第3話

『碧波学園』――東京からおよそ八百キロ南下した海の上に、その学園はある。

 本島といくつかの小さい島々からなる波真利諸島は、一部を除いてほぼ碧波学園の私有地だ。波真利本島は約百五十平方キロメートルという広さを誇り、そこで生徒総数、約一万人弱とその関係者が暮らしている。送られてきたパンフレットを読んで、つばめは仰天した。『日本で唯一の学園都市』――そう呼ばれるのも納得がいくほどの広大な敷地には、最先端の設備がそろうキャンパスに、一流ホテルのような寮もある。さらに商店街や映画館などの娯楽施設も充実しており、美しい港、広大な山々も望める。すべてが生徒ファースト、至れり尽くせりの学園のようだった。もちろん学費もそれ相応だのだが、近衛さんが特待生として取り計らってくれたため、実質学費はゼロだった。そうでなければ、決してつばめがこの学園に入学することはできなかっただろう。

 つばめの碧波学園入学の話はとんとん拍子に進み、ばあちゃんの葬式から二か月弱が経った四月三日には、つばめは島に向かう船の上にいた。島には飛行場がないため、唯一の交通手段は船しかない。新しい生活、新しい人間関係。まっさらなブレザーの制服を着て、ほとんど空のスーツケースに、不安と、ちょっぴりわくわくした気持ちを詰め込んで、つばめはフェリーに乗り込んだ。陸を離れる瞬間の興奮は忘れられない。自分を縛り付けていた鎖が、するするとほどけてゆくような、不思議な爽快感だった――たったひとつの問題を除いては。

「うう、きもちわる……」

 船に慣れていないつばめは、東京湾を出て早々、船酔いと戦いながら過ごさなければならなかった。酔い止めでは太刀打ちできないほどの波の揺れは、つばめにとっても想定外だった。だが、すっかりグロッキーになっているのはつばめだけではない。

 雑魚寝室ではうんうんと唸りながら、同じように身を捩っている学生たちが山ほどいた。この船に乗っているのは、全員が新入生だという。新しい友達を作ろうとうずうずしていたのもつかの間、つばめはものの数十分でダウンしてしまった。結局、到着するまでの二十時間、つばめはぐったりと布団の上に横たわっていたのだった。


「や、やっと着いた……」

 島に足を踏み入れて初めに感じたのは、揺れない地面に対する安心感だった。文字通り地に足がついている感覚に、つばめは大きく息をついた。

 波真利本島は勾玉のような形をしていて、へこんでいるしっぽの部分が、島の中で最も大きな湾となっている。学校の施設や町は頭の部分に集中しているようで、フェリーを降りた後、一時間以上かけて向かうとのことだった。

(とうとうやってきたんだ)

 新入生だけで三千人以上いるため、港は大わらわだ。到着後も慌ただしく、十数台のバスがピストンで新入生を寮へと送り出していた。寮はAからDの四棟あるのだが、船で聞いた噂によれば、どうやら成績順で分けられているようだった。つばめはD棟だったが、これは駆け込みの特別入学という理由がなくとも、結果は変わらなかっただろうと思われる。

 つばめはいつもの遠慮しいを発揮し、順番を譲りまくって、気付けばバス待ちの列の最後尾にいた。結局一番最後にバスに乗ることになったが、最後のバスも想像以上に混雑しており、残念なことに、最後の一人分の席さえないというありさまだった。

「あー、だめだ。きみ、ちょっと降りてくれる?」

 ここに来てまで仲間外れか。つばめはがく、と肩を落としてバスを降りる。

「D棟の子? ちょっと待ってて。いま、本部に確認取るからさ」

 小さくなるバスを見送りながら、スタッフの声に「はい」と頷く。到着早々、一人で待ちぼうける自分が空しい。

 だが、海はそれでも美しかった。朝の光を受け、先程までの喧騒は去り、静かに煌めいている。その景色に見とれていると、背後から急に声をかけられた。

「おーい。もしかして、きみが乗れなかった子?」

 柔和な笑みを浮かべ、制服の右腕に赤い腕章を巻きつけた生徒が走ってきた。背が高く、いかにもデキる男、といった風体だった。つばめはどきどきしながら頷き、差し出された手を握り返す。

「おれは三年の近衛。近衛恭介きょうすけだ。A棟の寮長を任されている。よろしく」

「近衛? それって、理事長の……?」

 恩人の名前に、つばめはすぐに反応した。確か彼は、孫が二人いると言っていた――彫りが深い目元は、なんとなく近衛の面影を感じる。                                                                                            

「祖父から話は聞いているよきみが、特別入学の湊つばめくんだね」

 はい、と返事をする間もなく、「着いてきて」と目で合図され、恭介に続いて黒いリムジンに乗り込んだ。特別に寮まで送ってくれるという。ふかふかの座り心地に落ち着かないつばめを見て、恭介はくすりと笑った。

「まったく、初日から災難だったね」

「は、はい」

「ふふ。小鳥ちゃん、そんな緊張しないでいいよ」

「こ、小鳥……」

 だがつばめのつぶやきを気にすることなく、恭介は「いまごろバスの中でも説明されてると思うけど」と、この学校のシステムを詳しく説明してくれた。

「ここはいくつかのエリアに分かれているんだ。グラウンドとかプールとか、スポーツの施設が集まるスポーツエリア。海沿いにあるショッピングエリア。そして、最も重要なキャンパスエリア。授業はすべて、キャンパスエリアの中の建物で行われる。寮はそれぞれ町中に点在しているのだけれど、成績優秀な生徒の集まるA棟はキャンパスのど真ん中にあるし、スポーツ推薦の学生が多いB棟はスポーツエリアの近くにある。その他の生徒は海沿いのC棟、それと……」

 つばめを見て、困惑の笑みを浮かべた。

「これから這い上がるしかない、っていうか……。そう、エネルギッシュな子たちが集まるのがD棟さ」

 かなり言葉を選んでいるのが伝わってくる。要はD棟の学生は、この学園の最下層ということらしい。AとBは別格で、一般人はC、そして残念なのがD――つばめはこの学園におけるカーストを瞬時に悟った。

「A棟の寮長ってことは、近衛さん、すごいんですね」

「たまたまさ。大したことないよ」

 悠然な笑みを浮かべてから、恭介が足を組む。

「そんなことより、これが一番おもしろいところなんだけど。この学園ではね、お金を使うことができないんだ。」

 一瞬、意味が分からなかった。

「え? それじゃあ、買い物をするときはどうするんですか?」

「ふふふ。小鳥ちゃん、支給されたスマホは持ってる?」

「は、はい……」

 つばめはカバンから、入学書類と共に送られてきたスマホを――つばめにとっては初めてのスマホだった――取りだした。太っ腹なことに、入学時に一人一台、全員に支給されていたのだ。

「ほら、このアプリを開いて。ここに残高が表示されてるだろう。新年度に一律、三万ポイント支給されるからね」

「ポイント?」

 恭介の話によると、どうやらこの学校では学園が独自に発行するポイントがお金代わりになるらしい。相場はほぼ1ポイント=一円。購買や食堂はもちろん、キャンパス外のレストランや娯楽施設でも使われるのはこのポイントで、円をはじめとする法定通貨は一切使えない。さらに生徒自身では、お金をポイントに両替できないのだという。つまりここでは、決められたポイントを自分でやりくりしなければならないのだ。

「ポイントは稼ぐこともできる。テストの結果が良かったり、部活や課外活動で目立った成績を残せば、それに応じてポイントがもらえるし、町でアルバイトをして稼ぐこともできるんだ」

 ポイントを管理するアプリには、『残高:30000P』と表示されている。

「入学時に一律三万ポイント付与される。また両親が手続きすれば、好きなだけ両替出来て、仕送りっていう形でリッチな学生生活も送れるんだけどね。ほとんどの学生が、何かしらバイトしたり、自分で商売したりして稼いでるよ」

「商売?」

「ああ。ここではビジネスの真似事もできるんだ。簡単に言えば、なにかを提供してポイントを稼ぐことが合法的にできる。みんな、色々工夫を凝らしてやってるよ。勉強が得意なやつは家庭教師やったり、テスト対策の問題集を作って売ったり。片づけが苦手なやつ用に清掃サービスなんてのもあったな」

「すごいですね……」

 開いた口が塞がらない。どうやらここは、噂に違わず常識を超えた、規格外の学校らしい。

「近衛さんはなにか、バイトとかしてるんですか?」

「僕はね、これ。ちょうど一年前から始めたんだ」

 そう言って恭介は、スマホの画面をつばめに見せる。そこにはこうあった。

「KK質屋オンライン、不要なもの、買い取ります……?」

「そう、質屋」

「あの、質屋ってなんですか……?」

 恭介は苦笑いした。

「まず要らない物を預かって、それに見合ったポイントを貸す。もし、期限内に手数料を上乗せしたポイント返してくれれば、物は返却する。だが、それができなければ、ポイントは請求しない代わりに、物は質流れとなって、アプリ上で販売されるってわけ。一時金が必要なやつとか、リサイクルショップ感覚で売りに来るやつもいるんだ」

 スマホを借りて、アプリを操作してみる。そこでは質流れになった商品――アウターやジーンズなどの衣服、小説や漫画本といった日用品だ――ずらりと並んでいる。

だが目を疑ったのは、その値段だった。無地のTシャツが、一万ポイント。つばめは絶句した。

「倫理に反さなければ、ここではほとんど承認される。きみもきみなりに、自由にこの学校生活を楽しむといいよ」

 それから学園生活における細かなルールを一通り聞いた辺りで、車が目的地に到着した。車で飛ばして一時間半。まさに島の端から端といったところか。あらゆる建物を通り過ぎ、一度山の中に入って、反対側の海岸沿いに、D棟はあった。

「ここがD棟……。ここから、毎日キャンパスに通うんですか?」

ここからキャンパスに行くには、いくらバス通学とはいえ、かなり早起きをしなくてはならないはずだ。恭介は他人事のように「そうだね、ちょっと大変かもね」と笑った。

「D棟の学生はキャンパスに行くのに一番時間がかかるから、一限の授業に向けて、『席取り代行します』とか言って小遣い稼ぎしてるA棟のやつもいるよ」

 よくそんなこと思いつくよな、と恭介が同意を求めたので、内心笑い事ではなかったが、つばめはごまかすように笑った。入学時の成績で三年間の住所が決まってしまうとは、かなりシビアな環境らしい。ふと、自分がこの場所で生きて行けるのか、つばめは急に不安になる。

「おれ、がんばらないと。仕送りも厳しいだろうし、近衛さんみたいなすごいこともできないし……」

「ははは。まあ、一言アドバイスするとしたら――」

 恭介が外から車のドアを開けた。

「卒業するだけなら寝ていてもできる。退屈を良しとするか、自ら行動し、刺激あふれた学園生活にするのか、それはきみ次第だということ」

 有無を言わせぬ口調だった。

「前者なら、卒業した後もパッとしない人生が続くだけだよ。賭けてもいい。ここでの学園生活を有意義なものにできるか、それは人生の分岐点でもある」

つばめは神妙な表情で頷いた。

「お手数おかけして、すみませんでした」

じゃ、頑張ってね小鳥ちゃん――そう言って、恭介は来た道を戻って行った。

(ばあちゃん。おれ、場違いかもしれない……)

 左にスーツケース、右にスマホを握り締め、つばめは天に向かって問いかける。だがそれに答えるのは、春の匂いを濃縮したような風だけ。

 それでも本土にいたときより、空は高く見えた。

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