第16話 ずっとあなたの横にいます

 秋は思わぬ災害が到来する時期でもある。数日前に日本列島を襲った台風はこの地域にも激しい爪痕を残していた。

 この日河野が利用者の飲み物を用意していると、人員に余裕のある詰め所から年配の女性職員がやって来て、

「河野さんちょっと助けて」

 と駆け寄ってきた。

「この台風で隣の店の看板が飛んできたらしくて、今一ノ瀬さんが大変なのよ!」

「!」

 中身をはっきり言わない職員が

「看板を脇に寄せるように指示がきたけど、男手がほしいのよ」

 と告げる前に表に飛び出していた。


 小夜子が看板を両手で引っ張ろうとしていると血相を変えた河野がこちらに駆け寄ってくる。

「怪我は?」

 肩を掴んで頭の先から、足の先まで確認する。

「怪我?」

「せやかて上から看板落ちてきたんやろ」

「いいえ、落ちてる看板を店の引き取りがあるまで脇に寄せろ、と指示が」

「は?」

 河野は自分がとんでもない勘違いをしていると分かり、ほっと安堵のため息をつくと、

「紛らわしいねん!」

 と腹立ちまぎれのような声を出した。

「どけろ。何でお前一人で運べんねんな。吉川さんと西田さん呼んで来い」

「はい」

 看板を通行の妨げにならない位置に戻してからめいめいが仕事に戻る。裏で吉川の代わりに洗濯物を干していた小夜子は

「河野さん心配して来てくれたんですか」

 一人後から戻ろうとする河野に尋ねた。

「まるで看板が上から落ちてきたような言い方やったからな」

「ありがとうございます」

 相手の思い違いにくすくす笑っていると、河野がこちらを目を細めて見ているのに気付いた。

「あの、私、やっぱり変な顔してます?」

「あ?」

 河野は自分が不躾に見ていたことに気付いたらしく、顔を斜め下に逸らした。

「榊原さんにまで笑われちゃって。私もうどんな顔してお礼を言えばいいのか分かりません」

「ああ」

 唸るような声を発すると

「せやから変な顔ちゃうねん。そうやなくて。その笑顔見てると、どうしようもなく隠してしまいたくなるんや、他の誰の目にも触れさせんように。閉じ込めて、自分だけの限定品にしたくなんねん」

「!」

 河野はそれから小夜子の反応を確認した後で

「なあ一つ聞いてもええか」

 言った。

「ずっと考えてたんや、繰り返しあん時の言葉。分かってんねん、頭から消してしまわなって。……でも」

「……」

「あんな話聞いても、それでも俺と一緒にいたいっていうんは、今でも有効か」

 小夜子は黙ったまま顔を縦に振った。

 それから榊原に言われたように相手のことなどお構いなしに自分の気持ちを告げてみることにした。

「河野さん大好きです」

 今度は河野が耳まで赤くなる番だった。

「お前ずるいぞ」

「河野さんが先に言い出したんです」

「お前はほんまに雑草みたいな向日葵や」

 河野は自分に言い聞かせるように訳の分からないことを言った。

小夜子はそんな河野の横顔を見つめながら

「そういえば一つだけ気になってたことがあるんですけど」

「?」

「榊原さんが倒れた日なんで河野さんあんなに早く来てたんですか。河野さん仕事早いからよく考えれば不思議で」

「知りたい?」

 河野は体を小夜子の正面に向けてから

「他の男と長時間二人きりになんてさせられるか。とことん邪魔したんねん。……とでも言うと思うた?」

 意地悪な笑みを浮かべた。

「な、何なんですか!からかうのはやめてください、真剣に聞いたのに」

まるで自分がそんな言葉を期待していたと言われているようで恥ずかしさがこみ上げる。

「夢を見たんや。君が僕の名前を呼んでた。『河野さん助けてください』って。すぐに目ぇ覚めて何か嫌な予感がしたんや。居ても立ってもおられんくて、あんな時間に出社したってわけ」

「え、河野さん、勝手に私の夢見てたんですか!」

「勝手に、って。夢は普通勝手に見るもんやろ。それに注目するのはそこちゃうやろ」

「駄目です、だめです!恥ずかしい」

「全くお前ってやつは」

言うなり小夜子の目尻に口付けを落とす。

同時に近いタイミングで裏口のドアが開いて高遠が

「それで看板ってどれ?」

 と他の職員とやって来るのが見えた。すぐさま河野は体を離し、入れ違いに建物の中へ入っていく。高遠は相変わらず額の汗を拭って

「いやあ、しかし暑いな今日も」

「そうですか?だいぶ涼しくなったと思いますけど」

「え、暑いよね、一ノ瀬さん」

「はい、ほんっと暑いです!暑い」

 力んで発言する小夜子の耳には

「一ノ瀬さん熱あるんじゃないの?」

 という職員の気遣う声と、窓の向こうから河野のからからとした笑い声が同時に聞こえた。

 これから先少しずつ、二人共有の己が増えていくのだろうか、そう思いながら、小夜子は洗濯物に集中したのだった。

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