は安堵しながら珈琲カップをソーサーに戻した。

「君は相手と深い仲にならない。相手もそれを分かっている。いや、君が相手も深く付き合う気がないことを分かっているから、付き合っている。その観察眼は我が参謀本部に欲しい能力だ」

 褒められようもないことを褒められ、苦笑するしかない羽坂はここで先手を打った。

「お断りします」

「また誘っていない」

 境入が珈琲カップをソーサーの上に戻す。

「誘われそうだったものですから。自分は教官を目指しております故、ご辞退させていただきます」

「それは残念だ。なら、せめて澄人様の護衛だけでも引き受けてもらえないだろうか」

「は……?」

「君しかいない」

「いや、それは……」

 羽坂は断るつもりでいたが、境入の言葉が引っかかった。境入は情報将校だ。〈白幹ノ帝国軍しろもとのていこくぐん〉の軍人の情報は網羅している筈だ。その上で自分に頼んだことを考えるとこの件は明らかに面倒事であるのは自明だった。

 いけ好かない男の異母弟ではあるが、話を聞く位なら良いだろう。

「……話を聞きましょう」

「君、小児被虐の気はあるか?」

 聞くもおぞましい単語を境入の口から聞かされ、羽坂は思わず不快感を顔に出してしまった。その様子を見た境入は嬉しそうに微笑んでいる。

「その反応を見たかった。だが、悪いことを聞いたことを謝罪させて欲しい。君に護衛を頼みたい子は、その手の奴らに狙われやすい顔をしている」

「顔、ですか」

 ここで羽坂は篤次郎の顔を思い出した。篤次郎は良い顔をしているが、見る者を畏怖させるような容貌をしている。上に立つ者として理想的な容貌をしていると言ってもいい。

「ああ。君も驚くと思う。かなり綺麗な顔をしている子だ。あまりにも綺麗な顔をしている為に下心を起こしかねない奴には頼めない。その点、貴様は先程の反応も含め、安心だと判断した」

「……断ったらその子は」

「断らないでいてくれると、助かる」

 そこまで言われてはもう、断れなかった。境入が調べた上で自分に頼んだとなれば、もう受ける以外にないだろう。

「分かりました」

「良かった。君を使っての形となるが、かつての上官に報いることが出来る」

「上官、ですか……」

「そうだ。先に話しておかなければならないね。これはね、〈白幹ノ帝国軍〉元大将、芳野よしの春子はるこさんの頼みなんだよ」

 名前を聞いて、羽坂は心の中で舌打ちをした。

(思った以上に不味い件じゃあないか……!)

「春子さんは、今、希世様の〈護衛師ごえいし〉を務めている。先程も言ったが、澄人様は大層、美麗な顔をしていてね、男女共に生真面目な人間じゃないとやっていけないのさ。だからあの家の〈護衛師〉は全員、元〈白天ノ子はくてんのこ〉と〈白の御楯〉だ」

 元軍人の〈護衛師〉。しかも全員、〈白天ノ子〉と〈白の御楯〉とは。

「君なら、ここまで聞くと分かるが、谷屋澄人様は命を狙われている。〈白幹ノ帝国軍〉において要護衛者の一人でもある」

 羽坂はしばらく無言で俯いていた。

「……正直、ずるいと思いました」

「それを承知の上で頼んでいる」

 羽坂は境入を睨んだ。不敬だと言われようと構うものか。流石、情報将校として手腕を振るっただけある。自分なら断れないことを知っていて、頼んでいるのだ。

「誰に命を狙われているのか、聞くことは出来ますか?」

 睨まれながらも境入は答えた。

「谷屋専一郎だ」

 羽坂は怪訝な表情を浮かべた。

「……待ってください。いくら、異母弟とはいえ、血の繋がった弟ですよ? 正直、いけ好かない奴ですが、そこまでやるような奴ではないと思います」

「いけ好かない奴、か。初めて君の本音を聞いたが、君はやはり、諜報課に欲しい人間だ。君が谷屋専一郎を嫌いなことを誰も知らないということを評価したい」

 羽坂は青ざめた。ここまで言うつもりはなかったのに自分でも思った以上に戸惑っている。

 境入は静かに、淡々と言った。

「谷屋少尉は、産まれたばかりのあの子を、殺意に満ちた目で見つめていたそうだ」

「……え?」

「亡き母への思い故かは分からない。ただ、澄人様は産まれた頃から命の危機にあった。初めての食事に毒が入れられたことをきっかけに、希世様は春子さんに助けを求め、以来、八年、澄人様の傍には常に人がいる。片時も離れることが出来ない」

 境入は驚きに満ちた表情の羽坂を、無言で見つめていた。

「十四回、あの子は命を狙われて来た。いずれも偶然を装ったものだったそうだ」

 その言い方に羽坂は身の毛がよだつ思いだった。

「まさか、証拠が無いのですか……?」

 境入は羽坂を無言で見つめていた。それは無言の肯定だった。

「谷屋少尉が幼年学校に入学されるまで、続いたそうだ。だが、最近、新たなことが分かった」

 境入は立ち上がり、机の上に置いてある紙袋をつかむと、洋卓の上にその中身を出した。紙袋から大量の手紙の束が流れ出る。見覚えのある字は確かに専一郎の筆跡だった。

「どれも澄人様に宛てたものだ。中には澄人様に対する兄心――と言えば聞こえは良いだろうが、反吐の出る内容だ。幸い、澄人様に読ませる前に春子さんが回収した」

「何故、そこまでして……」

 自分には理解出来ぬ感情だった。あまりの気持ち悪さに吐き気を覚える。

「……澄人様が産まれるまでは、仲が良かったらしい」

「え?」

 境入は寂しそうな表情を浮かべた。

「羽坂軍曹。先程、君に言ったように、良からぬ輩から守る為に常に澄人様の傍には人がいる。片時も離れたことが無い。……だが、これから先、そうも言っていられない。羽坂軍曹。君に頼みたいのは、澄人様の教育だ。男性同士でなければ、解決出来ないこともこの先、出て来るだろう。君にはその助けとなって欲しい」

 どうか――と深々と頭を下げた境入を前に羽坂はしばらくの間、声を失っていた。境入は言わなかったが、良からぬ輩――それは専一郎以外にも澄人の命を狙っている者がいることを告げるものだった。


 **

 淡い白であつらえた応接間で羽坂は境入と二人、並んで座っていた。白いベルベットの長椅子は体が沈みそうな程に柔らかかった。

 羽坂は一点を見つめながらも、応接間を観察していた。豪奢な造りの家だ――と心の内で苦笑する。

 谷屋家は帝国総司令部の住居地区にある。谷屋家の住居は元々、〈白鹿はくよう地区〉にあったそうだが、澄人の命が狙われたことをきっかけに住居を移したらしい。少将以上が住まう高級住居地区とあって、谷屋家の屋敷は立派なものだった。

 羽坂が今いる応接間は母屋ではなく、離れである。ここに案内された時は何故、離れなのかと訝しんだが、境入の後を着いて来て理由が分かった。離れに入るまでに無数の門を何度も通る。その度に鍵の開け閉めが行われた。これは明らかに侵入者を阻む為の門だった。

 離れに行くまでには母屋を通る必要がある。幾重の動線を張り巡らせた造りに谷屋澄人を狙っている者の恐ろしさを垣間見た。

(しかし、ここまでして狙って来る奴は一体、誰なんだ……)

 境入は澄人の命を狙う者に専一郎以外の名を明かさなかった。いざとなれば自分はお役御免になるのだろう。羽坂はそれ以上、聞くのを止めたのだ。だが、いざ目にするとやはり、気になってしまう。

 ようやくたどり着いた離れもまた、立派なものだった。純白の擬洋風建築を前に、羽坂は唖然としていた。屋根の瓦から、土台に至るまで全て白い。〈白山はくざん〉から伐採する〈白樹はくじゅ〉は贅沢に使えるものではない。この離れは目に見える範囲では〈白樹〉が使われていた。相当に金と手間をかけた建築だった。

 案の定、豪奢な内装に羽坂は感嘆していた。

(まさか、護衛を頼まれたその日のうちに伺うことになるとは思わなかったな)

 境入は自分が断らないことを分かって既に打診していたのだ。思えば今日は何の軍務も入っていなかったことを考えると、自分の上官も一枚、噛んでいたのだろう。だが、あまりにも早急すぎる気がする。

 その時、扉を叩く音がして、境入が即座に立ち上がった。羽坂も同様に立ち上がる。

 扉が開くと、応接間に車椅子と、車椅子を押した女性が入って来た。その後ろを小さな子供がついて来ていた。

「ようこそ、お越しくださいました」

 か細い声だった。羽坂はそこで初めて車椅子の主を見た。作り物のような顔の美しさに驚いたのではない。白い髪、白い肌。この国では珍しい灰色の目。

 羽坂は女性の容貌に胸に苦いものが広がった。この国において白い髪は珍しくない。珍しいのは灰色の目だ。灰色の目を持つ人間は、異国の人間か、〈白胎ノ子しろはらのこ〉以外にないからだ。だが、羽坂は表情を変えずに女性の言葉を聞いていた。

「谷屋希世と申します。こちらは私のお世話をしてくださっている芳野春子さん。このような姿でごめんなさいね」

 そう言って儚げに微笑んだ希世は美しい顔をしていた。

「澄人、こちらへ」

 希世に呼ばれて春子の後ろから出て来た小さな子供に、羽坂は思わず、驚きを顔に出してしまった。

 透き通るような白い肌。白い肌を際立てる濡烏のような柔らかく、黒い髪。非現実的な程、美しい顔をした子供だった。母の希世と同じく、いや、健康そうな表情も相まって母以上の美しい顔をしていた。そしてその目は母の希世よりもはるかに薄い、灰色だった。

 色素の薄い灰色の目は羽坂をじっと見上げていた。

「谷屋澄人と申します」

 澄人はそう言って礼儀正しく、頭を下げた。

「参謀本部中将、境入家子と申します」

「教育総監部教育課軍曹、羽坂紘太朗と申します」

 澄人が自分をじっと見ているのが分かる。羽坂が微笑みかけると澄人は安堵したように微笑みを見せた。

(ああ、成る程な)

 理解したくはないが、境入の心配も分かる。ぞっとするほどに美しいのだ。母である希世の血を色濃く受け継いだ顔だ。彫刻のように整った顔立ちは少し笑んだだけでも息を呑む美しさを放っている。

「境入。よく来てくれました」

 三つ揃いの洋装姿を身に纏う六十の女性は、かつて大将として手腕を振るった芳野春子だった。ひとつに結わえてまとめられた髪はよく手入れされているのか艶々としており、その表情はかくしゃくとしていて衰えは見られなかった。

 春子を前に境入は頭を下げた。

「お久しぶりでございます」

 羽坂も頭を下げると、春子は微笑んだ。

「羽坂軍曹。澄人様の為に護衛を引き受けたこと、心よりお礼申し上げます」

 深々と頭を下げられ、羽坂は内心。戸惑っていた。

「早速だが、羽坂軍曹。澄人様を連れて、街へ出かけて欲しい」

 境入の言葉に春子と希世の顔をちらと見ると、二人とも思いつめたような表情を浮かべていた。澄人に聞かせたくない話があるのだ。羽坂は無言で頭を下げた。


 **

 澄人と並んで〈白幹ノ通しろもとのとおり〉を歩く。澄人は目を輝かせながら羽坂の隣を歩いていた。その表情はやはり美しいもので、道行く人が思わず振り返る程であった。だが、澄人は己の容貌に無頓着なのか、はたまた自覚していないのか、振り返り見られることを気にしておらず、たまに羽坂を見上げて微笑むのだった。

 人の通りが徐々に増えて、肩先が触れそうな近さに羽坂は隣に澄人がいるかを確認した。ゆっくりと歩いてはいるが、大丈夫だろうか、と羽坂は澄人に問うた。

「澄人様。嫌でなければですが、お手を繋いでも大丈夫でしょうか?」

 澄人は羽坂の申し出に一層、目を輝かせ、首が取れんばかりの勢いで頷いた。そんな様子に微笑みながらも手を差し出すと、澄人は恐る恐るといった様子で羽坂の手を、ぎゅ、と握りしめた。

(小さい……)

 力を入れないように手を握ってやると、澄人は本当に心の底から嬉しそうな表情を見せた。美しいながらもやはり子供らしいその表情に羽坂は何故か、胸が痛んだ。

(この子の父も兄も……手も繋がせたことがないのだろうな)

「澄人様。どこか、行ってみたいところはありますか?」

 澄人の目がきらきらと輝く。だが、次の瞬間、澄人は何かを思い出したかのように表情が暗くなった。

「……いえ。あの、分かりません」

 羽坂はその時、あまり外に出たことがないからだろうと思っていた。

「では、本屋へ行きませんか? 春子さんからお金を預かっております。好きなものを買って良いそうですよ」

「え、あの……」

 喜ぶどころが、澄人は困惑した表情を浮かべている。八歳と聞いているが、その年頃の子がするにしては切羽詰まった表情だ。

 羽坂は道の端に移動してから、しゃがんで、澄人の目線で顔を見た。少女とも少年とも分からぬ中性的な美しい顔が自分をじっと見つめている。

「自分も本を見たいので、行ってみませんか?」

 そう言って微笑むと、澄人は俯きながらも、頷いた。

 本屋は〈白幹ノ通〉の〈星明ほしあかり〉に行くことにした。子供向けの本を揃えており、画集も多い。本屋に入ると真っ先に目に入るのは大きな階段だ。そして天井近くまで並ぶ本に圧倒される。澄人は初めて来たのか目を大きく開きながら色素の薄い灰色の目を輝かせていた。

「では、どこから見ましょうか?」

 羽坂が問いかけると、澄人は嬉しそうな表情を見せたが、すぐに周囲を伺うようにして顔を動かし、恐る恐る羽坂を見上げて頷いた。

「……絵本が、見たい、です」

「かしこまりました」

 絵本の棚は色鮮やかな色彩が並んでいる。澄人は絵本の棚を眺めながら嬉しそうな表情を浮かべていた。壊れ物に触れるように恐る恐る絵本を手にした澄人は優しく表紙に触れて、ゆっくりと開いた。

 こうして見ると澄人は年頃の子供に見える。だけど、ふと見せる表情はどこか大人びていて、歩んだ境遇を思い知らされた。澄人は時折、顔をあげては怯えたように周囲を見る。だが、羽坂が傍に居ると分かると安堵の笑みを浮かべるのだ。

 結局、澄人は〈星明り〉で本を買わなかった。

 欲しい本があるのは澄人の様子からも分かっていたが、澄人は、はにかみながら大丈夫です、と答えるばかりで羽坂に買わせなかったのだ。

 ――もしかしたら、遠慮なさる事が多いかもしれない。

 出かけに春子に言われた言葉を思い出す。澄人は何を買うにしても遠慮すると聞いていたが、予想以上だった。遠慮という可愛いものではない。意図して自分にお金を使わせないようにしているように見える。ここ一年は何も欲しがることが無い、と春子は寂しそうな表情を浮かべながらも、仕方のないことかもしれない――と羽坂に笑みを向けた。

 羽坂は手を繋ぎ、歩きながら、前を見る澄人を見下ろした。まだ幼い顔は頬を赤くしながらどこか楽しそうに歩いている。だけど、一瞬、固まった表情を見せる時があった。それは軍人とすれ違う時だ。

 軍人とすれ違う時、繋いだ澄人の手は縋るように羽坂の手を握りしめる。幼い手は汗ばみ、震えるのだ。

 この子をここまでさせたのは、おそらく、専一郎だろう。十も年の離れた幼い子に対して殺意を抱く心を、羽坂は理解したくもなかった。

 その後のお昼は春子に行くように指示された料亭で食事をした。流石の高級料亭に苦笑したが、自分の御礼も兼ねているとのことで遠慮なく豪華な食事を堪能した。澄人との食事は存外、楽しかった。澄人の所作が綺麗なこともあったが、意外にも本の趣味が合うのに驚いたのだ。

 そこからは色んな所を見て回った。というよりは恐らく雑用も兼ねていたのだろうな――と右手に澄人と手を繋ぎ、左腕で買い物袋を抱えながら、羽坂は苦笑した。紙袋の中には澄人に必要なものが入っている。鉛筆にしてもノートにしても、澄人は何も言わない為、〈護衛師〉の日馬が確認して春子に伝え、その都度、買い足すのだそうだ。

 通りの途中にある時計を見ると、午後三時を回っている。隣を歩く澄人の様子にも疲れが見え始めていた。予定にないが、悩んだ末に澄人に声をかけた。

「澄人様。三時なのでどこか入りましょう。何が食べたいものはありますか?」

 途端、澄人の表情が暗くなった。戸惑うように目を泳がせた澄人は消え入るような声で言った。

「あの、大丈夫、です」

 そう言って、はにかむ澄人に子供らしさはどこにも見えなかった。自分の子供の時はどうだったか。遠慮なくあれが食べたいと口に出せる子供だったような気はする。

 だが、澄人は答えるのを怖がっているようだった。これは無理強いをしても答えられないだろう。羽坂は自分の行きつけに行くことにした。あそこなら通りに面しているし、人目もあるから大丈夫だろうという判断だ。

「なら、私のおすすめの場所に案内しましょう」

「おすすめですか?」

「はい」

 大きな、色素の薄い灰色の目で自分を見つめる澄人に羽坂は微笑みを向けて歩き始めた。

 羽坂が澄人を案内したのは純喫茶店〈星原ほしはら〉だった。国外の木を使った内装は重厚な雰囲気を醸し出している。ショーウィンドーに澄人の姿が見えるように図らってもらい、窓際の席に向かい合わせに座りながらお品書きを澄人に手渡した。

「好きなものを選んでください」

「……で、でも」

「春子さんからもお願いされていますから」

 だが、澄人は俯いたまま、黙ってしまった。

「……ない?」

 澄人が消え入るような声で言った。

「どうされました?」

「私に、お金使って、羽坂さんが、怒られませんか……?」

 澄人の表情はどこか思い詰めていた。子供の見せる表情ではない。そのことに引っかかりを覚えた羽坂は出来る限り、優しい声で問うた。

「……それは、誰に言われたのですか?」

 澄人は恐る恐る、顔をあげた。

「……誰にも、言わない?」

「ええ。約束しましょう」

 それでも告げ口のようで気が引けたのだろう。澄人はしばらく悩んでから、ようやく口を開いた。

「私が、言われたんじゃないです。春子さんが……兄上様に怒られていて、春子さんは悪くないのに、私のせいで、春子さんが怒られているのが、嫌、なんです」

 澄人は泣き出しそうな表情を堪えて、声を落とした。羽坂は専一郎に対して吐き気がする程の怒りを覚えていた。

(――何故、そこまで)

 言葉は毒だ。本人だけじゃなく、周囲をも巻き込んで、蝕んでいく。嫌な毒だ、と羽坂は下唇を噛んだ。

 澄人はお品書きを握りしめたまま、俯いている。

 この子はこれから先も、同じ目に合うのだろう。専一郎が生きている限り、毒からは逃れられない。

(――それは、駄目だ)

「澄人さん」

 羽坂は俯く澄人に優しく声をかけた。

「それを聞いたら、春子さんは悲しみますよ」

「え……」

 澄人が戸惑いながら顔をあげる。

「春子さんは、その兄上様のことで、あなたに何か言ったことがありますか?」

 澄人は小さく首を振った。

「でしたら、兄上様ですか? そいつの言葉は無視して下さい。一人の人間の、あなたを傷つける為の言葉を取ってしまったら、一番、悲しい顔をするのはあなたを見守ってくださる方達ですよ」

 澄人は気付いたように目を開くと、すぐに顔を真っ赤にして俯いてしまった。その顔を見て羽坂は後悔した。

(ああ、言い過ぎたな……)

 まだ八歳の子供だろう――と頭をかいた。悪いのは兄の専一郎だ。専一郎はわざと、澄人に聞かせているのだ。言葉は毒だ。その毒は周囲をも巻き込んでいく。嫌な男だ――と羽坂は心の中で舌打ちをした。

「あの……」

 澄人に声をかけられて、羽坂は我に返った。澄人は顔を真っ赤にしながらも、お品書きを羽坂に差し出していた。

「はい」

「私、こういう所、初めてで……なので」

 澄人は上目遣いで羽坂を見た。色素の薄い灰色の、きらきらと輝く目は自分をまっすぐに見上げている。

「……なので、羽坂さんの、おすすめを、食べたいです」

 ――お願いします、と言って顔を真っ赤にした澄人に羽坂は思わず笑いそうになった。片手で口元を隠しながら小さく頷くと、澄人はやはり、嬉しそうに微笑んだ。その顔は今日、初めて見た子供らしい表情だった。

(ああ、やっぱり、子供みたいに笑う方が、美麗な顔をしている)

「でしたら、少々、お待ちください」

 羽坂は給仕を呼んで、こっそりと耳打ちした。給仕は澄人を見て、微笑むと深々と頭を下げた。

「かしこまりました」

 しばらくして店員が運んできたのは白い皿にどっしりと乗ったシュー・ア・ラ・クレームであった。

 澄人は大きなシュー・ア・ラ・クレームを前に嬉しそうな、困惑した表情を見せていた。

「中にクリームが入った洋菓子ですよ。こうやって、食べるんです」

 羽坂は両手でシュー・ア・ラ・クレームを持つと、逆さまにして、かぶりついた。

「うん。美味しいですよ」

 澄人は恐る恐る、シュー・ア・ラ・クレームを持ち上げた。はっとしたように見開かれた目はこぼれんばかりに輝いている。嬉しい反応をしてくれるね、と眺めていると、澄人はゆっくりと逆さまにして、小さな口でシュー・ア・ラ・クレームにかぶりついた。

 みるみるうちに頬を真っ赤にさせて食べる澄人の姿は年相応の子供になっていた。そのことに心から安堵しながらも、胸の奥でぬぐえぬ不安が渦巻いていた。


 羽坂は澄人を右腕で縦に抱き、左手には紙袋を持ち、通りをゆっくりと歩いていた。澄人は疲れたのか羽坂の肩に頭を預けて気持ちよさそうに眠っていた。

 目を閉じた顔は彫刻のような美しさをしていて、すれ違う人が何度か、振り返った。すれ違う度に微笑ましいわね、と言われるので、ふと、ショーウィンドーに映った自分の姿を見ると、思わず、微笑んでしまった。

 その姿はまるで、家族のようだったからだ。自分の体に肩に、安堵して体を預ける澄人の体の温みと重みを感じながら、羽坂は再び歩き出した。

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