5/死生混濁
「――――……」
どこか煮え切らず、歯がゆく、もどかしい。
そんな感情を抱きながら、レドラニスカは本体へと戻ってきた。
彼は自分の状態を確認すると、そのあまりの酷さに唇を噛んだ。既に全体積の九割が失われている。生命活動に支障はないが、しかしこの地に訪れた時に比べれば見る影もない有り様。随分と小さくなった己の体を惜しみながら、彼はこうなってしまった原因を振り返る。
――やはり、ヒトは手強いですね。
連続する戦闘の負担が彼を消耗させていた。
特に最初だ。バーダックという男性を首魁とする五人組の兵士達。人生初となるヒトとの戦いだったという点を踏まえても、アレは激烈だった。最終的には勝てたものの、六割以上の肉体が散らされ分体生成能力にも支障をきたした。あれから食事による回復を挟んでいたが、しかし全快には程遠い。
その後もアイザックと呼ばれる個体に削られ続け、体内に注射された何らかの薬剤で少なくない細胞が崩壊させられていた。途中で根を自切したから防げたものの、本体にまで届いていたら死んでいてもおかしくなかっただろう。
彼らの薬剤は、レドラニスカに通用はしていたのだ。
だが、レドラニスカの体組織は植物と動物の混合体であり、植物性タンパク質と動物性タンパク質の両方が使われていた。両者は同じタンパク質の名を冠するが、全くの別物。炭素結合に作用する毒物は本来の対象ではない植物相手には効き目が悪かった。
それでも、重傷である。
――失態です。陛下に何とご報告すべきか。
彼は自分の体のことより、陛下の命令を遂行しきれていない現状を恥じていた。
命じられた任の内、達成できたものは最低限に過ぎない。もっと成果を上げられた。あと少しで沢山の命を刈り取れた。それなのにここで逃げざるを得ない状態となっている。申し訳ない。主の望みを叶えることこそが、自分の使命だというのに。
――だが、これ以上はいけない。
自分にはやるべきことがまだ残っている。こんなところで朽ちるわけにはいかなかった。
――それにしても、遊びすぎましたかね。
彼は先までの戦闘を思い返し、笑いながらそう結論付けた。
そう、楽しんでしまった。初めてのヒトとの邂逅。彼らと交わす言葉の数々は、積年の憧れを存分に満たしてくれた。何よりその戦闘能力たるや。自分の想像を超える戦法に力量。戦場からはとうの昔に離れていた自分ですらも、その一挙一動に目を惹かれてしまっていた。
――まさか見破られるとは思いませんでしたよ。
何より驚いたのは、自分の正体を当てられたことだ。
ヒントを与えたつもりはない。むしろ隠そうと色々趣向を凝らしていた。それなのにこうも短期間で見破られるとは思っても見なかった。
だが、惜しいかな。少し違う。
彼は植物型アンブラーではない、水棲食虫植物型アンブラーだった。
光合成だけでなく血肉の摂食によってもエネルギーを得ることができ、何より海という環境にも適応している特殊な植物こそ、彼の正体であった。
彼の特筆すべき能力は植物由来のエネルギー効率や耐久力ではなく、アンブラーとなってから獲得した『分体生成』能力である。
自身の本体から根を伸ばし、その先に自分の思い描いた形を生み出して、簡単な操作を可能とする。それこそが真髄であり、故に優秀な能力であった。確かに分体の生成や修繕にはエネルギーを使うが、しかし分体に備わる怪力も再生力も、特別なことをしているわけではないからだ。
いうなれば、彼は巨大な樹木だ。
彼にとって分体とは枝葉の一つでしかなく、治癒や再生成は全てヒト達の言った通り「植物の基本性能」の範疇に収まる。枝葉を自由に生み出し、また動かせるという点こそが彼の進化因子の能力であって、それ以外は全て長大なスケールの植物の起こす自然の摂理でしかない。
恐るべき膂力は本体が巨大であったという事実に裏打ちされたものでしかなく、一瞬で再生したように見えたのも巨大な全体像における僅かな傷だったからである。
――あぁ、やはりヒトは素晴らしい。
彼はこの自身の正体を言い当てた少年を思い出し、その洞察力を賞賛した。
見破られたことを嘆きもしたが、しかし隠せるものなら隠したかった程度であって、タネが割れようと問題ないと彼は思っていた。事実、それは正しい。物量戦法こそが彼の本領なのだから。
故に、彼にあるのは敵への曇りなき尊敬の念。
ヒトが好きだという嘘偽りのない彼の羨望を、象徴するかのごとき知能。そのあまりのヒトらしさに、彼は拍手喝采を送っていた。
認めよう。
彼らとの関わり合いに、油断や慢心があったことを。
だがそれでも、心躍る一時であったことは紛れもない事実。レドラニスカはそれを優先したことを反省はすれど、後悔は微塵もしていなかった。
ここで彼は、自分の中に二つの存在を感じ取っていた。
陛下の命を果たさんとする理知的な自分と、己の欲望に従いたい本能的な自分。切り離したとばかり思っていた野性的な側面が、自分の中にもまだ残っていたということに、彼は不思議な感情を抱いていた。
――まぁ、良いでしょう。
自分は逃げるが、しかし負けではない。
多くの仲間を失った。知己の
そして次に会う時があれば、自分は彼らを打倒するだろう。
――さて、出ましょうか。
惜しさはある。後悔も未練も、この地には残っている。
だが今は傷んでいた。一刻も早くこの場を去り、安全な場所で休めねばならない。
そうして彼はずるりと自分の肉体を動かそうとし――、
「やっと会えたな」
いるはずのない人間の声を聞いた。
*
『圏域外郭放水施設』という長ったらしい名を冠する建物の地下に来るのは、コレで二度目だ。
そう、前に来た時に俺はここに訪れたことがある。記憶に新しいと言っても良い。
その事実に感じるのは違和感。だが、今は置いておく。それよりも重要な目の前のことに集中するべきだ。
数日ぶりに足を踏み入れる空間は、前と似た光景を俺に見せてくる。広大な地下貯水槽。ドでかい柱に、底の見えない深い闇。今回は光源すらない。一面塗りたくったような深い闇の中、しかし暗順応した俺の眼は、確かにソレを捉えていた。
ソレは、まるで心臓のような生物だった。
敷き詰められたカニの甲羅の床。
その上に、筋肉の塊が鎮座している。
ソレはビクンビクンと脈動を繰り返している。半透明な膜に覆われており、膜には血管の代わりに白い線のようなものが幾つも奔っていた。内部では深い緑が発光している。進化因子の活性化の証。そして、さっきまで見ていたレドラニスカと同じ色合いでもある。
「やっと会えたな」
間違いない。
この悍ましい肉の塊こそが、レドラニスカの本体だ。
タラップを踏み、大空洞へと身を躍らせる。レドラニスカは沈黙していたが、しかし俺の存在に気付いたのか、肉の塊の脈動が緩やかになる。
近付いたことにより、敵の全体像が視界に収まる。心臓の全長は八メートルほどとやや想定より大きい。脈打つ体表からは白い糸のようなものが幾つも伸びていた。根だろう。神経や血管と似た働きをする、彼にとっての腕や足のようなものだ。
なるほど、だからその先に生み出す彼の分身のことを、彼は手足と呼ぶのだ。
「随分素敵な恰好してるんだな、あんた。手足どころか目鼻や口もないとは驚いたぜ」
心臓は沈黙している。
だが、根の内の一本が動き出し、その先端が膨らみだした。やがてドロドロとした液体が噴出され、人間大の大きさへと固定されていく。
なるほどな。レドラニスカの分体が現れるのは、決まって視界が悪い時だった。おそらく出現の瞬間はこのような形を取らなければならないのだろう。自らの細胞をヒトの形に整形するまでの時間稼ぎと、その瞬間を見られないようにするために、この敵は土を掘り返して視界を悪くしていたのだ。
また一つ納得がいったと思っていると、やがて肉体が――彼にとっての手足が完成する。
緑と黒を基調とした衣装。垂れ落ちた長い髪の毛に、細長い手足。
何度も出会ったことのある男の姿を使って、レドラニスカが口を開いた。
「……なぜ、ここが分かったのですか」
「根っこを都市に張り巡らせて暗躍するつもりなら、本体は安全かつ根を張りやすい地下に隠れる。ならここしかない。デカくて広くて、何より餌が大量にある」
「おかしい、ですね。なぜ貴方がその情報を持っているのです。この地に訪れたヒトは全て殺し、通信機の類も壊したはずですが」
「実はいたんだよ。もう少し前にな」
「だとしても、なぜ……」
「カニタワーだよ。あんだけの数のカニの死体だ。中身はどこいったか、疑問に思うのが普通だろうが」
「……」
それはさっき黙っていた、俺の最初の疑問点だ。
このコロニーについた時、俺は「以前倒したカニ型アンブラーの死体がない」ことに気付いた。そして次に見たのは悪趣味なカニタワーだ。中身をくりぬかれたガワの部分だけが転がっていた。どちらにしろ中身がない。アンブラーにとってはご馳走のはずの死肉が、そっくり丸ごと消えているのだ。
レドラニスカと遭遇した時、最初は「コロニーにやってきたこいつらがアンブラーの死体を食べたのかな」程度に思っていた。
だが、俺がこのコロニーでの戦闘で出会った多くのアンブラーは、みな空腹だった。両断しまくったムカデの贓物には何も詰まっていなかったし、巨人は腹を空かせていた。これはおかしい。だってこの地下貯水槽にあったカニ共の死体まで含めれば余裕で千単位のアンブラーの腹を満たすことが出来る。にも拘らず、彼らは空腹だったのだ。
そして、レドラニスカが巨大な植物のアンブラ―であると仮定した時、全てが繋がった。このレビアコロニーで生まれた全ての死体は、このレドラニスカという巨大かつ大食漢の腹に収められているのではないかと。
「なら当然、ここにも足を運ぶはずだ。だってひしめくカニの大群がいるはずなんだからな。すげえよな。このカニ全部食い終わったあとなんだろ? お前、どんだけ腹ペコなんだ?」
俺はそう言って、足を踏み下ろした。
足元でガスッという抜けた音がする。俺が今立っているのは貯水槽の最下層ではなく、カニの死骸の山の上だ。折り重なるようにして底一面を埋めているのは全てもぬけの殻となった死骸のみ。しかも全部甲羅だけだ。中身が詰まっていない、伽藍洞の音がする。
つまり、コイツは食ったのだ。
自分という長大な存在を維持するために、同種の死体を食い散らかした。
あぁ分かってはいた。分かっていたが、まともな精神ではない。
俺の言葉を訥々と聞いていたレドラニスカは、鼻を鳴らして口を開く。
「――賢いことだ。貴方、何もかも見てきたかのように語りますね。ヒトとはこういうものなのですか?」
「安心していいぜ。俺は特別製だ。他人よりちょっと記憶力が良い分、物事に気付くのが早いんだ」
「まるで推理小説の犯人にでもなった気分ですよ。えぇ――成程、彼らが言葉に窮する理由も理解できる。お手上げという他ありませんね」
レドラニスカは俺の言葉を聞き、そう言った。
だがその言葉には、先ほどまであった感情が抜け落ちている。いよいよ余裕がなくなってきたらしい。
俺は腰のブレードに手を添えつつ、もう一つ気になっていた事象を口にする。
「『ヒューマンズ・エラーハウス』って知ってるか?」
その言葉に、レドラニスカは一瞬動きを止めた。
そして、目を輝かせて口を開いた。
「――ほう」
「人間の死体で家や道を作る、下劣で醜悪なB級映画が昔存在した。アレにはお前がカニの死体で作ったタワーに似たものが出てきてたよな。やっと思い出したよ」
「気付いてくれる人がいましたか」
レドラニスカは、少し嬉しそうな表情をした。
やはり当たりか。俺は自分の推論が正しかったことを理解する。
レドラニスカは腕を組み、ゆっくりと喋り始めた。
「えぇ、えぇそうですとも! 誰も気付いてくれないので悲しんでおりましたが、その通りです! ワタクシ、ヒトの文化の中でも映画や絵画が特に大好物でして! 素晴らしいですよね。創造性の極致を垣間見れるアレラは、ワタクシ達アンブラーにはないヒトの象徴……気付いてもらえまして何よりです」
「急に早口で喋んなよ、気色悪い。大体、俺は下劣で醜悪って言っただろ。あんなクソ映画見るに堪えねえよ」
「下劣で醜悪、ですか。芸術と呼んでいただきたいのですがね……死という生命の終わりを、真なる美へと昇華させているのです。死への生理的嫌悪は生命が最初から持つ枷です。死体を使うことを忌むのは凡百の感性であり、それを乗り越えた先にあるのが新時代の芸術であると、私は思います」
まるで頭のネジのぶっ飛んだアーティストみたいなことを言う。
その姿は人間よりも人間らしい。俺はたまらず口を出す。
「アンブラーが芸術語ってんじゃねえよ。プラスティネーションだの映画の模倣だの、やること為すこと全部悪趣味だぜ。お前のお仲間も料理について語ってたが、そんなに人間様の真似事が楽しいのか?」
「ふふ。そうですね……真似事でしょうとも」
レドラニスカは笑いながら、独白をする。
「ワタクシたちアンブラーは皆、ヒトへのある種の劣等感を持つのですよ」
「……」
「貴方の言う通り、ワタクシは植物でした。意識はあるし言葉もある。しかし、草木は星の支配者にはどうしたってなれない。誰かに寄生し、誰かと共存し、根を張り種を増やしていく。そんな生き方しかできなかった」
レドラニスカは、まるで「植物が生きている」かのようにして話を始めた。
だが実際に、植物が生きているのではとする研究は多い。雑草であれ体内には電気信号が通っており、刺激を与えるとその信号もまた変動する。彼らは人間には分からない何らかの方法で意思を確立し、会話を成立させているのではないかという研究結果もある。
それに何より、彼らもまた進化因子に適合し、人間に牙を剥く生物の一種だ。
当の本人が生きていると発言した以上、それは事実なのだろう。
「分かりますか? 種の限界を悟り、己の生の壁を越えられない弱者の気持ちが! 進化因子がなければワタクシは今こうしてこの場に立つことすら出来なかった! そして陛下がいなければ孤独に過ごすしかなかった! 貴方には分からないでしょう! 地球上で最も恵まれたヒトという種に生まれた貴方には!」
それはレドラニスカという生命の、慟哭だった。
「ヒトが紡いだ五〇〇万年の歴史は、言い換えれば他の種の虐げられてきた歴史です。ワタクシ達はその座が欲しい! その位地が欲しい! ヒトという種が浴びてきた世界のスポットライト! その陽だまりが欲しくてたまらないだけなのです! それこそがワタクシ達の悲願であり本願だ!」
……なるほどね。
それを聞いて俺は、このヒト型アンブラーとやらの生態を少し理解した。
ずっと疑問だったのだ。なんで攻めてくる必要があるのかと。
この世界はもう、アンブラーの絶対数の方が圧倒的に多い。人間は細々と生きるのみで、絶滅するんじゃないかと言われて久しいのが現状である。
種の繁栄がしたいなら俺達抜きで勝手にやってればいいだろうし、俺達と仲良くする意味もよく分からない。そのメリットが一切不明だった。
ただ、そんなものこいつ等には関係ないのだろう。
つまるところ、筋を通した代替わりがしたいのだ。先代である俺達人間に認めさせるか、完膚なきまでに滅ぼしてやらないと、こいつらは――人間という、先代の覇者に何か思うところがある彼らは、満足しないのだ。
思えば確かに、俺が出会った三人の到達者は、俺達人間を見て過敏とも呼べる態度を取っていた。砕けた言い方をすれば、彼らは人間のファンでありアンチ。こちらの反応を見ないと満足が出来ない。そう考えると合点もいく。
「これから五〇〇万年を紡ぐのはワタクシ達でありたい。そう思うことは、間違っていますか?」
そして目の前のコイツは――人間狂信者とでも言うべきか。
ヒトの文化を尊び、ヒトの長所を敬う反面、元々備わっていなかった感情という機能の欠落が色濃く目立つ。自分の仲間を思いやる心もなければ、他者の気持ちも分からない。いわば人真似を始めた幼児であり、拗れた思考を引きずって歩く人形みたいなものなのだ。
だから俺は、敵に向かって答えてやる。
「こっちに聞くなよ。どうせダメだっつってもやるんだろうが」
「――ふふ、ははは!」
そう。どーせ俺が何を言おうと、コイツは改心しないし人間を殺す。
答える意味なんてなかった。
「俺は人間で、お前はアンブラーだ。狩って狩られる以外の何物でもない」
「それでも、欲しかったのですよ。尊敬すべき先人からの助言が」
「人生相談なら他所でやれ。俺はお前のママじゃねえ」
「ふふ……その通り、母でありません。ワタクシとあなたは、鏡に映った像のような存在ですから」
「あ?」
訳の分からないことを言い出したレドラニスカに、俺は疑問を返す。
とうとう頭までイカレだしたか?
「ワタクシとあなたは、同じ存在ですよ」
「眼科か脳外科に行け。全然違うだろうが」
「いいえ、同じですとも。気付いているでしょう? 獣の身でヒトに近付いたワタクシ。ヒトの身で獣の力を使うあなた。互いに体内には進化因子と元となる種の遺伝子が存在し、言語によるコミュニケーションが成立する。あなたも感じているはずです。ワタクシ達の間には、そう大きな違いはない」
なるほど、確かに一理ある。
進化因子の浸度で言うならば、こっちはゼロ%から上げる形で能力を発現し、向こうは一〇〇%の状態から下げる形で知能を手に入れたということになる。始まりは全くの別物だが、結果としては確かに、似ていると評することも出来なくはない。
だが、厳然たる差がそこには存在する。
「さっき教えてもらっただろう。お前には心がない。賢しいことを言っているようで、その言葉は誰かの借り物でしかなく、やってることも人様の真似事だ。お前の根っこは立派な獣だよ。人を思いやる気持ちも、
「貴方も同じでしょう?」
「……」
「ワタクシは見ていましたよ。ワタクシに立ち向かってくる果敢なヒトの群れ。その中で唯一、貴方だけが笑っていた。最初の会合の時もそうでしたね。ワタクシの正体を知ってからずっと、貴方はどこか愉しそうにしていました――だから最初に狙ったのですよ。気味が悪いと、思いましたから」
あぁ、笑えるな。
どうにもこんな化け物にすら、俺は気味悪がられるらしい。
「今もそうです。ずっと貴方の瞳は、この状況を愉しんでおられる。ワタクシ、推理小説も嗜むもので――ずっと疑問に思っていましたよ。探偵はどうして、犯人の前で推理を展開するのかと。何も言わずに警察とやらを呼んで捕まえてしまえば、それで済むでしょうに」
レドラニスカはニヤリと笑って、俺へと尋ねる。
「つまるところ、悦なのです。したくてたまらない、やりたくてたまらないから、その欲望に従うのです。獣が闘争の愉悦から逃れられないのと同じで、欲望に抗えぬ側面がヒトにもあるのだ。貴方もそうでしょう? お仲間が危機的な状況で、悲壮感に溢れていたあの場において、貴方はとても楽しそうだった。今もそうです。わざわざ話しかけずとも、奇襲してしまえばいい話のはず。そうしないということは、ワタクシとの会話を楽しんでおられるのでしょう?」
俺は何も答えない。
だが、沈黙は解答なのだろう。レドラニスカは得心がいったというような表情を浮かべ、俺に向かって手を差し伸べる。
「どうやら貴方は我々に近い感性をお持ちのようだ。何度かワタクシ達を獣であると言っておりましたが――獣であることも悪くないと、思っていませんか? 貴方、どちらかと言えばコチラ寄りの生物でしょう?」
「ハハ――――ッ!」
俺はその言葉に、思わず笑ってしまった。
コイツはとんだお笑い
こちらへ向けて広げられた手のひら。
だが当然、答えは決まっていた。
「ノーだな。分かったような口を聞くなよ他人。俺はお前と同じじゃねえ。命乞いならもっとマシな文句を考えな」
「お誘いしたのは本心ですよ。ようやく近しい趣味を持つ同胞に遭えたかと喜んでおりましたので」
「スナッフビデオが好きそうな奴とは仲良くなれねえな。クソ趣味ひけらかすのも大概にしとけ」
「おや、趣味を言い当てられてしまいました。やはり貴方はワタクシの良き理解者だ」
「気色悪い。お前、友達いねえだろ」
「先程も誰かに言われましたね、フフ、フフフ――――!」
「ハハハハハハハ――――――ッ!」
俺は胸ポケットから、アンプルを取り出す。
あぁ、大丈夫だ。気分は最高にハイだが、戻ってくるさ。戻ってこれる。今までだって何度もやってきたことなんだから。
アンプルを握る。針が飛び出る。
俺はそのまま首筋へとソレを打ち付け――叫ぶ。
「
眼前には、満月のように裂けた笑みを浮かべるエセ紳士。
獲物は充分だ。後は己が駆け上がるまで。
そして狂気に身を浸す。
*
――冷たい血を鋳れていく。
加速する自意識。引き延ばされていく世界。脳の奥が震え、瞬き、電流を流す。十秒毎に入れ替わっていく
狙うは本体だ。
あの脈動する肉塊こそが奴の心臓に他ならない。見たところアレに攻撃機能はない。分体が強い分、本体はこのような丸裸の状態なのだろう。足し引きは合っている。
つまり、弱い部分を突けば俺の勝ち。分かりやすくて非常に助かる。
俺はそのままレドラニスカを無視し、奥にいる肉塊へと向かって走り出す。
「ッ! 一直線に来ますか! ツれないお方だ!」
すぐさまレドラニスカが迎撃に入る。
ぞぶぞぶぞぶぞぶと、周囲に張っていた幾重もの根から、緑色の粘液が中空へと放出される。奴の細胞だ。固形化まではよおそ三秒、流石に危ない。自分を阻むようにして現れた壁を前に、俺は立ち止まる。
果たして、壁はぐにぐにと変形していき、また新しいレドラニスカを生み出した。総勢十人。全員が両腕を奇形化させた状態で、俺の前へと立ちはだかる。
「……大勢で歓迎ってわけか」
「もう出し惜しむ必要もありません」「これが本当の全力ですよ」「他に動かしていた分体も全て回収し、意識もこちらにのみ割いています」「貴方はそうしてでも倒すべきだと、ワタクシは判断しました――――ッ!」
「喋るなら一人で喋れ。聞き取りづれぇんだよ」
「多数の体を持つワタクシが、今は貴方だけを見ているという
「黙れ」
なるほど。俺に全力を出してくれているらしい。嬉しくて涙が出そうだ。
見れば奴の本体である心臓は、その大きさが二回りほど小さくなっていた。やはり本体から細胞やエネルギーといったものを末端に送り込むことで、分体を生成しているのだろう。全力を俺に向けているのは本当らしい。
十体のレドラニスカが、身を躍らせて襲い掛かる。
――回避に集中しろ。
全身の歯車が、回転を始める。
レドラニスカ達が行動に移る。ブレードを抜剣。右手、頭上、足元からの殴打を走って回避。続く四撃目を避け、手近にあった敵の腕を斬り付ける。
ここで閃く。もしかしたら、敵の近くで動けば同士討ちを恐れて動きが鈍るんじゃないか。近くの敵の元へと接近し、回避に専念。しかし俺の避けた拳は別の分体に当たると、そのまま溶けるようにして融合した。同士討ちは狙えないらしい。分体を取り込んで一回り巨大になった拳が振り回され、それを跳んで避けていく。
「――よく、避けますね。いや驚きました」
十人もいるからか、レドラニスカの内一体が会話を始める。
余裕あんね。俺は息を整えつつ奴の言葉を聞く。
「素晴らしい身体能力だ。今日見た中でも一番綺麗に避けておられる。まるで当てられる気がしませんよ……それが貴方の能力なのですか?」
「答えると思うか?」
「ふふ……あなたは他の方より随分お喋りなので、ついつい期待してしまいます。出来ればもっと語り合いましょう! ワタクシはもっと楽しみたいのですよ!」
「男と歓談する趣味は俺にはねえよ」
「植物は雌雄同体なのですが、いかがでしょう?」
「アホ言え」
なんだか今日はやけに褒められる日だ。あのゴリラ男といいコイツといい、人間以外にモテている。一ミリも嬉しくなかった。
レドラニスカが動き出す。俺はすぐさま、回避と迎撃に意識を割く。
実のところ、レドラニスカの攻撃を避けることは容易い。
先ほど戦っていた時も思っていたが、コイツは愚直かつ単純な動作しか取らない。狙い、振りかぶり、放つ。確かにその威力は驚異的の一言に尽きるが、避けられるのであれば問題ではなかった。
問題なのは変形能力だ。
コイツは本体から根を通し、根の先へと分体を創り出す。
分体はレドラニスカという男の姿を取っているが、しかしその腕はさっきから膨れ上がったり縮んだりと不定形である。つまりコイツは一度体外に出したものの形を変形させることができる。こちらの当たるを当らないに、避けられるを避けられないに変えることが出来るというわけだ。厄介極まりない。
そのため、こちらは変形を加味してマージンを取る必要性が生まれ、そのせいで攻撃に回せる余裕が削られてしまう。防戦一方、回避一極を強いられる。
――だが同時に、得られる情報も増えていく。
奴がぐねぐねと肉が蠢く奇怪な状態で殴ってくるのは「こちらの方が当たりやすい」からであり、それは同時に「瞬時に五倍の表面積に変形させて俺を圧し潰す」といった芸当が出来ないことも意味する。ここから導き出される解答は、レドラニスカの変形はある程度の時間経過を必要とするということだ。
一番警戒していた行動を、相手が一切取ってこない。出し渋ってる可能性は否定しきれないが、すれば効果的な手を取らない理由はないため、出来ないと見做す。
さて、次のステップだ。
いくら回避できるとは言え、同時に十体はちょっと手に余る。俺の体力も無限ではない。せめて半分くらいにしてもらわなければ。俺は後ろ手にポーチを開いて、中から小型の筒を取り出し、それをこれ見よがしに見せつけた。
「これ、なんだと思う」
「――ッ!!」
レドラニスカ達の間に緊張が走る。俺は先刻、除草剤という単語を口にしている。コイツらからすれば心臓が剥き出しになっている今、毒物を使われるのが一番困るはず。
だから俺は、そのまま心臓に向かって筒を投擲した。
「く――――ッ!?」
レドラニスカが弾けるように反応する。分体の内、五体が腕を変形させて伸ばし、筒を食い止めようと追い縋る。その甲斐あってか、彼らは筒をキャッチすることには成功した。
だが、失策である。
突然ボゥという音をたて、暗闇の中に眩い炎の柱が上がる。
俺の投げたのは傷痍弾だ。使い捨ての化学兵器。トリガーを抜いて衝撃を与えれば火災発生。戦闘用としてのものではないのだが、しかしコイツ相手には効くはずだ。
「あヅ――フフ、フハハハ! 炎ですか! 成程!」
数体のレドラニスカの体が、燃え上がる。
コイツは元植物。葉緑体を持ち、細胞壁によって構成されている肉体は一般的に熱に弱い。というか生物なら大体熱には弱いし、こういう対多の時は使い勝手が良いので持ってきていた。
だが、あまり効いてないみたいだ。
三体分の腕が少し炭化したぐらいですぐに鎮火してしまった。やはり進化因子で変化を遂げた以上、純粋な植物ではないのだろう。それでも十分な効果はある。
俺はすぐさま、ポーチから二投目を取り出した。
レドラニスカ達が苦笑いをする。
「除草剤なんて都合のいいものを、軍人である貴方達が持っているのですか? そもそも持っているのであれば一投目に投げるはずでしょう?」
「さぁ、どうだろうな。取り合えず投げるから、そっちで確かめろよ」
「フフフフッ! 酷いお方だ!」
毒といっても多種多様だ。毒ガス兵器から毒の原液まで多種多様。あっちからすれば心臓に一滴振りかかるだけで致命傷になり得る以上、防御に気を回す必要があるだろう。
まぁレドラニスカの言う通り、本当は除草剤なんて都合の良いものはない。
でも警戒だけで十分だ。バカみたいに真剣に、攻撃をその身で受けてくれるだろう。
*
「ハァアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!」
―――一、二、三、四、五……。
三体のレドラニスカが、唸り声と共に襲いかかってくる。
内、一人は右手を肥大化させ、残る二人はその両手同士を融合させ巨大な網状の形状にしていた。普通にやっても回避されるだけと学んだが故、追い込むための大振りの一撃と、足を止めるための捕獲手段を持ちだしてきている。敵も考えているのだろう。そこにはアンブラーにはない思考錯誤の跡が見て取れる。
だが、それだけだ。
「――ッ!! なんなら捕まるのですか、貴方はッ!」
今まで見た奴の部位肥大化の速度と規模を織り込み、そこに余力を残している可能性を加味してそれを躱す。躱しつつ斬る。切り刻む。ほんの少しずつ奴の体積を削ぎ取っていく。
――十二、十三、十四、十五。そろそろか。
「くっ……ですが、躱すと言うことは当たればマズいんですよねェッ!!!」
その言葉と共に、俺の足元から巨大な輪が浮かび上がった。
先ほどから隠れて準備していたのだろう。奴の分体の足元から繋がるその輪は俺を取り囲むようにして作られていた。浮上、後、縮小。その伸縮速度は回避する間もないほど速く、胴体へと巻き付いてくる。
分かるよ。ここは光源のない暗闇で、足元はカニの死骸だらけだ。何か落ちていても気付くのは難しい。罠を仕掛けられるなら誰でもそうする。
俺でもそうする。
「ハハ……ようやく捕まえまし――」
レドラニスカが喜色を浮かべると同時、三ヶ所で爆発が起きた。俺が事前に仕掛けた小型の爆発物だ。タイマーが切れて起爆したに過ぎない。
流石に全てが効果的とはいかなかったが、内二つは奴の分体の足元に誘導出来ていた。想定していなかった奴は直撃をモロに受けることになる。
「くっ……一体、どこまで先を――」
「拘束、緩んでるぞ」
「ッヅ!!!!」
判断が遅い。爆発に面食らっていた隙を利用し、直撃を受けていた分体二体の足元を斬って本体から分離させる。切り離された部位は使えないと知っているが、万が一の可能性も加味し死体を八分割。ドチャッ、という音を立てて肉片が地に落ちる。
「さて、残りはあんた一体だ」
「ハァ……ハァ……」
「余力があるなら今が追加のチャンスだと思うんだが、どうだ? 一人で俺の相手するのはきついだろ?」
「自信過剰なことですね……気付いているでしょう? 私にとって、この身体の操作とはあなた方にとっての手指の操作みたいなものです。数が減れば減るほど操作性は上がるんですよ」
「その例えはおかしいんじゃないか? 一本の指を頑張って動かすより、十本の指を適当に動かす方が便利に思えるんだが」
「はは……さて、どうでしょうね。そういうあなたも限界ではないのですか? 今ので煩わしい道具は品切れでしょう?」
「そうだな。持ってきた投げ物はもうないぜ。でも俺はまだまだ元気だ」
「――――」
「さ、やろうか」
最後の一体を倒すべく、俺は刀剣を構えて前に出た。
――頭脳労働だ。
レドラニスカが鬼気迫る表情を浮かべて襲いかかってくるのを前に、俺の心は冷めていた。
肉体の全権を管理下に置ける俺にとって、戦闘とは肉体労働ではなく頭脳労働に他ならない。
手に入れた情報を元に動きを修正していく。記憶の中から打開策を探り、知識の中から有効打を見つけ、戦闘の中で隙を伺う。そこに一切のミスはない。呼吸や瞬きのタイミング、身体と精神の疲労度合い、怪我の具合からその影響まで全てを管理しきっている俺に想定し得ない身体の変調などというつまらない負け筋は絶対に踏まない。
つまり、詰みだ。
青桐レイジがレドラニスカに負けることはないと、既に俺は結論を出していた。
十体いたレドラニスカの分体は既に一体にまで減り、背後に控える心臓の大きさも俺と同程度にまで縮んでいる。ブラフはない。この戦闘で減った心臓の体積は、俺が斬り落とした追加の体積とほぼ同じだ。殺して地に落ちた分体も観察し続けているが、今も尚地面に転がり落ちていることから再生といった芸当の線も薄い。
そして何より、一番重要な点として――レドラニスカは強くない。
生物としては確かに強いのだろう。だが戦闘技能という面において、こいつは普通のアンブラーにも劣るほどに未成熟だ。そこには技術も経験もない。形状変化の種類もそう多くなく、力任せにただ飛びかかってくるだけと戦法のレパートリーも少ない。その理由は幾つか推測がつく。
おそらくコイツは間違えた。
多少の不自然さこそあったものの、レドラニスカの分体は人と見紛うほどに自然だった。表情、四肢の動き、視線の動き、言葉の抑揚、呼吸に胸の上下。それがただの人形遊びであるなど疑えないほど彼は人間らしかった。
その卓越した分体操作能力。その技術の高さは、裏を返せば他の何かを極めることを辞めている。もっと変形の速度が速ければ苦戦していた。もっと変形の種類が多ければ苦戦していた。そもそも人体などではなく、もっと戦闘に特化した形状を持つアンブラーを分体として使っていれば――。
そこで、俺は思考を打ち切った。
益体のない
「――――」
死体が崩れ落ちる音を最後に、静寂が暗闇を満たした。後に残るは俺と、レドラニスカの
少し、考える。この状態であれば捕獲が可能かもしれない。
だが結局、殺害するべきだという結論が出た。リスクがデカすぎる。生きた人型アンブラーの標本サンプルが欲しいならもっと安全な個体で良い。終わりにしよう。俺はそのまま本体の下へとゆっくり歩いていく。
レドラニスカは動かない。その肉の身体にまとわりつく白い根も、しおれて力無く垂れている。ともすれば、俺が近付いていることにすら気付いていないのかもしれない。目や耳といった感覚器官すら備えていないその姿は、やたらと『ヒト』に拘っていたコイツの人間らしさを象徴しているようにも見える。
聞こえていないのを分かっていて、俺は小さく呟いた。
「お前がもう少し……正しい道を歩んでいたら、もっと楽しかったぜ」
返答はない。期待もしていない。
手に持っていたブレードで肉塊を袈裟切りにし、更に八分割にする。このままにしておくのはちょっと怖いので火葬にしよう。まぁ燃やす道具は既に使い切ったのだが。目を離すわけにはいかないので、三桁部隊の誰かにここまで来てもらうのが良いだろう。そう思って俺は端末を起動しようと、ポケットに手をやり、
トスッ、と。
そんな軽い音を立てて、俺の腹部を黒い杭が食い破った。
「ッ!!!」
「やっと、油断してくれましたね……」
一本だけではない。続けて何本も、何十本も、俺の身体を穴だらけにする勢いで背後から杭が伸びてくる。すぐに対応するが全ては避けられない。致命的な個所に幾つか穴が開く。
距離を取って、俺は後ろを振り返る。
「……まだ、生きてんのかよ。往生際が……げほっ……悪い、な」
「こうまでさせたのは誰だと思っているんですか」
そこにはレドラニスカ、と思しき物体がいた。
黒緑色の肉の塊だ。形は人型ではあるが、その背丈は俺の半分ほどしかなく、顔は口の部分以外はのっぺらぼうである。衣服も着ていないし、身体もところどころ溶けて崩れて繋がっている。分体に本体が乗り移った。そんな推測が脳裏に浮かぶが、レドラニスカの発言がそれを否定した。
「これが本体ですよ。そこの
「ハッ……俺が斬ったのはなんだ、抜け殻だったってわけか? 何でもアリじゃねえか……」
「何でもアリではありませんよ。苦肉の策です……本体と分体とでは訳が違う。もう、ワタクシの本体はこれ以上大きくなれない。胃と腸の大部分を切除してしまった……あぁ、なんという失態……陛下にどうお詫びすればよろしいものか」
「もう、勝った後のこと考えてんのか?」
「終わりですよ。肺と脾臓に穴が空いています。ワタクシ、人体には詳しいのです。それで生きていられるヒトは存在しませんとも」
レドラニスカの言葉は事実だ。俺は俺の身体が今どんな状態なのか理解している。こうして立っている今も喉奥からせり上がってくる血を飲み下すので精一杯だ。
マズったな。致命的なワンアウトだ。
死にゆく俺を前にして、レドラニスカが続ける。
「勝ったと思っていたのでしょう? 分かりますよ。ワタクシは同胞の中でも戦闘に向かないタイプですし、同胞にも指摘されたことがありますから――けれど、これがワタクシにとって正しい道だ。ヒトに焦がれ、ヒトに相対する身としてこれ程相応しい進化の形はない。弱っている演技も、中々だったと思いませんか?」
「……」
「今日を糧にしてワタクシはまた一歩ヒトに近付ける。そしてやがては追い越すでしょう――さようなら、ヒトの戦士よ。あなたのことは決して忘れません」
もう、声すらも聞こえない。意識が朦朧として定まらない。
――そして、青桐レイジは死んだ。
*
――人を、守りたいという気持ちがある。
三〇〇年前、世界は滅亡の危機を迎えた。それからずっと人類は頑張っている。何億もの人間が誰の記憶にも残らない形で死んでいく。その無数の屍を踏み越えて、今の人類は息をしている。何億回と繰り返された命のリレー、そのバトンの持ち主が今の自分だ。ましてや自分は継承者。期待に応える、義務がある。都市に住む人々の営みを、部隊の他の仲間達を、守らなければならないと思っている。
そんな、人間としての理性の自分も、確かにいる。いるんだよ。
でもその一方で、こうも思う。
――全てどうだっていい。
小難しいことは忘れて、後先なんてもの考えず、ただ己の欲望に――暴れまわりたい、殴りつけたい、殺したい。そんな胸の内で溢れんばかりに湧き上がってくる衝動に身を任せ、思う存分ナニカにぶちかましたい。そんな生を歩みたい。
人類の存続だとか。必要性や義務だとか。そんなくだらないこと放りだして、思うがままやりたいように生きていたい。そんな欲求が心のどこかに、ある。
この二律背反にも似た二極性は、俺の能力が少し関係しているらしい。
そう、あの人は言っていた。
『――私達継承者ってのは、カテゴリで言うならヒトよりアンブラーと呼んだ方が適当なんだ。人体組成の半分近くがこの世ならざるもので構成されてる。元が人間だからそのお零れで
タバコの似合う女だった。
嗜好品の類の値段は高い。それでも彼女は継承者として得られる優遇措置の大半を、その草を丸めただけの公害物質に費やしていた。
『あんたのソレ、浸度の上がった継承者によくみられる傾向なんだよ。二重人格っていうの? 頭の中にもう一人いて、そいつがギャースカ口出してくる感じ。例外なく、経験を重ねた継承者はそんな歪な精神状態になり――やがて、全て乗っ取られる。それが獣化現象の正体だ』
『……どういう原理なんです? 寄生虫に脳を食い荒らされて人格が変わるってのは聞いたことがありますけど、浸度の上昇なんてものが人格に影響する意味が分からない』
『それもこれも進化因子のせいさ。奴らは元の身体を失い、血液のみになって尚、それでも食べるって性質を捨てられない。脳細胞を犯し、人格すら書き換えて、もっと大量の栄養を摂取できるよう宿主を支配したいんだ』
『たかが数ミリリットルに満たない分子ごときに、そんな高度な機能があると?』
『緊急対応訓練、もう終わっただろう? 獣化現象を起こした隊員の一部始終を撮ったビデオ講習。獣化が確認された隊員がまず最初に何をしたか記憶に新しいはずさ――最初に、彼らは地面に落ちていた自分の血液を舐めるんだ。まるで腹を空かせたアンブラーのようにね』
『……』
『そう考えると、私達が戦ってる
そう、彼女は鼻で笑った。上官に聞かれていれば懲罰モノの文句である。
その不真面目な様子を見つつ、俺は質問をする。
『仮に、あなたのその陰謀論にも似た仮説が正しいとして――俺はまだ継承者になりたてです。浸度もかなり低い。なのにどうして末期の症状が出てるんですかね?』
『簡単さ。少年は脳が特化機構なんだろう? 私達は身体のどこかの部位が変質し、そこに流れ込む血液がまず浸食されていく。そして特化機構や血液が行き交う部位が段々と浸食され、最終的に脳が違うものに置き換わる。でも少年は逆。最初から脳の大部分が置き換わっちまってる。それが原因だろうね』
『……確かに理屈は、合ってますね』
『さて、ここで問題だ。どうにもヒトとアンブラーを分ける境界は脳にあるらしい。少年は今、どっちなんだろうね』
『後輩いびり、楽しいですか?』
『楽しいね。正論というバットの握り心地は格別だし、自分より幼い生き物を痛めつけるのは快楽だ。私はね、人の嫌がる顔が好きなんだよ』
『色々終わってますね。あなたが散々言われてる理由を身をもって体感しますよ』
『おや、耳が痛いな……まぁなんだ。こうしてサボりに付き合ってくれたお礼にさ』
『少年が望むなら――私が今ここで、斬ってやってもいい』
カチャリと、女が腰に差している刀剣を鳴らした。
俺は少し考えて、発言をする。
『俺はヒトですよ』
『――そ。ま、死にたくないなら良いさ。
『医者の問診みたいなこと言いますね。ここで俺がいきなり涎垂らしてあなたに襲いかかるとでも思っておられたので? そしたら真っ二つにされてました?』
『いや、それでも斬らないよ。私のような乙女の色香に少年が狂っただけかもしれないからね』
『…………は?』
『そもそも噂の通り、私は出来た人間じゃない。少年がアンブラーに支配されていようがいまいが見過ごすさ。支部がどうなろうと構わないしね……でもまぁ、斬ってくれと頼まれたら斬るよ。それは立派な理由になる』
『……いや、その……価値観が滅茶苦茶すぎて理解できないんですが』
『価値観なんてのは人の数だけあるだろう? 私はそう決めてるってだけだ、少年』
――そこで、壊れたレコードの再生が終わる。
なんでこんな、昔の記憶を再生しているんだっけな。
少し考え、理由にあたりがつく。これは記憶の再構成だ。事前に聞いてはいたが、何分これが初めてなもので戸惑ってしまった。なるほど、あの人はいつも死ぬ度にこの工程を経ているのだな。
要約するならば――レドラニスカの発言は、合っている。
俺はヒトよりアンブラーに近い。認めるよ。ずっと感じてきたことだ。野蛮で暴力的で自己中心的。そういう生き方が良いと思っているのは事実なんだから。たまに全てがどうでもよくなってくる。ふとした瞬間、仲間のがら空きの首筋に視線が行く。命令なんて無視して、役割なんて放り出して、思う存分手当たり次第好きな相手と遊びたくなる。誰もが忌み嫌うこのアンブラーまみれの世界を、俺はどうしても嫌いになれない。
でも、俺は
それだけの話だ。
理性と野性。そのバランスはいつか破綻するかもしれない。けれどその日が来るまで、俺は人として戦う。そう決めたのだ。
そうと決まれば初志貫徹だ。
さっさとクソったれな敵を蹴散らしにいこう。
**
「――俺達継承者が所持してるアンプルは、ドーピング薬みたいなものでさ」
ばくり、と。
心臓が早鐘を打つかのような錯覚が、レドラニスカを脅かす。
続いて、悪寒。殺したはず。間違いがない。アレで生きていられる人間はいないい。そう思う自分を、否定する自分がいる。いや、自分も先ほど使った手だ。ならばこの男が出来てもおかしくはないのではないか。
背後を確認するのが遅れたのは恐怖か、それとも現実逃避か。
だが、声の主は襲いかかることもなく、感情の読めない声音のまま話を続ける。
「アンプルの中身は進化因子だ。これを体内に注射することで、栄養剤と増強剤の役割を果たすってわけ。酷いよな。既に因子が入ってんのに、更に追加で入れるんだぜ? もちろん寿命は縮む。浸度が能力使用の比じゃないぐらい進むんだよ……けど、その分効果はお墨付きだ」
レドラニスカは背後を振り返り、予想通りの光景を目にした。
青桐レイジが立っていた。その衣服は穴が幾つもあき、血で汚れている。しかしその奥に除く肌は全てが元通りになっている。
その現象は、どこかで見た――、
「基本的には能力の強化、拡張、持続になる。例えばマキナは持続時間が大幅に伸びる。アイツは素だと五分ぐらいしか続かないんだが、アンプル刺せば一時間ぐらいはいけるんだぜ。今日はどうだっけか。もしかしたら最長記録更新したかもな」
随分と、よく喋る。
味方の情報をペラペラと喋るような人間では、なかったはずだが。
「けど、例外ってのは幾つかいてさ――ジュノーもそうだが、俺もそれだ。脳が俺の特化機構なんだが、能力が身体のリミッターを外すって方向性なんだよな。でもこれ以上俺の身体に外せるリミッターなんてない。じゃあ何が強化されてると思う? ヒントはあんたが言ってたことだぜ」
「……あなたは、アンブラーに近い。そして彼らは取り込んだ物質を己の糧にする……まさか、取り込んだ進化因子の母体の機能を、模倣するとでも?」
「ご明察だ。ま、生き返ってんだから分かるか。それに模倣といっても所詮は劣化コピーに過ぎん。エレノアの血飲んでも翼は生えねえし、マキナの飲んでも透明にはなれないしな。ソラリの異能も不完全も良いとこだ。原理は……まぁ、良いか。小難しいことまでは説明しなくていいだろ?」
その言葉に、合点が行く。
先ほど戦った者達の中に、これと似た再生能力を持つ者がいた。その血を事前に取り込むことでこの人間もまた死から再起したのだろう。近い異能を持つ同胞もいる。レドラニスカは未知をまた一つ理解し――笑った。
彼は静かに、現実を咀嚼した。
「……それで? どうして説明してくれるのですか? それが本当なら、背後から刺せばよかったでしょう?」
「訳も分からんまま死にたくないだろ? 温情だよ。いや、違うな。喋りたいからだ。気分がいいんだよ、俺。死んだふりってのは効果的だけど、弱者の知恵みたいで嫌だろ? せっかく勝てるんだからこう、なんだ? 正々堂々最後は決着付けたいとか思うわけだよ。俺も男の子なもんでね」
「言葉が乱れていますよ。もしかして、ギリギリだったりしてくれますか?」
「残念だけど無理だな。気分がハイになってるのは認めるが、俺に油断はないよ。そもそもこんだけ喋ったんだ。ここで殺しとかないと俺がマズいだろ?」
「はは……変なところで冷静なんですね」
レドラニスカは自身の右手を、一本の杭のような形状に変えた。これが彼に出来る最大の抵抗だった。
余力は既にない。身体に蓄えていた養分は底をつき、本体の半分以上を自切したが故の薄氷の勝利。それが覆った今、選択肢など残されていない。
――すみません、陛下。
薄く笑い、彼は構える。無念だ。夢の実現のその瞬間、自分はそこにいない。それが何よりも悔しくて――彼は一筋の涙を流した。
彼はそれに気付かない。
分かり切っている結末に向けて、歩を進める他ない。
「さて、と……あぁ、大事なこと言い忘れてたな。俺の残機はゼロだ。『実は生きてました』なんてくだらん仕掛けはもうないぜ」
「――ご丁寧に、どうも」
「んじゃ、殺してやるよヒトモドキ。憧れの人間様の手にかかって死ねるんだ、感謝してくれていいぞ」
「はは……人間より
返答はない。
少年は剣を振りかぶり、彼は最後の力で迎え撃った。
そして、レドラニスカは死んだ。
*
「――ん?」
「起きたのね」
目が覚めると、誰かに背負われているということに気付いた。
起き抜けの俺の耳に届いたのはエレノアの声。ぼやけた記憶を辿りながら、周囲を確認する。光源の全くない暗闇だ。カツン、カツンと鉄の階段を昇っている足音から、おそらく地下貯水槽から地上に昇っている最中なのだと記憶の整合性を取る。あれから時間はそう経っていない。
俺を背負う声の主が、安堵のため息を漏らす。
「良かったわ、死んでなくて……勝ったのよね?」
「まぁな。ちゃんと死体は燃やしてくれたか?」
「えぇ、燃やしたわ。あの黒いぶよぶよした物体で良かったわよね? 結構広範囲に広がってたし、下にカニの殻が沢山あったから、全部まとめて燃やしたわよ。燃焼材足りてよかったわ」
「そうか……上はどうなった? まだ戦ってるのか?」
「地上はもう片付いたわよ。掃討完了の命が下ってる。今は怪我人の応急処置を済ませて撤収作業に入ってるところ。先輩達と……皆のおかげよ」
「そうか……落ち着いてるなら何よりだ」
「後はあんただけよ……というか、一人で
「インカム聞いてなかったのか? 僕は臨時副隊長だ。現場での指揮と判断の裁量があるんだから合法だ合法。つーか、あの場ではああするしかなかったんだよ」
「それでもよ。独断専行だってソラリさん怒ってたもの……それに、あんたはいつだって……」
言って、足音が止まる。
静まり返った暗闇の中、少し涙ぐむ声がした。なるほど、情緒不安定だ。仕方がない。今日は色々ありすぎた。落ち着くまで少し待ってやるのが筋だろう。
そう思い、俺は背負われたままの体勢で、
「で、いつまで俺は三文芝居に付き合えばいい?」
「……気付いておったのか?」
「気付かないわけねえだろ。エレノアは重傷だ。消耗を防ぐための強制昏睡に入ってるはずだし、仮に起きたとしてもソラリさんが行動の自由を許可するとは思えん。あの人も優しいんだよ。兄と違って非情になりきれない人だ。だからあんな便利な能力持ってるのに隊長になれてない」
「くく……言いよるの。では自分は隊長の器とでも申すのか?」
俺を背負っているナニカは、先ほどまでとは違う口調で試すように聞いてきた。
体格、骨格、声色、仕草。どれをとっても俺の記憶にあるエレノアに相違ない。だが違う。状況証拠だけではない。記憶が、この状況でここに現れるのはコイツしかありえないと結論を既に下していた。
コイツは、そういう話を俺としている。
「その様子だと、記憶が戻ったってことでいいのかの」
「あぁ……ついさっきな。」
俺は、記憶力が良い。
厳密に言えば、良すぎる。一度見たものは二度と忘れないし、いつだって思い出すことが出来る。何億枚もの写真が保管されている感覚に近い。視界に入った景色、耳に入ってくる音、感じた感情、それら全てをその瞬間で切り取って脳の細胞へと保存する。俺にとって思い出すという行為は、分割された写真を捲って確かめていくようなものだ。そこに忘却や記憶違いといった事象は怒り起こり得ない。
では、俺があの日のことをマダムに報告しなかったのは嘘か。
否だ。あれは虚偽の申告ではない。寝起きで記憶が安定していないというのを差し置いても、俺はあの時本気で「見つけた指揮官級は一匹だけ」だと思っていたし、バイクに乗って帰ってきたと信じていた。
理由は全て、俺ではなくコイツにある。
俺を背負っているこのアンブラー――巨大な金色の狐獣によって、俺はあの邂逅を忘れている。
*
今日という一日は色々な出来事があった。
エレノア達にとって全ての事の発端は『〇六部隊の消息が途絶えたこと』から始まっているが、俺にとってはそうではない。もう少し前――俺がレビアコロニーで金色の獣と出会ったところから、今日という一日は始まっている。
*
『さて、話をしようかの』
時間にしておよそ五秒。
俺を至近距離で見つめていた巨大な狐は、軽い調子でそう言うと顔を離した。
俺の頭蓋骨より大きな瞳に覗き込まれた時は何をされるかと思ったものだが、特に何も起きていない。尚も警戒する俺の前で、大狐はタラップに腹をつけて寝そべり、両足を交差させたリラックスした状態で座った。
大口をあけてこれ見よがしに欠伸をしつつ、狐は続ける。
『くぁ……先も言うたがそう怯えんでよい。話がしたいと言うとろうに』
確かに、怯えることに意味はない。コイツがその気になれば俺など吹けば飛ぶ塵芥に過ぎない。嘘かどうかではなく、鵜呑みにするしか選択肢がなかった。
「何の話だ。人間の情報なら売らないぞ。アンブラーの内情でも教えてくれるってんなら聞くが」
『順を追って話すか。まず、妾は未来を視通す能力を持っておる』
「……新手の詐欺か?」
『詐称ではない。一つ当ててやろう。お前がここに来たのは、支部とやらで人間のメスに命じられたからであろう? 懲罰の一環。間違いないか?』
「……仮にそれが本当だとして、それは過去の事実だ。未来を当ててくれよ」
『妾はお主の生まれるずっと昔から生きておる。今日という過去から見た未来を、事前に視ておったということだ。信じられんならお主の出生から何まで言い当ててもよいが、時間がない。仮にそうだとして話を進めさせてもらうぞ』
そうして、大狐は話し出した。
荒唐無稽な話を。
『アンブラーといったか。あれらの中に知性を獲得した者らがおる。大多数はそこに転がっとるカニ共のような衆愚に過ぎんが、ほんの少数はお主ら人と遜色のない知能を持つ。中には妾のように人語を介すだけでなく、ヒトの形をとり、ヒトの書物を読み漁り、そうした者達で社会を形成しておるくらいじゃ』
「……冗談か?」
『冗談ではない。妾という存在を目にしたお主も、可能性ぐらい頭の隅に浮かんどったであろう。一匹いれば二匹いるのを疑うのが基本じゃろうて』
「何年前から、なんだ。今何匹ぐらいいる……?」
『二〇〇年前からじゃ。正確な個体数は分からんが、五百は優に超えとる。千には届かんぐらいじゃないかの?』
「……続きを」
『徒党の中にも色々がおるが、共通しとるのはヒトと敵対しとるということじゃ。現にお主らヒトはあやつらの存在すら知らんじゃろ? 隠しとるんじゃよ。この広い星の中、隠れる場所なぞ幾らでもあるからの。二〇〇年ずっと隠れて、準備をしとる』
「……」
『三日後、そやつらがヒトを襲い始める。ヒトの支部は世界に一〇八ヶ所じゃったか? その全部を一斉に襲うつもりじゃ。もちろんお主の拠点も襲われる。正確に言えば、襲われるのは拠点ではなく外に出ているお主ら継承者共だがの』
「三日って……いや、いい。それで? その話がどう繋がる? まさか助けてくれるのか?」
『助けんよ。明日だけならば助けられるが、助けてはむしろお主達の死が早まる』
「? どういう意味だ? 」
『奴らの――アンブラーの目的は妾じゃ。未来視の能力をあやつらは欲しとる。そのために、あやつらは大勢の下位個体を使って海も陸も空も隈なく探索した。されど妾は見つからん。じゃから奴らは人が繁栄しとる領域に手を出そうとしとる。妾を捕まえるために、奴らは明日ヒトを襲うんじゃ』
「……あんたが捕まったらどうなるんだ?」
『人が滅ぶ。具体的に言えば、アンブラーが世界を本当に支配する。今のように見過ごされるような形ではなくの。人類は一匹残らず根絶やしにされるじゃろう』
「……どっちも最悪じゃねえか」
『そう、速度の違いでしかない。そもそも妾が逃げておらんかったら、お主らは生まれてもおらんのじゃぞ? 感謝せい』
大狐はくつくつと笑った。こちらは笑っている場合ではない。
「それで? あんたみたいなのがゴロゴロいて、しかもアンブラーの雑兵を率いてるんだろ? それが本当なら終わってる。アンブラーの数は億だぞ億。仮に人間と同じ頭数だとしても一個体あたりの戦闘力がまるで違う。明日中に世界が滅ぶ」
『そこまで大差のつく戦力差ではない。まず一つ、知性を持つアンブラーはお主らの言うところの指揮官級とは少し異なる。全てのアンブラーを率いとるわけではない。二つ、知性を得た都合で失ったものもある。全員が全員戦闘向きではないのじゃ。そうでなければ妾が如何に強かろうと今日まで逃げおおせておらん。三つ、これが一番大きいのじゃが……あやつらは一枚岩ではない。童を捕らえて人間を滅ぼしたい派閥と、自分の手で滅ぼしたい派閥が存在する』
「どっちも滅ぼすんじゃねえか」
『過程は重要じゃ、お主も今に分かる。とにかく――状況は理解したかの?』
信じがたい話ではある。
だが、俺は見てしまっている。人と会話を交わすことのできる大狐を。そもそもこんなくだらない悪夢みたいな冗談をわざわざ初対面の人間に語って聞かせる意味が分からない。何より三日も経てば、コイツの言っていることが本当かどうかも分かる。
俺は頷き、続きを促す。
『さて……妾は未来が視えるが故に追われとるわけじゃが、当然それを回避する未来も視とる。言うなれば妾に見えるのは無数に分岐する道じゃ。どのような道のりの果てにどんな結末があるのかを事前に確かめることが出来る。それを基に、妾は歩く道を選ぶことができる』
「……話が読めてきたよ。つまりあんたの望む未来のために、俺が必要なんだな?」
『アタリじゃ。今日ここでこうしてお主をおびき寄せたのも、こうして話しとるのも、全てがその布石に他ならん』
「で? あんた、何が目的なんだ? 逃げるのに俺が必要だとして、逃げた先でどんな未来にしたいんだ?」
『言わん。それだけは教えられん』
「……一番大事な部分だろうが」
『適当な嘘を並べ立てることなく、教えられないという内実を明かしておる。誠実じゃと思わんか?』
「モノも言いようだな……それで俺が首を縦に振ると思うのか?」
『そもそもまだ何も言うとらんじゃろうが。疑り深い奴じゃの』
「俺がここで死ぬのは、人類にとって最悪の事態じゃない。俺にはいくらでも代わりはいる。最悪なのはお前と手を組んだ挙句、もっとマズい状況に知らず知らずの内に誘導されることだ。俺にとっては取るに足らないことでも、未来を知ってるあんたにとっては喉から手が出るほど欲しい情報かもしれないからな……俺があんたの手駒にされて、悪事に加担させられる。それが人類にとっちゃ一番避けなきゃいけないことだ」
殺されないってことは信用しても大丈夫、という論法は間違いだらけの代物だ。利用されてもっと悪い状態になることだって幾らでもある。おまけに、コイツは未来を知っているらしい。これでどう信用しろというのだ。
そんな警戒心を強める俺に対し、大狐は眼を薄くして問うてきた。
『人類にとっては、じゃろ』
「――――」
『言ったじゃろう。お主の生い立ちから何まで知っておると。お主はそのような生物ではない。まぁ、多少は人類という母体に対する愛着もあるのは知っておるが、ここで死ぬぐらいならある程度のことぐらいは呑むじゃろうに。それこそ床ぐらいなら舐めてくれるんではないか?』
「……酷い言われようだな」
『それに、今日は顔見せじゃ。これからゆっくり親睦を深めようて』
「この先もあんのか……またこうやって会いに来いと? このクソ遠いコロニーに?」
『ここは妾の根城でもなんでもない。こんな汚いところ住みとうないわ。それに……いやいいか。その必要はない。業腹じゃがこちらから会いに行くのでの』
「その巨体でか? 支部が総出でお出迎えするぞ」
『ま、時が来れば分かる……そろそろ時間じゃな』
「待てよ。一番大事な話がまだだ……結局あんた、俺に何をさせたいんだ」
『何も』
「……」
『そう何度も睨まれると悲しくなるて。これでもお主とは仲良くしたいと思うとるんじゃ。長い付き合いになるからの』
「……見逃してくれるのには、感謝する。けど俺はやりたくないことはやらないぞ」
『知っておるよ……お主とどうすれば親睦が深められるかなど、お主より知っておる』
未来を知っていると嘯く大狐は、くつくつと笑いながらそう言った。
大狐は会話といったが、これはそんな大層なものではない。一方的な通達だ。聞け、知れ、覚えろと言われているだけに過ぎない。未来が視えるとか命運を握られているとか以前に、思考回路がどこかで致命的に違う。そんな感想を抱く。
だが、無力な俺にはどうすることも出来ず――続く言葉に、抵抗する気すらも消されてしまう。
『さて、しばしのお別れじゃ――お主はここでのことを忘れる。妾とは出会っていない。話した内容も、忘れてしまう』
「何を、言って……――――」
『今、妾のことをあやつらに知られるのは困るのでの。また三日後に、この地で会おうぞ』
そうして、俺の記憶に霞が掛かる。
最後に目にしたのは、にやついた笑みを浮かべる大狐の顔。
その記憶すら朧気になっていき、俺はさながら夢遊病患者のようにその場を後にし――、
*
螺旋階段を昇りながら、
「どうじゃ? 思い出せたというのなら、妾の話の真贋は分かるじゃろ?」
その背におぶさりながら、
「最悪な未来予想をどうも……ところで、あんたどうしてエレノアの姿をしている? 人型にはなれないんじゃなかったのか?」
「なれないのではなく、ならないだけじゃ。見た目を変える程度造作もない」
「変身に、未来視に、記憶を弄る能力に加えて戦闘力もある。アンブラーってのは本当に無茶苦茶だ。詰め込みすぎだろ。一体何なら出来ないんだ?」
「伊達に長生きしとらんからの。数百年も生きればお主も大概のことは出来るようになろうて」
やはりというべきか。まともに答える気はないらしい。
俺は質問を少し変える。
「なんで記憶を消した? 消された原理はこの際置いておくとしてそうした理由が分からん。あの情報があればもう少しマシな戦いになってたはずだ。お前、俺と仲良くなりたいんじゃなかったのか?」
「今回の戦いに情報は要らん。そもそもここでのお主らの勝利は決定事項じゃ。何十通りか視たが、妾が何かを教えるまでもなくお主らは勝つ。何が不服なんじゃ?」
「勝敗じゃなくて被害の話をしてんだこっちは。何人も死んだし寿命も縮んだ。全部記憶を消したせいだ。俺が短命になって困るのはあんたもじゃないのか? それとも、俺がさっさと死ぬのがお望みか?」
「与えられた勝利が望みじゃったか?」
「……俺個人としては、唐突なサプライズも先の見えないサバイバルも大好きだ。けどそれでも楽な戦いをさせてほしかったのが本音だ。人間はアンブラーと違ってタケノコみたいにポンポン生まれてくるもんじゃないし、戦いには有限の物資が必要になる。被害を抑えなきゃすぐ終わりがくるんだよ」
「ふむ……じゃがそもそもの話、どこの誰とも知れぬ者の助言なぞお主ら信じんじゃろ? 事実、お主の記憶を奪わなくとも犠牲は大して変わらん。それならこちらの方が実りは多いし――何よりこの程度の敵ぐらい、自前で何とかしてもらわないと困る」
「……」
そう言って、大狐は立ち止まった。
背負っている俺を降ろし、エレノアの顔を使って満足げな表情をして言う。
「さて、時間じゃ。そろそろ地上に着くでの。妾はここで去る。また会おうぞ」
「待てよ。まだ話の途中だろうが。そうでなくともお前には聞きたいことが山ほどある」
「言ったじゃろ、顔見せじゃと――この先、お主は忙しくなる。喜ぶがよい。待ち焦がれておった戦争じゃぞ」
「……」
「落ち着いた頃にまた来る。此度に得た情報は好きに生かすがよい」
「今度は記憶消さないんだな」
「気付ておるじゃろうが、童の記憶阻害は活性化で戻る。そもそも記憶を消すなどという芸当が出来るわけなかろうて」
小さく笑いながら、大狐は軽い調子で言う。
その様子にどうしても我慢できなかった俺は、一つだけ言い返した。
「俺達は、あんたの育成ゲームの駒じゃない」
「……」
「全部思い通りに行くと思うなよ、バケモノ」
「では、またの」
それだけ言い残すと、大狐は飛び上がり、螺旋階段の吹き抜けへと落ちていく。
俺は階段を昇り切り、地上へと続く扉を開いた。
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