第33話 勿忘草の誓い
絶叫。
誰も彼も両手で耳を塞ぎ、叫びながら意味もなく駆けずり回る。人にぶつかりあっては地面に倒れ、それを気にすることなく踏み潰していく人が更なる混乱を招く。
その喧騒が静まったのは、人々が、自らが生きていることに気がついた時だった。
薄い、青い光が辺りを覆っていた。
人混みの中から伸びた細い光線が、美しい曲線を描きながら空に向かって伸びている。中庭のあちらこちらから突如として湧き上がったその光は、ちょうどルフェリアの真上を中心として、籠を伏せたような形で人々を覆っていた。
その中に立つ人々は、まるで青く光る網の中に閉じ込められたような思いで、空を見上げる。
その薄く青い光のそばにいた人々たちは気がついていた。
何の気なしに受け取った、花売りの少女が配っていた勿忘草。そこから、眩い光が放たれ、天に向かって伸びていることに。
やがて、勿忘草の色を纏った光は数度明滅すると、消えた。
神秘的な光景に言葉を失い、静まり返った空間の中で、こつこつと、石畳を靴が打つ音だけが響く。
拘束されたルフェリアの横に立ったのは、1人の聖女だった。その手に一本の勿忘草を握りしめ、彼女は口を開いた。
「初めまして。わ、私はリル・アーヴェイと申します」
数多の視線を一身に受け、リルは動揺から言葉を詰まらせた。けれど、と息を吸って、リルは言葉を続ける。
「今の防御の魔道具の、製作者、です」
その言葉は細く、静まり返った中庭の端にいる人が、耳を凝らしてどうにか聞き取れる程度。
例えば、ルフェリア。もしくは、ジークフリートやフェリクス、ルシルといった人々の持つ、人を惹きつけるような、有無をいわせず脳内に直接語りかけるかのような、そんな魔性の魅力はない。
けれど、誰もが呑まれたように、リルの言葉を待っていた。
「聖マートリア教会は、長年、皆さんの治療にあたり、魔物を退治してきました。し、しかし、私は、それでは駄目だと思うのです」
その言葉にざわりと起こったどよめきに、リルは一瞬身を縮める。
そんなリルを支えるように、ルシルはリルから一歩下がった位置に立った。
「どうしても、どれだけ頑張っても、救えない命があります。それでも、私たちの手では届かない場所が、ないようにしたいのです。そう思って、あの魔道具を作りました」
リル様、という声が上がった。
感極まったような、震えた声。それを耳にして、驚いたように目を瞬かせたリルは、一つ息をつくと、さらに囁くように語る。
「特別な力を、特別なままにしてはいけません。誰もが使えるように、誰もが自分で自分を守れるように。それが、聖マートリア教会の正しい在り方だと、思うのです」
最後まで言い切って、リルは小さく息を吸った。
その瞬間、爆発するような歓声が上がる。リル様、という叫び声に、リルはぎこちなく微笑んで見せた。リル聖下、という、随分と先走った叫び声すら聞こえる。
その口が開きかけた瞬間、喧騒がぴたりと静まった。
「私は、誰もが魔道具を使える世界を作りたい。でも、そのためには、どうしても、聖マートリア教会だけでは無理なのです」
リルが、わずかにフェリクスへと視線を送った。
目を僅かに細め、微笑んだフェリクスが、ゆっくりとリルのもとへと歩み寄る。
「魔道具の生産には、魔力が必要です。たくさん作るには、国中に届くようにするには、魔力の持つ人間がたくさん必要になります。私は、そのために、魔術塔と手を取り合いたいと考えています」
「っ何を言っているの!? 聖マートリア教会の聖女ともあろうものが、国家の犬に成り下がるなんて!」
中庭に立った聖女が上げた叫び声を、リルが目線で制す。
迫力こそないものの、落ち着き払った澄んだ瞳で見つめられて、聖女は恥じるような気持ちで言葉を慎んだ。
「私は、人々を救える機関があるのなら、それが聖マートリア教会でなくても良いと思っています」
「分かっただろう? これほど綺麗な人間が、この世界にはいる」
盛り上がりかけた声を制するように、ルシルが声を張った。
いくつもの視線を悠然と流し、ルシルは続ける。
「私が思うに、リルさんほど次代の大聖女に相応しい人間はいないと思うんだけどね」
リル様、リル聖下、と言う声。
派遣聖女、国家の犬が、という声。
そしてどちらにつくこともなく、ただ沈黙を守る人々。
そんな中、甘やかな声が、人混みをすり抜けて響いた。
「僕のリルを、侮辱しないでくれるかな?」
「魔術師長! その、僕のって! わ、私は、その」
明らかに動揺し、視線を落としながら指先を擦り合わせたリルの姿に、思わず微笑ましいものを見るような視線が集まる。
「ねえ、リル?」
いつの間にかリルの側へとやってきていたフェリクスは、ちょうどリルと向かい合うようにして立つ。
そうして、静かに膝を折った。
「リル。リル・アーヴェイ子爵令嬢。どうか私と、結婚してはもらえませんか?」
「え、え、フェリクス様!?」
あっという間に頬を染め上げ、視線を彷徨わせるリル。切り揃えられた髪が乱れ、みるみるうちにその目に涙が溜まっていく。
その純粋で、どうにも庇護欲をそそられる様子に、ルシルは内心笑みを浮かべる。
「ずっとずっと、リル、君が好きだったんだよ。ただ、僕は一応魔術師長で、その婚姻となれば自由に選べるわけもなくて。君が大聖女になってくれるのなら、僕は君が好きだって、言える」
「……わ、私は、ずっと、私とフェリクス様では釣り合わないと……でも、ずっと、ずっとっ」
リルは、手に持っていた花をそっとフェリクスへと差し出した。
「勿忘草――私を忘れないで。ずっと、そう思っていました。フェリクス様が、フェルが、他の女性と結婚するなんて、本当は、ずっと、嫌だったっ!」
「……リルっ!」
勿忘草の花言葉――真実の愛。
誰もが目の前で行われるお伽話のような恋物語に見惚れ、心を奪われている。
作戦は、大成功だったと言って良い。この婚姻のことはリルに黙っていようと、フェリクスと相談したのは大当たりだった、というわけだ。
――勘違いしないでね?
フェリクスの言葉を、ルシルは微笑みと共に思い返す。
ルシルを揶揄った時の態度とは打って変わって、相変わらず軽薄な態度ながら真剣さを瞳に宿したフェリクスは、ルシルに向かって言う。
――必要だから結婚するんじゃない。僕が、リルを好きだから結婚するんだよ?
ルシルはとっくに、明らかに両片思いな2人に気がついていた。
仲介役もなかなか達成感がある、とルシルは満足する。
リル聖下、と叫ぶ声が重なり、うねりとなって中庭の空気をかき乱す。
人々を欺き、魔力を奪っていた挙句にここにいる人を殺そうとした前大聖女。その悪の権化から民を救い、誰もを救いたいと語り、そうして今、愛する人からの求婚に頬を染めている、リル。
誰もが、新たな大聖女の誕生に沸いていた。
生まれたての婚約者同士は、幸せな微笑みを交わす。
それは誰が見ても幸せな光景で、讃える人は後を絶たず。
一方で、聖マートリア教会と魔術塔の間に生まれた強固な絆を批判するものは、その口を開くことすら許されない雰囲気が出来上がる。
しかし。
そんな幸せの中で、場違いな鋭い悲鳴が響き渡った。
はらり、と
その横で、同じように地面に崩れ落ちた人影。ルフェリアを拘束していた魔術師たちだ。その中心で、ルフェリアが冷えた笑みを浮かべた。
「……ねえ、何をしているのかしら?」
ルフェリアの手が、ゆっくりと伸ばされる。
その近くに立っていた人々は、人間には到底出しえない速度で走る、黒い影の姿を捉えた。
人々の上を軽く飛び越え、ルフェリアへと向かっていったその影は、すんでのところでルフェリアの腕を掴む。その瞬間、ルフェリアの指先に宿っていた真紅の光が霧散した。
「……フィリップさんね? そうよね、この私を止められるのはあなたぐらいだわ。けれど、よく考えてみて? もしあなたが何かをするのなら、私はルシルさんに――」
言葉を途切れさせ、ルフェリアは自らの身体を見下ろした。
ぐるぐると渦を巻く魔力。僅かな空間の歪みを感知して、ルフェリアはフィリップが転移系統の魔術を使おうとしていることを悟る。
人質のいない場所へ。一対一で、思うままに力を振るえる場所へ。
「フィリップ!」
その瞬間、普段は穏やかな声が焦ったようにフィリップの名を呼んだ。
必死の形相で駆けてくるルシルに、フィリップも大声を上げる。
「ルシル! 戻ってください! 早く!」
ルフェリアの目に、ゆっくりと愉悦が浮かんだ。
それを見過ごさなかったフィリップは、さらに大きな声で叫ぶ。
「戻ってください! 戻って――」
魔法が発動する、寸前。
ルフェリアの手が、僅かにルシルのローブの先に触れ。
そうして3人は、その場から姿を消した。
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