エピローグ
林美景(花ノ谷高校)
かくん、と頭が落ちたところで、自分が眠っていたことに気がついた。反射的に姿勢を正した
大会明けの学校には疲労を隠しきれない運動部の生徒がちらほらと見受けられ、眠気に襲われているのも美景だけではなさそうだった。加えて右腕や足には軽い筋肉痛も残っているものの、美景はその感覚を好意的に受け止めていた。
選手として大会を戦い抜いた証と思えば全身に残るけだるさが心地よく感じられないこともない。まずは少しでも意識を覚醒させようと、美景は中間テストの日程が書かれたプリントに目を落とす。
「入学した時の成績なんてそこまで参考になりません。順位は一年間でも簡単にひっくり返せるんだから、A組のみなさんはきちんとやることをやって、次の試験でも自分の実力を出し切ってください」
新人戦が終わったと思えば今度は定期考査がやってくる。来月には県大会があるわけで、中間テストが終われば休む間もなく部活に熱中し、その次は期末テスト。
高校生の日常というのは絶え間なく何かしらのイベントが詰め込まれているようで、たちまち暗鬱な気分にさせられる。
きりーつ、と間延びした声で日直が号令をかける。続けてぺこりと頭を下げた生徒たちは、担任が出て行くのも待たずどっと疲れた顔で喋り出した。何かと成績のことでプレッシャーをかけられやすいA組ではテスト期間となると鬱々とした空気が漂いがちだ。そんな重苦しい雰囲気を意にも介さず、
のんびりとしているようで帰り支度は誰より早い。長い髪を翻して席を立った菫は、中身が入っているにしては平たいリュックをひょいと肩に引っかける。
先日の席替えで菫の二つ後ろになった美景の位置からは、机の引き出しに何が入っているかがよく見え――美景はあっと声を上げた。菫の机には教科書が山と入ったままだ。椅子をがたつかせて立ち上がった美景は、廊下に出る菫を呼び止めた。
「菫さん、教科書忘れてます」
果物がいくつもプリントされたリュックの背中が立ち止まる。怪訝そうな顔で振り向いた菫は、机を指す美景を見てああと得心がいったような声を漏らした。
「いいのいいの。重たいから置きっ放しにしてるだけ」
テスト期間にそんな調子でいいのだろうか。
そのうえろくにノートも取らないという噂が事実だと知った時には世の不条理さを恨まずにはいられなかった。端的に言うと羨ましい。成績のことで切実に頭を悩ませている
どうやら菫はB組の教室に立ち寄っていたらしい。
対してC組は静かなもので、美景は後ろの扉から室内の様子をうかがう。鞄を抱えて待っていると、数人のグループで談笑していた
「ごめんなさい、お話の途中だったのに」
「ううん。クラスの子がね、おめでとうって言ってくれてたんです。選手じゃないのに祝われちゃった」
首元でセーラーブレザーの襟を直した旭が微笑む。女子卓球部が実に十年以上ぶりの地区大会優勝を飾ったという知らせは中庭を通じていくつかのクラスにもたらされ、今日の部員たちはたびたび祝福を受けていた。
昨日――昨日と言っても美景にはもはや遠い昔の出来事のように感じられるのだが――地区大会で
「
「そうですね。本当にレベルが高い試合でした」
利用する路線が同じことから、美景と旭は連れ立って帰るのが習慣になっていた。部活がなくとも二人の話題と言えば卓球のことばかりで、今日も自然と新人戦の話になる。
正藍寺に勝利した花ノ谷は続く田宮商業との試合でも落ち着いて勝利を収め、結果を見れば全勝で優勝した。しかし、今回の勝利はあくまでイレギュラーなものだ。
個人戦決勝戦では
「でも、優勝は優勝ですから。萌さんもとっても喜んでたし」
試合後平原に飛びついた
試合に出られない苦しみを三年間味わってきたはずの自分が薫子の前であんな態度を取るなど言語道断だ。鞠佳や菫の言う通り、配慮にもレギュラーとしての意識にも欠けた振る舞いだった。
深く自省した美景は、そもそも自分が団体戦に出場したのが小学校以来だということに気づき、当時はどんな気持ちで試合に臨んでいたのかと思い出そうとしてすぐに諦めた。どうせ他のメンバーのことなどろくに考えていなかったに決まっている。
列車は数分の誤差とともに最寄り駅へと到着する。旭に手を振り、膝の上にまとめた荷物を抱えた美景は冷たい秋風の吹きつけるホームへ降り立った。
スカートから出た足が冷たい。渡線橋を目指して歩き出した美景は、不意に吹き抜けた強い風に思わず顔を手で庇った。また列車が来たのだ。
再び発車しようとする車両とすれ違うように向かい側のホームに到着した赤い車体が、金属の擦れ合うけたたましい音を立ててゆっくりと停車した。轟音と風が止んだのを確認し、階段に足をかけようとしたところで美景は急に立ち止まる。
何かが聞こえたような気がして、その場でぱっと振り向き――美景の視界に、転がるように駅舎側のホームに降りてくる生徒の姿が飛び込んできた。
「先輩――林先輩!」
ラインの入った黒のブレザー、藍色と青のチェックのスカート。懐かしい正藍寺の制服を着た後輩が必死にこちらに呼びかけるのを見て、当惑しつつも大きく手を振り返した美景は、今そっちに行くから、と身振りで伝えて土埃で汚れた階段を駆け上がった。
背中で荷物が跳ねる。息を切らせて反対側のホームに辿り着いた美景がぎこちなく後輩に笑いかけると、矢部は無愛想に頭を下げた。
「優勝おめでとうございます。すごい試合でした」
「そんなことないよ、わたしは何もできてないし……」
美景の口から無意識のうちに否定の言葉が出てくる。これは本人にすれば遠慮ではなく、単に事実を語っているだけだ。美景の反応に少し表情を和らげた矢部は、改めて花ノ谷の制服に目を向けた。
「林先輩が他校に行くって聞いた時は驚きました。先輩はそういう、思い切ったことをするイメージじゃなかったので。試合運びも全然違って別人みたいに見えましたけど、やっぱり性格は変わってないんですね」
ずばりと切り込んできた後輩の分析は見事に当たっている。美景自身、内気で保守的な自分が正藍寺から出ようと決意したことを今でも不思議に思うのだ。
正藍寺では控え組にも明確な序列があり、美景は控えの一番手として応援席と補欠の間をふらふらしていた。美景に次ぐ立ち位置だった矢部とは揃って補欠に選ばれることも多かったのだが、会話をした記憶はほとんどない。長いスカートの裾を握りしめて、矢部は静かに続けた。
「前は林先輩のこと、頼りない人だって思ってたんです。強いのに気が弱くて、わたしより自信がなさそうだったし――自分より弱い人に馬鹿にされても、何も言い返さないで笑ってるから。見ててちょっと苛々しました」
返す言葉もない。また笑いそうになって、美景は表情を引き締める。都合が悪くなると愛想笑いで逃げようとするのは自分の癖だ。たしかに矢部は気が強く、美景には特に当たりが強い後輩だったが、昔から言っていることの中身は正しいのだ。
「先輩がなんで他校に行こうと思ったか、今年わかった気がします。控えで一番になったって意味ないですもんね。絶対に超えられない人たちがいて、下からは馬鹿にされて……わたし、半年で結構嫌になってます。先輩みたいに我慢強くないので」
強豪校というのはみなそうなのか、正藍寺というのは特殊な学校だ。レギュラーと控えの練習場所が分けられ、実力のある選手が下の部員と関わることはまずない。巻幡が統括するレギュラー組の団結はきわめて強く、チームワークも良好だ。逆に揉め事が起こるのは控え組のほうだった。
試合に出ることをすっぱりと諦めた一部の部員たちは、諦めずレギュラーを目指そうとする努力を無駄な悪足掻きと切り捨てる。惨めだとせせら笑われ、陰口を叩かれ、それでも懸命に練習に取り組んできた矢部が折れそうになったところで、正藍寺にはその辛さをぶつける相手すらいないのだ。
昔の美景はこんな感情を誰とも共有しようとはしなかったが、矢部が偶然見かけた美景に悩みを打ち明けたくなった気持ちもわかるような気がした。
「去年の県大会で、静井さんが1ゲーム取られた試合があったの、覚えてる? その選手、静井さんと当たっても全然怖がってなかった。わたし、それを見て正藍寺を出ようって決めたの。中等部の三年間、レギュラー組と試合をするたびにどんどん自分が弱くなるような気がして……このままもう三年過ごしても、何もできずに終わるって思った。成長するつもりで正藍寺を出たけど、でも本当は、静井さんたちから逃げたかっただけなのかも」
矢部が驚いたように顔を上げる。あまりに消極的な理由だが、それも間違いなく美景の本音だった。だから美景は菫のようにはなれない。参考にするもなにも、自分と菫のありかたは根本的に違っていた。
巻幡との試合でもそうだったが、菫は平原誓の強さを目安にして対戦相手に立ち向かっている。練習から格の違いを見せつけられて実力差を嘆くのではなく、平原と打ち合った経験値を試合に生かしていたのだ。
強いチームメイトの存在を疎むことなく自分の財産にする。おそらく菫だけでなく、
もし自分が正藍寺でそんな風に考えられていたら――レギュラー組を恐れるのではなく、この人たちと戦えることが自分のためになると捉えていたら、何もかもが違ったかもしれない。けれど美景は、正藍寺を出なければそんな発想に辿り着きもしなかった。
「自分でも、変わったところはたくさんあると思う。わたしは正藍寺を出るのが正解だったけど……だけど、矢部さんもそうだとは限らないよ。矢部さんはわたしと違って気持ちが強いから、もしかしたら正藍寺で得られるものがあるかもしれない。これからのことは、じっくり考えて決めたほうがいいんじゃないかな」
直接そう聞かれなくとも、矢部が進路のことで揺れているのはわかった。まして美景という実例を見た後だ、気持ちが正藍寺を出るほうに傾いてもおかしくない。しばらく黙り込んでいた矢部が何か言いかけ、思い直したように腕時計の文字盤に目をやった。
「いきなりすみませんでした。帰る途中ですよね? 聞きたいこと、他にもあったんですけど……でも、付き合わせるのも迷惑ですし。わたしも次の列車で帰ります」
「あ、ううん。大丈夫、用事があるわけじゃないから」
迷惑だなんてとんでもない。そのまま背を向けてしまいそうな後輩をどうにか引き留めることには成功したが、その次の言葉を口にするには多大なる勇気を要した。
「あの、矢部さんがよかったらなんだけど。次の列車が来るまで、もう少し話しませんか?」
もしかして自分は今とても先輩らしいことをしているかもしれない、と美景は思う。次の電車が来るまであと何分あるのだろう?
でもきっと大丈夫だ、だって自分たちにはまだ時間がある。鞄の持ち手を握りしめ、殊勝な気持ちで返答を待つ美景の前で、以前より髪を短くした後輩が小さく首を縦に振った。
花に嵐のたとえもあるが―花ノ谷高校女子卓球部― 青井 @site_aoi
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