第30話
ハンスにとって、バンゲントーゼの宿で過ごす夜は『セフィーとの対談から三度目の夜』と呼ぶべきものだった。
一度目の夜、つまり、セフィーと別れてからの夜は、豪胆さを売りにしているハンスでも一睡もできないまま朝を迎えている。
『ならば二度目の夜は?』と問えば、やっぱり全く眠れていなかったりする。
それもまあ、状況を鑑みれば無理からぬ事ではあった。
何せ、王女殿下が直々に敵認定を下した組織の実戦部隊と共に同じ陣内で野営するのだ。
個人で敵陣地に乗り込んで首級を挙げるようなイカレ野郎でも、流石に敵地のド真ん中で呑気に鼾を立てられるほど危機管理能力の乏しい頭はしていない。
寧ろ、敵地の真ん中で敵将を討つまで見咎められずに潜伏できたのは、彼が無警戒とは無縁の存在だったからだと言えるだろう。
だから、二度目の夜も殆ど眠れず――いや、寧ろ敵に囲まれている警戒心で目も頭もギンギンに血走るほどに冴え渡ってしまう始末だった。
しかし、バンゲントーゼの宿で過ごす三度目の夜は、敵集団も同じ建物内に居るとは言え、幾つもの壁と通路に挟まれて隔離された空間で過ごせるのだ。
しかも、彼は二日連続でほぼ徹夜状態のまま過ごした挙句、三日目も殆ど一日中気を張り続けていたのだから、本人も気付かない内に疲れが溜まっていたのである。
その結果、『セフィーとの対談から三度目の夜』を迎えたハンスは、柔らかな椅子の上で普段の睡眠姿勢をとった事で、久方振りの熟睡状態へと移行してしまったのだった。
そうして熟睡したハンスの意識は、彼自身ここ最近御無沙汰だった懐かしき夢の世界へと誘われていた。
――ハンスが漂っているのは、遠い昔に喪われた故郷の空だった。
風に乗って空を舞う鳶のような視点から豊かに実った穂が作り出す金色の海を見下ろして、ハンスは自身が夢の中に居る事をいつもと同じく早々に自覚していた。
普段なら『未練だ』『郷愁だ』と切り捨てて眠り直すのだが、今回に限って何故かそんな気になれなかったハンスはサワサワと揺れる穂波の上を漂い続けた。
そのまま、大好きだった原風景を眺めながら中空を漂い続けていたハンスだが、ふと逸らした視線の先で、村の北端にある小高い丘から彼と同じものを見下ろす幼い少年の姿を見付け、その子の元へと飛んで行った。
懐かしい農村の匂いを乗せた風に身を包まれながら向かった先で、ハンスは見る見る近付いてくるその灰髪の少年がいつかの自分だった事に気付く。
「………………………………」
自らが生まれた土地に在るものだけが世界の全てだった幼い日の自分を目にして、何とも言い難い微妙な心境に陥りながらも、ハンスは獲物に爪を突き立てる鷹のように体勢を入れ替えてその子が立つ丘へと着地した。
だが、幼い上に傷も無いあどけない顔で眼下の景色に見入っている幼少ハンスは、上から降って来た傷顔などまるで存在しないかのように、その琥珀のようにキラキラ輝く瞳に無数の星を浮かべながら一心に金の稲穂を眺め続けている。
そんな童心丸出しの自分に、もう早速不貞寝――ではなく、寝直して身体をキチンと休ませたくなっていたハンスだったが、ふと幼少ハンスの視線が動いた事に気付いてそれを追った。
二人の視線が向かった先では、この農村に似つかわしい簡素な服を着た妙齢の女性が緩やかな坂道を上って来ていた。
「、――!!」
「――――――、――――!!」
その自分と同じ色の目髪をした女性を見て短く息を呑んだのは傷顔ハンス、その女性に手を振りながら何かを叫んでいるのは幼少ハンスだ。
「――――――――――――――――――――――――」
「――――!!」
傷顔ハンスには聞こえない声で何事か呼び掛けていたらしい女性と、彼女に向けて元気良く返事をしながら坂を下った幼少ハンスは坂の上で合流すると、二人してそれはそれは幸福そうな笑みを浮かべてなだらかな丘を後にした。
そんな彼らを前に、呆然と立ち尽くしていたハンスの視界が暗転する。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます