SSE
@hitsuji
第1話
黒く、少し粘着質な液体が大雨の時のように排水溝を逆流して、ぼこぼこと生きているかのように地面の上で脈打っていた。また、振り返ると街路樹の中にぽつんとある手洗い場の蛇口からも同じ液体が勢いよく流れ出ていて、曇り空の下、私はそれを第三者的な目線で見つめていた。
この液体は決して汚いものではないと私は考えていたが、さすがに触れることは憚られた。この液体(液体、おそらく液体なのだろう)を見るのはこれが初めてではなかった。正確なところは覚えていないが、おそらくもう四、五回目になると思う。これが自分にしか見えない幻覚だということには最初から気づいていた。
蛇口に触れてみたが、栓は閉まっていた。閉まったまま黒い液体が流れ出ていた。ある程度予想はしていたが、捻ってみても出てくるのは黒い液体のままだった。墨汁に似ているな、と私は思った。中等部の頃は書道の授業があった。原則として市販の墨汁を使うことは許されておらず、我々は毎回一から墨を擦って字を書いた。こっそりと市販の墨汁を使う奴もいたが、だいたいが先生にバレて怒られていた。やはり自然な黒と人工的な黒は違うのだ。では、この液体の黒は何なのかと考える。自然なものなのか、それとも人工的なものなのか。分からなかった。私はこの黒い液体のことをほとんど何も知らない。ただそこにあって、見えるというだけだった。
この幻覚はだいたいいつも五分ほどで収まっていく。今日も同じで、だんだんと蛇口から出る液体の量が少なくなっていき、やがて止まった。振り返ると排水溝から湧き出ていた液体も消えていた。そこには何も無かったかのように乾いた地面があり、黒い液体に浸されていた雑草達も汚れ一つ無くそこにあった。不思議ではあったが、あの黒い液体は私にしか視えない幻覚なのだから、むしろそれが自然なのだと思った。
鳥が二匹、低い空を旋回して行った。私はその行き先を目で追ったが、すぐに見えなくなり、ゆっくりと歩き出した。
ほら、そんな顔するな、と言って担任の黒石先生は私の背中をバンと叩いた。自分がどんな顔をしていたのかは分からないが、落胆していたのは事実だった。私の二回目のSSE手術はまた今月も見送りとなった。
「規定間隔を超えても二回目手術の承認が降りないことはよくある。あまり気を落とさず、根気よくその日を待てばいい」
「でも、一回目手術からもう四カ月が経ちます」
SSE手術の一回目、二回目間の規定間隔は遅くとも二カ月だった。私はそれをもう二カ月もオーバーしていた。黒石先生は、気にし過ぎるな、ともう一度私の背中を叩いた。昔ながらの体育教師で、adidasのジャージがずんぐりとした身体で張っていた。先生としてもそれ以上は何も言えることが無く、私もそれ以上は何も言わなかった。言ったところで仕方がないことも分かっていた。
職員室を出て、そのまま寮へ戻った。春休みの寮は静かだった。来週から学校が始まるが、部活動の無い生徒はまだほとんどが実家へ帰っているようだった。自室のドアを開けるとルームメイトの中山がゲームをしていた。中山は二十七インチサイズのモニター画面から目を離さないまま、おかえり、と短く言った。私は、うん、と応えて制服のブレザーを脱ぎ、中山の隣に座った。
「何だったんだ、黒石先生の話」
「二回目手術のこと」
「決まったのか?」
「決まらなかった。また見送りだ」
あぁ、と中山は私の気持ちを察したように残念そうな声で言ったが、目線はモニターに向けられたままだった。画面の中、迷彩服の男がショットガンを抱えてジャングルを駆けていた。中山は今この男を操っている。これは春休みに入ってすぐに中山が買ってきたゲームで、武器やアイテムを手に入れながらエリア内で他プレイヤーと戦う、いわゆるオンラインサバイバルゲームだった。私も中山もあまり実家に帰る気にならず、春休みのほとんどの時間を寮でこのゲームをして過ごした。
不意に飛び出してきた他プレイヤーを、中山は冷静にショットガンで仕留めた。流石にやり込んできた分上手くなっている。私は立ったまま、ナイス、と小さく呟いた。しかし次の瞬間、また別のプレイヤーが飛び出して来て、今度の奴は上手かった。中山のショットガンを寸前で躱わし、逆にクナイで反撃してきた。中山のキャラクターの肩にクナイが当たる。身体全体が赤く点滅してHPが減った。攻撃を食らうと一瞬だがキャラクターの動きが鈍くなる。相手のプレイヤーはその一瞬を見逃さず、中山の身体を日本刀で切り裂いた。
画面が内側から血で塗られたかのように赤色に染まり、GAMEOVERの文字が浮かび上がった。中山が焦れたようにボタンを押すと、「12/100」と今回の成績が表示された。これは百人のプレイヤー中、十二番目にまで残ったという意味だった。決して悪い結果ではないが、中山はあまり納得のいっていない顔をしていた。過去、中山は三回、私は一回「1/100」まで残ったことがある。
「やられた奴、プラチナだ」
「それはちょっと部が悪い」
過去の戦績でプレイヤーのランクが分けられており、プラチナはその中の最上位だった。ランクはその後、ゴールド、シルバー、ブレイブ、ノーマルの順に続き、今中山はゴールドで私はシルバーだった。
「で、SSEまた決まらなかったんだな」
中山はモニターの横にコントローラーを置いて言った。
「もう、いい加減にしてほしい」と私は溜息を吐いた。
「何故なんだろうな。基準がよく分からん。特に思い当たる節も無いのだろう?」
「そうだな」と言って私は下を向いた。
「俺の方はあっさり二回目の日程が決まったのにな。何が違うんだろうな」
中山は今月頭に一回目の手術を受けて、部活(中山はハンドボール部だった。私も中学まではハンドボール部に入っていたが、高校では続けなかった)の引退後の再来月に二回目を受ける予定になっており、日程も既に決まっていた。
SSE手術というのはSurgery to suppress emotions手術の略で、「感情を抑える手術」のことだった。マイクロチップを頭に埋め込み、一定以上の感情の昂りと落ち込みを抑制するという手術だ。人間が集団生活の中で何かを成し遂げるために、一定以上の感情の振れは不必要だと政府が判断した。激しく怒ったり、悲しんだりする感情はパフォーマンスやコミュニケーションに対してマイナスにしかならない。常に平常心で生きることこそが社会の発展に繋がるという考えのもと、強制ではないが、政府はSSE手術の施術を国民に促していた。
当初は痛覚の薄れによる死亡事故の増加等、様々な問題点が指摘されたが、けっきょく懸念されていたような事故は起こらなかった(SSE手術を受けても、痛覚が薄れることはなかった)。術後、希望すればマイクロチップを取り外すこともできた。しかし、そのような選択をする人はほとんどいないと聞く。
SSE手術は一定の健康条件を満たした十五歳以上の国民であれば誰でも受けることが可能だった。手術にかかる費用は国が全額を負担し、それどころか、手術を受けたらインセンティブを貰えるキャンペーンも有り、所属する会社や学校の伝手がなければ予約が取りにくい状況になっていた(私や中山の場合は学校が生徒数のSSE枠を抑えていたので、初回の予約に苦労することはなかった)。
SSE手術は二回に分けて行われる。一回目はマイクロチップの埋め込みで、二回目はスイッチの切り替えだと言われている。二回目の手術を受けるには、一回目の手術後に政府からの承認を受ける必要がある。おそらく頭に埋め込んだマイクロチップから何かを読み取って承認判断をしているのだろう。私はこの承認がなかなか降りない状況にあった。私は早く二回目の手術を受けたいと思っていた。早く感情を抑制して怒りや悲しみの無い人生を送りたいと思っていた。
やるか? と言って中山はモニターを親指で差した。画面にはまださっきの「12/100」という成績が表示されていた。私はあまりゲームをしたい気分ではなかったので断った。中山もだいたいは予想していたようで、そうか、と言ってそれ以上は何も言わなかった。
部屋の中が静かになると、開け放した窓の外から鳥の声が聞こえた。少し肌寒かったが、春らしい爽やかな天気だった。私はカーペットの床に寝転がって、新品の絵の具で塗ったかのような空を見た。カーテンが風で揺れていた。来週から高三だな、と中山が言った。独り言なのか私に言ったのか、よく分からなかったが、とりあえず、そうだなと返した。
来週から我々は高校三年生になる。そんな時間は、果てしなく先のことのように思っていたが、もう気付けば来週の話なのだ。
中山が再びコントローラーを手にする。音楽が変わって、また次のゲームが始まった。
新学期の朝、寮はいつもの活気を完全に取り戻していた。中山と廊下を歩いていたら、すれ違った二人組の下級生がおはようございます、と中山に頭を下げた。ハンドボール部の後輩かと思ったが、見覚えの無い顔だった。誰なのだ? と中山に聞くと、新一年生の部員だと言った。なるほど、新一年生であれば私が部員だった頃(私は中二の終わりにハンドボール部を辞めた)にはまだ入部していなかったので、顔に覚えが無いはずだった。
我々が在学する雄心学園は中高一貫校だった。そのため、中等部の部活を引退した部活生のほとんどはすぐにそのまま高等部の練習に合流する。だから彼等は最近また中山と交流があるのだ。
雄心学園は高等部から全寮制となる。寮は男子寮と女子寮で建物が分かれており、この前まで一つ上の学年が使っていた階の部屋に四月から新一年生が入っていた。同時に我々の学年は寮で一番の年長者となった。我々の学園生活も残すところあと一年を切ったのだ。
寮を出て校舎棟まで歩く。春休みは決して長くはなかったのだが、それでもこの短い通学路を懐かしく感じた。下足場にはクラス分けが書かれた紙が貼り出されており、いつもより少し早い時間ではあったがすでに多くの生徒で溢れかえっていた。我々もクラス分けを見に行った。私はC組だった。中山も同じC組だった。中山とは去年も同じクラスだったので二年連続で同じクラスとなった。そして、春とも同じクラスになっていた。
教室に移動すると半分くらいの生徒がもうすでに来ていた。さすがに中等部も含めて六年目にもなると顔ぶれに新鮮さはなかった。組み合わせが変わっただけで人間自体は変わらないのだ。春は、窓際の席に座って文庫本を読んでいた。肩までの真っ直ぐな髪も縁のある眼鏡も、私の知っているままだった。
弓崎春とは一年の秋から二年の夏まで交際をしていた。彼女とは一年の時、研究会が同じだったのだが、同じクラスになるのはこれが初めてだった。同学年なのだから、当然こうなる可能性はあった。しかし同じクラス内に春がいるというのは、どうにも不自然なことのように思えた。別に嫌な別れ方をしたわけではないのだが、別れてから半年以上話をすることもなかった。だから少しの気まずさはあった。
今日は始業式なので授業は無く、学校は午前中に終わった。しかし飼育係の仕事は初日からあった。飼育係はクラス内で名列順に回していくことになっている。私は苗字が安堂なので、毎年いつも初日から飼育係が回ってくる。
私が在学する雄心学園は東京都文京区にある中高一貫校で、都内では有数の進学校であり、同時にスポーツ校でもあった。雄心学園が少し変わっているのは、学内にたくさんの動物を飼っており、通常課程に加えて「飼育」という課程があることだった。「生き物との共存、その中で真の人間を磨く」をスローガンにして、生き物を自分達の手で育てつつ学問やスポーツに励み、自身を成長させるというのが雄心学園の教育方針だった。学内には様々な種類の動物がいた。馬、羊、鳥、うさぎ、蛇、猿、犬、猫、豚、その他諸々、牛も、驚くことに鰐もいた。もはや、ちょっとした動物園だった。動物達の世話は基本的には飼育部の生徒が行うのだが、簡単なことは持ち回りの飼育係として一般の生徒も行っていた。
今日の我々の担当は猿だった。体育館の横に小さな猿山があり、そこで十匹ほどの猿を飼っていた。彼等に餌をやるのが今日の仕事だった。飼育係は基本的には男女四人で一チームになっていた。私の班は男子が私と井口で、女子が赤池と上野だった。井口は同じクラスになるのは今年が初めてだったが、以前から顔は知っていた。背が高く、いつも眠そうな顔をしている男だった。確か、高等部からの外部生だった。女子二人とは昨年も同じクラスだった(あまり話したことはなかったが)。
我々は食堂の動物担当の窓口へ行き、猿の餌を受け取った。受け取ったプラスチックのカゴには猿が掴めるサイズに砕かれたリンゴ、オレンジ、サツマイモ、ニンジンが入っていた。プラスチックのカゴは井口が持った。それなりの重量があるものだったので、手伝うか? と言ったのだが、井口は大丈夫だと言ってそれを断った。女子二人は何やら笑い合いながら少し後ろを歩いていた。二人に特に仲の良い印象はなかったのだが、二年連続で同じクラスならばそんなものかとも思った。
猿山に行くと、猿達は相変わらずそれぞれ思い思いの時間を過ごしていた。欠伸をする奴や、ロープを渡る奴、どこへ行くわけでもなく歩く奴。彼等は毎日何を考えて生きているのだろうと思った。井口がプラスチックのカゴをコンクリートの地面に置くと、ゴリっと重みのある音がした。我々三人は井口に礼を言ったが、井口は無表情のまま、うん、と言うだけだった。
たった十匹程度でもぱっと見ただけで様々な猿がいる。種類はニホンザルのみなのだが、小さかったり大きかったり、凶暴だったり穏やかだったり、毛づくろいのやり過ぎで赤い地肌が目立つ奴もいる。そのすべてに均等に餌を配らなけばならないので、猿の餌やりは意外と気を遣う作業だった。一日に五回行うのだが、飼育係が対応するのはそのうち一回だけで、あとの四回は飼育部が対応していた。
猿山の周りに散らばり、四人それぞれが餌を中に蒔いた。一匹の猿が木に登り、上野が餌を撒く近くまで行った。手を伸ばせばもう届きそうな距離だった。上野に近づいて行った猿はどこか滑稽な顔をしていて、猿山の反対から赤池がそれを見て笑った。それで上野も少し笑い、手を伸ばして持っていたリンゴを渡そうとした。その瞬間、餌を渡しちゃいけない! と井口が今までの彼からは想像できないくらいの大きな声で怒鳴った。
井口は走って上野のところまで行き、猿の目をじっと睨んで追い払った。上野も赤池も私も、突然のことで何が起きたのかよく分からなかった。
「猿に手渡しで餌を与えてはいけない。人間を怖がらなくなる」
井口は上野に静かに言った。戸惑った上野は、ただ頷くしかなかった。
餌やりを終えた後、空になったプラスチックのカゴを井口と二人で食堂まで戻しに行った。帰りは私がカゴ持った。しかし餌があるのとないのではカゴの重さはまったく違うので、行きと帰りでは、帰りの方が労力的にはずっと楽だった。
猿のこと詳しいんだな、と私は井口に話しかけた。二年の夏まで飼育部だったから、と井口は静かに言った。
「猿は特に距離感が大事な生き物なんだ。上手に関係を築くためには、お互いに適度な距離を保つ必要がある」
「そういうものなのだな」
そういえば前に飼育の授業でそんなことを習ったような気もする。飼育係で猿の担当になるのはかなり久しぶりのことだった。学年毎にその年に担当する動物の種類が決まっており、年単位での大まかなローテーションとなっていた。猿に当たるのは、おそらく高等部になってから初めてだと思う。
「前に、日光の猿の被害が大きく報じられていただろ? あれだって、ちゃんと距離感を保って猿と付き合っていればあんなことにはならなかったんだよ。観光客が好き勝手にエサを与えてしまったのがまずかった。それで猿が人間を怖がらず近づくようになってしまったんだ」
井口は歩みを進める先をじっと見てそう言った。私に話しているというより、彼の独り言を私が聞いているというような感覚だった。校舎の角を曲がると食堂が見えた。猿山から食堂までは少し遠い。井口はまた独り言のように、でも一般の人にはそこまでは分からないかな、と言った。
「何故飼育部を辞めたんだ?」
動物担当窓口にカゴを返し、食堂を出る時に井口に聞いてみた。
「一つ上の先輩と馬が合わなかったんだ。一年は我慢したが、駄目だった。当時は例の動物殺し事件の頃だったから、飼育部内もかなりピリピリしていたしな」
「あの頃の飼育部は確かにピリピリしていた」
一年ほど前、学園内の動物が何者かに殺されるという事件が続いていた。けっきょく犯人は捕まらなかった。最近はそのような話は聞かないので、事件としてはとりあえず鎮静化していたが、後味の悪い事件だった。
「あとは、少し受験勉強を始めようかという気持ちもあった」
「そうか」
飼育部は高等部だけでも五十人以上の部員がいる大所帯だった。体育会のように上下関係にも厳しく、部内の規律も厳しいと聞く。
井口は、図書室で勉強をして帰る、と言った。私はもう寮に戻るつもりだったので、校舎を出たところで別れた。また明日、と言うと、井口も軽く手を挙げた。
校庭の方から「あえいうえおあお」と演劇部の発生練習が聞こえた。見上げると、西の空に太陽が高かった。学生生活だな、と思った。また新しい一年が始まったのだ。
夕方、購買部でコーヒーを買って寮の部屋へ戻る途中、一年と二年の階の間の踊り場で何やら二人の男子生徒が揉めていた。
二人は激しく怒鳴り合っていて、今にも手が出そうな雰囲気だったのだが、私が通りかかったことではっとなり、一瞬喧嘩が止まった。彼等のシャツの胸ポケットには青のラインが入っていた。これは彼等が一年生であることを示すものだった。学年毎にラインの色が変わり、今の二年生は緑、三年生は赤のラインが入っていた。
もちろん私のシャツの胸ポケットには赤のラインが入っている。だから彼等はすぐに私が上級生なのだと気付いた。そして鉢合わせてしまった以上、私としても下級生の揉め事に対して無視をするわけにはいかなくなってしまった。
どうしたというのだ? と、私は少し威厳がある声を意識して言った。二人は少し困ったような顔をしたが、やがて一人が、部活動に対する考え方の違いで口論になりました、と言った。
「君達は何部なのだ?」
「我々はサッカー部であります」さっき話したのとは逆の男子生徒が言った。
「部活動に対する考え方とは何だ?」
「練習メニューやチームとしてのスタンスについての考え方であります」
雄心学園のサッカー部は全国でも名だたる強豪だった。その筋では有名な監督が就いていて、昨年は全国大会のベスト8で敗退してしまったが、一昨年は全国制覇を果たしていた。
「なるほど。サッカー部なら、三年に吉野という男がいるだろ?」
「いらっしゃいます。吉野先輩は副キャプテンであります」
「そうか。副キャプテンになったのか。彼はサッカーに対してすごく真面目な男だ。一度彼に二人の考えを話してみたらどうだ? 決して悪いようにはしないはずだ」
吉野とは中学と高校で一回ずつ同じクラスになったことがある。背は低いが体格が良く、短く刈り込んだ髪がいかにもスポーツマンらしい男だった。芯のある男で、クラスメイトからの信頼も厚く、サッカーに対しては人一倍熱かった。近々で交流は無かったが、副キャプテンになっていたとは。
二人はありがとうございます、と私に頭を下げ、一年の階へ戻って行った。ついこの間までは自分が同じように先輩から指導を受けていたのに、不思議なものだなと思った。もうこの寮に私より先輩はいないのだ。
部屋に戻るとショットガンを撃ち放つ音が響いていた。中山はまたあのゲームをしていた。今日、夕飯どうする? と聞くと、どうしようかなぁ、と中山は顔を顰めた。もちろん寮にも食堂があるのだが、さすがに三年目にもなると変わり映えのしないメニューに飽きていた。
「久しぶりにラーメンでも行くか」
「あぁ、良いね」
学校を出てしばらく行ったところにラーメン屋がある。二十分ほど歩くのだが、割と美味いうえに量もあったので、たまに足を伸ばして通っていた。
シャツのまま外に出たが、思いの外気温が低く、一度戻って二人とも上着を羽織った。学校の前には印刷会社の社屋がある。よく知らないが、上場企業であるらしく、それなりに広い敷地を持っていた。少し前まではボロボロの建物だったのだが、昨年全面建て替えをして、今は何やら近未来的な建物になっていた。それだけ儲かっているのであればおそらく良い会社なのだろうと思っていた。
茗荷谷駅の方へと続く長い坂道を登る。少しずつ暮れかけてきた空に桜の花が綺麗だった。お花見してら、と中山が指差した先には、大学生くらいだろうか、男女五人組が道にシートを敷いて簡易的なお花見をしていた。
ラーメン屋の前には少し列ができていた。この店はいつも二、三人客が並んでいる。それ以上でも以下でもなく、だいたいいつも二、三人だった。回転率は良いので、五分くらい待てば中に入れた。中山が味玉ラーメンを注文したので、私も同じものを注文した。さらに餃子を一人前追加して二人で分けることにした。
味玉ラーメンは安定の美味さだった。ラーメンを食べる間、我々は何も話さない。それは我々だけでなく他の客も同じだった。麺をすする音の間に、テレビからバラエティ番組の音が聞こえる。最近よく見る関西系のお笑い芸人が「何でなんですかぁ」と言って床を転がり回っていた。テレビの中ではそれなりにウケていたが、店内で笑う人は誰もいなかった。でもそれは別に悪いことではない。テレビがあることで何となくこの場が暖かくなっているのも事実で、これはつまりストーブのようなものなのだと私は思う。テレビなんて、そんなものだ。
ラーメンを食べ終え、来た道を引き返す。そんなに時間は経っていなかったのだが、先程見たお花見集団はもういなくなっていた。寮に戻ると、一服しよう、と中山は私を屋上に誘った。空はすっかり暮れていて、屋上は真っ暗だった。煙草に火をつけるとそこだけが赤く光って、邪悪な蛍のようだった。
なんか音がするな、と中山が言った。耳を澄ますと、確かに何やらパンパンと音がする。花火の音だった。男達の笑い声が聞こえた。そして、誰かの叫び声も。校舎の陰から男子生徒が一人飛び出して来た。その身体に後ろからロケット花火が容赦なく撃ち込まれ、低い叫び声を上げて男子生徒はコンクリートの上に転倒した。勇だった。
笑い声と共に何人かの男子生徒が校舎の陰から出てきた。大方予想はしていたが、やはり野球部の連中だった。笑いながら勇にまた花火を打ち込んだのはキャプテンの高梨だった。
同級生の結城勇はもう一年以上前から高梨を中心とする野球部の連中から虐めを受けていた。勇とは中等部の一、二年時にクラスが同じで、仲が良かった。しかしその後、三年でクラスが離れてしまってからは何となく疎遠になっていた。
立ち上がって逃げようとした勇の襟首を高梨が捕まえ、羽交締めにした。それでまた笑い声が上がった。高梨さん、マジで落ちちゃいますよ、という声が聞こえた。おそらく同級生だけでなく下級生もいるのだろう。暗くて全員の顔は見えなかった。百八十センチ以上はあると思われる高梨と百六十センチも無いであろう勇には、どうしようもない体格差があった。勇は苦しそうに高梨の腕の中で虫のようにもがいていた。
「あいつ等、まだSSEやってないらしいよ」
中山が煙を吐いて言った。
「そうなのか?」
「うん。監督の意向で。スポーツをやるためには感情の爆発も必要だって考え方らしい。ちょっと古い考えだと思うがね。だから三年は夏の大会が終わってから一斉に受けることになっているらしい」
「SSEを受けたらあんなことはしなくなるものなのかな?」
「うん。多分、そうじゃないかな。けっきょく、人間はエネルギーに満ち溢れているんだよ。正しい方向に出力できないエネルギーなんて無駄以外の何ものでもない。あれこそまさにその典型だ」
「何が楽しくてあんなことをするのだろうか」
「さぁな。俺もまだ二回目のSSEを受けていない身だけど、あんなことをしたいとは思わないな」
「うん」
「まぁ、強い自我を保つにはどうしても他者が要るということなのだろうよ」
「迷惑な話だ」
高梨が勇を路上に放り投げると、今度は別の男が勇に花火を打ち込んだ。マジでやばいですって、と後輩らしき声が笑う。やばいなんて一欠片も思っていない、実に緊張感の無い声だった。線香花火やる奴! と誰かが声を張った。何となく聞き覚えのある声だったので、おそらく同級生の誰かなのだと思う。やります、やりますと何人かが名乗りを挙げた。線香花火をどう使うのかは分からないが、想像するにも足らない愚行だということくらいは予想がついた。
屋上に落ちていた石を拾って振りかぶると、止めとておけ、と中山が止めた。
「そんなことをして何になる」
中山の言う通りだった。私は石を屋上の隅の暗闇へ投げた。
止めて、痛い、と勇の悲痛な声が聞こえた。気分が悪かった。それを聞いて笑っている奴等の気が知れなかった。「強い自我を保つには他者が要る」そんな傲慢は無いと思った。それが本当ならば、やはり行き過ぎた感情には抑制が必要だと思った。
行こう、と中山に促され、私は地面で煙草を消した。勇の声は聞こえなくなったが、野球部の連中の笑い声はまだ聞こえた。屋上のドアを閉めて寮の中に入ると、その全てが聞こえなくなった。
日曜日、図書館で勉強をした後、食堂で遅めの昼食を食べてから寮の部屋に戻った。もう十五時を回っていたが、中山はまだ帰っていなかった。今日のハンドボール部の練習は午前だけだと言っていたので、当然もう帰っているものだと思っていた。
少し眠ろうかと思い、ベッド(私のベッドは二段ベッドの上だった)に転がったのだが、上手く眠りにつけずに燻った。十五分くらいで諦めて下に降り、仕方がないのでゲームでもしようかと思っていたら中山が帰ってきた。
「遅かったんだな」
「うん。まぁ、ちょっとな」
中山はそう言って頭をかいた。全身部活のジャージ姿だった。さすがに三年目にもなると傷が目立ち、年季が入って見えた。
「ゲームをしようとしていたのか?」
「あぁ、うん。少し寝ようと思っていたのだけど寝つけなくて。特にやることがなかったからゲームでもしようかと思っただけだよ」
「そうか」
中山はそう言って自分のベッドに腰掛けた。何となく余所余所しい空気を感じた。
「何かあったのか?」
「いや、うん」
「どうした? はっきり言えよ」
「うん。悪いんだけど、セックスをしたいから今から少しの間外してもらえないか? 一時間半、いや一時間でいい」
「何だ、そんなことか」
中山がやたらと真剣な顔だったので、私はつい笑ってしまった。まぁ、向こうとしては私に対して申し訳ない気持ちになるのも分かるのだが。
「恋人でもできたのか?」
「いや、そういうわけではないよ」
「そうか」
何となく相手の名前を聞くのは憚られた。
「別に一時間半でも二時間でも構わない。ゆっくりしてくれよ」
「悪い。ありがとう。必ず埋め合わせはするよ」
「大丈夫。気にするな」
どこか近くで女の子が待っているのだろうと思い、私は足早に部屋を出た。部屋を空けることに対して特別思うところはなかった。こういうことは初めてではなかったし、立場が逆な時だってあった。
私はそのまま寮を出た。雨が降り出しそうな空だったが、予報では夜まで降ることはないと言っていた。余裕を見て二時間半は部屋を空けようと思った。特に行くあても無かったので、私はもう一度図書室へ戻ることにした。
下足場の横を通り過ぎると、犬を散歩させている生徒二人が前から歩いて来た。二人はそれぞれ五匹の犬を連れていた。おそらく二人とも飼育部の生徒なのだろう。すれ違い様、犬達は皆私のことを見た。ダックスフンドにラブラドールレトリバー、プードルに芝犬、実に様々な種類の犬がいたのだが、皆同じような目をしていた。
歩みを進めると、校舎の端あたりにアスファルトが濡れているところがあった。最初は先程の犬達が放尿したのだろうと思ったのだが、違った。校舎の二階に掛かった雨樋からあの黒い液体がぼたぼたと溢れ出していた。それが地面に落ちてアスファルトを濡らしていたのだ。辺りを見回すと、排水溝やホースの先など、やはり数カ所から同じようにあの液体が流れ出ていた。
私は目を瞑って頭を振った。しかし再び目を開けても黒い液体は変わらずそこにあり、それぞれの場所で流れ出す勢いを強めていた。回数を重ねる毎に流れ出す液体の量が増えているような気がする。それは私にとって恐ろしいことだった。明確な原因が分からないのも不気味だった。私はこの幻覚(おそらく幻覚なのだろう)のことを誰にも話せずにいた。中山にも話していないし、先生にも話していなかった。本当は話すべきなのだと思う。これはおそらくSSEの一回目手術の副作用だと私は推察していた。発生し出した時期から考えるとそれ以外に心当たりがなかった。しかし、調べてみてもSSE手術の副作用の例にそのような症状は無かった。
どうせ幻覚はすぐに消えるだろうと思いつつも、不安は胸の中に確かにあった。私は目を背けて歩みを進めた。
校舎前にある花壇のスプリンクラーからも黒い液体が出ていた。それはどう考えてもスプリンクラーのキャパシティを超えた放出量で、狂ったように黒い液体を撒き散らしていた。瑠璃色のニモフィラが無慈悲な黒でどんどん汚れていった。残酷な風景だった。私は言いようの無い恐怖を感じ、無我夢中でその場から走り去った。図書室は中央校舎の三階にあるのだが、エレベーターも使わずに一気に階段を駆け上がった。何も見たくなかった。立ち止まることも怖かった。勢いよく図書室のドアを開けると、そこで春と鉢合わせた。
春は私を見て驚いた顔をした。突然出入り口で鉢合わせたのだから相手が誰だろうと驚くのは当たり前なのかもしれないが、それが私だったことで彼女はなお驚いたように見えた。私はすまない、と謝った。頭はまだ混乱していた。
すごい汗、と春が言った。
言われて自分が汗をかいていることに気付いた。
「階段を走ってきたんだ」
「一階から? エレベーターを使えばいいのに」
「それは確かにそうだ」
私がそう言うと、春は微かに微笑んだ。随分久しぶりに見る春の笑顔だった。
春の小さな肩の向こうに図書室内に設置されたウォーターサーバーが見えた。もう黒い液体は流れ出ていなかった。幻覚は消えたようだった。それで私も少し冷静さを取り戻せた。
「次はエレベーターを使うよ」
「勉強しにきたの?」
「いや、そういうわけではないけど。暇つぶし」
「そう」
三人組の女子生徒が私達の横をすり抜けて行った。私達は身体をずらして入り口を開けた。図書室を出た瞬間から、彼女達は大きな声で話し始めた。
じゃ、ちょっと話しましょうよ、と春は私を図書室の外に誘った。意外な誘いだったが、断る理由はなかった。私としても、久しぶりに春と話せて嬉しかった。
春の背中を追って廊下を歩いた。彼女は中央校舎の階段をゆっくりと降り、二階の連絡通路を使って三番校舎の方へ渡った。二人とも黙ったままだった。考えてみれば、ちゃんと顔を合わせるのは別れて以来初めてだった。春はそのまま何も言わずに階段を降り、一階の食堂に入った。
食堂には大きな窓があり、夕暮れ時にはまだ早い午後のやわらかい光がカーテンを乳白色に染めていた。誰もいなかった。日曜日は校舎の食堂はやっていないので、カウンターにはシャッターが閉まっていた。自動販売機だけが仄かに光り、息をしていた。コーヒーでも飲むか? と聞いたが、お水でいいと春は断り、二人分の水をウォーターサーバーで入れてきた。私はそれを受け取って礼を言った。
窓際の四人掛けのテーブルに向かい合って座る。交際していた頃はよくここでこうして話をした。それはとても昔のことのように思えたのだが、実際はまだ半年ちょっと前のことなのだ。そういえば、別れたい、と告げられたのもこの食堂だった。もしかすると、今座っている席だったかもしれない。九月だった。春が二回目のSSE手術を受けた一月後のことだった。受験勉強に集中したいから別れてほしいと言われた。
「元気にしてたの?」春は少しだけ水を飲んで聞いた。
「うん。普通だよ。何も変わらない」
「そっか」
「春は?」
「うん。私も普通だよ。勉強頑張ってるよ」
「そうか」
春は交際中、受験勉強のために二年の秋までにはSSE手術を二回終えたいと常々言っていた。そしてそれを叶えた。
「純君、あれから恋人は? 誰かいい人はいるの?」
「いないよ。恋愛に関しては、本当に何も無い」
「そっか」
「春は?」
「もちろんいないわよ。頑張らないといけない時期だからね」
そうか、と呟いて私も水を飲んだ。久しぶりだからか、会話のリズムに微妙な違和感を感じた。何がおかしいと問われても上手くは答えられないし、会話がちゃんとできていないわけでもないのだが、どこか違和感を感じた。私の考え過ぎなのかもしれないが、春が二回目のSSE手術を受けて以降、そのような違和感を感じたことが何度かあったことを思い出した。
「またこうして話せて嬉しい」
春は無表情のまま言った。だから私も無表情のまま頷いた。
「話すのが嫌とかじゃなかったのよ」
「分かってるよ」
「タイミングの問題」
「分かってる。私だって別に話したくなくて話さなかったわけじゃない」
「それなら良かったけど」
何となくそこで会話が止まった。沈黙が訪れたが、それは決して居心地の悪いものではなかった。窓の向こうで広葉樹が音も立てずに風に揺られている。その緑は生命力に満ち溢れていた。言いようのない力強さを感じた。少し経ったあと、久しぶりに話してこんなこと言うのはどうかと思うんだけど、と春がそっと話し始めた。私は窓の外に移していた視線を春に戻した。
「ちょっとお願いしたいことがあるの」
「お願い?」私は少し驚いた。
「実はまた小野浦先輩から連絡が来てるの」
小野浦、と私は反復していた。それは久しぶりに耳にした名だった。懐かしさすら感じた。
小野浦という男は春が所属する旅行部の先輩だった。二つ上なので、もう卒業しているのだが、在学中、春に強い好意を抱いており、かなりしつこく付き纏っていた。しかしそれももう二年も前のことだ。春はその後私と交際をしたし、小野浦も小野浦で旅行部の同級生と交際に至ったと聞いていた。彼が卒業してからのことはよく知らないが、今更また春に連絡をしてくるというのは少し気持ちの悪い印象を受けた。
「あの人は旅行部の先輩と付き合ったのではないのか?」
「小島先輩のことかな? 卒業して半年くらいで別れたみたい」
「それでまた春に戻ってきたのか?」
「分からないけど。でもしつこく連絡が来る」
私はそうか、と言って溜息を吐いた。別れている私がどうこう言える立場ではないのだが、あまり気持ちの良い話ではなかった。
「純君、申し訳ないんだけど話をつけてもらえないかな? 私、やっぱり小野浦先輩に対して特別な感情を持つことはできない」
「そんなの、旅行部の誰かに頼んだらいいじゃないか。多分その方が丸く収まる」
「だめよ。それだと角が立ってしまう。旅行部の人には頼めないわ。OBとの付き合いも深い部活だから、自分のことで関係をぎくしゃくさせたくない」
でも、と私は歯切れが悪く、正直言って気が進まなかった。二年前も春を巡って小野浦とは少し揉めた。その時の記憶もあるし、今は私自身も中途半端な立ち位置にいるのだ。話をするにしてもすんなり事が進むとは思えなかった。ただ、春の言う通り、旅行部内の繋がりがあることも理解していた。確かに旅行部は縦の繋がりが強く、卒業後のOBクラブもあるくらいだった。そんな状況の中で春がこのようなことを頼めるのは私くらいだということも分かった。
「一度話をしてもらえればそれでいいの。こんなことを頼める立場ではないことも分かっているし、極力迷惑はかけたくないのだけど」
「上手くいく保証はないよ」
私は何故か話を受ける方向の話し方をしていた。そうなるともう後には引けなかった。
「分かってる。それでも助かるわ。こんなこと誰にもお願いできなくて」
「分かった」
私はそう言って大きく息を吐いた。正直、厄介なことを引き受けてしまったとは思った。しかしこうしてまた春と話せて、そして頼ってもらえるということは嬉しいことでもあった。
その後、少しお互いの近況を話した。一時間ほど話した後、春は時計を見て、十七時から特別講習(学校が二、三年対象の受験対策講習を組んでいるのだ)を受講するので、一度寮に戻って準備をすると言った。私はまだ寮の部屋に戻るには早かったので、食堂で別れることにした。
連絡待ってるね、と春は私に申し訳なさそうに言った。私は何も言わずに頷いた。春が去った後、私はもう一杯ウォーターサーバーの水を飲んだ。紙コップがふやけていて口当たりが悪かった。空になったそれをゴミ箱に捨て、私は今度こそ図書室へ向かった。
講壇に立っているのは安平という生徒だった。中等部の頃から存在は知っていたものの面識は無く、何かで同じになるのも今回の研究会が初めてだった。
この地球上において、自殺をする生き物は人間だけである、と安平はゆっくりと話し始めた。安平は細身でひょろっとした体格だが、鋭い目をしていてどこか高圧的な男だった。席に着く私達を睨んで言葉を進めた。
「それは何故か? 『悩み』が原因だと私は考える。自殺をする人は、考え悩むから自殺をする。これはほぼ間違いのない事実だと思う。しかし動物には悩みが無い。だから動物は皆自殺なんてしないのだ。さらに話を先進めようと思う。何故動物には悩みが無いのか? それは、彼等は生きることに精一杯だからだと私は考える。『生きる』こと以上を望まないからだと考える。『生きる』ということは本能的な行動である。『悩み』はそれに加えたプラスアルファ的な要素で現れるものだと私は考える。人間は『生きる』という安定したベースの上で暮らしている。よほど特殊な境遇でない限り、人間は急に道端で野生動物に遭遇して殺されたりなどしない。ほとんどの人間は、次の朝の到来を疑わなくてもいい環境にあるのである。その上で人間は悩む。悩むのは、誰しも生を幸せに、面白おかしく、上手に全うしたいからだ。しかし悩みに悩み、その結果一番大事だったはずの生すらも蔑ろにしてしまう場合がある。それが自殺である。これは間違いなく矛盾した行動だと言える。理論で説明がつかない事象は基本的には悪だ。だから自殺という行為は悪いものだと捉えられているのだと思う」
ここで安平は言葉を切って一度大きく息を吸って吐いた。私を含めて、講義室内の生徒は誰一人言葉を発さなかった。
「さて、ここで皆に問いたい。私は今、人間と動物とを切り離した別の存在として話した。しかしこの人間、動物という括り、例えば君! 君は人間か? それとも動物か?」
安平はそう言って一番前の席に座っていた坊主頭の男を指名した。坊主頭の男は、寮で何度か見かけたことのある顔ではあったが、名前は知らなかった。一昔前の苦学生という感じの、いかにも真面目そうな男だった。彼は立ち上がって、私は人間であります、と安平の目を真っ直ぐに見て声を張った。うん、そうだ、と安平は満足気に頷いた。
「彼の言う通り、確かに彼は人間である。それは間違いない。しかし考えてみてほしい。人間も動物には違いない。動物とは、生物を二分類した時に植物に対する一群だと定義されている。人間はただのその中の一種に過ぎない。私達は皆、同じように呼吸をしている。大地に立っている。しかし、先程私が人間と動物を切り離した存在として話したように、彼が自分のことを動物ではなく人間だと言ったように、人間は動物の中において異質な存在になっているということも一つの事実である。では、人間はなぜそのように動物から飛び出した存在になってしまったのか。生きていることが何よりも大事ならば、純粋に生を尊うするだけならば、人間は動物のままでいた方が良かったのではないか。しかし、もちろん我々は動物になど戻れはしない。何故なら我々には日々の生活があり、安定的にやってくる未来がある。人間社会を生きていくには、どうしても悩み考えなければならないのだ。例え、そのせいで今日も誰かが矛盾を抱えて自らの命を絶とうとも。人間は何故、そういった複雑な仕組みを自らの手で作りあげたのか? 何故そのような進化を選んだのか? 前置きが長くなってしまったが、今日はそのことについて諸君等と話し合いたいと思う」
安平の議題投げ掛けが終った講義室は何とも言えないじっとりとした熱量に包まれていた。教室の端でパイプ椅子に座って安平の話を聞いていた石川先生が立ち上がり、ゆっくりと拍手をして壇上に上がった。
「安平君、ありがとうございました。実に雄心らしい議題ですね。動物の中における人間の定義。生を全うするための複雑さ。良いテーマです。皆さん、その起源について、理由について、必然性もしくはその逆について、自由に意見を出し合ってください」
石川先生はそう言ってまたパイプ椅子に戻って行った。基本的に研究会は生徒主導の活動なので、先生の役割はあくまで立ち会いと補助だった。
その進化には、悩みを抱えること以上のメリットがあったのではないでしょうか、と私の後方に座る女子生徒が発言した。六年この学校にいるが、まったく見覚えのない女生徒だった。この研究会に参加しているということは同級生のはずなのだが。
「となると、悩みは進化の弊害だということでしょうか?」
安平がそれに対して返す。
「何に対してもメリット、デメリットがあるのは当たり前です。メリットしかない事象など有り得ません。暮らしが便利になること、豊かになること、それは即ち快楽です。そして快楽とはやはり麻薬だと思います。それは周りを見えなくするほど輝かしい。相応のデメリットがあるのは必然です」
「そもそも悩みという概念はいつ生まれたのだろうか」また、違う誰かが挙手をして発言した。
「歴史が残ってる限りでは確実にあるな」
「記録に残っている歴史なんて、全体から見たらほんの雫に過ぎない。おそらくもっとずっと前から存在するだろう」
「その頃に過ちに気付けていたら人間はまた違った進化を辿っていたのかもしれない」
数人の生徒が続け様に発言をして議論が活発化した。すると石川先生が立ち上がり、再び壇上に上がった。
「皆さん、議論において、悩みを含んだ進化を間違いだと決めつけるべきではありません。誰も悩みを悪だと決めつけることはできない。良くも悪くも我々はこのような進化を辿った。今はそれをここにあるものとして受け入れる必要があり、これはその根本を探るためのディスカッションです」
石川先生の言葉に一人の女子生徒が挙手をした。同じクラスの高橋だった。
「議論に対する偏見は悪だと理解しつつも、それでも私は悩みは進化のデメリットだと考えます。しかしそれは決して悪い意味でではありません。物事に百パーセントのバランスはない。何かに長けていたならば、何かに弱いのは当たり前で、強さや巨大さを得たばかりに絶滅してしまった生物もいます。手に入れたメリットに対して大きすぎるデメリットを受けきれなかったからです。しかし現状、悩みは人間を絶滅させてしまうほどのデメリットではない。つまりはデメリットではありつつも、全体的に見るとバランスが良いデメリットだということが言いたいのです」
それはもはやデメリットとは言えないのではないか、と誰かが言って、講義室内にささやかな笑いが起こった。高橋は照れくさそうに顔を赤らめて席に着いた。確か彼女はバスケ部の三浦と交際していると聞いたことがある。しかし私がそれを聞いたのは去年のことで、今はどうなのかは分からない。高橋の向こうに井口が座っていることに気がついた。目が合ったので軽く手を挙げて挨拶をした。井口もそれに応えた。
「いずれにせよ、人間が現代社会を生きるためには悩むことが必要不可欠なのは事実だ」
安平が一度議論を整えるような言い方をした。それで講義室内の熱が少し下がったのを感じた。
「もしかすると、進化が悩みを作ったのではなく、悩みがこの進化を誘ったのかもしれない」
これはB組の矢谷の発言だった。その言葉に皆の注目が集まる。私も、それはそうかもしれないと思った。その可能性はある、と安平も頷いていた。
悩みが進化を作る。デメリットでも何でもなく、そもそも全ては思考、思念に誘われた結果なのかもしれない。強い気持ちは存在の在り方を変える、身体の形を変える。それは物凄いエネルギーだと思った。そこからも幾つか意見は出たが、ほぼほぼ堂々巡りの内容だった。
研究会が終わった後、飼育係の当番で井口とうさぎ小屋に行った。うさぎ小屋には雄のうさぎが一匹と雌のうさぎが三匹いた。この比率での飼育がバランスが良いのだと、前に授業で習ったことがある。女子二人は隣にある鶏小屋の清掃と餌やりに行っているので、うさぎ小屋には井口と私の二人だけだった。うさぎと鶏の係はセットになっており、だいたいの場合は二手に分かれて対応していた。
うさぎは湿気が多いと病気になりやすい。排泄物を小まめに掃除して、小屋の中をいつも清潔に乾燥させておく必要がある。井口は小さな箒とちりとりでうさぎの排泄物を黙々と集めた。私は食堂から持ってきたうさぎの餌を備え付けの餌入れに入れた。うさぎの餌は生の野菜や野草だった。お世辞にも美味しそうには見えないそれ等を、うさぎ達は皆もぐもぐと愛おしそうに食べた。
安堂はもうSSEを二回受けたのか? と井口は私を見ずに小屋の清掃をしながら尋ねた。まだだ、と私は答えた。
「年末に一回目の手術を受けたのだが、なかなか二回目の承認が降りないのだ」
「そうなのか」と井口は少し意外そうな顔をした。
「井口は? もう二回終わったのか?」
「いや、私もまだ終わっていない。三月の頭に一回目を受けた。だからもうそろそろ二回目の承認が降りてもいい頃だと思うのだかな」
「そうか」
「安堂はもう二回終わっているものだと思っていた」
「そうか。何故だ?」
「何となく、精神的に落ち着いているように見えるから」
精神的に落ち着いている、と私は反復していた。幻覚のこともあるし、自分としてはとてもそのようには思えないのだが。
「一回目の手術以降、たまに幻覚を見ることは無いか?」
私は勇気を出して聞いてみた。
「幻覚? それはどのような幻覚なのだ?」
「上手くは言えないのだが、何か自分にしか見えないものが見えたり、そういうことはないか?」
井口は少し考えた後、いや、特にそういうことは無いな、と言った。私はその回答に少なからず落胆した。
「幻覚を見ることがあるのか?」
「いや、あくまでそういう話を聞いたことがあるというだけだ」
私は嘘をついた。
「SSEの副作用でか?」
「因果関係は分からないが」
「実際、SSEにはまだまだ謎が多い。いくら安全性を謳っていも、新しい施策だから経年効果を検証し切れていないのも事実だからな」
私は頷いてゴミ袋を井口に渡した。井口はそれを受け取り、中にちりとりで集めたうさぎの排泄物を入れた。真っ黒のゴミ袋の中はブラックホールのようで、全てを無にしてくれるような錯覚を覚えた。
「今日の研究会に出ていた生徒の大半は、もう既に二回目手術を終えているらしい」
「うん。まぁ、我々ももう三年だからな」
「安堂は違和感を感じなかったか?」
「違和感?」
「彼等は悩みだの進化だのについて議論をしていたが、そもそも彼等に悩みなどあるのか? 今日の議論は、空想に対してただ言葉を繋げ合わせているだけのように思えた」
「SSEを受けていても多少の悩みくらいはあるだろう」
「もちろん、まったく無いわけではないだろうが、感情の上下が抑制された悩みとは、いったいどのようなものなのだろうか? それはもはや悩みと呼んでいいものなのか? 少なくとも二回目のSSEを受けた人間は自殺などしないと言う。だとしたらあの議論に意味などあったのだろうか」
「それは確かにそうかもしれないが、井口、お前は真面目な奴だな。たかが研究会の一テーマじゃないか」
私は笑ったが、井口は笑わなかった。
「誰かが『悩みがこの進化を誘った』と言っていたな。もしそれが本当だとしたら、激情を捨てた今、我々の進化はここで止まるということになる。我々は絶滅するまで今のままの姿で今のままのことをするのだ」
「別にそれが悪いことだとは言い切れない」
「本来、何者も進化を拒むことはできないはずなのだ。いや、拒む必要など無いと言う方が正しいのか。必要でない進化なと有り得ないのだから。必要でないのであればそもそも進化など起こらない」
「井口は、SSEを否定しているのか?」
「いや、そういう訳ではない。あくまで今日の議論に違和感を感じただけだ。SSEに対しては私も異論は無い。感情の上下を抑制した方がパフォーマンスも上がるし、トラブルも起きない。合理的で素晴らしいことだと思う」
「早く二回目を受けたいか?」
「ああ。受けたいと思う。大袈裟な言い方かもしれないが、いつか死ぬのならば、そりゃ私だって辛い思いはなるべくしたくない」
「私も同じだ」
その心理上の間違いの無さこそがSSEが圧倒的に支持される理由だった。一部ではSSEに対して激しく反対をする政党や組織もあったが、それはあくまで少数派に過ぎず、世間全体の流れを変えるには到底及ばなかった。
鶏小屋の方はもう終わってるかな? と言って井口はうさぎ小屋の扉を開けた。出て行く私達をうさぎ達が見ていた。さよならも無く扉が閉まる。もう夕暮れ時だった。
小雨が全て黒い液体に見えた。今までで一番酷い幻覚だった。見渡す景色に少しずつ黒が溢れる。この前見たスプリンクラーのような勢いは無いが、降り注ぐ範囲が広かった。
私は二番校舎を飛び出し、三番校舎の食堂へ向かって外を走った。白いカッターシャツに黒い液体が降り注ぐ。点々と身体が汚れていくのを感じながらも私は走った。大した距離ではないのだが、全力で走るとやはり息が切れた。食堂に入るとさらに雨が強くなった。雨に打たれた窓がバチバチと暴力的に鳴った。カッターシャツは汚らしく黒で汚れており、それはまだ幻覚が消えていないことを示していた。窓の外を見るのが怖かった。食堂には数人の生徒がいて、それぞれがグループになって談笑していた。自動販売機の前に勇がいた。彼は紙パックのジュースを五つも抱えていた。彼も私に気付き、はっとした顔をした。
悪いのだが、小銭を貸してくれないか? と勇は私に言った。目の焦点が合っておらず、どこか落ち着きがない様子だった。中等部の頃の勇とは別人のようだった。
「何故小銭が必要なのだ?」
「ジュースを買いたい」
「ジュースなら今君が手に持っているじゃないか」
自分でも何故そのような意地の悪いことが言えたのか分からなかった。勇の向こうに窓が見えた。雨は相変わらず激しく降り続いていたが、それは黒い液体ではなく普通の雨に戻っていた。いつの間にかカッターシャツの汚れも消えていた。
「足りないんだ。まだ少し」
勇は私の足元に弱々しく視線を移して言った。無性に腹が立った。何のためにやっているのだ? と私は強い言葉を使った。
「あいつ等も、お前も、何のためにこんなことをやっているのかが分からない。お前がそんな顔をして運んできたジュースなど美味いわけがない。不味いジュースなんて飲む意味が無い。飲む理由が無い。では何故、何のためにお前はジュースを買ってあいつ等の元へ運ぶのだ? 話が破綻している。全員が気狂いなのだとしか思えない。理解ができない」
並んで立つと勇は私よりも十五センチほど身長が低かった。中等部の頃より身長差が広がっていた。言葉もそうだが、どこか高圧的になっている自分を感じた。勇は相変わらず私の足元あたりに視線を落として目を泳がせていた。何も言い返して来なかった。しかし私の言葉が聞こえていないわけはなかった。中等部の頃は些細なことで口論になったこともあった。友達だった。もう私達は昔のように対等な関係ではないということを感じた。
けっきょく勇は何も言わないまま立ち去って行った。雨は相変わらず激しく降り続けていた。私は傘を持っていなかった。この雨の中を寮まで戻るのは難しそうなので、ここで雨が落ち着くのを待つしかなかった。そういえば勇も傘を持っていなかったなと思った。
何故私は勇にあんなことを言ってしまったのだろうと後悔をした。悪いのは勇ではなく野球部の連中なのに、勇を責めるような言い方をしてしまった。砂を噛むような後味の悪さが身体に残った。二回目の手術を受けたら感情の抑制ができるようになり、このようなことも無くなるのだろうか。
私はこの前春といた窓際の席に座り、世界中を洗い流してしまうかのような激しい雨を一人で見つめた。この雨もいずれは止む。そう思って見つめていた。
約束をした時間より十五分も前に店に入ったのだが、小野浦は既に来ていた。池袋の喫茶店だった。人目につくのを避けて少し駅から離れた場所を指定した。店内はがらがらだった。小野浦は私の顔を覚えていた。目が合うとすぐに手を挙げて合図をした。
「久しぶりだ」
小野浦はそう言って銀縁の眼鏡を少し上げた。卒業して以来初めて姿を見るが、卒業前と何一つ変わりがなかった。相変わらず頬がこけるほど痩せていて、どこか不健康そうな印象を与える男だった。私はお久しぶりです、と言って向かいの席に座った。
「こうやって君と話すのは二年ぶりくらいだろうか。相変わらず弓崎と交際しているのか?」
「いえ、春とは昨年の秋に別れました」
「そうなのか?」
小野浦は少し意外そうな顔をした。それはまぁ、そうだろうと思った。では何故自分はこの男に呼ばれたのだと、私ならそう思うだろう。しかし小野浦はそれ以上のことは何も聞かなかった。丁寧に包みを剥がしてストローを取り出し、アイスコーヒーに深く突き刺した。
「春に付き纏うのをやめていただきたい」
最初にはっきりと言わないとどんどん話しにくくなる気がして言った。小野浦は少し頷いて私を見た。
「弓崎から私にそう話すよう頼まれたのか?」
私は少し迷ったが頷いた。
「そうだろうと思った。でなければ君はわざわざこんなことをするような男じゃない」
この男がどれほど私という人間を知っているのか? というところには引っかかったが、そこには何も触れなかった。
「春にまだ未練があるのですか? これは私が言えることではないのかもしれないですが、春にその気は無いと思います」
「もちろん恋愛感情がまったく無いとは言えない。しかしただそれだけではないよ」
「何が目的なのですか?」
「私は弓崎からSSEチップを外したい」
「SSEを?」
驚いて、つい大きな声が出てしまった。しかし小野浦は怯むことなく真っ直ぐな目で私を見ていた。
「何故そんなことを考えるのですか? どうかしている」
「君は動物の目をちゃんと見たことがあるか?」
唐突な問いかけに戸惑ったが、頭の中ではこの前学校ですれ違った犬達の瞳が浮かんだ。皆同じような目で私のことを見ていたあの犬達。
「SSEを受けた人間の目はあれに似ている」
「何も、感情が無くなるわけではない。抑えるだけだ」
「違う。抑圧こそがすでに危険なのだ。感情を抑圧された人間は皆同じだ。クローンと変わらない。SSEとはそういうものなのだ」
「私はそうは思いません」
「君はもうSSEを受けたのか?」
「一回目だけですが」
「二回目の予定は決まっているのか?」
「まだ決まっていません」
「受けない方がいい」
「意味が分からない。こんなに普及しているじゃないですか」
「私は恐ろしい幻覚を見た」
その言葉に私は戦慄を覚えた。あれは悪魔だ、と小野浦は続けた。何を言っているのですか? と私は声を絞り出した。普通に話せているのか、自分でも分からなかった。その自信がなかった。
「私も過去に一回目だけSSE手術を受けた。高校を卒業してすぐの春だった。現役では大学が決まらず、私は浪人生となっていた。やはり難関国立大の医学部ともなると狭き門だった。正直、一年の浪人は覚悟していたからショックはあまり無かったが、さすがに次は無いと思った。現役の時はあえてSSEを受けなかった。周りから勧められはしたが、自分としては抵抗があった。しかし浪人したとなるとそうも言っておられず、私は仕方なくSSE手術を受けることにした。その頃、恋人と別れたというのも一つのきっかけだったかもしれない。親が大学病院の上役だったこともあり、一回目手術の予約はすんなりと取れた。しかしその後なかなか二回目の承認が降りなかった。不思議に思っていた。私の知っている限りでは、皆だいたいすぐに二回目の承認が降り、手術を終えていた。承認が降りないという話は聞いたことがなかった」
小野浦はそこで一度話を区切り、テーブルのアイスコーヒーを飲んだ。私は彼の言葉の続きを待った。
「あれは夏頃だった。朝起きたら自分の部屋の壁の一面が真っ黒になっていた。最初は寝ぼけているのだと思った。しかしそれは実にはっきりとした黒で、触れてみると確かにそこにあった。私は一度部屋を出て顔を洗い、再び部屋に戻るとそれは無くなっていた。だからその日は自分の思い違いだったと思った。しかしその現象はそれからいたるところで現れた。喫茶店の机が黒くなっていたり、電車のドアが黒くなっていたり、マンションが一面黒くなっていたこともあった。明らかに普通ではなかった。それが私にしか見えないものであることにはすぐに気付いた。医者にもかかった。しかし身体に異常は見つからなかった。タイミング的に、SSE手術が何かしらの影響を及ぼしているとしか思えなかった。それで私は厚生労働省にも問い合わせた。SSEの副作用として、対処法を知りたかったのだ。最初は市のコールセンターに問い合わせたのだが、そのレベルではまったく話にならなかった。厚生労働省なら、と思ったのだが、けっきょくは何の回答も得られなかった。と言うより、そもそも私が見る幻覚はSSEの副作用として認められなかった。八方塞がりだった。そしてその間も幻覚はどんどん酷くなっていた。見渡す限りの側面が黒になった時もあった。悩んだよ。私はその悩みをSNSで吐き出した。それである日彼等からDMが来たんだ」
彼等とは? と、私は小野浦の話に聞き入ってきた。アールの人間だ、と小野浦は言った。それは私でも名前を知っている反SSE派の集団だった。
「彼等はその幻覚のことを知っていると言った。間違いなくSSEの副作用だと言った」
「その根拠は?」
「ちゃんとした根拠を確認したわけではない。ただ、何一つ情報が無い中でその言葉は光だった。私は彼等と会って話をした。今日と同じような喫茶店だった。吉祥寺だった。彼等は三人でやってきた。三人とも二十代後半と思われる男達だった。私は彼等に自分が見る幻覚のことを話した。彼等は時折り頷きながら私の話を聞いた。そしてやはりそれはSSEの副作用だと言った」
「それでどうしたのですか?」
「彼等は私にSSEチップの除去を提案した。もちろん私だって最初は怯んだ。彼等もその気持ちは理解していて、その日はそれ以上のことは何も言わなかった。後日、彼等からDMでアールの集会の案内が来た。世間大半の人がそうであるように、私もそれまではアールに対して良いイメージを持ってはいなかった。しかしやはり幻覚が酷く、私は藁をも縋る思いでアールの集会に参加した。八王子にある総合ホールだった。五十人くらいだろうか? もう少し多かったかもしれない。とにかくそれなりの人数が集まっていた。君もアールの代表である田中龍郎氏のことは知っているだろう。あまりテレビには出ないが、SNSやネットニュースではよく名前を目にするはずだ。彼はもちろん、アールの全ての集会に参加しているわけでは無いのだが、その日はたまたま講壇に上がった。彼はそこでSSE手術の恐ろしさを熱弁した。私は、最初のうちは半信半疑で聞いていたのだが、次第に彼の言葉に聞き入っている自分に気付いた。いや、それは聞き入っていたというより、彼の言葉が作る世界の中に引きずり込まれているという感覚だった。彼の言葉には説得力があった。政府が話さないSSEの裏話など、ほとんど都市伝説に近いものだ。しかし彼が話すと違った。彼の話にはまったく隙が無かった。AとBを引き合いに出せば、それがちゃんと繋がっている理由を説明したし、その結果Cが生じる可能性が出たら、それについてもちゃんと説明をした。それは完成形で、信じる他なかった。幻覚という言葉が出た時、私は心臓が止まるかと思った。しかし彼はそんな私の心を拾うかのように丁寧に言葉を紡いだ。心配しなくてもいい、大丈夫だと言った。私は無意識のうちに涙を流していた。最後に彼は、どんな人間にも必ず救済はあり、そしてそれはSSEでは無いと言った。割れんばかりの拍手が会場を包んだ。講演の後、この前会った三人が私のところへ来て、アールへの入会を勧めた。私はその日に入会を決めた。SSEチップを外したのはその二ヶ月後だった」
小野浦はそこで言葉を切りアイスコーヒーの残りを飲み干した。ストローが空を吸う音がして、私は固唾を飲んだ。それで、幻覚は消えたのですか? と掠れた声で聞いた。時間は掛かったがだいたい消えた、と小野浦は言った。
「SSEは恐ろしい手術だ。アールで様々な話を聞いて良く分かった。君も手術を中止して早くチップを外した方がいい。そして、弓崎だ。私は彼女にも人間に戻ってほしい」
未だに春に対して特別な感情を抱いていることは間違いないようだった。
「人間に戻る? 違う。感情を抑制することで人は幸せに生きられるのだ。これはいわばアップデートだ。それの何が恐ろしいのか。SSEを受けようが受けまいが、弓崎は弓崎だ。私は私だ」
「悩み無き人間など人間ではない」
「違う。それでも生きている」
「動物の目を思い出せ」
犬達がまた、私を見ていた。吐き気がした。とにかくもう春には近づくな、と言って私は席を立った。少し足元がふらつき、横のテーブルに手をついた。それで小野浦も私の異変に気付いたようだった。
「おい、君。顔が真っ青だぞ」
何でもない、と言って私はそのまま店を出た。おい、と言う小野浦の声が背中に聞こえたが無視をした。走ることができなかった。私はふらふらと人通りの少ない道を歩き、一つ目の路地を曲がったところで嘔吐した。私が吐き出した吐瀉物は黒い液体だった。背筋が凍るのを感じた。
「まさか、君も幻覚が見えるのか?」
振り返るとそこに小野浦がいた。私を追ってきていたようだった。私は震えながらも首を横に振った。小野浦は確信めいた声で、ちゃんと話してほしい、と言って私に近づいてきた。
「来るな!」
「大丈夫だ。安心しろ」
小野浦は猛った動物を宥めるように掌をこちらに向け、少しずつ歩みよって来た。私はもう一度路上に嘔吐した。それはやはり黒かった。来るな! ともう一度叫んだが、声が掠れていて小野浦まで届いたかは分からなかった。嘔吐したからか、喉が焼けるように痛かった。横目で見た排水溝から、黒い液体が溢れ出しているのが見えた。完全に幻覚が始まっている。
大丈夫だ、全部吐いたらいい、と言って小野浦は私の背中に手を置いた。いつの間にか小野浦は私の側まで来ていた。私はその手を乱暴に振り払った。先程までは身体に上手く力が入らなかったのだが、今は自分のものに戻っていた。落ち着け、と小野浦はなおも私を宥めた。それが無性に癇に障った。私を動物のように扱うな! と叫んで、私は小野浦の顔を思いっきり殴った。
あっ、と低い呻き声を上げ、小野浦の身体が路上に転がった。路上には黒い液体が溢れていて、ばしゃっと水音を立てた。小野浦と私は背丈は同じくらいだったが、体重の差はかなりありそうだった。殴り合いになったとしても勝てるだろうと思ったが、小野浦に反撃の意思は無かった。小野浦の服は黒い液体で汚れていた。私の服も同様だった。私は小野浦のシャツの襟元を掴んで無理矢理身体を起こし、もう一度殴った。誰かを殴るなんて初めてのことだった。何度も何度もうずくまる小野浦を起こして殴った。自分の中にそんな激情があるとは思わなかった。私は、私こそが人間だと思った。
あたりは飛び散った液体で壁まで真っ黒になっていた。小野浦は路地の真ん中に倒れていて、少しも動かなかった。私の手も真っ黒だった。急に先程までの高揚感が凪いで、私の心を恐怖が支配した。とんでもないことをしてしまったと思った。
私は路地を抜けて走った。とにかくここから逃げなければならないと思った。人通りの多い通りまで出て、ここが池袋であることを不意に思い出す。街にいる人間全員が私のことを見ているような気持ちになった。信じられないくらいに汗をかいていた。
気付いた時、私は知らない街角に立っていた。もう幻覚は無かった。
それから数日は落ち着かなかった。小野浦からは何の連絡も無かった。学校から何かを言われることも無かった。私は小野浦を殺してしまったのかもしれない、と思った。しかしニュースを気にしていたが、そのような報道は無かった。
いくら路地裏とは言えども、池袋の路上で人間の死体が何日も発見されないとは考え辛い。となると、小野浦はちゃんと生きていて、その上で私に連絡して来ないのだと考える方が自然だった。
午前中、暇だったので中山と体育館に行った(私達はその頃にはもうあのゲームにも飽きていた)。
1on1でもしようか、と言って中山は倉庫からバスケットボールを出してきた。お互い、バスケットは授業でやったことがある程度の素人なのだが、それでもだんだんと本気になり、いつしか目の前の友人はライバルとなっていた。5点マッチ3セットで、1セット目は私が取った。2セット目もカウント4ー0まで私がリードしていたのだが、そこから中山がスリーポイントを決めて、そのままの勢いで逆転された。3セット目は完全に私のスタミナ切れだった。動きに切れが無いまま、あっさりと負けてしまった。
「運動不足だな」と言って中山はボールをつきながら笑った。
「運動部の奴と一緒にされたら困る」
私はぺたんと床に座り込んで、肩で息をして言った。制服のシャツが汗でぐしょぐしょだった。1on1などするのだったらTシャツでくれば良かったと思った。
「辞めなければ良かったのに。ハンド部」
「今更かよ」私は笑った。
「安堂は自分で思ってるよりもずっと良い選手だったよ」
「まぁ、情熱の問題かな」
情熱! と笑いながら中山はフリースローラインからシュートを打ったが、それはリングに弾かれて入らなかった。
「最後の大会はどうだった?」
「うん、楽しかったよ。全部出し切ったという感じかな」
先週末、我々の代のハンドボール部は最後の試合を終え、引退した。都大会ベスト4だった。それはだいたい例年と同じくらいの成績だった。いつも全国大会まであと少しというところで負けてしまう。
「大学に行ってもハンドボールを続ける気なのか?」
「あまり考えていないが、多分続けないかな」
「そうなのか? ここまで続けたのに勿体ない」
「楽しかったけど、そこまでの執着はないね」
中山らしい回答だと思った。その時、体育館の入り口に春がいることに気づいた。突然のことだったので驚いた。ほぼ同時に中山も春に気づいた。中山は、へぇ、と言ってにやりとした目で私を見た。
「知らなかった」
「いや、違う。そんなんじゃない」
私は否定をしたが、春ははっきりとした目で私を見ていた。説得力に欠けた。いつからなんだ? と中山は私にバスケットボールを投げた。いや、本当にそういうのじゃない、と私は再度否定をした。
「まぁ、何でもいいさ。とりあえず二時間は部屋に戻らないようにするよ。この前のお返しだ」
と言って中山は私の肩を叩いて体育館を出て行った。春はすれ違う中山に軽く頭を下げて私の方に来た。
「ごめん。邪魔しちゃった?」
「いや、構わない。どうせただの暇つぶしだよ」
体育館を出て二人で馬術場まで歩いた。
ちょうど馬術部が練習をしていて、何頭かの馬が生徒を背中に乗せて颯爽とトラックを駆けていた。近くで見ると馬は思っていた以上に大きく、迫力があった。馬に乗った女子生徒が、私達の前を通り過ぎる時にこちらを見て手を振った。ヘルメットをしていたので一瞬誰だか分からなかったが、よく見ると同級生の的場だった。私は直接の面識は無いが、春と仲が良かったのは覚えていた。春も彼女に手を振り返した。
「小野浦先輩、何て言ってた?」
春には小野浦と会う約束をしたところまでは伝えていた。しかし会った後は何も話しておらず、春としてもどうなったのか気になっていたのだろう。私は、春に付き纏わないでほしいと伝えた、と言った。まさか殴っただなんて言えるはずがない。
「ありがとう。それで、小野浦先輩は何て?」
「うん。まぁ、分かったとは言っていた」
本当は私の言葉に対する小野浦の返事を覚えていなかった。それで春に対して少し悪い気持ちにもなったが、あんなことがあったのだからさすがの小野浦ももう春には近づかないのではないかとも思った。
しかし、小野浦がアールに入っているということには少なからず驚いた。アールという集団は反SSE派の中でもかなり過激な集団として知られていた。春にそのことを話しても良かったのだが、何となく言わなかった。
いつの間にかトラックの上に黒い液体の水たまりがいくつもできていた。的場の乗る馬がそれを踏みつけて走り、水飛沫がその力強い脚を黒く汚した。小野浦と会った日以来も私は度々あの幻覚を見ていた。小野浦を殴った時路上で見た幻覚ほど酷いものは無かったが、確実に頻度は増えていた。
「SSE手術を受けて以降、何か違和感を感じたことはないか?」
「どうしてそんなことを聞くの?」
春は不思議そうな表情を浮かべて言った。それで私は、何となく聞いただけだ、と適当に言葉を濁してしまった。
「すごく楽に生きられているわ。受験勉強も捗ってるし」
「春、志望学部は?」
「電子工学よ。純君は?」
「私は法学かな」
「そう。SSE手術は受けたの?」
「一回目は受けた。でも二回目の承認がなかなか降りないんだ」
「そんなことがあるんだ」と春は驚いていた。
確かに私も私と小野浦以外でそのようなケースは聞いたことがなかった。皆二回の手術を問題無く終え、その後も問題無く過ごしている。
私達は乗馬場の周りをぐるりと一周歩いた。真夏のような熱量の日差しが差していたが、時折爽やかな風が吹いた。馬が横を走り抜けると軽く地面が揺れた。馬は、人間よりもはるかに強い生き物だと思った。幻覚はいつの間にか消えていた。
「あと半年ちょっとでこの学校ともお別れだね」
そうだな、と私は言った。分かっていることではあるのだが、実感はまったく無かった。
「寂しい?」
「少しね」と春の横顔は笑んでいた。その笑みの意味は私には分からなかった。
春、と私は彼女の名を呼んだ。
少し前を歩く春がそっと振り返る。
久しぶりにしたい、と言うと、驚くかと思ったのだが、その表情に変化はなかった。ちゃんと付けてくれるならいいよ、と彼女は立ち止まって言った。
私は春を寮の自室へ連れて行った。おそらく大丈夫だろうとは思っていたが、やはり中山はいなかった。律儀な男なのだ。言っていた通り、二時間は帰って来ないと思う。
キスをすると、春は簡単にベッドに倒れた。眼鏡を外し、ベッドボードに手を伸ばして置く。春はセックスの時にだけ眼鏡を外した。昔のままだった。
セックスをするのは別れてから初めてのことだった。いや、思えば別れる前のしばらくの期間もそれは無かった。だからかなり久しぶりのことだった。
私は眼鏡越しではない春の目を見た。「君は動物の目をちゃんと見たことがあるか?」という小野浦の言葉が脳裏に浮かんだ。「SSEを受けた人の目はあれに似ている」春の目を見ても、私にはよく分からなかった。人間だと思いたかった。春は春で確かな心を持ってここにいるのだと思いたかった。そうでなければ共にいることに意味を見出すことができなかった。大事なのは機能ではなく意味なのだと、春を抱きしめながらそう思った。春のか細い腕が私を包む。全てのことに理由が欲しいと思った。
放課後、寮の屋上で煙草を吸っていると高梨達が来た。その中に勇もいた。彼等は私がいるのと反対側のフェンスに座り込んで談笑し始めた。野球部の二、三年で、半数くらいが煙草を吸っていた。酒のような缶を持っている奴もいた。野球部は今、順当に地区大会を勝ち進んでいると聞いていた。三年にとっては最後の大会中にも関わらずよくやるなと思った。
集団の中で明らかに勇だけが浮いていた。異様な光景だった。勇の笑顔だけはどう見ても仮面で、人間の表情だとは思えなかった。勇は望んでここにいるわけではない。それは誰が見ても分かることだった。
彼等が来たからと言ってすぐにその場を立つのも何か違うと思い、私は気にしないふりをして煙草を吸い続けた。しばらくすると急に彼等の声が大きくなり、会話が盛り上がり出した。笑い声が聞こえたが、それは悪い要素を含む笑い声だった。見ると、案の定勇の顔が曇っていた。高梨が、よし行こうか、と言ったのを合図に彼等は立ち上がった。勇は同級生の野球部員の山中に引っ張りあげられるような形で起こされていた。その山中と目が合った。
山中は私に近づいてきて、お前も来るか? と聞いた。私は別に彼等に付いて行きたいとは思わなかった。極力距離を置きたいタイプの人種だと思っていた。しかし一方で、これから何が行われるのかを見てみたい気持ちはあった。好奇心と言ってしまうと無邪気過ぎる。確認をしたい、という気持ちだった。私は立ち上がって山中の後に続いた。高梨も含めて、野球部の連中とはほとんど面識はなかったが、特別ゲストが加わるぞ、と山中が囃し立てると彼等は盛り上がった。勇は私を見て、はっとしたような顔をしたが、私はそれに気づかないふりをした。
向かった先は爬虫類室だった。爬虫類室の扉の前、勇は部屋に入るのを激しく嫌がった。
勇は昔から爬虫類が大の苦手だった。飼育係の時も爬虫類の担当になったら先生に事情を説明して変えてもらっていたくらいだった。おそらく高梨達も勇の爬虫類嫌いを知っている。もしくは今日知ったのだろう。抵抗虚しく勇は爬虫類室の中に強引に連れ込まれた。
爬虫類室は通常の教室より少し広いくらいの間取りで、ドアを除く壁一面に爬虫類の入るケースが並んでいた。小さな生き物が大多数ではあったが、中には大きな蛇やトカゲもいた。勇は、やめて! と悲鳴を上げて逃げようとしたが、後輩と思われる部員二人にあっさりと取り押さえられた。彼等は顔は幼いが、勇よりもはるかに体格が良かった。二人は嫌がる勇の服を笑いながら脱がし始めた。手慣れた手つきだった。周りはにやにやしているだけで何も言わなかった。おそらくいつもこんなことをしているのだろう。勇は激しく抵抗をしたが、甲子園に行くレベルのスポーツマン達の前ではほとんど意味が無く、あっという間に裸で床に転がされた。
とりあえずこいつから行く? と言って山中が出してきたのは、十五センチほどの灰色のヤモリだった。レベル1っすね、と誰かが言うと、どっと全体の笑いになった。勇は裸のまま仰向けにされ、両手足をそれぞれ抑えられた。少し肥満気味のその腹の真ん中に山中がヤモリを置いた。勇が、嫌だぁ、と悲鳴を上げ、それは先程のレベル1と同じくらいの笑いになった。ヤモリはいきなり未開の惑星に着陸した宇宙飛行士のように不思議な表情をしていたが、やがて勇の腹の上を性器の方へゆっくりと歩き出した。勇は声にならない声を出してもがいていた。私はその光景を彼等の一番後ろから見ていた。
次、レベル2行きます、と言って山中が取り出したのはイグアナだった。先程のヤモリよりもはるかに大きかった。全長百センチはあるのではないか。ずっしりとしていて重みもありそうだった。いや、それでレベル2は飛びすぎでしょ、と皆笑った。山中はイグアナを勇の胸元に置いた。尾は勇の足の方にまで届いていた。イグアナは凛々しい顔をして勇の身体の上で微動だにしなかった。やめて、と勇が泣き始めた。それを見た野球部の連中は腹を抱えて笑った。私は、笑おうと思ってみても笑えなかった。何故皆笑えるのだろうと思った。これの何が面白いのだろうと思った。この行為にも何か意味があるのだろうかと考えた。本来、意味が無いものなど存在しないはずなのだ。意味が無いのなら存在する必要が無い。だからこれにも何か意味があるのは間違いないのだが、私にはどう考えても分からなかった。
彼等はそのあとも何匹かの爬虫類をケースから出して勇の身体の上に乗せていたが、しばらくすると飽きて来たのか、盛り上がりに翳りが見え始めた。行こうぜ、と高梨が言うと、あっさりと引き上げて行った。私は彼等には付いて行かなかった。彼等としても私に対して特別な興味は無かったようで、何も言わずに去って行った。
勇は床に突っ伏して裸のままでぐったりしていた。身体中に爬虫類の分泌液が付着していた。途中、気を失ったのかと思ったが、今は嗚咽を漏らして泣いているので意識はあるようだった。勇の身体から降りたイグアナが爬虫類室の床をゆっくりと歩いていた。私はそれを抱き上げて、元いたケースに戻した。
「とりあえず服を着ろよ」
私は捨てられた勇の制服を拾って渡した。勇は訝しげな目で私を見たが、けっきょく黙ってそれを受け取った。とりあえず浴場に行こう、私は部屋から何か着替えを持って来る、と言うと彼は少し頷いて制服を着始めた。もう泣いてはいなかった。
勇を浴場に送った後、私は自分の部屋に適当な着替えを取りに戻った。中山はいなかった。そういえば夜はハンドボール部の同期と池袋に行くと言っていた。再び浴場に戻ると、ちょうど勇が浴室から出てくるところだった。着替えを渡すと勇はそれを黙って着た。当たり前だが暗い顔をしていた。人間である以上あんな仕打ちに耐えられるわけがないのだ。壊れない心を持っている人間などこの世にはいない。今、勇を一人にするのは何となく抵抗があったので私の部屋に来い、と誘った。
入れよ、と言うと、勇は少し緊張した面持ちで部屋に上がった。勇が私の部屋に来るのはこれが初めてだった。そういえば、中等部の時に一度だけ勇の実家に遊びに行ったことがある。勇の実家は三鷹にある一戸建てだった。大きく、立派な家だった。私の実家はマンションだったので、私は少なからず一戸建ての家に憧れを抱いていた。勇の実家はまさに私の思う理想的な一戸建てだった。家には誰もいなかった。母親は? と聞くと、うちは両親とも大学教授だからこの時間はいないんだ、と勇は答えた。勇の部屋にはたくさんの漫画やゲームがあった。一人っ子だというのもあるのかもしれないが、裕福な家庭の子のようだった。勇はいくつかの漫画を私に紹介してその魅力を語った。その後二人で並んでテレビゲームをした。
ボトルのアイスコーヒーをコップに注いで勇に出した。酒もあるにはあったが、多分勇は飲まないだろうなと思った。すまないが、ミルクもシロップも無いんだ、ブラックで飲めるか? と聞くと、大丈夫だ、と初めて勇は喋った。何でこんなことになったんだ? と私は聞いた。そんなことを聞くべきではないことは分かっていたが、ずっと抑えていた疑問をいよいよ抑え切れなくなってしまった。理由なんてないよ、と勇は吐き捨てるように言った。
「ただ、僕がちょうど良かっただけだ」
勇は少し笑っていた。私はその心理が掴めず、中途半端に頷くしかなかった。
「あいつ等、全員SSEを受けてないんだ。だから感情が溢れている。厳しい野球の練習でアドレナリンが分泌され過ぎているのかもしれない。そして行き場の無い感情には捌け口が必要だ。その対象として僕はちょうど良かった。それだけだよ」
「勇はそれで良いのか?」
「純は何も分かっていない。良いも悪いも、何も無い。僕には何を選ぶ権利も無いんだ。あいつ等は強者で僕は弱者。それで全ては決まりだ。あとはあいつ等が僕をどうしたいかだけだろう」
「勇にだって拒否をする権利はある。あとは手段の問題だと思う。例えば、先生や親に状況を話して改善を図るだとか、最悪学校を辞めるという手だってある。回避する手段はいくらでもあるだろう」
「そこが分かっていないと言うんだ。確かに手段はある。でもそれはあくまで様々な前提を取っ払った時の話だ。僕はちゃんとこの学校を卒業したい。名前のある学校だ。学歴としても大きい。中退なんてしたくない。先生や親になんて話して何の解決になる? 彼等は目の届かないところで僕を虐め続けるに決まっている。それに親にそんな話をしたくない。僕にだって最低限のプライドはある。それを全部粉々に砕いてまで助かりたいとは思わない。分かるかい? そのような前提を考慮した上で取れる手段なんて何も無いんだ」
言っている意味は分かった。しかしそれではあまりにも救いが無いと思った。勇は下を向き、私の出したアイスコーヒーには手をつけようとしなかった。
「僕だって、たくさんの動物を殺した」
最初は勇の言葉の意味が分からなかった。何の話だ? と聞き返すと、僕はたくさんの動物を殺したんだ、と勇はもう一度言った。あの動物殺し事件のことが頭に過り、私は戦慄した。お前がやったのか? と聞くと、勇は黙って頷いた。
「僕は、自分よりも弱者である動物を狙った。だから殺せた。殺してもいいと思った。だって、それは僕が彼等からされていることと同じだから。殺すか殺さないかというだけの違いだから。僕がされているのに、僕がしてはいけない理由なんて無いはずだ。身体を押さえ付けると動物達は皆抵抗をした。僕と同じだった。でも抵抗したところで彼等は僕を許さない。僕だってそうだ。動物達を許さなかった。僕は彼等のその柔らかい胸にナイフを突き立てた。動物達の皮膚は簡単にナイフで裂けた。濃く赤い血がたくさん出て、いずれ彼等は動かなくなった。最期の最期まで彼等は僕とそっくりだった。生きているか死んでいるかの違いだけだった。その無様な姿を見ると少し安心ができた」
お前は間違っている、と私は言った。
勇は表情の無い顔のまま、視線だけを私に移した。そんなことをしても何の意味もない、と私は続けて言った。でも意味がないことなんて存在しないことも分かっていた。
「そうでもしなければ僕は僕の精神を保つことができなかった。純も知っての通り、僕の動物殺しはやがて学内で大事件になった。それで飼育部も躍起になって、見回りを強化した。このまま続けたらバレるのも時間の問題だと思った。だから学内での動物殺しは止めた。バレて退学させられるのは僕の本意ではないからね。でもだからと言って気持ちは収まらなかった。それからは休みの日に学外に出て、野良猫や鳩を殺した。仕方がない。だって僕は僕で行き場の無い感情を吐き出さないと生きていけないのだから。僕だって生き物だ。動物だ。人間だ。生きていたいと思うのは当たり前だろう」
「勇、君はSSE手術を受けるべきだ」
「うちの親は二人とも心理学を専攻していてSSEに否定的なんだ。受けてはいけないと厳しく言われている。僕は、親には逆らえない。ずっと昔、小さな頃からそういう関係ができてしまっているから。彼等の意思に反してSSEを受けることなんてできない」
「何故、諦める」
「さっきも話した通り、それが僕の前提であるからだ。それ以外の選択肢は無い。ただ、分かっているよ。例え相手が人間ではなくとも生き物を殺すことはいけないことだ。それくらいは分かっている。僕はそこまで気狂いではない」
「だったら……」
死なせてほしい、と勇は言った。
「でもそれもできない」
勇の言葉に私は頷いた。死は、究極の感情の昂りだ、と勇は悲しげな顔で言った。
中山は昼過ぎに二回目手術から帰ってきた。何か変化はあるか? と聞いてみたが、いや、特に何も、とつまらなさそうに言うだけだった。いつも通りの中山だった。それで私はいくらか安心した。
一晩寝て翌朝、中山は高熱を出した。二回目のSSE手術の副作用で高熱が出るということは広く知られていて、私も中山もある程度覚悟はしていた。中山は事前に購入していた解熱剤を飲んだが、熱はなかなか下がらずベッドでぐったりしていた。先程体温を測ったら三十九度を超えていた。
私は保冷剤をタオルで巻いて枕と入れ替えた。何かほしいものはあるか? と聞いてみたが、返事は無かった。
冷蔵庫の中を覗いてみる。ほとんど何も入っていなかった。こういう時はスポーツドリンクが要るのではないかと思った。我々は解熱剤以外は何の用意もしていなかった。少し考えが甘かったかもしれない。
ちょっとスポーツドリンクを買いに行ってくる、と中山に伝えたがやはり返事は無かった。三十九度を超えるくらいの熱となるとやはり相当辛いのだろう。私は一度学校を出て、少し行ったところにあるコンビニエンスストアを目指した。途中でランニングをするハンドボール部の集団とすれ違った。三年が引退して、早くも新体制での練習が始まっているようだった。中山がこの中にいたのがもう随分前のことのように思えた。実際はまだ数週間しか経っていないのだが。
コンビニエンスストアに入り、ペットボトルのスポーツドリンクとゼリー飲料を二本ずつ買った。部屋に戻ると中山は起き上がっていて、何やら自分の鞄の中をごそごそと漁っていた。
「何をしてるんだ?」
「煙草を吸いに行こうと思って」
中山は額に汗をかいていて、ふらついているように見えた。
「止めておけよ。ちゃんと寝てろ」
「ちょっとだけだよ」
「止めておけ」
もう一度言うと、中山は少し肩を落とし諦めて自分のベッドに戻って行った。スポーツドリンクを渡したら一気に半分ほど飲んだ。
「少し眠るよ」
「分かった。私は適当に外をぶらついてくる。何かあったら連絡してくれ」
ありがとう、と言って中山は横になったまま手を振った。私は再び外に出た。蝉の鳴き声がうるさく、季節はすっかり夏だった。私は学内を当て所なく歩き回り、うさぎ小屋の前で足を止めた。うさぎ達は別に私に見られていることを意識するでもなく、彼等の生活をただ続けていた。
勇が最初に手に掛けた動物はうさぎだった。後に連続したのでその狂気は拡大されたが、始まりは一匹のうさぎだった。
私は複雑な気持ちでうさぎの目を見つめた。ここで生きている以上、何も無ければほぼ確実に彼等の明日は保証されている。でも今私がその気になればその保証された生命を終わらせることもできるのだ。それは狂気に近い妄想だった。私は想像し得る限りの残酷な方法で彼等を殺した。実際に行動に移さなかっただけで、その死は確かにここにあった。馬鹿げていた。
食堂まで歩いてウォーターサーバーの水を飲んだ。何となく幻覚が来るかと思ったが、一度意識をしたからかそれは来なかった。しばらく歩いてから自室に戻ると、中山は寝息を立てて眠っていた。私は棚からウイスキーを取り出して冷蔵庫の炭酸水で割って飲んだ。身体中に血が通う感覚があり、生きている実感を持てた。
翌日、昨日のことなど無かったかのように中山の熱は下がった。副作用の熱は長く続かないことも知られたことだった。当然と言えば当然のことだったのかもしれないが、それでも安心した。
「朝飯、食いに行くか」
いつも通りの言葉で、いつも通りの中山だった。私達は制服に着替えて寮の食堂へ向かった。
今年は特別講習が多くあり、夏休みに入っても三年生のほとんどが寮に残った。特別講習は基本的には受験対策なのだが、中には体育や飼育等の受験とは関係の無い科目もあった。受験勉強中もそれ以外の大切なことを忘れるなという、雄心学園らしい考え方だった。
今日は体育の特別講習で、学校と提携しているゴルフ場まで来ていた。私を含めて十五人の生徒が講習を受講していた。午前七時にパターの練習場に集合して簡単な朝礼を行った後、三人×五組に分かれてラウンドを回る。私の組は偶然にも私と春と高梨だった。
カートに乗り込む時に高梨は初めて私の顔を見た。お前この間の、と気付いたようだったが、それ以上は何も言わなかった。春もいたので、私としても余計なことは言ってほしくなかったから良かったのだが、高梨はそもそも私の名前も知らないようだった。確かに高梨とは今まで同じクラスになったことも、何の繋がりもなく、私が一方的に知っているだけだった(高梨は高等部からのスポーツ特待生だった)。
先週、野球部は甲子園の二回戦で広島県代表の高校に負けて夏を終えた。相手も甲子園常連校で、野球ファンからの注目度も高い試合となっていた。私は試合の様子を寮の歓談室のテレビで観ていたが、球場はすごい人の入りだった。
序盤は雄心がリードをしていた。三回の裏に四番の高梨がツーベースヒットを打ち、続く五番打者(爬虫類室で見た顔だった)がタイムリーを打って一点を奪った。その後も打線が繋がり、この回で一気に4ー0までリードを広げた。試合はその後膠着状態となり、お互い出塁はするものの、なかなか得点に繋げることができなかった。試合が動いたのは八回の表、相手校のトップバッターが雄心の二番手投手(彼もまた爬虫類室で見た顔だった)からホームランを打ち、4ー1となった。まだ三点差あると思っていたが、続く打者が二人連続して出塁した後にまたホームランを打たれ、あっという間に同点に追いつかれてしまった。それで二番手投手は降板して、続く三番手投手が八回は抑えたのだが、九回表に再び追加点を許してしまい、4ー5と試合をひっくり返された。その後、九回裏にノーアウト一、二塁まで出塁をしてチャンスを作るが、そこからが続かず、そのまま4ー5のままゲームセットとなった。
試合後、高梨はキャプテンとしてたくさんのカメラの前で監督と共にインタビューを受けていた。敗因は? という質問に対して、力の差は無かったと思います、と答えた時、高梨の目から涙が溢れた。とても良い試合でした、とどこかのインタビュアーが声を張った。高梨は汚れたユニフォームの袖元で涙を拭いながら監督に促されてロッカールームの方に消えて行った。それはどう見ても青春の最高峰にいる高校球児で、卑劣な手段で勇を虐める高梨とはとても同一人物には見えなかった。
アウトコース1ホール目はパー4のロングで、オナーは高梨だった。高梨は見かけ通りの力強いスイングで、ややフェアウェイは外れたものの一打目でかなりの距離まで飛ばした。続く私も当たりは悪くなかったのだが、それでも高梨の飛距離には遠く及ばなかった。春は少し前のレディースティーから打った。力の抜けた綺麗なショットだった。春とゴルフをするのはこれが初めてだったが、意外と上手なことに驚いた。白地にピンクのラインのポロシャツも様になっていた。
三人でカートに乗り先へ進む。私が運転をして、横に高梨が座った。その時、反対のコースからボールが飛んできて、我々のカートの少し前のアスファルトで跳ねた。かすかにファーと叫ぶ声が遠くから聞こえた。
「危ねぇなぁ。すれ違う時に文句を言ってやろうか」と高梨は苛立った様子で言った。
「大丈夫よ。別にそこまで危なくはなかったんだから」後部座席から春が言った。
「いや、今のは危なかった。絶対に文句を言ってやる」
それ以上は春も私も何も言わなかった。私はこの男のことが嫌いだと思った。前から良い印象はまったく無かったが、今強くそう思った。意味の分からない暴力性など、他人から見たら迷惑でしかない。そんな人間と一緒になどいたくない。
1ホール目は高梨がパーで、私と春はダブルボギーだった。続く2ホール目も高梨はパーで、私はボギー、春はダブルボギーだった。高梨はさすがはスポーツ特待生なだけあって、ゴルフの腕前もなかなかだった。淡々とコースを進んで行く中、カート内にほとんど会話は無かった。
高梨が初めて崩れたのは6ホール目だった。オナーで打ったティーショットは大きくフックして、左側の林の中に入った。このコースは左はOBではないのでボールは生きているのだろうが、誰の目から見ても明らかなミスショットだった。高梨は感情を露わにして、ドライバーを地面に叩きつけた。春はそれを見て、かすかに溜息をついた。私も不快だった。
対する私のティーショットは良い当たりだった。高梨のボールが入って行った林の横を抜けて、真っ直ぐにフェアウェイの真ん中を転がって行った。高梨はそれを見て露わに舌打ちをした。春がナイスショット! と声を掛けてくれたが、高梨の態度がそんな感じだったのでカート内の空気は悪かった。
私と高梨は同じところでカートを降りて自分のボールの位置まで歩いた。私のボールは遠くからでも見えていたのだが、高梨は林の中でなかなかボールを見つけられないようだった。時折苛つく声が聞こえるなと思っていたら、お前も一緒に探せ! と林の中から怒鳴られた。
傾斜を登って林に入ると、少し離れたところにアイアンとウッドを持った高梨が苛立った様子でボールを探していた。林の中は少し陰になっていて、外にいるよりも涼しかった。風が吹くと地面に映る木々の影が呼吸をしているかのように揺れた。私も辺りを探してみたが高梨のボールはなかなか見つからなかった。
「次の組も来るから新しいボールで打ち直そう」
私がそう言うと、高梨は面白く無さそうに草木の茂る地面に唾を吐いた。
何をそんなに苛ついているんだ? 無意識のうちに言葉が出ていた。
「何か言ったか?」
「くだらないと思わないのか?」
「何だ、お前?」
そう言って高梨は私のポロシャツの首元を掴んだ。圧倒的な暴力の匂いがした。でも私は言葉を止めなかった。
「周りを気にせず自分の感情を撒き散らして、誰かを傷つけたり嫌な思いをさせたり、そんなことをしないと生きていられないのか? そんなことは無いはずだ。誰もがそんなことをするわけではない。力を持っていたら使いたくなるのか? 私には分からない。ただ、くだらないとは思う。お前のことをくだらないと思う。心からくだらないと思う」
高梨の固い拳が私の頬を捉えた。強烈な痛みをを感じながら、私はそのまま地面に転がった。土の匂いを間近に感じた。すぐに腹に蹴りを入れられた。お前、何調子乗ってんの? 頭上から高梨の高圧的な声が聞こえた。勇、私もお前と同じだ、と思って少し笑ってしまった。すぐさま、何笑ってるんだよ、とまた蹴りが来た。朝に食べたサンドイッチが胃から上がり、私は土の上に吐いた。それでもまだ笑えた。くだらないのはお前だろ、と高梨が言った。それも間違いではないかもしれないと思い、なおさら笑えた。いったい我々の真実はどこにあるのだろう。強者と弱者の関係性が全てだという考えもある。それ等を均一にしようという思いも分かる。我々のこれまでの進化とは、いったい何だったのだ。何故我々はこのような姿で、このような心を持って今ここにいるのだろう。
高梨は舌打ちをして、また私の腹に蹴りを入れた。しかし私はまだ笑ったままだった。
小野浦から連絡が来たのはその一週間後だった。自室のベッドでうたた寝をしていた時にメッセージが入って、通知を見た瞬間一気に目が覚めた。もう一度ちゃんと話をしたい、という短いメッセージだった。私はとりあえず、先日は大変申し訳なかったと返した。それで初めてあれ以来ずっと連絡をしていなかった自分を恥じた。
気にしていない、もう一度会えないか、と小野浦の返信は早かった。寮だと春と顔を合わせてしまう可能性もあると思い、私は小野浦が今どこに住んでいるのかを尋ねた。四ツ谷だ、と小野浦の返信はやはり早かった。それで私達は新宿で会う約束をした。
約束の日の朝、私は新宿駅の近くにある喫茶店を選んで、店舗情報のURLを小野浦に送ったのだが、新宿西口駅の北側にある柏木公園にしよう、と逆に小野浦から場所を指定をされた。何故公園なのだろうという疑問はあったが、異論は無かったので私はそれを承諾した。
新宿西口駅で降りてビジネス街の中を歩いて行くと、すぐに柏木公園に着いた。蝉の鳴き声がうるさく、夏らしい昼下がりだった。少しの距離ではあったが、私は額にしっかりと汗をかいていた。予想はしていたが、やはり小野浦は既に来ていた。今日の小野浦はラルフローレンの黒のポロシャツを着ていた。私を見つけると木陰のベンチから、すっと手を挙げた。
「わざわざ近くまで来てもらって申し訳なかったね」
「いえ、こちらこそ先日は申し訳ございませんでした。謝って許されることではないかもしれませんが、本当に申し訳ございませんでした」
私は頭を下げて再度謝ったが、小野浦は本当に気にしていないようで、そんな私を見て吹き出すように笑った。
「まぁ、痛かったは痛かったがな」
「すみません」
「もういいさ。済んだことだ」
それで私は少し安心した。本当なら暴力事件として訴えられてもおかしくないくらいのことなのだ。
「君は酒は飲めるのか?」
人並みには飲めます、と言うと、小野浦は持っていたビニール袋から缶ビールを取り出して私に勧めた。おそらく駅からここに来る途中に買ったのだろう。通りがかりにあったコンビニの袋だった。別に酒を飲むこと自体に抵抗は無かったのだが、小野浦と酒とのイメージが上手く結び付かずに違和感を感じた。
私は小野浦から酒を受け取り、礼を言った。いつも飲んでいるものとは違う銘柄だったが、真昼の夏空の下、ビールは美味かった。小野浦も自分の分のビールを開けて飲んだ。やはり違和感があり、ビールなんて飲むんですね、と言ってしまった。
「うん。最近からだけどな。今交際している女性がよく酒を飲むものだから」
「恋人ができたんですか?」
「ああ。アールで知り合った女性だ。今三十二歳で普段は主婦なのだが、会合で顔を合わせるうちに気が合ってね」
「不倫関係なのですか?」
「まぁ、そういうことになるな」
驚いたというより、ただただ意外だった。確かに小野浦は昔から少し妄信的なところはあったが、善悪の判断はできる人間だと思っていた。やはりそれも感情の揺れの問題なのか。冷静な判断ができる人間は過ちを犯したりしないのだから。
「君は、何かしらの幻覚を見ているのだね?」
私は素直に頷いた。誰かに幻覚のことを打ち明けるのはこれが初めてだった。小野浦は、すぐにSSEチップを除去した方がいい、と言った。
「私だって、感情の昂りの無い人間になりたいんです。迷いや悩みの無い人間になりたいんです」
「君の頭はSSEに適していない。自分でもそれに薄々気付いているのだろう」
「認めたくない気持ちがあるのは事実です。簡単に諦めることもできない。私は苦しむことなく生きていきたい。迷いも悩みも要らない。ただただ上手に笑って生きていきたいのです」
「違う。そんな笑いは作り物だ。人間の笑顔は迷い悩むからこそ尊いのだ。だから、私はあくまで人間でいたい。何かにコントロールされた生命など本物ではない」
「でも呼吸をしている。SSEを受けても受けていなくても、ちゃんと皆息をして生きています。人間だ。だから私は信じたい」
「何を信じたい?」
「人間の温もりをです」
春の顔が浮かんだ。私は今でも春のことが好きなのだ。感情を抑制されようとも彼女は彼女なのだと思いたかった。
私だって信じたいさ、と言って小野浦は缶ビールの残りを飲み干した。それからしばらくは二人とも何も話さなかった。暑いからか、公園では誰一人として遊んでいなかった。通りかかる人もいなかった。空を見上げると雲一つ無く、蝉の鳴き声だけが街を埋めていた。二人とも汗をかいていた。ちゃんと生きてここにいた。
夏休みが終わると一気に受験モードが加速した。特別講習の受講は当たり前で、それに加えて学校推奨の通信教育を受ける生徒も多かった。
学期が始まって早々に夏休み中に受けた模試の結果が返ってきた。私は第一志望の大学に対してB判定だった。油断はできないが、現状としては決して悪い結果ではないと思った。黒石先生から呼び出されて志望校のレベルを少し上げたらどうか? と提案された。私としてはあまり無理をしたくなかったので、考えておきます、と曖昧な返事を返した。いつしか黒石先生は二回目の手術の承認が降りなかったことをいちいち私に伝えなくなった。私としても、何も言って来ないということはそういうことなのだろうと思い、何も聞かなかった。一回目の手術を受けてからもう十カ月の時が経っていた。
図書室から寮に戻る時に廊下で高梨とすれ違った。私も高梨もお互いに気付いてはいたが何も言わなかった。高梨は相性が良かったらしく、夏休み中に二回のSSE手術を終えたらしかった。その影響か、夏休みが終わると勇への虐めはパタリと無くなった。けっきょく野球部の連中は中心にいた高梨に付いて行っていただけで、各々はそこまで気持ちも無かったのだ。虐めなんて、そんなものだ。根性無しのやることなのだ。
何も無い平穏な日々が広がっていた。勇は野球部の連中と行動を共にすることもなくなり、大抵は一人でいた。虐めが無くなって気付いたが、勇に友達などいないのだ。まるでこの数年のことなど無かったかのように穏やかな日々が流れた。爬虫類室での蛮行など私の夢ではないかと思えるほどだった。
中山も受験勉強に励んでいた。以前のように部屋でゲームをすることもなく、ほとんどの時間を図書室か自習室で過ごしていた。少し会話が減ったような気がしたが、受験前のこの時期ならばそんなものだろうかと思った。飼育係の当番で久しぶりに井口に会った。井口も夏休みの間に無事二回目の手術を受けていたようだった。今日の担当は猿だった。半年かけて担当のローテーションが一周したのだ。井口は前回の時と同じように猿の餌が入った重そうなプラスチックのカゴを一人で猿山まで運んだ。昨晩は明け方まで通信教育をしていたから眠い、と言っていた。
そのように学生生活は淡々と過ぎて行った。あと半年足らずで私達はこの学校を卒業する。寮での生活も終わりとなる。卒業後、志望する大学に問題なく進学ができたら、私は横浜で一人暮らしをしようと考えていた。私の志望する学部のキャンパスが横浜にあるのだ。横浜にはオープンキャンパスの時に一度行ったことがあるだけだが、綺麗な街だった。雄心のある文京区の雰囲気も好きなのだが、今は華やかな街に身を置いてみたいという気持ちが強かった。
そんなある日、市役所から私宛に通知物が届いた。
開けてみると、「SSE手術後の聞き取り面談について」と書かれた案内が入っていた。案内を読んでみると、一回目手術後に一定期間以上承認が降りない対象者に対して市の担当者がWEBでの聞き取り面談を行っているとのことだった。案内には指定の日時とZOOMのアドレスとおそらくそのアドレスへ飛ぶのであろうQRコードが印字してあった。
研究会終わり、春は講義室に残ってノートパソコンに向かい何かを打っていた。何を書いているのか? と声を掛けると、小論文だと春は言った。
「入試要件が英語と小論文なの」
「何についての小論文なんだ?」
「インターネット上での人間関係の構築」
「ふぅん」
パソコン画面の中は文字で溢れかえっていた。インターネット上での人間関係の構築など、今更考えても意味が無いほどに当たり前のことのように思えたが、そんなことは言わなかった。
「ちゃんと研究会に参加しないとダメじゃないか」
「もちろん研究会中にはちゃんと参加していたわ。純君こそ、あんまり集中していなさそうに見えたけど」
と言って春はくすくすと笑った。確かに私はあまり研究会に集中できてなかった。
「その後、小野浦から連絡は来ていないか?」
「うん、最近は来てないね。ありがとう。純君のおかげだよ」
私は、そうか、と言って頷いた。それはそうだろうと思った。小野浦は今アールに所属する女性と不倫をしているのだ。わざわざ春に連絡などしないだろう。小野浦とはそういう男だ。
春は私と話しながらもパソコンで文字を打っていた。提出期限が近いのだろうか。まるでそういうゲームかのように画面上に文字がカタカタと積み上がっていった。
全角って何か美しくないよね、と春が画面を指差して言った。その先には数字の5があった。そう言われるとそれは確かに少し野暮ったい印象だった。ほら、と春は今度は半角で5と打った。
「こっちの方がスマートで良いよ」
「そうだな、私もそう思う」
美的感覚、と春がそっと呟いた。私は多分、卒業しても春のことを忘れないだろうと思った。
定刻通りに画面が切り替わり、白衣を着た女性が現れた。彼女は、担当の進藤です、と言ってにっこりと笑った。私は画面のこちらから軽く頭を下げた。しかし、よく見ると彼女は人間ではなかった。バーチャルの映像だった。
『お名前を教えてください』
安堂純です。
『年齢を教えてください』
十七歳です。
『一回目のSSE手術を受けたのはいつですか』
昨年の十一月です。
『それ以降、身体に変化はありませんか』
身体に変化はありませんが、たまに幻覚を見ることがあります。
『一回目のSSE手術後にご家族や親しい友人が亡くなられたということはありませんか』
そういったことはありません。
『精神的に苦痛に思うことはありませんか」
幻覚のことくらいです。それ以外にはありません。
『現在の暮らしに不満はありませんか』
特にありません。
『SSE手術について、否定的な考えをお持ちではありませんか』
正直言ってよく分かりません。
『ありがとうございます。これで質問は全てです。お疲れ様でした』
それから十秒後に通信が切れた。あまりにも事務的で自然と溜息が出た。数日後、SSEチップの早期除去の案内を黒石先生から受け取った。何となくすぐには読む気にならなかった。いろいろ考えてから読もうと思い、クリアファイルに入れて机の引き出しに入れた。
強い雨の降る放課後、私は一人で教室にいた。図書館も自習室も同級生でいっぱいだったので教室に戻って来たのだが、けっきょく勉強をするでもなくだらだらとスマホでネットニュースを見ていた。
ある程度予想はしていたが、上がって来るニュースはほとんどがアール関係のものだった。
三日前の深夜、武装したアールの集団が国会議事堂を襲撃した。マスクやメガネで顔を隠した彼等は、国会議事堂の敷地内に侵入し、SSE手術反対と高らかに声を上げた。爆竹をばら撒く者、ツルハシで建造物を壊す者、その行為はどう見てもデモの域を超えていた。当然すぐに機動隊が出動した。激しい抗争になり、アールの人間が二名と機動隊員が一名亡くなり、それ以外にも多数の重軽傷者が出た。
私は動画サイトでその様子を見た。機動隊とアールのメンバーが激しく争うその向こうで、国会議事堂に向けて多数の花火が打ち込まれていた。不謹慎ながらも、色とりどりの花火が綺麗だった。国家が崩れていく様を見ているような気持ちになった。俺達は人間だ! と誰かが叫ぶ声が聞こえた。野太い声で、小野浦の声ではなかった。でも小野浦も、おそらくその不倫相手もこの中にいるのだろうと、私は確信めいたものを持ってそう思った。
けっきょくアールはこの事件が引き金となり、それから半年後に解体する。代表の田中龍郎は逮捕され、数ヶ月後に獄中で自死したと報道で見た。小野浦とはそれ以降会うことは一度も無かった。
雨がいよいよ本降りになってきたようだった。予報では今夜は警報級の大雨になると言っていた。激しい雨が窓を打つ。教室の電気を落とすと部屋は灰色になった。遠雷が遠くの景色を割った。だんだんと雨は黒くなっていた。幻覚が始まったようだった。
私は教室を出て階段を登り、そのまま屋上に出た。雨はすでに屋上を真っ黒に染めていた。怖くない、と私は心で呟いて雨の中に踏み出した。大粒の雨はすぐに私のことも真っ黒に染めた。大丈夫、怖くない。私は真っ暗な視界の中で強く思った。辺りは見渡す限り黒だった。でも私は立っていた。ちゃんと自分の足でここに立っていた。大丈夫。どんなに汚されようとも、自分の足で立っていられるうちは私は大丈夫だ。少し足が震えたがそれでも立っていられた。
「何をやっているんだ?」
唐突に誰かの声がしてはっとした。勇だった。勇が屋上のドアのところに立っていて、不思議そうな目で私を見ていた。勇、と私は無意識のうちに彼の名前を呼んでいた。
雨は普通の雨に戻っていた。私はびしょ濡れになっているだけだった。黒く汚れてなどいなかった。それで少し笑えた。
傘を持っていないか? と私は勇に尋ねた。
SSE @hitsuji
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