第5話 追想 鬼風

「ばあちゃんの家、取り壊すことになったから」

「え?どうして?何で、壊しちゃうの?」


 残業続きの父と顔を合わせられるのは、朝食のわずかな時間しかない。そのわずかな時間で、父は必要なことしか話をしない。本当は、もっとおしゃべりを楽しみたい。そんな思いもあり、雪乃は、トーストを頬張ったまま、口先を尖らせ不満を表した。


「家はね、だれも住んでいないと、どんどん痛んじゃうのよ。あのままにしておけないの。ねぇ、パパ。ってより、ちょっと!雪乃、早く食べちゃいなさいよ」


「雪乃達が、住めばいいじゃん。お引越ししよう」そう、雪乃は言いたかった。が、そうなると転校しなければならない。便利な今の生活に慣れてしまって、祖母の古い家の生活に不安がないわけでない。そんなことが頭に浮かぶと、引っ越しが言い出せない。


「ママの言う通りなんだ。もう古いからなぁ、仕方がない。パパだって、思い出のいっぱい詰まった家だから、そりゃ寂しいよ」


新聞からやっと目を離して、雪乃の頭を撫でてそう言う父は、本当に寂しいのだろうかと雪乃は思った。『仕方がない』という言葉で、片付けようとしている。パパは、いつもそうだ。


「ね!今度の法事の後で、みんなで片付けしよう。ママ、美味しいお弁当、頑張って作るから」


食べ終えた食器から、どんどん流しに運ぶ母も、パートに出かける前の慌ただしい時間。面倒な話をさっさと切り上げたいという思いが、ありありと見える。


 祖母と過ごした日々が、思い出される。


 夏休みのほとんどを、祖母の家で過ごした。一人っ子の雪乃が、寂しい思いをしないようにと、祖母は雪乃にいろいろな経験をさせた。虫取りや川遊び。木登りも、自由にやらせてくれた。ママが、見たらびっくりするよね。きっと腰を抜かすよ。と、二人で大笑いをした。畑で一緒に収穫したもぎ立てのトマトの甘さは、今でも口の中に広がる。

 夕涼みをしながら、祖母は縁側でたくさんの昔話を語って聞かせてくれた。祖母の語る昔話の世界が、雪乃の頭のなかで色鮮やかに描き出されるたびに、『おばあちゃんマジック』と、雪乃は感嘆の声をあげた。

 秋は紅葉狩りや、きのこ狩り。冬は、父が子どもの頃遊んだそりを、物置きから探し出して手直しし、一緒にそり滑りまでした。

 四季折々の楽しい思い出が蘇ってくる。


「どうしても、駄目なんだよね…」

「おうちはなくなっても、おばあちゃんとの思い出は、雪乃の胸に残ってるでしょ。ほら、雪乃!時計見てごらん。もう時間がないよ!」


「うん…。いやだなぁ、おばあちゃんちなくなっちゃうの」

という言葉と共に、口の中の物を飲み込んだ。



 ところが、祖母の家は思わぬ人の登場で存続が決まった。


「会社に訪ねてきたんだよ。古い家なのに、気に入ったからって。そのままで十分に住めるからってね。しかも、傷んだところは自分で直すから大丈夫、貸して欲しいって。世の中、いろんな人がいるもんだよな。体の大きなおじさんだよ。60歳は過ぎてると思うけどな。雪乃、とりあえず、おばあちゃんの家は残るぞ」


珍しく早く帰宅した父が、リビングに入るなりそう言った。


「良かったね、雪乃。でも、よくパパの会社がわかったわね。まぁ、うちに来られても、パパほとんど居ないから、会社に行くのは正解だよね」


雪乃の頭に、なぜかあの男の顔が浮かんだ。志乃の法要のあと、庭先で言葉を交わした『櫛のおじさん』と名付けた人。



「櫛のおじさんだ、きっとそうだ。あのおじさんが、借りたんだ」



 志乃の三回忌法要は、志乃の家で執り行うことにした。親戚と呼べる身内がいないので、雪乃の家族三人だけの小さな法要だ。「その方が、おばあちゃんも喜ぶと思うよ」父はそう言ったが、「おばあちゃんのおうちと、お別れしたいんだ」と、雪乃は感じていた。


 穏やかな春の日差しをうけ、雪乃は『法要日和』という言葉があれば、今日のような日かなと思った。

 仏壇に向かって手を合わせると、志乃の声が聞こえる。


「雪乃、大きくなったね」いつも、そう言って雪乃の頭を撫でてくれていた。


「おばあちゃん、雪乃のそばにいつもいるんだね」

「そうだな。いつまでも雪乃の心に生き続けてくれてるよ」

「パパの心にも、いるでしょ。おばあちゃん、忙しいね!」

「あら、ママの心にもいるわよ!」

「おばあちゃんの取り合いみたいだね」


雪乃の一言に、みな笑顔になった。


「さぁ、片付けにとりかかろうか。雪乃の欲しい物があったら、持って帰っても良いよ」

「え?本当?宝石とか、ないかなぁ」

「そんな物、あるわけないだろう」


そう父親に言われても、期待してしまう。


「パパにやらせると、みんなゴミにされちゃうからね。雪乃、パパに捨てられる前に、しっかり宝物見つけなさいよ」

「うん。おばあちゃんの机の引き出しん中、探してみよう!」

「おい、もし本当にお宝見つかったら、パパに教えてくれよ!」

「何、言ってるのよ。そんな物、あるわけないって言っておきながら。ねぇ、雪乃。勝手なパパだよね」

「それより、先にお弁当食べたいなぁ」

「パパのくいしんぼう!」


志乃の古い家に、久しぶりに笑い声が響いていた。




 桜は花を散らすと、人々はその木を見上げることもなくなる。その木が、何だったのかも忘れてしまったように。鬼風も、自分が鬼であったことも忘れてしまうほど、歳を重ねてきた。最後の鬼族としての誇りも消え去り、そして大事な使命を果たす必要もない平和な時代となった。


「そろそろ、終わりにしようか。わが命」


そう考えた鬼風は、志乃の住んでいた家を一目見てからと、立ち寄った。すると、 志乃の家から明るい声が響いていた。


「あの声は…志乃の息子…。鬼族の聴力は、まだまだ衰えてはおらん」


垣根越しにたたずんで耳を澄ませていると、志乃の息子家族が、楽し気に話をしている。部屋の中までは見えないものの、息子家族の仲睦まじい様子が手に取るように感じられる。



 志乃の葬儀の際の、志乃の孫『雪乃』の笑顔を思い出していた。

「志乃の子どもの頃によく似た笑い方をする子だった。眩しいほどの、笑顔だった。確か、小学5年生になったはず…」

そんなことをつぶやいていると、勢いよく障子を開けた雪乃が、縁側に駆けだしてきた。 

 驚いたのは、鬼風の方だった。志乃が亡くなって僅か二年の歳月で、雪乃は『さくら』そっくりに育っていた。透き通るような白い肌に、桜の花びらのような色をたたえた頬。思わず「さくら…」そう呼んで駆け寄りたい衝動にかられた。


「あっ!おじさん、おばあちゃんのお葬式のときに来てたよね!私、覚えてるよ」


沓脱石くつぬぎいしにあった大人用の草履を引っかけるようにして、鬼風の近くまで駆け寄ってきた雪乃に、鬼風は思わず後退りをしてしまった。


 さくらにそっくりだ。ああ、目元は桔梗さまに…。涙があふれ出そうになる。しかも、雪乃は見覚えのある櫛を握っている。遠い遠い昔、山吹から預かり、ゆりに持たせた櫛…まさか…。


「とても珍しい櫛を持っていらっしゃる。少し、私にも見せれくれますか?」


高鳴る鼓動を抑えながら、できるだけ落ち着いて、そして何より雪乃を驚かせないように、櫛を確かめさせてもらった。


「お片付けしていたら、おばあちゃんの机の中にあったんだよ。ずいぶん前に、おばあちゃんに見せてもらったことがあったんだ。もらっても良いって、パパに聞こうって思って」


そう言って笑う雪乃は、鬼風をいぶかしく思うことなく、言葉を続けた。


「ね!きれいでしょ。古いけどとても良い櫛だよって、おばあちゃん言ってたんだ」


間違いない。桜の花びらの彫りがある。これは、さくらの櫛。しかも、驚いたことに、雪乃の手の甲には、さくらと同じ桜の花びらのようなあざがある。


「本当に良い物です。どうぞ、雪乃さんも大切にしてください」


櫛を雪乃に渡した。


「うん。あれ?おじさん、雪乃のこと知ってるの?」


鬼風は、黙ってうなずいた。雪乃のまっすぐな視線が、あまりにも眩しくて、言葉が出ない。めまいがして、その場に立っていることすらできない。


「おばあちゃんのお友達だもんね。雪乃のこと知ってるんだ。これね、こうやって髪をとかすと、さらさらになるんだよ。魔法の櫛みたい」


肩まできれいに切りそろえられた髪に、雪乃は櫛をとおした。その一瞬、雪乃が鬼風から視線を外すと、一陣の風が巻き上がった。と同時に、目の前にいたはずの鬼風の姿は、消えていた。




 取り壊されそうだった志乃の家を、鬼風は借りることにした。

「雪乃はおそらく…さくらの生まれ変わり」

遠い昔、心惹かれた一人の人間の娘がいた。


 

 鬼族の住む村に、鬼族を毛嫌いした地頭が赴任する以前のこと。

 鬼風は、村の娘『さくら』と出会った。鬼族の子どもに、読み書きを教えていた鬼風の家に、鬼の子を背負ったさくらが、駆け込んできた。


「このすぐ近くで、うずくまっていました。足が痛むと…。何でもこちらに向かうところだったと言うものですから、連れて来てしまいました」


鬼風は子供を背中から下すと、丁寧に足の具合を診た。


 さくらは額の汗を拭おうともせず、子どもの具合を心配した。


「大丈夫でしょうか?ひどいけがではありませんか?」

「大丈夫です。少し、ひねっただけのようです。今から、薬を作りますから心配なさらないでください。ところで、あなたは?」

「あっ私、名乗っておりませんでしたね。『さくら』と申します。このすぐ近くで、母と二人で、機織りをしています」

「ああ、あの家ですね。機織りの音が聞こえていました」


 翌日、鬼風は籠いっぱいの野菜を持ってさくらの家を訪ねた。


「まぁ、こんなにたくさんのお野菜を。本当に頂いてよろしいのでしょうか」

「ええ、あの子どもの親から預かってきました。たいそう感謝しておりました」


 鬼風が、家の中の今にも落ちそうな棚や、割れた上がり框に視線が移ったことに気が付いたさくらは、


「父が亡くなり、なかなか家の修繕にまでは手が行き届かなかくて」


と、恥ずかしそうにうつむいた。多少の修繕ならおやすいご用と、鬼風は、その場で、まずは滑りの悪い戸を直した。


 それ以来、鬼風はさくらの家を訪ねては、家の修繕をしたり力仕事を助けたりした。父親を亡くし、病弱な母を助け健気に生きるさくら。笑うと、透き通るような肌に、桜の花びらのような薄紅が頬に差してくる。鬼族の鬼風にも、いつも優しい眼差しで語りかけてくれるさくらに、鬼風はいつの間にか惹かれていた。が、生粋の鬼族は、山吹とその父親、そして鬼風の三人だけになってしまっていた。純血を残すことは、山吹と鬼風の使命にもなっていた。さくらへの想いを封印すべきか、その想いを貫くべきか、鬼風は悩みながらも、さくらとの他愛のない会話に、日々癒されていた。


 村の桜がほころび始めた頃、先代の族長である山吹の父親が息を引き取り、山吹は族長に推された。横暴な地頭が赴任する前のことだったので、族長代替わりの祝いの席が、ささやかではあるが山吹の家で設けられた。


 鬼風の懐には、櫛が忍ばせてあった。さくらを想い、丁寧に作り上げた櫛。桜の花びらの彫りも施し、さくらに思いを伝えるべくずっと懐に忍ばせたまま、月日が巡ってしまった。新たな族長の山吹を支えるためにも、さくらへの想いを秘めたままにするべきかもしれない。そう思いつつも、その日も櫛を忍ばせていた。


 楽しい宴で、鬼風もつい酒が進んでしまった。酔いを醒まそうと庭に出た鬼風を追いかけるように、山吹が庭に下り立った。


「宴席の主が、抜け出して良いのか」


鬼風が笑って声をかけると、山吹は軽く笑顔を見せたあと「実は…話がある」

と厳しい表情になった。


「鬼風よ、我ら鬼族の純血を守ることに拘ってきた。が、そもそも純血を守れというのは、父上の意向でしかなかった」

「意向でしかないとは…。山吹、何を言い出すんだ。何が言いたい!」

「黙って聞いてくれ。我らがこうして穏やかに暮らせてきたのは、人間と共存してきたからこそ。もう、純血に拘る必要はないのではと、そう考えるようになった」


山吹の言葉に、鬼風は一瞬言葉を失った。正気を失っているとしか、思えない。


「山吹、かなり酔ったんではないか?よく考えてくれ、純血を守り通し残していくことが、我ら二人の使命だとそう誓いおうたではないか。純血の鬼族の娘はおらぬが、鬼族の血の濃い娘は、まだ残っておる。その娘をめとればよかろう。純血とたがわぬ子ができよう」


山吹は、鬼風の話を聞き終えると、大きく一つ息を吸い込んだ。


「いや、実はもう心に決めた人がいる。すでに、その人とも契りを交わしている」


そう言って山吹が呼び寄せたのは、さくらだった。



 鬼風は、山吹とさくらを守ることが、自分の新たな使命だと覚悟を決めた。それしか、生きる価値がないとまで思えた。


 しばらくして、さくらが子宝を授かったことを伝え聞いた。

「祝いの品とまではいかぬが、女房どのに差し上げてくれ」鬼風が差し出したのは、桜の花びらの彫りを細工した櫛だった。


「何とも見事な細工ではないか。これは、鬼風が?」

「大したことができぬが、そのくらいの細工なら」

「いやいや、見事なものだ。さくらも、きっと喜ぶに違いない。かたじけない」


 ところが、さくらは、息子の葵を産みおとし短い一生を終えてしまった。

 急ぎ駆けつけた鬼風が目にしたのは、眠っているかと思うような穏やかな笑みをたたえたさくら。その頬に、鬼風は初めて手を差し伸ばした。初めて触れた肌は、すでに冷たい。あの桜色の頬は、色失せている。「さくら!さくら!」と泣き叫んで抱きしめたい。その衝動に耐え、震える指先をさくらから離すことがきた。

 そのとき、さくらの胸の前で組まれた手の甲に、桜の花びらのようなあざがあることに初めて気が付いた。

 山吹に抱かれた葵の泣き声が、鬼風を攻める。

「医術の道に通じていたなら、なぜ母を助けてくれなかった!」そう聞こえる。

鬼族秘伝の薬は、たくさんある。が、亡くなった者を生き返らせる薬はない。


「何もできなかった私を、許してくれ」


泣くこともできず呆然としている山吹に、それだけしか言えなかった。

 

「本当に桜のように、あっという間に散ってしまった」




 地頭、西条高峰の横暴で、鬼族がどれほど辛い思いをしてきたか、鬼風はその目で見てきた。「鬼の所業」という言葉があるが、鬼族は非情ではない。それどころか、穏やかに暮らしてきた鬼族を焼き討ちにかけた高峰の暴挙こそ、「鬼の所業」という言葉が当てはまる。

 山吹は、最後の命の火を燃えがらせて、雷神に化身した。天と地が裂けるほどの怒りの稲妻で地頭の屋敷を焼き尽くし、高峰に天罰を与えた。

 山吹の怒りの雷は、屋敷のなかにいた高峰を直撃したと、のちに屋敷にいた者から聞いた。さすがだとしか言いようがない。山吹にしかできない、妖力だ。しかも、亡くなった者は、高峰一人だったという。


 鬼風は、山吹の密命を受けていた。


「ゆりの腹には、葵の子が宿っている。鬼族の血を引く子だ。私の最後の願いをきいて欲しいのだ。頼む、鬼風。そなたの命の続く限りで構わぬ。葵の子、そしてその子孫らを守ってはくれぬか。この先…鬼族に待ち受ける未来は、困難を極めるものになることは間違いない。鬼族の血を受け継ぐ者がいる限り、鬼風!どうか頼まれてくれぬか」


 鬼風にとって、いや鬼族にとっても憎むべき地頭。その地頭の娘ゆりを守らねばならぬとは…。非情な命を下した山吹に対する怒りも、ない訳でもない。が、ゆりと暮らすうちに、我が娘のような情が湧いてきた。


「鬼風さま、早ようこちらに!」


と、何とも愛くるしい笑顔で手招きされると、この娘のために、命を使ってもよいのでは。そう思うようになった。

「こら、ゆり!走るではない。万が一にも、転んでしまったらどうする!」

そうたしなめた矢先に、あやうくこ転びそうになり、鬼風を驚かせることもあった。


 ゆりは、美しい男の子を産んだ。季節は秋。


「父さま、どうぞこの子に名前を付けてはくれませぬか」


ゆりはいつの間にか鬼風を『父さま』と呼ぶようになった。


「そうだなぁ。秋の七草『桔梗』はいかがか」

「まぁ、それは良い名。父が『葵』母が『ゆり』。そして、子が『桔梗』とは。何とも雅なこと」


そう言って、コロコロ笑ったゆり。そのゆりも、桔梗が七つになる前に、亡くなってしまった。またしても、愛しい人の最期を見届けなければならぬ辛さ。

 ゆりの遺言も『桔梗のことを頼みます』だった。



 鬼風は、桔梗が人と交わることを避けた。人と交わるがゆえに、鬼族に不幸を招いてしまったと、鬼風は考えた。

「桔梗も、あの子らと遊びたい」人間の子どもたちが歓声を上げて走り回っているのを見て、鬼風にせがむことも多くなった。

 遊びたい盛りの子どもに…あまりにも不憫。かといって…と、桔梗に琵琶を持たせてみた。鬼風が教えると、あっという間に上達し、琵琶を奏でることに夢中になった。


「大人になった桔梗は、さくらによく似ていた」


 透き通るような白い肌に、総髪が良く映えた美しい青年に成長した。が、いつも孤独だった。


 寂しさ悲しさの全てをぶつけるように、琵琶を奏でる。その音色が、人間の娘『萩』の心を狂わせてしまった。


「元をただせば、私が悪かったのかもしれぬ」


部屋の片隅に置かれた琵琶を見て、鬼風はつぶやいた。


「山吹の血筋を守るため、厳しく育てたことが…」


 ゆりは『父さま』と呼んで、鬼風を慕った。が、桔梗を『若』と呼んで、線を引いた。情に流されないよう、使用人に徹した。が、またしても鬼風は、愛しい桔梗の命を守ることができなかった。


 桔梗を失い、更にわが命よりもに大事な娘との別れを選んだ萩は、桔梗と逢瀬を重ねた池のすぐ近くに、寺を建て、桔梗の菩提を弔った。それが『天雷寺』。山吹の怒りの雷が作り出した池だとは、知る由もなかった萩。にも拘わらず、まるですべてを見通したかのようだと、鬼風は驚くしかなかった。これも、山吹が巡り合わせた縁なのかもしれない。



 桔梗の子『藤乃』。萩が身を切る思いで鬼風に託した藤乃を、普通の娘として慈しみ育てた。鬼風が育てた藤乃は、知性と教養を身につけた美しい娘に成長した。その美しさは、里の人々が噂するほど。その噂を聞きつけた殿さまは、一目で藤乃に引き付けられ、後妻に迎えた。鬼風にとっては、不安がなかったわけではない。が、藤乃の穏やかでありながら芯の通った性格をもってすれば、鬼の血に苦しむことなく日々を過ごせるに違いない。「遠くから見守る」と決断し、藤乃を嫁がせた。


 穏やかな生活の中で、藤乃は、自分に流れる鬼の血に気づくことなく生涯を終えた。それ以来、鬼風はその血筋を見守ることに徹することにした。



 ところが、幼い藤乃に語って聞かせた『鬼番』の伝説を、藤乃も我が子『菊乃』に語って聞かせていた。鬼族の伝説として伝えられてきた『鬼番』は、伝説でしかないと考えられてきた。それも当然のこと。いくら妖力があるといえ、冥途のことまで鬼風が知る由もない。ほんの戯れに藤乃に語ったことが、悔やまれた。

 鬼番となり水月に鬼の姿として現れたのは、菊乃が慕ってやまない神史郎。菊乃を密かに見守り続けていた鬼風自身も、どれほど驚いたことか。総身に震えを感じた。しかも、神史郎の胸に抱かれると、菊乃の額に小さな角が現れる。


「鬼の血が、神史郎を水月から呼び寄せたのかもしれぬ」


 菊乃は、神史郎への思いを絶ったことで、穏やかな一生を終えることができた。


「神史郎が、この世へ残した思いが『お家再興』であったと言い聞かせたことが幸いした。菊乃は、ゆりに似て気丈な娘だった。よくぞ、神史郎への思いを絶ちきっってくれた」


鬼番となった神史郎が、言葉を発せられなかったことも、幸いした。


「もし神史郎が、菊乃への想いを口に出していたら、恐らく神史郎の後を追って鬼番になっていただろう」



 人の血が混じっていくうちに、深い悲しみや苦しみ、憎しみの底におちない限り鬼の血は隠れたまま、角をはやすこともない。平和な時代が続くと、鬼風自身も「私は用済みに違いない。そろそろ終わりにしよう」と、人里離れた終の棲家で命の終わりを迎えようとした。



 ところが、人間はもっとも憎むべき所業を繰り返した。戦争である。


 鬼族の血を受け継いだ志乃が、母親に疎んじられていることに気が付いた鬼風だった。志乃を連れ去ってやろうと何度思ったかしれない。しかし、志乃の『私は鬼じゃない』の言葉が、それを踏みとどめた。


 父や兄を戦争にとられ孤独になった志乃は、深い悲しみの底でもがき苦しんだ。母親のトミは、生きることに精一杯で、志乃の心に寄り添うことができなかった。

「かわいそうな女だったのかもしれない、志乃の母は」今になって、そう思える。

 赤ん坊だった志乃の額に、わずかに角が現れることがあったのだろう。それを誰にも言えず、苦しんでいたのかもしれない。鬼の血を、濃く受け継いでしまった志乃も、不運だった。


「飛行機に乗っていた人が、凄い怖い顔をしていた」


と言っていた志乃。鬼の形相になった志乃の顔を見れば、どれほど驚いたことか。恐怖で顔が歪んでしまったのも、当然。子どもとも、思えなかったのかもしれない。ただ恐怖心から、志乃を狙い撃ちをしようとしたことも、納得できる。

 そのアメリカ兵士の表情まで観ることができたという志乃も、やはり鬼族としての力が残っていたということ。


『鬼風さんが、志乃のことを見ていてくれるなら、志乃、鬼にならないように頑張る』と言った幼い志乃のために、城山の家に住み続けた。


「お母さんが、心配するからもうここへは、来ないように」と、何度も言ったが、志乃は、寂しくなると鬼風を訪ねてきた。


 母親のトミは、志乃のために家でできる洋服の仕立ての仕事を始めたが、丁寧な仕事ぶりが評判を集め、注文が途切れることがなかった。


「ごめんよ。お母ちゃん、これ仕上げなきゃいけないんだ。一人で、銭湯行ってくれるか?」


そんなときも、志乃の向かう先は、鬼風の家だった。


 風呂上がりに、志乃はいつも鬼風にせがんだ。


「ねぇ、昔話の続き、お話して」


鬼風は、昔話と称して『山吹』『桔梗』そして『菊乃』のことを語って聞かせた。


「みんなかわいそうな鬼さんだね。鬼は、みんな不幸になっちゃうのかな」

「いや、鬼だから不幸じゃないんだ。人は、自分とは違うものを受け入れられない。そんな心が、不幸を生んだ」


そう言って聞かせたが、志乃がどこまで理解していたか。鬼風にもわからない。が、志乃は健気に生きた。父や兄を失った深い悲しみから立ち上げり、結婚し一人の男の子に恵まれ、穏やかに命を全うした。



 志乃に男の子しか生まれなかったことで、命の幕引きを考えていた鬼風だったが、

「私の命が尽きた後、鬼風さん、雪乃を頼みます。わずかに流れる雪乃の中の鬼族の血が、あの子を不幸へと導くことがないように」と、志乃から雪乃を託されていた。



 その後、志乃の葬儀に参加した折、志乃の孫『雪乃』に初めて会った。


「まだまだ私の使命が残っているということか。山吹、そろそろ終わりにしてはもらえぬか」


 ため息を漏らした鬼風だったが、その顔は穏やかだった。さくらの櫛が、母から子へ、そして孫へと引き継がれたように、鬼風の使命も、ずっと引き継いできた。


 


 終の棲家として、志乃の家を借りることもでき、すでに50年以上の歳月が流れた。雪乃は、鬼風の力を借りることなく、鬼族の血が雪乃自身を守るかのように、幸せな日々の中で過ごしてきた。

 

 囲炉裏端に座って、庭をただ眺める。それが、今の鬼風の生活。庭の木々のふくらんだ芽からは、春の鼓動が感じられる。

 何度この春を迎えただろうか。開け放たれた窓から柔らかい風が吹き込んでくる。



 処分されそうだった志乃の家は、遠い昔ゆりと過ごした家と同じ匂いがした。桔梗が歩き出したころ、目を離したわずかな隙に、桔梗が囲炉裏にあやうく落ちそうになって肝をつぶしたことも、脳裏に浮かんだ。


「ゆりに、こっぴどく叱られた…。可愛い顔が、一転して…鬼の形相とは、よく言ったものだ。それにしても、あんな遠い昔のことまで、思い出すようになったとは…」

一人で笑い声をあげた。


 と、玄関の扉が開く音と同時に


「おじさん、こんにちは!お一人で笑っていらっしゃるの?外まで聞こえましたよ」


そう言って入ってきたのは、歳を重ねた雪乃だった。


「おお、それは恥ずかしい。いや、大昔のことを思い出してね」


雪乃は、台所に荷物を下ろすと鬼風の対面に座った。


「まぁ、どんなお話ですの?」


白髪が目立ってきた雪乃は、そう言いながら火箸で囲炉裏を二度三度突いた。勢いよくパチパチと音を立てて火花が散る。


「そんな面白い話でもないが、鬼族の娘はみな気が強くて…ハハハ…」

「あら、私も気が強いということですか?私、自分では随分穏やかな性格だと思っていましたが」


雪乃はそう言いながら、囲炉裏にかかっていたやかんの蓋を開けた。


「お茶を入れますね。今日はを作ってきました。一緒にどうですか?」


鬼風の返事を待たずに、台所へ行くと手際よく食器を取り出した。


「それはありがたい。雪乃のぼたもちは、本当に旨いからなぁ。子どもたちも、喜んだだろう。で、今日は、娘たちはどうしたんだ?」

「ええ、主人のお墓参りの後、そのまま孫たちと公園に行っちゃいました」

「そうか、こんなおじいさんのところより、公園の方が良いだろう。どうだ、孫たちは大きくなっただろう。可愛いさかりだ」


鬼風は、雪乃が用意したぼたもちを口にした。


「鬼の血は、女しか引き継がないというのは、こういうことなんでしょうね」


雪乃は、お茶を飲みながら話を続けた。


「男の人が鬼の力を持てば、権力や悪の力と結託してしまうかもしれないですもの。女は強いんです。鬼の力に頼らなくても、我が子を守るためなら何でもできちゃいます。私も、そして桃花も」

「そういうことかもしれぬな」


鬼風はそう言いながら、視線を窓の外に移した。



 鬼風の横顔を見て、雪乃は鬼風が随分やせたことに心を痛めた。おそらく、もう数十年、人の血を飲んではいないはず。妖力どころか、残された命も僅かではないかと雪乃は感じていた。

 おそらく私が最後の鬼族。幼い頃、祖母の志乃はいつも雪乃の頭を撫でてくれていた。その意味を悟ったのは、結婚が決まったことを鬼風に報告に来た時。



「志乃から聞いていたんだ。雪乃は、赤ちゃんのとき力んで泣くと、微かに額に角のようなものが出てくる。でも、大丈夫。雪乃は人を憎んだりするような子には、けっしてならない。でも、万が一雪乃に何かあったら頼むと、私に託したんだ」


そんなことを聞いた雪乃は、驚きはなかった。


「おばあちゃんから、昔話のような話を聞いていたのよ。山吹、桔梗、菊乃。みんな鬼だったよね。それって、鬼風さんが、教えてあげたんでしょ。やっぱり、おばあちゃんも私も、鬼の血を引いていたんだね。なんだか、すっきりしたわ」

「私の方が、驚いているよ。まさか、雪乃に話していたとは」

「おばあちゃん、心配していたのよ。私が、鬼の血を引き継いでしまったことを。自分は、男の子のしか産まなかったら、もう鬼族の血は絶えたって思っていたのに、孫の私が女の子だったから」

「志乃は、悲惨な戦争のため、自分の鬼の血を自覚せざるを得なかった。可愛そうな子ども時代だった。でも、雪乃は、平和な時代、しかも優しい男に出会えて幸せだ。志乃も、喜んでいると思う。私も、一安心だ」

「うん、ありがとう。おじさんを心配させないよう、うんと幸せになるわ。今度は、私が鬼風さんを守ってあげるわ」

「ほう、そりゃ頼もしい。ハハハ…」


 一人で暮らす鬼風のことを気遣って、度々訪ねてきては他愛のない話をして帰っていく雪乃は、ますます『さくら』に似てきた。顔かたちだけでなく、優しい気配りやさりげない仕草まで『さくら』そのもの。


「雪乃が結婚…いよいよ、私の役割も終わりだ」


鬼風のつぶやきを耳にした雪乃は、言葉に詰まった。


 

 月日の流れは早い。雪乃は、男の子と女の子を産み、育て。そして、その娘の『桃花』も二人の子に恵まれ、穏やかに暮らしている。

「主人も亡くなり、これからはもう少し鬼風さんのところに来られます」と言って、身の回りの世話をする雪乃。


「みんな、鬼風さんのことを父親だって思っているんですよ。不思議ですよね。みんなパパのこと、忘れちゃってるんですよ。この家で育ったのに…。まぁ、その頃のことを知っている人も、ほとんどいませんけどね」

「ハハハ…。そんなものだよ、人の記憶なんて」


そういう鬼風自身も、雪乃と共に過ごす時間は、「さくらと錯覚してしまう」と。あれほど夢見ていたさくらとの暮らしが、何百年のときを超えて手に入ったように思えてしまう。いくら否定しようと、そう思えてしまう。そう思う自分を、何度も責めた。責めながらも、今生の思い出を作らせてもらっているのだと感謝の思いも湧きおこってくる。「今だけ、ほんの少しだけ夢のような時間を過させてくれ、山吹よ」と天に向かって手を合わせる。


「今日は、気分も良い。少し、庭に出てみたいな」


そう言って立ち上がろうとする鬼風のそばに、雪乃は急いで駆け寄った。


「すまない。手を貸してもらえるか」

「ええ、ゆっくり立ちましょう」


 庭は、綺麗に整えられていた。鬼風が丹精込めて育てた花たちは、今は雪乃が時折訪ねて来ては手入れをしてきた。


「おじさん、ヤマブキの花が咲き出しましたね。本当にきれいな色だこと。桜も、もうすぐ咲きそうです。今年は、桃花の家族も一緒にお花見をしようと言っています」

「そうか…。ところで、孫たちは大丈夫か?」

「はい。二人ともどんなに泣き叫んでも角は出ません。桃花も幼いときから泣くたびに抱きしめて頭を撫でてきましたが、一度だって角は現れてきません」

雪乃に手を支えてもらってやっと立っていられる状態の鬼風は、その言葉に安心したのか、バランスを崩してしまった。慌てて雪乃が、鬼風の体を支えたが、鬼風の体の細さに驚くほどだった。



「寒くなってきました。中に戻りましょう」

「いや、もう少し庭を見ていたいなぁ。縁側に腰かけたいんだ」


 鬼風を縁側に腰かけさせた雪乃は、


「作務衣一枚じゃ、少し寒いでしょう。何か羽織るものを持ってきますね」

そう言って、部屋の中へ入っていった。


 庭には、ヤマブキのほかに、桜の木。そしてユリやタチアオイ、キキョウ。藤棚も鬼風はこしらえた。

「今夜は、新月だったな…」


『鬼風さん、どうぞ山吹を支えてください』


さくらの声が、聞こえた。閉じた瞼に、山吹の横でさくらが幸せそうに笑う顔が浮かんだ。


「私は、決して不幸ではなかったよ。さくら」


鬼風の閉じた瞼は、二度と開くことはなかった。

 


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新月物語 ー鬼伝説ー せりなずな @haruno-nazuna

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