第2話

――あぁ、こいつだ。


「翠ちゃん、ねぇねぇ。聞いてる?」

 

 私が息子にあんなことを言われて落ち込んでいた時、ポロッと言ってしまったのが失敗だった。この子――小笠原おがさわら香澄かすみは、悪びれもせずにああ言ったのだ。「翠ちゃん、捨てられちゃったの? 可哀想」と。


「聞いてるわよ。で、千裕ちひろくんはどうしたの。出てったの?」

「頭冷やして来るって。多分、コンビニのアイスでも買って、帰ってくるんじゃない?」

「なら、いいじゃない。いつもの通り、香澄が悪いんだから」

「えぇぇ。そんなことないよぉ」

「いや、あります」


 そう突き放してから、ため息を盛大に吐いた。それを聞いていた彼女は、気に入らないのだろう。翠ちゃんは私のこと嫌いなの、とか言い始めた。あぁあ、面倒くさい。


 彼女――香澄は、私の従妹である。昔から、本当に昔から、こういう子なのだ。全てを自分の思い通りにしたい、というか。欲しいもの全て手に入れたい、というか。恐らく、大概の人間が『めんどくせぇな』と思うような女である。

 私はまだ年上だから、仕方ないと飲み込めたけれど、彼女と同い年の妹――あかねはそうもいかなかった。時折我が家に香澄が来れば、いつだって揉め事が起きたのだ。茜ちゃんのぬいぐるみが欲しい。翠ちゃんのワンピースが欲しい。両親の揃った一人っ子で、我慢など知らなかったのだろう。いつもそう、のたうち回っていたものだ。

 だから、妹は彼女が大嫌いである。決定打は、アレだ。大学生の頃、茜の彼氏に香澄が手を出したこと。ちょっかい出して、彼氏がフワついたら、妹は完全にキレた。その結果、卒業後は海外へ行ってしまったのだ。香澄と物理的に離れたいという強い意志だったように思う。流石に嫁ぐと言われた時は淋しかったけれど、可愛い妹だ。心から幸せでいて欲しいと思っている。


「それにしても、よく結婚したわよね」


 四十近くになっても尚、若い頃の気持ちのままでいた香澄は、このまま独身でいるのだろうと思っていた。選り好みをして、結局は選ばれもしない。茜に言わせれば、そもそも香澄は結婚などできるはずがない、だ。私たち姉妹は、そうだとうな、と勝手に納得していたのだが。それが覆ったのは、半年前のことだった。会社の同期だという千裕くんを急に紹介され、明日結婚するわ、と言ったのだ。普通なら「明日って」と驚くところではあるが、まぁ香澄である。それはお幸せにね、と苦笑いしてしまったのは、まだ記憶に新しい。


「だって、仕方ないじゃない。色々あって、ヤッちゃったら、情が湧いちゃって。まぁいっか、ってさ。なるじゃん?」

「いや、ならないけど」


 こう言っているが、多分この子は千裕くんのことが以前から好きだったのだろう。彼といる香澄を見ていると、そう思うのだ。色々あったという内容こそ知らないけれど、力任せに体の関係を持ったのではないかと疑っているほどに。これは、長年付き合わされている従姉の勘。そして多分、八割当たっているはずだ。


「翠ちゃんは堅いんだよ」

「香澄に共感するくらいなら、堅くていいわ」


 呆れて、麦茶を飲み干した。

 この家では、酒は飲まない。夫が心配するから。平日は彼も飲まないでいるらしく、週末に小田原に帰った時に二人で飲むことにしている。一人きりで倒れたりしたら嫌、らしい。だから多分、愛されてはいるのだと思う。


「香澄。建設的に話し合って、きちんと二人の未来を考えなさい。それで、喧嘩する度に私に連絡してこないでもらえる?」

「はぁい。翠ちゃんにまで突き放されたら、私、生きていけないもんね。茜ちゃんは連絡先教えてくれないし……イギリスに居るんでしょう?」

「いや、フィンランドね」

「うぅん、まぁ同じようなものね」


 違うと思う。

 フィンランドの人と話す苦労していた妹を思うと、あまり簡単に言われたくはない。今では、そこまで難しくないよ、と笑っているけれど、馴染みのない言葉を聞き覚えるのは大変だ。茜は、本当に頑張っていたと思う。だからこそ余計に、香澄にはもう関わって欲しくない。


「あ、帰って来た」

「はいはい。仲良くやりなさいよ」

「はぁい。翠ちゃん、ありがとうね」


 おやすみ、と言って切る間際、「千裕、ごめんね。どこ行ってたのぉ」と甘える声が聞こえた。あぁ香澄らしい。長年彼女を見てきた結果、千裕くんはよほどなくしたくない相手なのだと思う。今まで結婚に至らなかったのは、彼に長年片思いをしていたのだな、と私は結論付けた。微妙な差だが、あの声には捨てられたくない恐怖が乗っているのだ。あぁ本当に厄介な子。

 女はみんな敵。それが香澄の口癖で。周りと壁を作っては、ちっぽけな本当の自分を隠している。プライドも高くて、その壁を上手く作るものだから、なかなか友人も出来ないのだ。そんなに怯えなくたっていいのに。昔から、そう思ったし、香澄にも言ってきた。掴んだ幸せは、逃すんじゃないよ。怖がらないで、本心で話し合ってごらん。従姉としては、そう願っている。ただ、その言葉が必要なのは、今は私の方なのかもしれないけれど。

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