第五章 FIVE

 我に返ったのは、妻の苦しげなうめき声を聞いたからだ。

 じゃり、じゃり、飛び散った破片を踏みながら、何かが壊れた水槽の中から出て来る。

 じゃり、じゃり、白い小さな足が、由紀の方へ向かっていた。

 裸の少女。長い黒髪が、水を滴らせながら体にまとわりついている。それがやけに印象的に見えた。

 俯いてした少女の顔が、不意に前を向いた。

 銀色に染まる瞳が、真っ直ぐ隆司を捕らえる。

 彼は「ひっ」と叫んで、一歩後ろへ下がった。

 少女は、隆司から視線を外すと、倒れている由紀に移した。

 グググググッ、喉の奥で唸り声のようなものが漏れる。

 同時に、ぱちっと電気経路からスパークが飛んだ。少女の手が開かれ、そして握られる。

 ボッ、激しい炎。一瞬にして、彼の妻は火だるまとなった。

 叫び声もあげる間もなく、たちまち灰になる。

 彼は、信じられないという思いで、妻の焼け跡を見つめた。


 じりっ、じりっ、足音に気付いて少女に視線を戻す。

 少女は、威嚇するように歯を剥き出した。


 化け物だ・・・・・。


 異常な少女の姿に脅え、彼は慌てて実験室の外に出た。扉を閉め、来た道を走って戻る

 彼の後方で、凄い音と共に扉が吹き飛んだ。

 パチンと、音をたてて電気が消える。

 同時に、コンセントというコンセントから、一斉に炎が吹き出した。

 警報機が鳴り、火事を知らせる放送が流れる。

 深夜でもこの研究所には、ある程度の研究員が詰めているのだ。

 隆司は、手探りで地下研究室を出て、階段を駆け上った。


 何なんだ、あれは?由紀は、一体何を作ったのだ?


 恐怖と当惑を胸に、走り続ける。

 地下を出ると、混乱した人で溢れた通路に突き当たった。放送を聞いた者達が、どっと出口に向かって殺到している。

 隆司もその波を掻き分けるようにして、研究所の出口を目指した。

 ・・・と、後方で悲鳴の嵐が巻き起こる。

 振り返って息を飲んだ。

 彼の後ろに居た人間が、次々と炎に巻かれていたのだ。


 ・・・・あの少女か。


 隆司は、立ち止まって炎の中に少女を探した。

 煙が充満し始める。彼は緑衣の袖を鼻に付け、火柱の間に視線を凝らした。

 不意に、炎が割れる。その中を、ゆっくりとした足取りで現れる少女。

 妻と同じ顔を持った、娘のクローン。

 黒髪が、風に煽られて揺れる。青ざめた顔に、苦痛の表情。

 少女は炎より少し先に出ると、突然立ち止まった。瞳の銀が、すっと黒に吸い込まれる

 それから、まるで力尽きたように、その場に倒れてしまった。


 気がつくと隆司は、少女を助けに走っていた。

 恐ろしい少女、妻を一瞬で殺した少女、そして研究所員の多数を殺した少女。

 しかし、その少女は彼が愛した者と同じ顔。

 もし少女の顔が妻そっくりでなければ、そんな行動は取らなかったかもしれない。

 隆司は炎を避けながら、少女の元へ辿り付いた。倒れていた彼女を腕に抱え、今度は全力で出口を目指す。

 走りながら緑衣を脱ぎ、少女の体を包み込んだ。

 少女の目が、一度だけ開いて彼を見た。悲しみの色に染まって、濡れた瞳。

 少女は苦しそうに彼を見つめ、そして気を失う。


 ────由紀。


 隆司は闇雲に走りながら、少女の体を強く抱き締めたのだった。


 「私は、自分の研究によって出来たチップを、少女の脳に移植した。・・・・そう、その子の記憶を消したのだ。そして研究所を無断で辞め、身を隠した。二年間は、宛てもない放浪生活。そのうち蓄えも尽きて、この町に住み着くようになった。私はその少女に由沙という名を付け、娘として育てた」

 「・・・あなたは、何故由沙ちゃんを助けたのですか?最初から殺すつもりなら、助ける必要は無かった筈です」

 じっと窓の外を見つめたまま、真が抑揚のない声で言う。

 咎める口調でもないし、同情する口調でもない。ただ、事務的に尋ねただけだった。

 「分かっている。しかし、出来なかった。由紀と同じ顔を持つ少女を、どうしてこの手で殺せようか…。だがやはり、生きていてはいけない。この子は、魔物だ。何時また、あの力が蘇るか分からない。私が手を加えただけでは、押さえきれない力だ」

 「だからって、人に殺させるなんて最悪の選択よ」

 真正面から受けたゆかりの非難に、正明はがっくりとうなだれる。

 そんな父の姿に、由沙は怒りを爆発させた。


 自分の出生の秘密が明かされ、真実が分かった。しかしその真実は、決して求めていたものではなかったのだ。

 由沙は人の手によって作られた存在であり、恐ろしい化け物。おまけに、父として育ててくれた人は、由沙の死を望んでいる。その為に、関係ない人を巻き込んで命を奪った。

 良子を殺した張本人は、由沙の父その人だったのだ。


 「・・そうよ、お父さんには責任があるわ。私を殺したかったのなら、お父さんが殺せばよかったのよ!お父さんなら、何時でも簡単に殺せた筈じゃない!」

 激しく言った後、くらりと意識が何かに吸い込まれる。

 怒りや悲しみが交差して、由沙の感情を激しく掻き乱した。


 ・・・・これは、現実なんだろうか?


 父親が自分を殺したがっている。その理由は、自分が化け物だから。

 恐ろしい力で、人を次々に殺していく少女。それが、私?

 不意に視界に、激しい炎の揺らめきを見た。

 何かが自分を蝕んでいく、狂おしい思い。


 許せない!許せない!許せない!


 心に響く、凶暴な色。自分を止められない、あの激しい欲求。

 大きく息を吐く。心を満たそうとする激しい思いを、どうにか振り払う努力をした。

 頭が、ガンガンと痛む。

 ちらちらと、何かの映像が浮かんでは消えていく。


 「君達が何者かは知らないが、由沙を守っていてくれたようだね。・・・だが、もう終わりにしよう。どんなに君達が強くとも、多い敵とは戦いにはなるまい?」

 「罠・・・だった訳ね。随分沢山のお兄さん方が、この小屋を取り囲んでいるわ」

 ちらり、由沙を気にしながらゆかりが言う。

 彼女は、周囲を取り巻く空気と一緒に、壊れかけている由沙の心も感じていた。

 「そうだ、最初から分かっていたよ。君たちが私と接触したがっていた事もね。私を囮にすればきっと上手くいくだろうと、私があいつらに言ったのだ。だから、こうなる事も分かっていた」

 正明は勝ち誇ったように言って、由沙に微笑んだ。


 「私が、間違っていたよ。お前を一人で行かせようとした、私が間違っていた。お前を一人でなんて死なせない。私も、お前と一緒に死のう。だから、もう嫌いだなんて言わないでくれ。今度こそ、二人で幸せになるんだ」

 正明が、ゆっくりと立ち上がる。

 由沙を庇うように、信と竜二が動いた。

 途端、正明の表情が険しくなる。

 「君達は、分かってないのだ!この子の、あの力を・・・・。ある時私は、由沙と喧嘩した。由沙は、腹を立てて家を飛び出した。その後だった。腕に痛みを感じて目をやると、そこに薄い切り傷が出来ていたのだ。もう、記憶を奪っただけでは、力を押さえられないのだと知った。この子の力は、少しづつその片鱗を見せ始めていた」


 言いながらも、真と竜二には目もくれず、正明は由沙の方へ歩み寄った。

 彼の表情が、次第にまた穏やかになっていく。

 由沙は眩暈と頭の痛みを堪えながら、近づいてくる父親を睨んだ。


 全てが、崩れていく。

 信じていたものが、無残に覆される。

 込み上げてくる吐き気。由沙はふらりとよろけて、床に膝を付いた。

 それなのに全く表情を変えず、近付いてくる父親が怖かった。

 「・・・・さあ、一緒に行こう。愛しているよ、由紀」

 「竜二、物理シールドを張って!」

 ゆかりの叫びと同時に、凄まじい衝撃が部屋を襲った。たちまち紅蓮の炎が立ち昇り、炎の柱となって天上を突き抜ける。

 「駄目だ!」

 竜二の広げたシールドは、彼とゆかりと信を包んだだけだった。

 由沙も包もうとしたが、激しく弾かれてしまったのである。


 一瞬だ・・・、一瞬の間に二人の姿は炎に飲み込まれていた。

 燃え上がる服、男の手がもがくように掲げられ、炎の中で消える。

 ゆかり達は、その光景をただ静かに見つめていた。

 どいやら正明は、何か火薬のような物を身につけていたらしい。それが、凄まじい勢いで爆破したのだ。

 彼は、由沙だけではなく、周囲にある全てと一緒に心中を試みたようだ。


 …由沙は、どうなったのだろう?


 顔を見合わせた三人の目に、そんな表情が浮かぶ。

 不意に、何かが動いた。

 それは、炎を押し分け一筋の道を作る。

 由沙だ。

 そう、炎の中から現れたのは由沙だった。熱に煽られ、解けた髪がゆらゆらと揺れる。彼女はよろめきながら、ゆかり達の方へ歩み寄って来た。

 炎の中にいても、その身体は火傷一つ負ってはいない。

 まるで、由沙自身がその炎をまとっているようにさえ見えた。


 由沙は、茫然とした顔のまま、ひび割れてぼろぼろになった眼鏡をゆっくりと外した。そして、表情の無い顔を三人に向ける。途端、彼女の瞳にさっと輝くような銀色が宿った。

 「・・・・・さん。お父さん?」

 開けた口から、僅かに呟きが漏れた。

 次の瞬間、凄まじい絶叫が部屋を貫く。

 「いやああああああっ!」


 由沙の背に、何かが突き抜けた。押さえきれない思いが、胸の中で盛り上がる。

 許さない!許さない!許さない!

 あの時と、同じ気持ち。

 私を傷つけるなんて、許さない!

 それは、自衛本能。人間より、野性に近い感覚。


 あの時、水槽の中にいた由沙は、自分の危機を感じて目を開いたのだ。自分を抹殺しようとしている者を、本能で感じ取った。

 開いた手、そこに力を集中するだけで、彼女には思い通りの事が出来る。

 水を己の力に変え、水槽をぶちやぶった。そこにある物なら、なんだって構わない。

 意識を集中すると、電流が膨らんでスパークした。炎、今度はそれを糧にして敵を葬りさる。


 快感が走った。


 立ちふさがる敵を倒すのは、彼女にとって当然の行為。

 本能のまま、次の獲物を探す。

 それは、獣の意識。

 息の根を止めるまで食らいつきたいと思う、激しい欲求。

 自分の欲求に従い、牙を剥く。彼女の牙、それれが力だ。

 何も考えず、ただ心の赴くままに襲いかかる。

 世界が、無機質に染まっていく。

 眼前を濡らす色が、凶暴さを更にかき立てる。


 ・・・・今も、あの時と同じだ。


 人の心は、もうそこには無い。

 由沙は完全に、記憶を取り戻していた。しかしそれは同時に、人の心を奪うという事。

 今の由沙に、それを押さえつけるだけの意志は無かった。


 「竜二、真、すぐに由沙から離れるのよ。今の彼女は、極めて危険な状態にあるわ!」

 ゆかりが、何時になく緊迫した声で叫んだ。

 竜二はその声を聞いて、素早く二人の体を抱え上げる。

 凄い力だ、片手に一人づつ抱えたまま、彼は部屋の窓を突き破った。そのまま、猛然と廃屋から離れる。

 ドーン。再び爆発。廃屋の屋根が吹き飛び、凄まじい勢いで燃え上がる。

 三人は、そこから随分離れた路上で、もうもうと立ち昇る黒煙を茫然と見つめた。


 「・・・どうするんだ、ゆかり」

 力を使ったせいか、少し息を切らせた竜二が、掠れた声で呟く。

 「あれは、自衛本能よ。由沙の意識は、獣化している。それも、凶暴かつ残忍な闘争欲を持った、肉食獣のような状態よ。もし暗殺者が由沙を襲ったら、更に最悪の事態になるかもしれないわ」

 流石に、ゆかりの声にも疲れの色が出ていた。

 しかし彼女は、溜め息と共に逃げて来たはずの道を戻ろうとする。

 竜二は、慌ててゆかりの肩を掴んで止めた。


 「何処へ行くんだ。無茶するな、今の由沙に適う訳がない。あれは、PKなんてもんじゃないぜ。見たろ、炎を意のままに操っていた。お前と、意識レベルが近い筈だぜ。あれは、コントロールだ。物理現象を操る、究極の力だ」

 「分かってるわよ。竜二は、あたしにシールドを張って。直接接近して、由沙の暴走を止めるわ」

 彼の手を振り払い、当然のように言うゆかり。

 竜二は信じられない表情で、尚もゆかりの行為を止めようとした。


 「駄目だ、そんな事をすればお前は死ぬぞ」

 ゆかりの顔が、竜二の方へ回される。

 彼女は、口許に薄い笑みを浮かべたまま、平然と言葉を返した。

 「あたしの仕事は、由沙をETSに引き入れる事。大事なのは、与えられた仕事を全うする事よ。あたしの命なんて、二の次なの」

 「・・・・ゆかり」

 唖然として、竜二は少女の酷薄な表情を見つめた。


 ゆかりは、他人には信じられないくらい冷淡だ。しかし、それ以上に自分に冷たい。

 まるで、自分の存在など意味が無いとでも言うように・・・・・。

 彼女の自信は、何もない虚無から生まれるものだった。何もないから、何も恐れない。簡単に捨ててしまえるのは、他人への情だけではない。自分への情さえ、簡単に捨ててしまえるのだ。


 「僕が必要になるのは、事が終わった後になるでしょう。それまで役に立ちそうにないので、僕は安全な所で待たせて貰いますよ」

 張り詰めた空気を破るように、真の乾いた声が夜の闇に響く。

 真は返事を待つ様子も見せず、片手を上げながら暗闇へと紛れて消えた。

 「ちっ、相変わらず薄情な奴だぜ」

 言葉を吐き捨て、彼女が消えた方を睨みつける竜二。

 「真の判断は、正しいわ。認めるのは癪だけど、あの人が一番この状況を冷静に見ているんでしょうね。確かに、一度はS氏が望んだ人だけあるわ」

 冗談っぽく言って、ゆかりは歩き出した。

 真とは逆の方向、燃え盛る炎に向かって。

 毅然と歩く姿に、竜二はもう何も言えない。

 止めても、無駄なのだ。ゆかりは・・・、彼のたった一人の妹は、S氏以外の言葉を受入れたりはしない。

 ゆかりは、S氏一人の為に存在する人間だった。

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