無限③
海から帰ってくるなり、僕は何年振りかに今日の出来事を話した。オニカサゴも珍しかったが、父さんと同じところで働いているということが何よりの衝撃だったのだ。中学校に上がってからはなんだか面と向かって親と向き合うのが恥ずかしくて、小学生の頃より会話は少なくなっていた。それが、こんなきっかけで話す気になるとは。母さんは驚いたように「そう」とだけ言った。なんだか物足りない返事だ。
父さんが帰ってきてからも、僕は同じ話をした。すると父も目を見開き、「そんなことがあったのか」と僕を見た。そうそう、その返事が欲しかったんだ。
「その人、もしかしたらあれだな。俺より十歳くらい年下って言ったら、多分副店長だ」
「えっ、嘘だろ」
僕は思わずそう口走ってしまう。だって、いくら休みだからといって海をふらふらしているような男が店のナンバーツーだなんて思いもしないじゃないか。父さんは案の定怪訝な顔をしたが、僕は何事もなかったかのように「へえ」とワンテンポ遅い相槌を打っておいた。
「けれど、お前、いつの間に高橋さんと……」
タカハシさん。それがおっさんの名前なのか。不思議がる父さんに僕は、「まあ、いろいろとあんだよ」と言葉を濁す。あんな出会い方、口が裂けても言うものか。
固く決心していると、ふと、僕は父さんの表情に変化が生まれたのを確認した。僕がはっきりと答えなかったことに対して怒ってるのかと一瞬身構えたが、そうではなかった。さっきの母さんと同じような表情だったのだ。そして、父さんと母さんは顔を見合わせた。なんだか僕に隠していることでもあるようだったので、「どうしたの」と聞いた。
なんでもないよ、という返事は、なんだか素直に信じられなかった。
疑惑が決定的なものとなったのは、それから二日後のことだった。
その時僕は、母さんの漫画ボックスを漁っていた。母さんは少年漫画好きだ。汚さなければ別にとがめられないので、暇なときはいつも借りていっている。
今日は海洋冒険漫画でも読もうと朝から決めていた。世界で最も有名な長期連載のあの漫画だ。数冊取り出して、さっさと部屋を退出しようと思ったとき、布団の上に見なれない書類が散らばっているのが目に入った。
「なんだこれ……?」
何気なく手に取っただけだった。その書類に書かれていたのは、明らかに自分の家ではない、どこかの賃貸アパートの間取りだった。見てはいけないと直感的に理解したのに、目は勝手に小さな文字を追っていく。
東京。
その二文字が目に飛び込んできたとき、僕は兄を思い出した。信じられなかった。僕はオニカサゴに毒針があると分かった時と同じように後ずさる。まさか―いやいや、それはないよなと僕は自分のした想像にぞっとしながら、母さんに声をかけた。
「母さん。これなんだけど」
「……え」
母さんの目が僕の手元に集中したのを僕の目ははっきりととらえた。そして、そのあとに顔を上げた母さんの、驚愕と恐れに満ちた表情も。
胸の痛みを押し殺し、僕は聞いた。
「ねえ。僕ら、東京へ引っ越すの?」
その声は震えてしまって、かすれていて、―波紋のように重い空気が広がった。
それからは慌ただしかった。
すぐさま、僕と母さん、そして父さんの三人で家族会議が行われた。父さんから告げられたのは、兄さんの家の近くに家を借りて住むという話だった。兄さんはすでに聞いているらしい。理由として挙げられたのは、兄さんが大学入学時に借りていた奨学金を返済するというものがあった。それ以上は聞かなかったが、交通の便が良いだとか、とにかく何かしらメリットがあるのだろう。他にも理由があるのかもしれない。さらに、本当はもっと前に伝えようと思っていたこと、タカハシさんと仲良くなったと聞き、切り出すのを後回しにしてしまったことを詫びられた。こうして正面切って言われると、それはそれでなかなかにショッキングだった。悪夢であってほしい、話を聞いている間だけで何度思ったことか。
「ごめんね」
ふいに、さっきまで何も言わなかった母さんがぽつりとつぶやいた。
「いいよ、もう決まったことだろ。それに、別にタカハシ……さんとは別に仲いいってわけじゃないし」
なおも謝ろうとする母さんに僕はなぜか、関係ないはずのおっさんの名前を持ち出してしまった。あーあ、がっかりだ。大人みたいに寛大な心をもって言ったはずが台無しになってしまった。
僕は友達を、先生を、そしておっさんを思い出して、僕はほんのちょっぴり、ちょっとだけ涙ぐんでしまった。
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