第2話
「突然、お伺いして申し訳ありません。私、
線香をあげた後、その老紳士は改めて深々と頭を下げた。父は困惑半分、警戒半分といった様子で隣の母を伺うが、彼女もまた同じ表情をしている。
「えっと、失礼ですが、うちの母とはどういったご関係で……?」
「驚かせてしまって申し訳ありません。もう四十年以上前になりますが、サチさんとは会社の同僚だったものです」
居住まいを正し、近衛という老紳士は、真っ直ぐな目でつばめたちを見た。歳は七十代だろうか。つばめがそう判断したのは、しわの多さなどの見た目ではなくて、その相貌から感じる凄みみたいなものが、七十年分はあるだろうと思ったからだ。背が高く、正座姿はまるで武士のよう。スーツや靴が上物だということは、つばめでもわかった。
「ご迷惑になるかと思ったのですか、サチさんには以前、とてもお世話になりまして。一言、お別れの言葉を是非かけさせて頂きたく伺いました。突然押し掛ける形になり、申し訳ありません」
「いや、まあ。こちらこそ、わざわざご足労頂いて……」
その風格から社会的におかしな人物ではないということを判断したのか、両親も各々頭を下げた。
「申し遅れました、私、こういうものです」
差し出された名刺に目を落とし、父がつぶやく。
「
碧波学園。さすがのつばめでも、その名前には聞き覚えがあった。本州から遠く離れた、小さな島にある全寮制の学園。独特の教育方針で、数々の著名人を送り出している名門校だ。一般庶民からすると手の届かない謎めいた学園だが、倍率はとてつもなく高く、教育意識の高い親はこぞって子供を入れたがるという噂だった。
「学園を起こす前は、教育関係の、別の仕事をしていまして。そこでサチさんと出会ったのです」
「母は昔、出版社に勤めていたと聞いていますが……」
「ええ、参考書や教育関係の雑誌を発行する会社でした。そこでサチさんにはよく助けられまして。いまの私があるのは、彼女のおかげです。結婚を機に彼女が会社を去り、それからはほとんど交流がなかったのですが、たまたまこちらに住む友人宅にあった地方誌で、訃報を拝見しまして。それで伺った次第です」
お茶を一口すすり、ふう、と一息つく。
「娘さんが一人いらっしゃるのは聞いておりましたが……お孫さんが、それも二人いらっしゃったんですね。いやはや、時の流れは速いものだ。ほんとうに、感慨深いというか」
その一言が、この場を少し和やかにした。その雰囲気に倣って、母がつばめと悠太を紹介したので、つばめもぺこりと頭を下げる。つまらなそうに畳をいじっていた悠太も、母に促されてお辞儀した。
「おいくつになったんですか?」
「この子が悠太で、小学校四年生です。こっちがつばめで、中学三年生」
「おやおや。私にも孫が二人いましてね、下の子はつばめくんと同い年ですよ」
「そうなんですか。やはり碧波学園に通われるんですか?」
父が口をはさむ。
「ええ。上の子はもう入学していて、下が今年の春から。私は毎日学園にいるわけではないので、顔を合わせることはほとんどないのが寂しい限りですが……誰のおかげで入れたのか、本人たちはこんなジジイのことなど頭からふっとんでいるでしょう」
ふふ、と両親が笑った。つばめは思う。この人は、人を自分のペースに飲み込んでしまう人だと。最初、あれだけ二人とも警戒していたっていうのに、もうこの有様なのだから。
「つばめくんも、来年から高校生なのですね」
「いや、それは……」
母が口ごもる。純粋に、初対面の人に家庭の事情を話すのを躊躇ったのか、それとも正直に話せば外聞が悪いのを理解していたからなのか。ばつの悪い顔をした二人の代わりに、つばめは口を開いた。
「受験当日に熱を出してしまって、受けられなかったんです」
「なんと! そうでしたか……」
「なので、もう一年浪人するつもりです。えっと、でも、ちゃんとバイトとかしながら……」
つばめは、なぜか申し訳ない気持ちになる自分に嫌気がさした。だが近衛は、
「おばあさまも亡くなられて、辛いことが続きましたね」
と、沈痛な面持ちで、しぼりだすように言った。
「いえ、おれは別に、その」
「つばめくんを見ていればわかります。あなたが、サチさんのお孫さんだということ。きっと彼女に似て、心優しい方なのでしょうね」
大変だったね。辛かったね。よく頑張ったね――そう言われることには慣れていた。そのたびつばめは、「いえ」と小さく首を振るのだ。でも、この老紳士は違った。この人は、ばあちゃんの死を悲しんでくれている。ばあちゃんに思いを寄せてくれている。そのことがなにより、つばめの心に響いた。
「ばあちゃんとおれ、似てますか?」
「ええ。似ている。意志の強い目なんて、本当にそっくりだ」
涙がこぼれそうになったのを、つばめは必死でこらえた。うつむいたつばめを、近衛は穏やかな笑みと共に見守る。
「もしよければ、うちの学校に――碧波学園に、いらっしゃいませんか」
「「ええっ⁉」」
声を上げたのは母と父だった。
「そんな、申し訳ないこと……。今日初めてお会いした方に、そんな厚かましいお願いなんて」
「そこまでご迷惑かけられません」
「いえいえ、まったく。そんなことはないですよ」
「で、でも……」
「無理にとは言いません。つばめくん」
二人を軽くいなし、彼はまっすぐ、つばめを見据えて言った。
「つばめくんの意志はどうですか」
ばあちゃんに似ていると思った。まっすぐ、逃げずにつばめと向き合ってくれるところが。そんな風にされたのは久しぶりで、つばめはまた泣きそうになった。
なぜだろう。十五年間自分を育ててくれた母よりも、戸籍上の父よりも、初めて会ったこの老紳士のほうが、つばめに進むべき道を示してくれている、そんな気がした。だからつばめは自然と、首を縦に振っていた。
「つ、つばめ!」
「これで決まりですね。それでは四月から、つばめくんは碧波学園の一員ということで」
「いや、でも……」
なぜか食い下がる母に、近衛はなだめるように声をかける。
「確かに一年くらいの浪人など、長い人生においてはそこまで重要な話ではありません。しかし、この一年が、彼の貴重な十代の一年であることも事実……というのは建前で」
「はあ、」
「下の孫なんですがね、誰に似たのか、少ーし、少しだけですよ、人付き合いが苦手な子でして。ふふ、でもつばめくんなら、うちの子と仲良くして頂けるんじゃないか、なんて考えているんです。これは私からのお願いです。どうか、息子さんを、うちの学園に入学させて頂けませんか」
いたずらっぽく笑う老人に、両親は返す言葉を失ったようだった。しばしの沈黙ののち、「まあ、つばめがいいなら……」とぼそぼそと話していた。悠太は興味がないのか、寝そべりながら買ってもらったばかりのスマホでゲームをしている。つばめはもう一度、さっきよりも力強く頷いた。
「長居をしてしまって、申し訳ありません。入学書類は明日、すぐにお送りしますので」
帰り際、品の良いコートを羽織った近衛を、母と二人で見送る。
「こちらこそ……。息子がお世話になります。どうぞよろしくお願いいたします」
「いえいえ。それでは失礼……あ、それともうひとつ、お伺いしたいのですが」
「は、なんでしょう」
近衛さんが顎に手をやって聞いた。
「つばめさんの名付け親は、サチさんなのですか?」
「え、ええ。そうですが」
どうしてご存じなんですか? 母が驚いたように聞いた。つばめにとっても、それは初耳だった。だが質問には答えず、近衛さんは面白そうに笑い、こう言った。
「やはりそうですか。ふふ、やはり彼女らしい」
「?」
「ひとところに留まらない渡り鳥は、まるで彼女の生き方そのものです」
「ばあちゃんの、生き方……」
「良い名だね、つばめくん」
その言葉に、ばあちゃんと過ごした記憶が、走馬灯のようによみがえった。両親が離婚し、どちらも再婚して、それぞれの家庭をもって、なんだか、自分が異物のように感じてしまったときに、ばあちゃんがつばめのそばにいたこと。病気になって、日に日に小さくなる背中も、介護が上手くいかなくても、いいよいいよと笑ってくれたこと。そして最後に言った、ありがとう、という言葉も。
つばめは、その背中が見えなくなるまで近衛を見送った。夕暮れが完全な夜に変わり、外灯がぽつり、ぽつりと確かに灯り始める。つばめはその黒曜石のような目に、その明かりをしっかりと映し出していた。
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