第16話 1人の可愛い女性
「師匠……?」
不規則に走っているように見えて、ルシルの動きには法則性があった。
影から影へ。あえて、木々が密集している場所を選んで、ルシルは走る。魔物の注意が他の聖女にそれそうになったら、わざと体勢を崩してみせて、特に暗い場所に走り込んでみせて。
寄生魔物には、知能がある。
あの時、フィリップの結界に覆われ、並々ならぬ魔力を放っていたであろうルシルは、魔物から視線を向けられることすらなかった。しかし、フィリップが結界を解除した瞬間、魔物はすぐにリルからルシルへと狙いを移した。
つまり、魔物が狙っていたのは、魔力のより少ない人間。
一度結界を出れば、ルシルは『無能』。この場所で一番弱い人間は間違いなくルシルで、だからルシルは自分が囮になることを決めた。
ちらりと目をやったフィリップは、青ざめた顔をしてこそいるが、きちんとルシルを観察しているし、ルシルの邪魔をしないようにと気を遣っているのが分かる。よく出来た弟子だと、1人ルシルは頷いた。
その間も、魔物の爪はルシルの身体ぎりぎりを掠める。途端に魔物は勢いよく手を引いた。リル渾身の作の魔術具が発動したのだ。刺激され、怒りの咆哮を上げた魔物は、さらにルシルを追う速度を上げる。もうその目には、ルシルしか映っていないようだった。
そしてルシルは、フィリップの掘った穴の前に辿り着く。フィリップの調整は完璧で、その上をルシルが走っても、微かに沈みこむような感触こそあるものの、落ちることはない。
ルシルが最後の一歩を走り切る寸前、魔物の足が穴を踏み抜いた。
凄まじい音を立てて、その場所が崩れる。前足を取られた魔物は、前に倒れ込むようにして回転。穴の底へと背中から落ちていく。
そして同時に、すんでのところで後ろ足の地面が崩れたルシルも、ぐらりと上体を揺らした。
あ、まずい、とルシルが思った瞬間、ふわりと身体が浮く。
両手でルシルを抱き上げ、数度空を蹴って地面へと降り立ったフィリップは、深い溜め息をついた。
「……あなたという人は」
「いつだって君が助けてくれるから、無茶する癖がつきそうだよ」
「助けるのやめましょうか」
「そんなこと言って、いざとなったら君は私を助けるでしょう?」
フィリップの腕の中で笑ったルシルは、ごそごそと手元を探る。
「さて、最後の仕上げだ」
取り出したその魔道具を、迷いなく起動させた。
軽い、爆発音がした。
最後の仕上げと呼ぶにはあまりにもあっけない、拍子抜けするような、小さな音。
けれどそれによって、崩れ落ちた魔物の上に積み重なっていた折れた草木が吹き飛ぶ。
連鎖する爆発音。穴の周りに生えていた木々が爆散し、ひどい土埃と共に宙に舞う。
「フィル、風」
フィリップは頷くと、ごく弱い風を、そこに向かって送る。もろに爆発をくらって粉々になった木々は宙を舞い、魔物の巨躯を、陽光の元へと晒した。
途端に、魔物の動きが変わる。
上を目指して壁を引っ掻いていたその手で、土を崩して身体へとかけようとする。その度に数度軽い爆発音がして土が爆散し、風がそれを優しく吹き飛ばす。
ルシルの視線を受けて、レイテを筆頭とした聖女たちが両手を掲げた。
詠唱の必要もないような、初歩中の初歩、光源系統と熱加工系統の魔術。
熱と強い光が、魔物へと降り注ぐ。
簡単な魔術だ。故に魔力量は無尽蔵に等しく、そしてこの場にいる全ての人間が戦力になる。
時間にして、数分だっただろうか。
魔物は一瞬ぴたりと動きを止めると、再び上へと激しくもがきだした。そこに、身体へと突き刺さる光を気にする様子はない。
「なんで土木工事なんてさせたんですか。言ってもらえれば拘束しましたよ」
「拘束魔法は確かに有用だけど、惜しむらくは相手に危機感を与えてしまうことだね。いつ寄生魔物が離脱するか分からない以上、危機を悟った時には全て手遅れでなければならない。それに、君の魔力は強すぎて聖女たちの魔法と干渉する可能性があるだろう」
「……俺に土木工事をさせたことへの文句は置いておいて、納得しました。さすがです」
その言葉に、ルシルはわずかに顎を逸らすと、得意げに笑った。
「これが、『無能聖女』の戦い方だよ」
その瞬間に響いた咆哮に、2人はさっと視線を穴へと戻した。決め台詞を台無しにされた不満に唇を尖らせながら、ルシルはフィリップに問う。
「さてフィル、やれる? できるだけ、粉々にしないように」
「俺が一番苦手なことですが、やりますよ」
すっと目線を魔物へと移すと、フィリップは極力抑えた力で魔法を練る。矢のように鋭くなったそれは、ぎりぎりまでフィリップの手の中でたわんだ後、空気を切り裂いて飛び出した。
寸分違わず、その光が魔物の喉を切り裂く。
耳が痛くなるような悲鳴。
のたうち回る魔物は、しばらくして、ぴたりと動かなくなった。
そちらに向かって足を踏み出しかけたルシルを、フィリップは片手で止める。
「俺が行きます」
「そう、なら任せようかな」
穴の底へと慎重に飛び降りたフィリップは、迷わず、魔物の胸元へと向かった。
ルシルが苦労して入手したという隣国ザードの書物には、確かにあの寄生魔物の姿があった。
けれどそれはさほど脅威として扱われてはおらず、今回のように魔物の力を増幅させた報告や、凶暴化させた報告もない。例の村付近では確認された人間への寄生の事例も、ほぼないと言って良い。
ザードに住む生き物には、この寄生魔物への耐性があるのだ。
黒い体毛の隙間に数本ある特徴的な白い線。
皮膚が覗くところに近寄ったフィリップは、集中して目を凝らす。
ザードの魔物と人間と、この国の魔物と人間。
その大きな差は、その体に纏う体毛、もしくは衣服。
白い肌の上に、小さな黒い点を見つけて、フィリップは躊躇わずにさらに近づいた。フィリップの指に巻き付いていた一筋の黒髪が離れ、くるくると踊る。
魔物の肌の上でぴくりとも動かなくなっている、例の魔物を見つけて、フィリップはほっと息を吐いた。
この魔物は、いつだって四本足で行動していた。熊型の魔物は、威嚇のために二本足で立ち上がることも多いというのに。
ルシルは指摘しなかったが、それも胸元に寄生しているとフィリップが推論を立てた理由だった。
事前にルシルに受け取っていた瓶を取り出し、寄生魔物の死骸を落とす。硬く蓋を閉めると、フィリップは数度地面を蹴って、ルシルの元へと戻った。
それをルシルに渡せば、微笑んでルシルが頷く。
「さすが、早かったね」
「あの巨体を隅から隅まで探すのは手間がかかりすぎます。簡単な推測ですよ」
「うん、さすがは私の弟――」
そこまで言いかけて、ルシルは言葉を噤んだ。
「そろそろ君に師匠はいらないかもね」
「……え」
「もう私が君に教えられることは、ほとんどないよ」
「そ、れは」
「君だってそう思ってるんじゃない? 君が私のことを師匠と呼ばなくなったことに、私が気づいていないと思っていたのかな?」
「違う!」
大声を上げたフィリップに、恐る恐る近づいてきていた他の聖女たちがぴたりと足を止める。
「それは、あなたが師匠として相応しくないとか、そういう話ではなく! 俺があなたを師匠と呼ぶ限り、あなたは俺を守るべき対象としか見てくれないから」
「……」
「俺は、あなたに守られたいんじゃない。あなたを守りたいんだ」
ルシルは唇を噛んだ。ぐらぐらと揺れる心を、ルシルは自覚していた。
「世間はあなたを天才だ、稀代の聖女だと言います。その通りだと思います。あなたはすごい人だ。それでも、俺にとっては、あなたは1人の可愛い女性なんです」
「……」
「そして、世界で1人くらい、誰もが恐れるあなたを、1人の女性だと笑って言えるような人間に、俺はなりたいんです」
「……フィ、ル」
「その呼び方も嫌です。子供みたいじゃないですか。フィリップと、きちんと俺の名前を呼んでください」
俯いたルシルに、フィリップは強引に近づく。
「この件は、終わったんじゃないんですか? 答えを聞かせてはもらえないんですか?」
「……フィリップ」
どうして良いか分からないまま、ルシルは口を開いた。
「私が君に師匠はいらないと言ったのは、決して前みたいに君を突き放すとか、そういう話ではなくて」
「じゃあ、なんなんですか」
「もう、師匠として君を守るのは、無理だと思ったから」
「え?」
ルシルは、小さく目を瞬かせる。
「もう私は君の師匠にはなれないよ。私が君に教えられてばかりで、君に助けられてばかりだ。どの口が師匠を語れる? ただ私は、君と対等な関係になりたいと、そう言いたくて」
フィリップの顔を見るのが怖くて、ルシルは俯いた。
おかしい、と思う。
最初はルシルについて回って、ルシルを頼って、世界にルシルしか縋れる人がいなくて。
守らなければ、と思っていた人は、いつの間にか自分の足で立って、ルシルを守ろうとしている。そうして気がついたら、守られている。
後ろに人がいることは数えきれないほどあったけれど、誰かが前にいたことはなかった。その頼もしい背中に、この上ない安心を覚えたことも、なかったのだと思う。
「……ルシル」
優しい、フィリップの声が聞こえた。
「そう、呼んでも良いですか」
胸が詰まったようになって、ルシルは何も言えなくなる。そうして、小さく頷いた。
「顔を上げて」
ゆったりと、けれど有無を言わせぬ口調で、フィリップが言う。その言葉に釣られるように、ルシルは顔を上げた。
「やっと、男としてあなたを口説ける」
フィリップは、その整った顔を幸せに歪めながら、息が絡まるような距離で囁いた。
「ルシル、俺を好きになって。絶対に大切にするから」
ルシル、と。
そう名を呼ばれるたびに、ルシルの全身が震えて、訳もなく涙が滲みそうになる。
その顔を見下ろしたフィリップは、今にも手を伸ばしたい衝動を、必死で抑えつけていた。
いつだって、フィリップの前にいた人が、フィリップを守り続けたこの人が、庇護者としての立場を捨てて、わずかに潤んだ目で、縋るようにフィリップを見上げている。
それはずっと偏っていた関係が、ようやく隣に並んだ印で。
更なる言葉を続けようとしたフィリップだったが、その瞬間にルシルが浮かべた微笑みに、ぴたりと息を止める。
嫌な予感が、胸を焦がした。その予想に反することなく、ルシルは飄々と口を開く。
「ところで、君。本当にこの件は解決したと思ってるのかな?」
視線を逸らしたフィリップを、ルシルは見逃さない。
「君はさっき、この件が終わったと言ったけれど……本当に、何も気になることはない?」
「……ありません」
「嘘は良くないね」
「……寄生魔物があの魔物に寄生したのは、おそらく本来の生息域であるリズリー樹林でしょうが、どうして暑さと日差しに弱い寄生魔物が、俺たちが移動したような暑い場所を越えて、そんなところまで行ったのでしょう?」
「それが分かっているなら、今回の件が解決したとは言えないというのも、分かっているんじゃないかな?」
フィリップは、静かな溜め息をついた。
勢いで押せばどうにかなるかと思ったが、やはり流されてくれる人ではないらしい。
「まだまだ続く、ということで?」
そう言ってはぐらかすように笑ったルシルを、フィリップはじとりと見つめる。
相変わらずなルシルだけれど、その耳の先が、少し赤く染まっているというだけで、今は満足することにした。
歩き出したルシルを、フィリップは追いかけ、隣に並ぶ。
長い髪を靡かせて、ぴたりと寄り添って、2人は歩いて行った。
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