第26話 捨願と天我

 ぼくは少しずつ仏典を読んでいる。仏僧は仏典の内容を隠して教えないので、東洋世界が形成された力学が書いてあるのではないかと、気になって仏典を読んでしまう。

 ぼくは最初、原始仏典から読んだものだが、今では原始仏典より大乗仏教の方が好きだ。釈迦牟尼の教えにこだわる必要はない。釈迦牟尼の教えに反抗した仏僧たちの痕跡は、大乗仏教を読んでいて楽しいところだ。いろいろな仏僧がいる。菩薩もいれば、仏もいる。如来もいる。如来とは、「華厳経」を知らないのに仏として生きていた者のことだ。仏教の原理を生まれながらに体得していたのだから、如来と呼ばれるべきだろう。

 華厳経を読んでいると、こんなことで世の中うまくいくのかなあと心配になってしまう。まるで、凌辱される十八禁文化物を楽しんでいる時のような気分だ。華厳に全力になることができない。故郷は大丈夫か。華厳で望郷の想いを抱いてしまう。

 華厳を疑っている。華厳経を読んでも、華厳経に従わなかった者を呼ぶ名前が欲しい。華厳に従わないのは、自分が損をするのが怖くないか。バカな人生を生きるのが怖くないか。国家に否定されるのが怖くないか。それでも、衆生を救う慈悲心を守るか。

 しかし、華厳経にとりつかれ、仏だ、菩薩だ、そればかりなのも嫌になるね。

 華厳経の後、達磨大師は天竺で「達磨多羅禅経」を書いて、学問の道を示した。それは仏道無相である。仏教によって衆生が救われていないのは見れば明白であり、それはつまり、仏教が未熟なためであるのは明白である。それなら、どうするのか。それを考えないものはたいした仏僧ではない。「勝道」を狙わなければならない。しかし、思わず、「方便道」に生きて、「回転功方便道」を狙ってしまうね。

 そして、仏僧は、ここから、とんでもないことを始める。例えば、星宿輪である。星を地上に落とす研究を始めたのである。星を地上に落とす研究は仏教である。星が地上に落ちれば、大地が砕け、人類が滅亡するかもしれない。それでも、探求をする。それが学問であり、仏教である。万物輪が研究対象である。

 仏になるために捨願するのか。華厳経を読んでも華厳経に従わない者を、別弥(べつや)と名付けたい。ぼくの筆名で失礼だが、全力で格好良い名前を考えたものなので、これくらいの名前でいきたい。我々が探している生命力とは何なのだろうか。

 華厳経の毘盧遮那仏に荘厳される蓮華蔵世界。仏は衆生に讃えられ、菩薩はただ人生を無為にする。なぜ、華厳は成功して、菩薩道は成功しないのか。華厳は大自然の原理にのっとったものであり、菩薩道は人工物である。菩薩道の探求は、大自然の補助でしかない。補助が中枢原理をのっとろうとしたために、菩薩道は大自然に敗れたのだ。

 しかし、人工楽園建築技術を構築する星宿輪世界。忍辱輪が楽園の組み合わせにたどりつき、忍辱の努力が報われる。かつての驚学三昧を思い出し、立ち上がる忍辱。忍辱による結華三昧。その時、忍辱は、仏はなんかむかつくので、虐げてしまうだろう。物質の中から生物が発生した奇跡のように、生物の中から人工環境建築技術を構築できる奇跡が発生するのではないか。生物が小さな領土から増えたように、人工環境建築技術も小さな領土から増えるのではないか。

 大自然の原理を相手にして勝利するのは、忍辱しかいない。華厳は見落としたのだ、最も重要な人間学が忍辱輪の研究であることを。忍辱が忍辱輪を解き明かした時、数十億年前に地球深海で起きた奇跡に対抗しうる奇跡が起きるのだ。まさか、華厳が敗北するのだ。

 瑠璃瓶の中に、哲学者たちの思索の断片を入れる。時計輪は、地上、天上、大過去、大未来につながっている。外道輪は、残虐な事件の数々を解析している。今までに諦めた願いの記録をとる。

 歳をとってから、友情を思い出し、友情を大事にする大人になりたいものだ。人生は裏切りの連続だからね。

 願わくば、星が落ちるのではなく、幸せの久遠機関が活動を始めることを。

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