第15話 有名小説家の一風変わった恋愛相談
昼過ぎの榊原の訪問は例のごとく生活援助であった。榊原は訪問に入る小夜子の前にコピー用紙の束を差し出した。
「原稿がようやく出来上がったよ。読んでくれるかい」
「わあ!これお預かりしてもいいんですか」
「もちろん」
榊原が頷く。
「私が一番で本当にいいんですか?何だか吉川さんに羨ましがられそうな気がします」
小夜子が言うと榊原は困ったような笑みを浮かべた。
「うん。吉川君は僕の作品を気に入ってくれてるようだからね。でも私は迎合されるよりも率直な意見が聞きたい。一ノ瀬さんはその点はっきりとした物言いをするからね。忖度ない意見を聞けるような気がしたんだ」
「私そんなに明け透けな喋り方します?」
「うん、まあ、普通は死にかけた人間に、『一回心臓が止まったから好き勝手に生きたらいい』とは言わないだろうね」
小夜子は恥じ入るようにモップを握り締める。
「でも、そのお陰で私は新しく生き直す意欲をもらった」
小夜子は原稿を抱きしめるように預かると
「じっくり読んで感想をお伝えしますね」
言った。
原稿をしばらくデスクの上に置かせてもらってから部屋の床に掃除機を掛け始める。床の消毒に移ってから小夜子はベッド上で新聞を読んでいる榊原におもむろに話し掛けた。
「あの、榊原さん。明け透けついでに、ちょっと質問というか、相談をしても良いですか」
「相談?」
利用者にこんなことを言うのもどうかと思ったが、今自分の抱えている悩みに一番適切な回答をくれるのはこの年配者のような気がした。
「ある人のことなんですけど、その人榊原さんにすごく似ている気がして。私より榊原さんのほうがその人を理解できそうな気がしたものですから」
「ふん」
榊原は新聞を下ろし小夜子の方へ視線を向けた。
「その人は過去にとてもつらい体験をしていて、それが忘れられなくて、忘れようと、でも忘れちゃいけない、と一生懸命なんです」
「……」
「私は寄り添いたいのですが、その人はそれを望んでいないようなんです。でもどうにかして相手を理解して受け止めたいんです。私はどうしたら良いでしょうか」
榊原は眼鏡を外して
「一ノ瀬さんはその人の抱える問題をどうやって知ったんだろう」
「それは本人から聞きました」
「ほう。本人から」
榊原は眉間の皺を伸ばすように何度も擦ってから
「……その人は本当に一ノ瀬さんに理解されたくないんだろうか」
尋ねた。
「どういう意味ですか」
「本当に立ち入られたくなければ、少なくとも私ならば絶対に口外しない。口に出すということは、どこかで分かってほしい、そういう思いがあるんじゃないだろうか。あるいはそのとき話してしまっても良いと感情に流されるほどに君に気を許していたことは確かだろうね。一ノ瀬さんには不思議とそういう力があるのかもしれない」
「力ですか?」
「どちらにしても君はそのままでいいんじゃないかな。一ノ瀬さん風に言うなら、相手の考えは一旦脇に置いておいて、自分のやりたいように進んでしまえば良いだろう」
「そんな無責任な」
「あはは、君はそんな無責任なことを私に言ったのかい?」
「それは……」
「一ノ瀬さん、こうは考えられないだろうか。人間誰しも完全に理解し、理解されるなんて不可能だ。そんなことは幻想に過ぎない」
「何だか虚しい考え方ですね」
「でもそれが事実だよ。もし相手の考えが手に取るように分かって、共感できたとしてそれは幸せだろうか。この世界にあるたくさんの友人関係、親子、夫婦でさえも皆完璧に理解し合っていると思うかい?」
「でもそうあってほしいと思います」
「うん、そうかもしれない。でも人間はね、自分はこういう人間だと自覚していて相手もそれを認識している表面上の己の他に、たくさんの姿を持っているものなんだよ」
「たくさんの姿」
「君にだって他の人間には見せていない秘密の一面はあるだろう」
「それは、まあ」
「相手だって同じさ。どちらの側も気付いていない己もあるかもしれない。話が少々込み入ってしまったな。とにかく肝心なのは、理解できないながらも、共存する道を探ることだよ」
「理解せずに、ですか?」
「ときには気付いても見て見ぬふりをする優しさも必要だということだよ」
「何だかよく分かりません」
榊原は眼鏡を掛け直してから
「うん、君はあまり理解しないほうが君らしくていいかもしれない」
と微かに笑った。
「まあ、ごく簡単に言うと、あまり難しく考えずに相手の懐に入ってみてはどうだろう、ということだよ。何も聞かなかったときのように、それこそ一度心臓が止まって生き直すのと同じ気持ちでね」
「もう榊原さんって実はちょっと意地悪なんですね」
先程指摘された言葉を繰り返す男を、小夜子は悪戯っぽい笑みを浮かべて少しだけ睨み付けた。
「でもありがとうございます」
榊原は再び眼鏡を外して小夜子を見やった。
「うん。どうやら悩みが解決したようで良かった。しばらく君のその表情を見てなかったからね」
「表情?」
「うん。ありがとうございます、と言ったときの顔だよ」
「それは……」
小夜子は閉口する。
「お礼を言うときに変な顔をすると言われたものですから」
「変な顔?それは誰に言われたの」
「河野さんです。お礼を言うときにその顔をやめろと厳しく叱責を受けました」
「それは……」
榊原はそこで大きな笑い声を立てた。近隣の居室を訪問していた職員が覗き込むくらいに、である。
「そんなにおかしいですか、私の顔」
「いや、そうじゃなくてね」
それからまた笑い出した。
小夜子は一向に笑いの止まらない榊原を尻目に掃除に集中するのだった。
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