桃李もの言わざれど②

 ――またこれだ。

 鞠佳まりかはぐっと奥歯を噛み締める。一体どういうつもりなのだろう。試合ではまず打たない山なりのループドライブをラリー中に何度も打ち込んで――これではほとんどドライブ練習だ。伸びのないすみれの打球を、鞠佳は丁寧にストレートに送った。


 カット打ち、という言葉がある。強打ばかりではネットミスが多くなるため、緩いドライブでつないでここぞという場面で攻めるのがカットマンと戦う攻撃型のセオリーだ。

 強い下回転を持ち上げるには回転量を上げる工夫が必要になる。カット打ちは普段のドライブともまた違う、カットマンに対応するための打ち方なのだ。

 進藤菫はカット打ちを滅多にしない選手だった。菫はスイングスピードの速さとラバーの弾みを利用したミート打ちがうまく、中学でもこの打法を多用していた。

 ミート打ちは相手の打球に回転をかけ返すドライブとは違い、単純に言えば回転のかかったボールを『叩く』というものだ。打球にはスピードこそあるものの、平原や薫子かおるこの打つようなドライブに比べればほとんど上回転がかかっていない。


 しかし面の角度を合わせるのがうまいのかなんなのか、菫の場合カットマン相手でも普通にミートを決めてくる。

 回転量の多いドライブを抑えるのは得意だが、速い打球を切るのは苦手。そんな鞠佳と菫の相性は絶望的に悪く、中学でも何度となく苦戦を強いられてきた。

 それなのに菫は、有効だとわかっているミート打ちをあえて使わない。上手くもないループばかり打たれたところで返球は容易だった。


 リードされた状況でも、菫は懲りずに同じボールを打ち続ける。頭が沸騰しそうだった。かっとなった鞠佳は、ボールを払いのけるようにフォアハンドを振るった。

 顔に向かって飛んできたピンポン球をぱしりと捕まえた菫は、急にプレーが雑になった鞠佳を不思議そうに見ている。その仕草にすら腹が立って、鞠佳はラケットを台に叩きつけた。


「なんなのよさっきから、いい加減にして! いつもはそんなドライブ一球も打たないじゃない!」


 試合中の美景みかげがこちらを向くのが見えた。練習場に響き渡った鞠佳の怒声は、フェンスの向こうで練習していた男子部員の注目をも集めている。しばしきょとんとしていた菫は、いくつもの視線にひるむ風もなく芝居がかった調子でゆっくりと首を傾げた。


「……よくわかんないけどさあ、要するにそれ、菫のプレーが気に入らないから瀬尾せおちゃんの言う通りにしろって言ってる? 試合中にそんなこと言う人初めて見た。瀬尾ちゃん、大会でもそうやって対戦相手に注文つける気?」


 体育館に菫の声が落ちていく。明確な揶揄を含んだ口調に、鞠佳はすぐさま言葉を返した。


「違うわよ、あたしはただ、手を抜かないでって言ってるの。わかってるでしょ? いつもよりラリーが続いてるのも、あたしが……あんたから普通にゲームを取れてるのも」

「知らないよそんなの。菫、一回でもわざとミスした? してないじゃん。普段よりループを多めに打ってるだけだよね。それが瀬尾ちゃん的に返しやすいボールだったからって、菫がわざと瀬尾ちゃんを勝たせようとしたことになるの? 捉え方が自分本位すぎでしょ、こっちは練習したくて打ってるだけなのに」


 にわかには意味がわからなかった。練習、と呆けたように繰り返した鞠佳は、結い上げた髪を指に巻き付けている菫を見つめる。


「あんたは、自分の試合を練習に使うわけ?」

「だってまだ本番じゃないもん。大会で当たるならさっき瀬尾ちゃんが言った通りにやると思うよ、いつも通りに打つと思う。でもこれは部活でやってるリーグ戦でしょ」

「なによそれ――馬鹿にしないでよ、試合は試合じゃない。勝つことを一番に考えるのが当然なんじゃないの」


 くどいなあ、と笑い混じりに呟いて、菫は親指をラバーの表面に這わせる。ざりざりと細い粒を押し潰す菫は珍しく苛立った様子で、決して鞠佳と目を合わせようとはしなかった。


「わかったってば。瀬尾ちゃんがどんな試合でも全部勝ちたいって思ってるのはよくわかったけど、周りにそういうの押しつけないでよ。どう打とうが人の勝手なんだから」

「押しつけるって何? じゃあ、あんたは負けたくて卓球やってるとでも言いたいわけ」

「それはちょっと極端。そうじゃなくて、たぶんスポーツって……部活って、みんながみんな勝ちたいだけでやってるわけじゃないんだよ。少なくとも菫はそうだし、だからって否定される筋合いはないと思うんだけど」

「ふざけないで」


 鞠佳が叫んだ。ラケットに視線を落としたまま吐き捨てる菫が声を荒げることはなかったが、その言葉は刺々しい敵意に満ちている。とはいえ鞠佳の怒りに拍車をかけたのは菫の取り繕った冷静さではない。

 勝ちたくて部活をしているわけではない、と言うのなら。進藤菫がそうであったと言うのなら、あの試合は一体なんだったのだろう。


「あの時あたしに勝ったのはあんたでしょ?」


 中学最後の春季大会、団体決勝リーグでの八倶坂やくさかとの直接対決。それは、鞠佳にとって絶対に忘れられない試合だった。一番と二番を落とし、双子がダブルスで勝利を挙げて、後がないところで四番手の鞠佳が負けた。

 園部そのべが守り続けた連覇の記録はあっけなく途絶え、会場で熱心に声を張り上げていたOBの応援は罵倒へと変わり――その罵倒のおおよそが自分へと向けられたことを、鞠佳は今でも思い出す。チームがすぐに立て直せるわけもなく、園部は続く総体でも優勝を逃した。

 部長としての責任を果たせ、と言われた。始めから実力が足りなかったと、プレースタイルが園部らしくないとも言われた。こんな奴に部長を任せたのが悪かったんだ、とも。こぼれてくる涙をタオルに吸わせて深々と頭を下げながら、鞠佳は先輩たちにまで批判を向け始めるOBを心底憎らしく思った。

 自分が不甲斐なかったから、園部がたった一年で弱くなったからといって、自分を次の部長に選んでくれた井浦や浜崎までもがくだらない連中に勝手なことを言われるのが我慢ならなかったのだ。


 悔しくて悔しくて、井浦のようにチームを引っ張れなかったことが、先輩たちのように強くなれなかった自分が悔しくて、けれど何より悔しかったのは八倶坂に負けたことだった。

 部員のほとんどが初心者で、中学から卓球を始めたという条件は同じはずなのに試合では歯が立たない。自分たちが八倶坂とどう違うのか、何が足りないのかと考え続けて、結局最後も菫に負けた。

 ベンチに両手を突き上げた菫の表情は実に晴れやかで、輪になって喜びを爆発させた八倶坂の部員たちは混じり気のない笑顔で――だからこそ許せなかった。勝つために部活をしていないと言うのなら、その菫に負けた自分はどうなるのだろう。何のためにあの敗戦を悔やみ続けてきたというのだろう。


 気を抜いたら泣き出しそうで、一心に菫を睨みつけていた鞠佳は、菫が小さく吹き出すのを見た。何がおかしいのよ、と言いかけた声が声にならない。ようやくこちらを向いた菫の顔には、ほとんどこちらを蔑むような色が浮かんでいた。


「……瀬尾ちゃんさあ、負けたからっていちいち相手のせいにするのやめたら? いつまでうちを悪者にしてたら気が済むの」


 静かな声がぐさりと耳に突き刺さる。それがまったくの正論であることは鞠佳にもわかった。勝者の側の理屈を真正面からぶつけておいて、菫は軽やかに歩き去って行く。


「あの、菫ちゃん」

「菫もう帰るんで。あ、試合はー、とりあえず棄権扱いってことで」


 呼び止めるあさひの前を通り過ぎ、更衣室へと向かった菫は体操着のまま階段を降りてきた。扉を開けるのが億劫だったのだろう、非常口から外に出る菫を追う者はいない。


「で、林さんはいつになったらサーブを打つの?」

「えっ、あ、すみません」


 平原に急かされた美景が慌てて構えに入る。凍り付いた時間を動かすような言葉を契機に、ぽかんと動静を眺めていた男子部員が目の前の練習に戻り始めた。

 唐突に試合相手に立ち去られた鞠佳はぽつんとその場に突っ立つだけで、旭がちらちらとよこす視線がうるさかった。がりりと爪を噛んだ鞠佳は、再び非常口が開く音を耳にする。


「ねえ、さっきスミちゃんとすれ違ったんだけど――って、みんな顔暗すぎじゃない? また何かあった?」

「萌さん~!」


 いつかのように外から顔を出した井浦が部員を見渡す。ようやく戻ってきた部長に、旭がすぐさま泣きついた。

 試合を終えてしばらく外にいたのか、ゆるく結んだ茶色の髪が風でやや崩れている。マネージャーから事のあらましを耳打ちされ、井浦は額に手を当てた。


「なぁんで揃いも揃って揉めたがるかなあ! 揉めるならあたしがいる時にしろって園部でも言ったよね? 鞠佳はちょっとこっち来て、他のみんなは試合でも練習でもしてて」


 呆れかえった様子の部長に手招かれた鞠佳はのろのろと歩を進める。別に悪いことをしたわけじゃない、などと、まるで子供じみた言い分を胸に抱えながら。

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