女が男のもとにやって来たのは、そのひとつきほど前のこと。

　男はその日も激しい川の流れの中にいた。

　瞑想し、ただ一心に聖句（マントラ）を唱えつづける。冷えた流れは針のように肌を刺して、その痛みもだいぶ前に消えた。

　聖句を発し続けた喉は研いだ刃に切り刻まれたようで、またその痛みも麻痺しはじめている。水は目の前に腐るほどあるというのに、もう幾日飲んでいないだろう。

　すでに三十年以上、満足に食ったことも寝たこともなかった。五感を制御し、己の身体を限界まで痛め続け、生と死の境目で禁欲の日々を送る。

　これを苦行（タパス）という。

　苦行を積むと、その痛みと引き換えに、身体の中に熱が生じる。その熱を永い年月身の内に溜めこんでいると、それがいつしか〈力〉へ変わる。

　天の者さえも呪い、天上世界を破壊する、恐るべき神秘の力だ。

　世の理（ことわり）を超えるその力を望み、苦行に身を投じる者たちを、苦行者という。

　男が苦行に勤しんでいたそのとき、川面をすべる風の流れに一筋、甘い匂いが混じった。

　男は聖句を唱えるのをやめ、鼻先に意識を寄せた。その匂いが、とたんに遠い記憶を呼び覚ます。

　男は確信した。

　これは花や、蜜の匂いではない。たしかにあの女の匂いだ。

　わき立つ歓喜をようやく鎮め、平静を装いながら、祈るような思いで瞑っていた目をゆっくり開ける。

　女は水ぎわに立ち、男を見ていた。

　――メーナカー。

　男の背骨に稲妻に似た震えが走った。

　男の永い地獄の日々は、すでに万を超えていた。

　恐るべき〈力〉の完成は近い。その完成を無にするために、天帝はついに天上一の女を送ってよこしたのだ。

　天の者たちは、苦行の〈力〉を恐れる。それは非力な人間が自分らを害することのできる唯一の力だからだ。それゆえ天帝は天女を遣わせ、苦行者の妨害を試みる。

　天女は天上世界の遊女だ。みな一様に美貌に生まれ、天帝のために舞い、うたい、夜伽をする。苦行者のもとに派遣されれば、流し目を使い、妖艶に舞い、豊かな胸元をはだけ、執拗に苦行者を誘惑する。

　並の人間に、天女と交わる機会などそうそう与えられるものではない。それゆえ大抵の男は、麗しき天女の誘惑にたやすく降伏する。長年禁欲を守ってきた苦行者なら尚更だ。

　ある者は、女に触れるまでもなく精をはなち、またある者は、苦行の果報を自ら擲（なげう）ち、敵であるはずの女と交わる。

　たった一度きりの吐精により、長年溜め込んできた苦行の熱は無に帰される。

　それこそが天帝の狙いなのだ。

　天帝より遣わされた天女の誘惑は苦行の完成への最終関門であり、大抵の場合果たされない。いっぽう、目的を完遂した天女は意気揚々と天上世界へ引きあげていく。

　これまでも幾度か、男のもとにも天女がやって来た。明らかに人の女とは違う、甘く頭が痺れるような甘い匂いを、あたりに漂わせながら。

　苦行に明け暮れる男の前で、天女は踊り、その薄衣を脱ぎ、執拗に誘惑を続けた。あまりに相手にされず、業を煮やして男の首筋に舌を這わせた者もあった。

　だが何をされても屈服しない強情な苦行者に音を上げ、あるいは屈辱に柳眉を逆立てながら、天上世界へ帰っていった。

　この三十年、男はただひとりの天女を待っていた。

　三千を数える天女の筆頭メーナカー――この世の美の頂点に立つ奇跡の天女、その人を。