第9話 夕立とバスの中で

濡れた頭や服をハンカチで拭き、バスに乗車した。

中に入るとぎゅうぎゅう詰めで雨に濡れた人達の湿気が入り乱れている。

幸いにも後ろの方の座席に座れたから良かったものの、居心地は服を着てサウナに入っているんかって思うくらい最悪だ。

学校帰りか会社帰りかわからないけど乗客のストレスが舞い散っていて空気もピリピリしていて...

静かなのに落ち着かない。


見ているだけで胃が痛くなってきそうな前方の人のかたまりから目を逸らしたくて窓の方を見ると、水も滴る彼女がうなだれていた。


バシャバシャと音を鳴らすガラスの遠く向こうを少し不満げに眺める、宝石のような瞳が窓に反射して見える。

窓で隔たれた安全圏で、安心し切ったからか力の抜けた肩は滑らかで、うっすらと肌色が透けている。

水を含んだ黒髪はしんなりと艶やかで、思わず撫でてしまいそうになる。

水に濡れて生気の抜けた黒猫みたいに伸びてるだけなのに、どうしてこうも魅力的に見えてしまうのだろう。


もはやいつも通り、溝尾みぞおに見惚れてしまっていると突然三つ編みを大きく揺らして跳ね起き、グイッとこちらに体を起こした。

いきなり元気に話し出す。

近い近い!


「バスすぐきてよかったね〜!

濡れて寒くて凍えそうやったし...!」


「突然やったしねぇ。

今は大丈夫そう?」


「うん!

まあちょっとジメジメしてるけど、寒くはないよ〜」


疲れは吹き飛び元気が出てきたのか、ルンルンと小さく体を揺らす溝尾の肩が触れそうで触れない。

なんとなくから始まる話題には少しずつ慣れてはいるのに、踏ん切りのついた行動は、意識的にはできない。


「そういえばさ、」


雰囲気が和やかになってきたところで溝尾がおもむろにポケットに手を入れる。


「スマホ買ってん!」


テッテレーと効果音が流れんばかりに勢いよく挙げた手には四角い物体が張り付いている。

よく見る丸みを帯びたフォルムじゃなくて四角い。

ただケースは押し花のような可憐で小さな花束が描かれていて、彼女らしい。


「お母さんがこれなら安いからいいよって。

流行ってるアップルのやつじゃないんやけど、これでもアプリ?とか入れれるん?」


「そりゃ、スマホやったらなんでも同じやから入れれるよ!」


「そうなんかよかった〜

うちの家機械音痴すぎて全然スマホの使い方とかわからんくてさ、教えてもらってもいい...?」


「それくらいやったら全然大丈夫よ!」


「じゃあお願いします...!」


スッ、と溝尾が両手で大事そうに抱えているスマホを自分たちの間に差し出す、と同時にこちらへ数センチずれる。


近いねんって。


マジでこの突然距離感バグるのは無自覚なんか?

毎回毎回気づいたらすぐそこにおるし、誰にでもやってるんか!?ってレベルで自然やし!

...いやそれはそれで嫌やねんけど!


そんなことを毎度毎度思いながら、ふわりと香る整髪剤の匂いとわずかに感じる暖かさに勝てず紳士になれずにいる。

思春期の欲望はど正直で困る。


「おっけい、まずこのアプリでインターネットに繋げれて...」


化けの皮が剥がれないかとドギマギしながら、距離感を変えずに淡々と説明をしていく。

検索エンジンの使い方からアプリの入れ方、使い方なんかを彼女のスマホを見ながら教える。


「んで、後入れときたいアプリとかある?」


「後、LINK?

みんなが入れてるやつ。

あれも入れときたい!」


「おっけい、じゃあそれ入れて...

アカウント作らないとやな。

じゃあここに名前とか書いて...」


「わかった!」


再びスマホをギュッと抱えて不慣れな手つきで個人情報を入力していく。

真剣にスマホとにらめっこしていたから話しかけるわけにもいかず、行方不明の視線を前へ移すとあんなに満杯だった人がもうまばらになっていた。

少しずつゴールが近づいてしまっていることにソワソワするが、自分がどうしたっていい方向に進むわけじゃない。


我慢だ。いち

お前にはまだこの後やることがある。


ひっそりと覚悟を決めつつ、しばしの沈黙に目を泳がせていると、隣から元気な一声が。


「できた!

これであってる?」


「そうそう、それで大丈夫!」


さあ、もう2回目なんやから次は自分から、自然に。


「じゃあこれ俺のアカウントやから追加しといて!」


準備していたQRコードをスッと見せた。


「...これどうやったら追加できるん??」


そりゃそうか。

スマホ使いたてやのに分かるわけないな。


自然な流れが速攻で断たれてしまった。


「えっと、ここのボタン押してもらって、そしたらカメラ起動するからこれで読み取ってくれたら...」


「これであってる?」


恥ずかしさで震えが止まらない指をなるべく目立たせないように、最小限の動きで説明して読み込んでもらうと、彼女の画面に自分のアカウントが表示された。


「あっ、それそれ!

俺のアカウント!」


「おーできた!

これ登録したら一ノ瀬とLINKできるってこと?」


「そうそう。」


「じゃあ登録しとくね!

ありがと〜」


いや、お礼は俺が言いたいくらいやわ。


「これでふーかもスマホマスターやな!」


相変わらずグッと近づいて、満足げな顔をこちらに向けてドヤる溝尾が可愛すぎて、もうなんにも言えない。


「なんか言ってくれないとちょっと恥ずかしいんやけど...」


目線を逸らした耳が少し赤くなった。

可愛いすぎやろ。

足を少しでも動かしたらぶつかる距離でこの子を見ててもいいんですか?


「...うん!

これでおっけーかな!

大丈夫やと思う!

じゃあまたよろしく!」


一気に体温が上がったのを感じて、いても立ってもいられなくなって逃げ出すようにバスを降りた。


夢でも片思いでもよかったのに、溝尾を独り占めできて、「1番」にもなれたという現実が胸を締め付ける。


いつの間にか雨は止んでいて、通り過ぎた風は少し涼しかった。

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ふーか、俺は幸せだ! 湯野叶 @yunokanau

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