第二章 無能聖女の秘められた過去
第17話 新たな始まり
「いやあ君の腕の中は良いねえ」
なんとも気楽な言葉。
日差しの照りつける山道を歩く、一つの影があった。
「対等な関係ってなんですか。どうして俺が」
「まさか君は、か弱い1人の女性をこんな険しい山の中を歩かせようと?」
「人の決死の台詞をそうやって当てこすって、あなたって人は」
溜め息をついたフィリップは、けれど腕の中のルシルを見下ろして、悪戯っぽく微笑む。
そのまま身を屈めてルシルに顔を寄せると、少しの笑みを含んだ声で囁いた。
「照れ隠しも可愛いですけど、緊張しているなら素直に言えば良いのに」
「……っな、私は」
「誤魔化さなくて良いですよ、全部伝わってるので」
一瞬で目を白黒させ、頬を紅潮させてフィリップの腕から抜け出ようとするルシルを、フィリップはしっかりと抱え込む。
「1人で歩けるから!」
「いや、か弱い1人の女性をこんな険しい山の中を歩かせるわけにはいかないので」
沈黙したルシルを抱え直すと、フィリップは足を進める。
やがて、一つの村が見えてきた。到着を確認するや、ルシルはもがいてフィリップの腕から降りようとする。フィリップも、一度残念そうに首をすくめたあと、腕を離した。
バラッタ山脈、山間の村。
2人がゆっくりと村に足を踏み入れた瞬間に、異変は起きた。
「ルシル!」
短い声と共に、フィリップがルシルの身体を包む。その身体で石が弾けた。
身を強張らせたフィリップは、精一杯抑えた声で口にする。
「こんにちは。突然すみませ――」
「あんたに用はないんだよ! どいとくれ!」
「では、誰に」
「あんたが必死に庇ってるその女! 聖女だろう、入るな!」
腕の中でルシルがぴくりと震えたのを感じ取り、フィリップの視線が鋭くなる。
「この人は確かに聖女でしたが、今は違います! どうしてこんな――」
「それだって似たようなもんだろう!?」
投げられる石は勢いを増し、フィリップは微かに頬を歪める。
その表情に気がついたルシルは、自らを包み込むフィリップの胸をそっと押した。
「……ルシル」
「大丈夫だよ、私が石の一つや二つで傷つけられるとでも?」
「俺は」
「ありがとうね、だけどこのまま石を投げられているだけでは何も解決しない。そうだろう?」
それでも頑として動かないフィリップに、ルシルはもう一度フィリップの胸を押す。
ルシルを見下ろして数度唇を動かしかけたフィリップは、けれど何も言わずにルシルを離した。その瞬間に飛んできた石が、ルシルの身体で弾ける。
「あはは、これ結構痛いね」
「ルシル!」
「やっぱり、ありがとう、だよ」
優しく笑ったルシルの表情に目を奪われ、フィリップは言葉を無くして沈黙する。
ルシルはフィリップの後ろから完全に出ると、静かに腰を折った。完璧な作法に、むしろ石の勢いは増す。それを確認したルシルは、無造作に頭を下げ、両手を上げた。
なんの優美さも、技巧もない、単純で明確な平民の動き。
一瞬だけ弱まった石の雨の中から、ルシルは話しかけた。
「初めまして。私はルシル・アシュリー。確かに昔は聖女でしたが、今は細々と個人的に依頼を受ける生活をしています」
その瞬間、ぴたりと飛んでくる石が止まった。ゆったりと身体を起こしたルシルは、とんとんと、自らの何もない胸元を指先で叩く。
「聖マートリア教会の聖女のように、貧しい人から無理に治療代を取ることも、勝手に治療して後から代金を要求することも、薬草の値段を誤魔化して高く売りつけるようなことも、私はしません」
「この人が」
突然聞こえたフィリップの声に、ルシルは驚いて後ろを振り向く。
大股で歩いてきたフィリップは、寄り添うようにルシルの隣に立って、言葉を続けた。
「何の金も地位もない俺の命を救って、居場所をくれたこの人が、そんな卑劣なことをするわけがありません」
「私が聖マートリア教会を追放されたのも、そういう輩を非難し続けたことが、聖教会の
「証拠は」
低い声に、ルシルは目を瞬かせる。
「証拠はあるのかい!」
一気に激しくなった声を聞き、ルシルは思案するように目線を斜め上へと送る。そうして、隣に立つフィリップを軽くつついた。
「何でしょう」
「右斜め奥、家の前に立っている方、今杖に縋っている方ね、君ならできるだろう?」
「人使いが荒いですね」
「私にはできないからね」
軽く自虐するような口調で言ったルシルを一瞬だけ驚いたように見下ろし、フィリップは密かに片手を上げた。その手から薄い緑色の光が浮き上がり、先ほどの村人を包み込む。
村中の視線がその光を追い、一気に大騒ぎになった。
「何を!?」
「ふざけんな、人が黙って聞いてれば!」
叫ぶ声と、再び空を舞い始めた石。けれど、一つの声が妙に凛と響き、その喧騒をぴたりと止めた。
「待ってくれ!」
先程フィリップが治療した村人だった。誰もがその言葉に口を噤み、動向を待つ。この村の中でも身分が高いものであることが明らかなその様子に、ルシルは見立てが合っていたと頷いた。
「……あなたは、俺を治療してくれた?」
「はい」
頷いたフィリップに、ルシルが言葉を添える。
「何度も言っていますが、治療代は取りませんよ」
「今の方の病気の他に、治してほしい方がいれば引き受けますが」
そうあっさりと言ったフィリップに、途端に不審げな視線が向けられる。
「馬鹿げてる。治療代やら退治料を取らないんなら、どうやって生きるんだい」
「聖マートリア教会からの報酬ですね」
答えたルシルは、口元に手を当てて軽く笑い声を立てる。
「教会からだったら、取れるだけむしり取ってやろうと思ってるもので」
「この人は本当に、それでしか生活していませんよ」
「どうして、あんたはそんな酔狂なことを」
その問いを聞くや、フィリップはちらりと横目でルシルの様子を伺う。それは確かに、フィリップも気になるところではあり、聞けなかったことでもあった。
どうしてこんなにも、この人は他者に尽くすのだろう。優しい人なのは知っている、けれどこの人の優しさは度を過ぎている。
名も知らぬ少年のために教会の聖女にひどく侮辱され、フィリップを救ったために、「復讐」に必要であったという教会を追放された、ルシル。
「亡き母の教え、と言ったら格好いいかな?」
茶化すように笑い、軽く舌を出してみせたルシルの本心が、フィリップには分からなかった。
「聖女様」
村の人の眼差しが変わる。
手に持っていた石を投げ捨てた彼らは、一瞬で地に頭をつけた。そして、這うような声で詫びる。
「大変申し訳ございませんでした」
「ちょ、ちょっと私はそういうの柄じゃないから、やめてやめて。それに聖女じゃないよ」
慌ててルシルは手を振るも、彼らは伏せたまま頭を振る。先頭にいるのは、先程治療した男性だった。
「ほら、私は何もやっていないしされていないから。お礼と謝罪は私じゃなくて、フィ……この人に」
フィリップは、横目でルシルを見つめた。
フィリップと呼ぶように言って以来、ルシルは頑ななまでにフィリップの名前を呼ばない。それがどういう感情なのか、フィリップには分からない。
「お礼と言うならそうだね、ここに数日止めてはくれないかな? 調べたいことがあって」
「我々にできる最高のもてなしの準備をさせますので、しばしお待ちを!」
「待って待って、もう少しこう、ゆるーい感じで良いから!」
ルシルの必死の訴えも叶わず、ルシルとフィリップは広場のような場所に通される。布を引かれて座らされ、お待ちを、ともう一度叫んで走って行った村人を、ルシルは呆然と見つめた。
「確かに少しは狙ったけれど、まさかここまでとは」
「はい、驚きました。……今のところですが、不審なところはないですね。怪しいと思っていたのですが」
声を低めたフィリップに、ルシルは軽く頷くことで答えた。
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