その殺人は誰にも裁けない① ー2024/7/24 Wed 19:18
柳瀬裕人が帰ったあと、誠也はソファ席に腰を埋めていた。少し暗い店内と度重なる疲労。心地のよいBGMに、ウトウトと寝ていたらしい。スマートフォンのバイブにも気がつかず、自分の身体がゆさゆさと揺すられている感覚で目が覚めた。なんだか夢を見ていた気がする。
息ができず苦しくて、血生臭い嫌な夢を。
「誠也。誠也ッ。――あぁ、良かった。ごめんな、遅くなって」
スマートフォンの画面を見ると、十九時十八分。
橋本大和は十九時に迎えにくる。榊優奈に命じられて誠也を部屋に送り届けるために。
わずかに遅れていた。大和からのメッセージを開くと無数の未既読メールが届いていた。
「稽古が遅くなって」
大和は走ってここにきたのだろうか。頰が蒸気していて髪の毛が肌に張り付いている。暑い夏の始まり、夕方になって涼しくなったといえど、この中を走ってきたのか。
「……来ると、思って、なかった」
「そっか」
「もう二度と、顔を見せるなって、言われたから……今日は、来ないものだと……」
「……嫌な予感がしたからな。――だから」
あれ。おかしい。
そんなつもりはなかったのに。堪えなきゃ堪えなきゃ。でも、もう抑えることができない。
「大和に俺、嫌われた……と思って……ごめん、俺の方こそ……意地張って……ごめん」
――大和の顔を見ると安心する。絶対に大丈夫だってそう思えてくる。ボロボロと流れてくる水はきっと涙なんかじゃない。
違う、これは違う。
「俺、……」
大和のジーパンに縋るように顔を隠すと、大和はそのまま周りの客が自分を見ないように隠してくれた。こんな顔は誰にも見せられない。
「――もう、俺は……」
助けて欲しい。
榊にはどんなに無様なところも見られたのに、大和にだけは見せたくなかった。見せてしまったら自分のプライドがズタズタになる。だからどんなに辛くとも親友の前では見せたくなかったのに。
「誠也」
俺の首にも大和の首にも、その痕跡はある。自らを縛るもの、その支配から逃れるために。
「俺の方こそ、お前がしんどいのを知っているのにあんなことを言ってごめんな。ごめん。本当にごめん。――お前がずっとそうしたくないのにそうせざるを得ないことを、俺は知ってる。なのにあんなことを言うなんて、俺は酷いやつだ」
誠也のグショグショになった顔を隠すように、大和はカバンに入れていたパーカーを誠也に着せ、フードを深く被らせる。
「とりあえず、ここから出よう」
大和が誠也の鞄を持ち、誠也は大和を追いかけるように店を後にした。――大和がいるから俺は一人ではない。大和がいるからなんだかなんでもできる気がする。大和がいるから……。
「今日、決着をつけよう」
「……や、やまと。あのさ」
夢を見た。大和が時間に来なかったから、俺は一人で榊優奈の元に向かった。榊を殺して……そのあとの記憶はどうしてか曖昧だ。鼻をつくような嫌な匂いと、その嫌なものが体内に入って膨張していくような感覚だけは忘れることができないのに。身体に取り込まれたそれらは自分をそのあと、どうしたのだろうか。自らに吸収されていくような嫌な感覚は、夢であったと思いたい。
「榊の支配から逃れる、そのために榊を殺すことにならざるを得なかったとしても――大和はその選択肢を取る?」
榊を、殺す。
カバンに入ったナイフを使えば榊を殺すことができる。神と名乗ったあの男の正体は分からないが、今持っているチャンスは使う……べきだ。
「……殺す、リアルで?」
「うん。榊を殺しても罪にならないとしたら。大和は榊を殺すのか」
ごくりと喉を鳴らす。
大和の茶色い瞳が真っ直ぐこちらを見ている。
「――ころさ、ない」
「えっ」
「殺さないよ。その選択だけは絶対に取らない。殺したらそこでおしまい。なんでこんなことをしたのか、なにも聞けなくなってしまう」
驚いたままの誠也に大和は静かに答える。
「俺は、俺の親友をこんな目に合わせたあの女を許さない」
「大和は、俺のことをまだ親友と言ってくれるのか?」
「――許さない、それはお前にもだよ」
きょとんと誠也は大和の顔を見つめる。大和はそんな誠也の頭をフードごとわしずかみにしてグシャグシャとかき乱す。
「夢の中とはいえ、俺はお前に殺された。容赦ないなぁ本当にさ。あの場で殺さなければならなかった、だとしてもお前さぁ、抵抗とかさぁ!」
「……うっ、ごめんってば」
「本当だよ! 夢とはいえ、めちゃくちゃいてぇんだからな!?」
大和はぐしゃぐしゃをその後、五分は続けてようやく満足した頃。ちょうど榊優奈のマンションの前に辿り着いた。数刻前の記憶では、ここに来たのは自分一人だった。
今は、大和と二人だ。
「まずはあの女をしばく」
「そうだね」
榊優奈を殺さない。
誠也はあの男から貰ったナイフを手首の袖口ではなく、カバンの奥底に押し込んだ。
大和と並んで立つ。今日はなんだか大和が強気で息巻いていて、それがとてもカッコいい。二人ならなんでもできる気がする。俺たちならもしかしたら。
大和がエレベーターから出た時、俺らの女王様は満面の笑みで迎えてきた。大和は一瞬だけ後退りをしたけれど、一瞬だけだ。
「榊。――今日こそは誠也を返してもらう」
「……今日こそ、は?」
大和が妙に力を込めていたので榊の指摘に違和感を感じた。
「何度やっても変わらないと思うなぁ」
大和はなにも言わない。
榊が俺に向かって、おいでおいでと手をこまねく。自然と足がそちらに向かう。それを止めてくれたのは大和だった。
「今日は俺も部屋に入れてもらう」
「だめだよぉ。……誠也くん、だーけ」
「入れろ」
腕を握られる。その手が強く決して離さんとしていたので、誠也は痛みで声を出そうとした。が、それは大和が自分を守ってくれているからだと思って我慢した。
「どうしよっかなぁ。誠也くんのこと、本気で離さないつもり?」
「絶対に」
「うわぁ、頑固。そういうの嫌われるよ?」
大和の顔は険しい。ギリギリと腕が締め付けられる。ギリギリギリギリ。腕が千切れそうだ。
「分かった。分かったよぉ。それ以上握ったら誠也くんの腕が千切れちゃう」
榊は固く閉ざしたドアを開ける。大和は自分がその中に入るまで誠也の腕を離さなかった。
「その友情に免じて。今日は特別だよ?」
部屋に入った時、大和は誠也の手を離す。
「……ごめん、誠也」
「大丈夫。ちょっと痛かっただけだから」
「ごめん」
腕には大和の指の跡がくっきりと残っていた。大和は誠也より先に部屋に入る。前に立ち、守るように。そんなに過保護にしなくともいいのに。
大和の目は真剣だった。
少し怖いくらいに。
「榊、お前はなんでこんなことをする?」
自らの監禁部屋。首輪を嵌められベッドの外に逃げられず幸せな甘い夢を永遠に見させられるための牢獄。今日は榊がそこに座っていて、誠也は大和の後ろに隠れていた。榊が呼んだとしても大和が止める。そのために誠也は大和の後ろに守られていた。
「誠也くんのことが好きだからだよ?」
「なら、別にこんなことをしなくてもいいだろ」
「大和くん、君には関係……な、」
「ある。誠也が幸せだこれでいいと言ったとしても、俺は嫌だ。俺が嫌だからやめろ」
「なんなのそれ。大和くんのわがままじゃない」
「違う」
押し問答は続く。榊はやれやれと呆れ顔だ。
「あー、やだやだ。大和くんって誠也くんのボディガードだったんだね。誠也くんを合コンに誘っても大和くんが全部断るんでしょ? その過保護、どうにかしたほうがいいと思うなぁ」
「誠也が嫌がる場所に行かせるもんか」
「あー、あー! 誠也くんのため誠也くんのため……、うるさい。うるさいなぁもう!」
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