みどりちゃんのおうち。

小島のこ

第1話

 女、齢四十。小さな小さな賃貸マンションで、一人暮らし。ただ毎日、会社とこの淋しい部屋を行き来している。母を早くに亡くし、優しい父とのんびり屋の妹と三人で生きてきた。あの時も小さな家で、肩身を寄せ合って暮らしていたのだから、今が特別に苦しいことなんてない。小学生の頃から洗濯をし、食事も作って、全てにおいて必死だった。お姉ちゃん、お姉ちゃん、とくっついてまわった妹が海外に嫁ぎ、ホッとしたのも束の間。最愛の父が事故で亡くなった。あっけない最期だった。そして、私の今の家族――夫と息子は、小田原の私の実家で暮らしている。

 きっかけは、 相続が発生したことだった。妹は、私は何も要らない、と言う。どうかお姉ちゃんの負担にならないような形にして欲しい、と。さて、あの家をどうするか。そう家族と話し始めた時、一人息子が威勢よく言った。「僕、あのお家に住みたい」と。小学五年生の時だった。あの子は幼い頃から昆虫が好きで、タヌキやハクビシンが出るようなあの家に行くのが好きだったのは確かだ。東京での生活では見つけられない楽しさがあったのだと思う。夫と真剣に話し合い、現実的に引っ越しを考え始めた頃だ。あの子が私に言った。


―――ママは、来なくていいよ。


 満面な笑みで言われた言葉に、私の何かがポキリと折れた。

 今も時折、その息子の声がリフレインする。その度に頭を振って、仕事に没頭して来た。まだ一年目。これの生活がいつまで続くのか、終わりなど見えない。彼なりの考えがあったのだろう。子ども特有の言葉足らずであるはずだ。そう思うのだけれど、恥ずかしながら私は、今もそれを心の隅に抱えてしまっている。


―――二人で頑張ってみるよ。


 そう言い添えた夫の顔も、忘れていない。そしてきっと、それが決定打だった。夫が、何言ってるの、と。三人で暮らそうよ、と笑ってくれていたら。そうした唇を噛んだことだって、数え切れない。


―――えぇ、ママだって一緒に行くよ。


 どうしてあの時、そう言い返せなかったのだろう。何度も悔やんだ。じゃあ、今ならばそう言えるのか。そう聞かれたら、答えは否だ。私には……息子から突き放されてしまった私には、きっとそう言う権利もない。


――――捨てられたの?


 あぁ、そう言ったのは誰だったか。私の心にとどめを刺したのは。

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