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一輪咲いても梅は梅①

 裸足で歩くフローリングが冷たい。絡んだ毛先を指で解いた岩傘いわがさあさひは小さくあくびをこぼし、壁にかかったカレンダーの日付を見た。

 三連休に合わせて開催された新人戦もとうとう今日が最終日だ。旭は試合に出ることもなければユニフォームを着る機会もない。そんな立場のくせに、大会が終わってしまう日はなんだかもの悲しい気持ちがする。


 花ノ谷かのや高校は他校に比べて集合時間が遅い。これは過度に早く集まるのは非合理的だとする中庭の方針で、今回も試合開始三十分前までに来ればよいと言われているが、マネージャーが選手より遅くに着くというのはよろしくない。

 岩傘旭はそういうことを大層気にする性格だった。というわけで自主的に集合時間を繰り上げた旭は今日もてきぱきと身支度を済ませている。


 試合開始は九時ちょうど。会場設営のあった初日こそ早くから集まらなければならなかったが、それ以降は別段急いで家を出る必要もなかった。新人戦の会場は旭や美景みかげが通学に使う路線の途中にあり、普段登校するのと同じ感覚で大会に向かうことができるのだ。

 練習用のTシャツに着替えた旭は後ろ手で髪を二つに分け、数度ブラシを通してそれぞれ耳の下でくくる。もう何年も変わっていない髪型を鏡で確かめ、目覚まし代わりにぱちんと両頬を叩くと、旭は母親のいる食卓に向かった。


「おはよう。お弁当、もう少しでできるから」

「わかった、ありがとう」


 旭は通学用のサブバッグに冷蔵庫から出したばかりのペットボトルを入れる。当然ながらマネージャーの旭は用具を何も持っておらず、自然と荷物は少なくなる。そこで空いたスペースに部員たちが使いそうなものを入れるようになったのだ。

 たとえば予備のドリンク、絆創膏や湿布、あるいはゼッケンを留める安全ピン。以前男子部員がこの安全ピンを忘れてきたことがあり、よかったらどうぞと渡せた時はようやくマネージャーらしいことができたと内心喜びを隠しきれなかった。


 そもそもマネージャーという立ち位置は卓球部に必要不可欠なものではない。コーチだった姉を辞めさせたという部員に物申したい一心で入部した旭だったが、次第に卓球という競技そのものに興味を持ち始め、当初の目的が解決した後も部活に残る決意をした。

 かといって今から選手を目指して努力すると言っても初心者が一人混じるだけで練習の邪魔になってしまう。困り切っていた旭にマネージャーという可能性を提示してくれたのは井浦いうらだった。

 選手登録はしない方向で、どうにか部活の一員として扱うために与えられた名ばかりの役職。それは卓球に興味を持ち始めた旭にとって願ってもない話だった。入部した事情が事情なだけに、チームに迷惑をかけずに卓球部に所属していられる方法を旭は喜んで受け入れている。

 手早く食事を済ませ、ジャージを羽織って歯を磨く。何度も家の中を行き来してようやく準備が整ったという時だった。いってきますと一声かけ、玄関でスニーカーの紐を結んでいた旭は、自分の後ろに誰かが立っているのに気が付いた。


「旭、もう出るの?」

「うん。うるさくてごめん、起こしちゃった?」


 近頃夜間のバイトを入れている日向ひなたは休日になるといつも昼頃まで眠っている。まだ寝間着姿の姉は、謝る旭を咎めることなく首を振った。


「大会の時期だもんね。休みも部活で疲れない?」

「大丈夫、もう慣れてきたから」


 きゅっと靴紐を締めて立ち上がる旭の言葉に、そう、と日向が頷いた。やけに神妙な調子に、旭はしばしその場に立ち止まる。


「旭がわたしのために卓球部に入ってくれたのは知ってる。でも本当は他にやりたいことがあったんじゃないかって、ちょっと心配してたの。前も言ったけど、やめたくなったらいつでもやめていいんだからね」

「……わたし、辞めるつもりないよ。お姉ちゃんのことがなかったら卓球部には行かなかったかもしれないけど……たしかに最初はそうだったけど、でも今はね、自分がそうしたいから毎日部活に通ってる」


 いつかはこういうことを言われるだろうな、と思っていた。日向が打ち込んでいた卓球のことを何も知らずに入部して、本当にそんな動機で三年も続けられるのかと訝られるのは当然だ。

 姉が素直に自分を心配してくれているのはわかる。けれど旭は、もう日向のためだけに卓球部に所属しているのではない。旭はずっと日向にそれをわかってほしかった。日向が隈のできた目を細めて笑う。


「ちょっと安心した。旭がちゃんと楽しいなら、それでいいよ」

「うん。いってきます」


 よかったら見に来て、とはまだ言えない。けれど――いつか大会の観客席に姉の姿を見つけられる日が来たら、それはとても嬉しいことだと思うのだ。

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