喫茶「ブラックホール」⑤

 積もる話があった。話したいことがたくさんあった。共に過ごせなかった日々を懐かしむように、僕らはぽつりぽつりと言葉を交わした。コーヒーは冷めることなく、湯気を湛えたままでいる。この時間が夢に取り込まれて醒めてしまうことがないように、コーヒーを口に含んで、自意識を保ち続ける。相変わらずだと彼は言ったが、少なくとも見た目は大きく変わっているだろう。年老いた。背も曲がったし、力も入らないし、声はしゃがれたし、皺も増えた。彼は若いままだ。生き生きとした横顔は、止まったままの時間がようやく動き出したような、そんな実感を伴う。

「他のみんなもつれてくればよかっただろうか。みんなお前に会いたがっていたんだ。きっと、懐かしがるに違いないさ」

「大丈夫。君が来てくれただけで十分さ。とても楽しい時間だったよ」

 香木は尽きて、わずかな匂いだけが残った。鼻先に残り続ける匂いも、やがては埃とカビの匂いに置き換わっていく。「会えてよかった」と彼がいう。僕も同じ言葉を返す。

 僕らは同時に喫茶店を出た。表口は開く様子がなかったので、裏口から外に出る。

 扉を開けた先は真っ暗闇で、手探り、ようやく道が続いていることが分かった。ただ、僕らの道は別々の方向を向いている。

「ブラックホールの真ん中で目を覚ました時、絶望も大きかったけれど、誰かに必要とされているような強い意志を感じたんだ。ワケを知ることもできて、よかったよ、ありがとう」

 彼は最後にニッと笑って、姿を消した。

 一人、僕は静かな喫茶店に残された。

 彼にもらった命は十二分に燃やし尽くして、少しだけ先に続くような足跡も残せた。彼と過ごすためだけのほんのわずかな犠牲を、僕は喜んで対価として支払おう。この身一つで済むならば、もっと容易いことだ。

 振り返ると、喫茶店は人でにぎわっていた。僕らの座っていたところだけ、ぽっかりと穴が開いたように誰もいなかった。僕はそこに僕らの影を見た。僕らがここを離れても、影はきっと重力にとらわれたまま、ここにとどまり続けるのだろう実感。先にいった彼を追いかけるように、僕も歩みを進める。

 光の届かない、真っ暗闇の中を進んでいる。また、強い力で引きずり込まれるように、僕の体は導かれていく。今度は、足取りが軽い。目的は果たせたのだ。悔いなど何もないだろう。

 ぽつぽつと歩いていく。行く先は知らない。ただ彼が先に歩いた道であるならば、恐れるべきものなど何もないと信じられた。

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小説『チャップ・ブック』 ちい @cheeswriter

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