第4話 冬 志乃

 日本中が、悪夢に包まれていたとしか思えない。その悪夢に、母は本当の自分を見失っていたのだと、歳を重ねて母となり、志乃はやっとそう思えるようになった。我が子を愛せなくなった母の苦悩が、どれほど深いか。



 志乃は、兄の鉄夫がたくさんの人たちの万歳の笑顔に囲まれて、列車に乗り込む姿を、ホームの端で見ていた。鉄夫は、視線の先に志乃を認めると、唇の端をぎゅっと結んだ。

 かじかむ指先に息を吹きかけながらも、志乃の目には鉄夫しか映らない。兄ちゃんと叫んだその声は、汽笛の音にかき消された。



「志乃、兄ちゃん必ず帰ってくるから、良い子で待っていろよ。これはな、死んだばあちゃんから預かった櫛だ。お父ちゃんのお母ちゃんだぞ。志乃、覚えてないのか?志乃をとってもかわいがってくれてたのに、忘れちまったのか。そのばあちゃんの櫛だ。志乃がもう少し大きくなったら、渡してくれって言われてたんだ。大事にするんだぞ。」


家を出るとき、そう言って頭をなでてくれたのが、最後の言葉になるとは思いもしなかった。

 汽笛が鳴り終わるのを待たずに走り始めた列車の窓から、鉄夫が自分を見つけて手を振ってくれたのを見た志乃は、

「兄ちゃん!」

叫びながら駈け出した。誰も、小さな志乃には気が付いていない。母のトミでさえ志乃に気が付いていない。

「志乃、危ない!止まれ!」と叫びながら、鉄夫は窓から体を乗り出した。必死に列車を追いかける志乃が、どれほどい愛おしいか。必ず帰って、もう一度あの子を笑顔にしよう。鉄夫は、そう誓った。


 ホームの端まで走りきった志乃を置いて、列車はどんどん遠ざかっていく。志乃は、ホームからはい降りると、今度は線路の上を列車を追いかけて走り出した。枕木の上を上手く走れないと、線路の敷石が、志乃の足を痛めつける。底の薄い草履は、素足と変わらない。「痛くない。こんなの何でもない。どこまでも追いかけていくんだ。兄ちゃんとは離れない」と必死に走り続けた。が、


「こら!何してる!」

暴れて抵抗する志乃は、駅員の脇に抱きかかえられ、ホームに連れ戻された。ホームで、志乃を待つトミの冷たい視線が、涙で見えなくなった。


 志乃、6歳の冬だった。



 父の戦死の知らせが届いた直後に、兄に召集令状が届いた。


 戦死の言葉の意味はわからなかったが、母のトミが声を殺して泣く姿を見て、死んでしまったことは志乃にも理解できた。鉄夫がぐっと唇を噛みしめ、握る拳が、小刻みに震えているのを見て、父が亡くなった悲しみは、隠さなくていけないのだろうということも、何となく志乃は感じていた。


 その直後だった。鉄夫の召集令状が届いたとき、トミが微かに笑ったのを、志乃は見逃さなかった。父のときとは、明らかに違う。


 その理由が、明らかになったのは、鉄夫が出征する一週間ほど前のことだった。日が暮れかかり、冷たい風が吹きつける中、いつものように家の前で鉄夫の帰りを待っていた志乃に、隣に住む中山のおばさんが、意地悪なそうな顔で寄っきて耳打ちした。


「志乃ちゃん、良いこと教えてやるよ。トミさんは、本当の母ちゃんじゃないんだよ」

「え?」

驚いておばさんの顔を見上げた志乃に、さらに唇の端の片方をあげて続けた。

「兄ちゃんに聞いてごらん」

そんな無責任な言葉で終わらせられた。振り向きざまに、振り返った中山のおばさんは、志乃の泣きそうな顔を見て、満足そうな笑顔を見せた。


「志乃!ただいま!」

鉄夫の明るい声が、背後から聞こえた。『兄ちゃんに聞いてごらん』と言われた中山のおばさんの言うことなんか、絶対にきいてやるもんか。志乃はそう決めて、笑顔で振り返り「兄ちゃん、お帰り!」と、鉄の元に駈け出した。


 

 学校は休校状態で、鉄夫も軍需工場で働かされていた。学生から、学ぶことも取り上げたこの国は、ひたすら戦うことを国民に強いていた。

 家には、志乃ただ一人。近所に同じくらいの歳の子どもがいないので、一人で留守番をすることが多かった。

 縁側で、二人が帰ってくるのを一人で待つことしかできない志乃は、『本当の母ちゃんじゃない』の一言が、嘘ではないだろうと思った。

 庭に降りたスズメが、必死に何かをついばんでいるのを見ていると、お母ちゃんからはぐれた子スズメに思えてくる。空を見上げると、一羽のカラスが飛んでいくのが見えた。


「あの子も、お母ちゃんがいないのかな?」


涙があふれてくる。お母ちゃんが、本当のお母ちゃんじゃないかと思うことは、それまでも、何度もあった。鉄夫や志乃に、辛く当たることもあった。志乃に対しては、視線さえまともに合わせようとはしなかった。それでも、父がいるときは家族4人で、楽しく暮らしていた。


 志乃の長かった髪も、毎朝、トミは三つ編みに結ってくれた。


 志乃の髪は、猫っ毛で結いにくいよ。と、言いながらも結ってくれていたトミだったが、父が出征した翌日、ばっさりと切られてしまった。


「お父ちゃん、志乃の三つ編み好きだって言ってたのに」

「お父ちゃんが戻ってくる頃には、伸びてるからいいだろう」


涙をぬぐいながら、トミに言われるまま庭に広がった自分の髪を片付けた。大きな庭のほうきは、志乃には扱いづらい。お父ちゃんが帰ってくるまでに、早く伸びてね。と切られた髪にそう言葉をかける。ところが、その後も、少し伸びると、トミは無言で髪を切り続けた。

 もう三つ編み、できないな。お父ちゃん悲しむかな。本当のお母ちゃんは、どこにいるんだろう。そんなことを考えていると、涙は止まらなくなる。



「ただいま!」


優しい鉄夫の声が、聞こえた。慌てて志乃は、両の目をこすって涙をぬぐった。


「お帰り!兄ちゃん!」

「今日は、半ドンだったから急いで帰ってきたよ。志乃、お芋半分こしような」


志乃は、思わず鉄夫に抱きついた。


「何だ?どうした?一人で寂しかったか?」

「ううん。兄ちゃんが早く帰ってきてうれしいだけ」

「そうか。いつも一人で留守番して、志乃は偉いなぁ」


 鉄夫は、お弁当のサツマイモを半分にした。志乃には、昼食は用意されていない。朝ご飯の残りを食べるように言われていた。


「兄ちゃんの分だよね?」

「いいんだよ。志乃と半分こにしたいんだ」

「じゃあ、兄ちゃん。志乃は、これあげる」


志乃は、部屋の隅にあった古新聞紙を取りあげると、その一枚をぎゅっと丸めて差し出した。


「何だ?これ」

「おまんじゅうだよ。あんこがいっぱい入ったの!おっきいでしょ!」

「そうか、おまんじゅうか。おいしそうだな」!


志乃が差し出した新聞紙のおまんじゅうを、鉄夫はおいしそうに食べる真似をした。


「うん、うまいぞ!今まで食べたおまんじゅうのなかで、一番うまい!」


 戦争など無関係な、幸せな時間。穏やかな日差しが、茶の間の二人に降り注ぐ。



 鉄夫が出征していくと、志乃に対してトミは、いくぶん穏やかな口調で話しかけるようになった。

 今なら、「お母ちゃんは、本当のお母ちゃんじゃないの?」と尋ねてみてもいいかもしれない。が、もし、「本当のお母ちゃんじゃない」と言われたら、この家から出て行かなくてはいけないのだろうか。

 それより、本当のお母ちゃんが、迎えに来てくれるかもしれない。それまで、お利口にして待っていたほうが良い。そして、お兄ちゃんが帰ってくるのを、ここで待っていよう。お兄ちゃんが帰ってきたら、「本当のお母ちゃん」のことを聞こう。


「お兄ちゃんが帰ってくるまでの辛抱だ」



 一週間に一度、志乃は隣の田沢村に住む遠い親戚だという農家の家まで、野菜を分けてもらいに行く仕事を任されていた。大きな背負子しょいこを背負っても、そこに入れてもらえる野菜はわずか。庭先から家の中を見ると、食卓の上には、炊き立てのご飯だったり、山盛りの煮物だったりが並べられている。それを横目に、志乃が小さなため息をつくと、「なんて嫌な子なんだろうね。ため息なんてついて」と言われたこともある。志乃のおじいちゃんのお兄さんだという壮太おじさん(志乃からはおじいちゃんにしか見えない)のお嫁さんという人は、いつも嫌味を一つ二つ並べる。


 さほど重くない背負子を背に、村から家までの道は、志乃にはとてつもなく遠い。行きは、「もしかしたらたくさん野菜がもらえるかもしれない」と、かすかな望みを抱いて歩くと、それほど遠いとは思えない。が、大きな背負子をほぼ空の状態で歩く志乃には、ただただ遠い道のりだ。


「お母ちゃん、なんて言うかな」


そんなことを考えると、ますます足取りは重くなる。


 と、遠くの方からサイレンの音が鳴り響いてきた。「空襲警報だ」志乃は、首にかかっていた防災頭巾を被りなおし、顎紐をぎゅっと結びなおした。


「兄ちゃんから教わった、ちょうちょ結び、上手になったよね」


 南のはるか遠い空に、飛行機が列を作って飛んでいるのが見えた。志乃は、少し足を速めた。


「こんな田舎には、爆弾は落とさないよ」


いつも鉄夫が、そう言って、空襲警報の音に怖がる志乃を安心させてくれていた。が、今日は、誰もいない田んぼのあぜ道。防空壕どころか、隠れるところも何もない。


「急いで帰んなきゃ」


走り出した志乃の背中の大きな背負子の中で、しなびた大根が飛び跳ねている。気が付くと、はるか遠くにいた敵の戦闘機3機が、こちらに向かってくるのが見えた。


「何で、こっちに来るの?」


必死に走り出した志乃の耳に、戦闘機のエンジン音がどんどん近づいてくる。と、同時に一機の戦闘機が、どんどん高度を下げてくる。まるで自分に狙いを定めた猟犬のように、迫ってくる。ただでさえ歩きにくい田んぼのあぜ道を、大きな背負子を背負って走る志乃だったが、足を滑らせてあぜ道から、田んぼへ転がるように落ちてしまった。背中の背負子は、志乃の背中から飛ばされたはずみで、田んぼの土手にあった水路の脇の石垣にぶつかると、バラバラに砕けていった。ずいぶん長く使い古した背負子だったので、いとも簡単に壊れてしまった。

 その背負子を目にした志乃は、燃えるような熱い血が体中を駆け巡るのを感じた。ぐっと見開いた視線の先に、操縦席のパイロットの驚く顔が見えた。何が起こっているのか、志乃自身もわからない。パイトットが、操縦桿をぎゅっと握りしめる様子まで、志乃には見えた。父や兄にも、同じように怖い思いをさせているのが、この戦闘機なんだ。


「許せない!」


そう言ったと同時に、志乃の体がふわりと浮いた。


「誰?お父ちゃん?」


誰かが、風のように志乃の体を優しく抱き上げ、風のようにその場から志乃を連れ去った。


 気が付くと、志乃は家の前に立っていた。夢だったのだろうか。

「違う。夢じゃない」

泥だらけになったズボンに、わらくずが付いている。首からぶら下がった防災頭巾も、草やわらがたくさん付いている。


「今日のことは、忘れなさい」


その声に慌てて振り返ると、体の大きな男の人が立っていた。珍しいことに、作務衣を着ている。国民服を着ていない大人は、近頃ほとんど見かけなくなっていた。


「誰?おじさん?」


志乃の問いかけに、男は優しく微笑んで「鬼風」とだけつぶやくように答えた後、突風に巻き上げられた砂埃に志乃が目を閉じたその一瞬に、消えるようにいなくなった。


「鬼風?」


 泥だらけになったズボンを、トミはぐちぐちと文句を言いながら洗った。まさか、戦闘機に追われたなどと言っても、おそらく嘘だと言われ、かえって叱られると志乃は思った。


「背負子もどこかに落としてくるし、全くお前って子は…」


 布団に入って、改めて考えてみた。戦闘機から追われたあの恐怖を思い出すと、体中震えが襲う。が、戦闘機の操縦をしていた人の顔まではっきり見えたことも不思議だが、その人の恐怖にひきつった表情が頭から離れない。怖い思いをしているのは志乃の方なのに、それ以上の恐怖にひきつった顔。

 布団を頭まですっぽりかぶると、あの時の自分の体の変化をもう一度思い出してみた。

 体中の血が燃えるように熱く感じた。そのためだろうか、頭が一瞬痛くなった。そして…。


「私、頭から角が生えたような気がした…」


 鬼風という不思議なおじさんに、もう一度会いたい。鬼風という名前そのまま、おじさんは鬼なのか。そして、自分も鬼ではないかと、尋ねたい。本当のお父さんかもしれない。とまで志乃は思うようになった。



 再び志乃は、隣村の親戚の家に、野菜を分けてもらいに出かけた。大きな背負子は壊れしまったので、今度は、大きなずた袋(肩から掛けられる布製の袋)を持たせられた。


「今日は、この袋いっぱいにもらってくるんだよ」


トミにそう言われたが、あの親戚のおばあちゃんは、来られることさえ嫌がっている。そう言い返したかった。


 田んぼのあぜ道を通っていると、あの日の恐怖を思い出す。


「お母ちゃんに、田沢のおばあちゃんに『もう来るな』って言われたって言ったら、もう行かなくて良いよ。って言ってくれるかな」


そうつぶやくと、


「志乃さんは、大変な思いをされているんですね」


鬼風の声だった。慌てて振り返ると、鬼風はたくさんの野菜が入った大きな背負子を抱えていた。


「私の名前、知ってるの?」

「ええ、もちろん。知っていますよ。ああ、でも、こんなにたくさんの野菜を、志乃さんに持たせるのは無理でしたね」


鬼風はそう言って、微笑んだ。優しい笑顔だった。くっきりとした眉に、すっとした鼻筋。大きな目は、一瞬怖そうに見える。そんな強面の鬼風が笑うと、


「鬼風さん、かわいいお顔」


思わす、志乃はそう言ってしまった。


 すると、鬼風はさらに顔をくしゃくしゃにして笑顔をみせた。


「志乃さんに、かわいいと言ってもらえるなんて、長生きした甲斐があったというものです」


 二人は田んぼの土手に腰を掛けて、話を始めた。


「鬼風さんは、どこに住んでいるの?」

「ここからさほど遠くないところです」

「一人で?」

「ええ、ずっと一人で住んでいます」


そんな他愛のない話をしていたが、志乃がずっと心に抱いていた疑問を、口にした。


「鬼風さんは、私の本当のお父さんなの?」


驚いた鬼風は、志乃の小さな手がぎゅっと握りしめられていることに気が付いた。


「私には、子供はいません。なぜ、そんなことを?」

「隣のおばちゃんが、志乃と兄ちゃんは、お母ちゃんの本当の子じゃないって言うから。どこからか、もらわれてきた子なのかなって思ったの」

「そんなこと…。ひどいことを言う人がいたものです。そういうことを言って、面白がってるだけですよ」

「ううん。私、それ、本当のことだと思う。お母ちゃん、私たちのことを嫌ってるもん」


志乃の目に涙が浮かんでいることに、鬼風は心を痛めた。


「そんなことはありません。お母さんは、志乃さんを大事に育ててくれていると思います。でも、どうしてもつらくなったら、鬼風を呼んでください。その時は、いつでも助けに行きますから」


 鬼風は、そう言いながら、背負子の中から野菜をずた袋に入れてくれた。


「今日は、このくらいにしておきましょう。一度にたくさん持って帰ると、お母さん、驚くでしょうから」

「ありがとう、鬼風さん。今度、いつ会える?またお話できる?」


志乃の問いかけに、微笑みながら頷いた鬼風の周りに、また砂嵐が巻き上がった。


 再び、鬼風の姿は消えていた。


 その後、志乃は鬼風から野菜や米、ときには醤油や味噌、砂糖までもらえるようになった。


「壮太おじさんも、最近は気前がいいね。ありがたいよ」


機嫌のいい時のトミは、志乃にも優しい言葉を掛けてくれる。


 ところが、思ってもみないことが起きるのが戦争だった。


 新月の夜。深い眠りに落ちていた志乃だったが、その耳に恐ろしい戦闘機の音が聞こえた。あの田んぼでの恐怖の体験がよみがえり、体が震えてくる。急いではね起きた志乃だったが、横にはトミがすやすや眠っている。この大きな戦闘機のエンジン音が、なぜ聞こえないのか。どうして空襲警報が鳴らないのか、不思議でならない。戦闘機は、おそらく何十機も隊列を組んでこちらに向かっている。その様子が、目に見えるようにわかる。


「お母ちゃん、飛行機が来る!早く逃げよう!」


トミを揺すり起こしたが、


「何言ってるんだよ。空襲警報も鳴っていないのに。寝ぼけてんじゃないよ」

「お母ちゃん、本当に危ないよ!こっちに向かってるよ!」

「もう、うるさいね!そんなに言うなら、あんた一人で逃げればいいだろ」

「そんなこと言わないで!お母ちゃん、一緒に逃げよう!」


志乃は、トミの腕をぐっと引っ張ると、トミの体はいとも簡単に起き上がり、その勢いにトミが驚いて言葉を失っていた。


「あんた、何ていう力なんだい」

「それより、お母ちゃん。早く逃げよう」

「逃げるって言ったって…」


その時、けたたましい空襲警報が鳴り響いた。


 戦闘機が爆音をならせて、何機も飛んでくる。東の空が、すでに真っ赤に燃え上がっている。防空壕は、少し先にある。そこまでトミの手に引かれ、必死に走る志乃だったが、たくさんの人たちに押されたり引っ張られたりして、つないでいた手が外れてしまった。


「お母ちゃん!」


志乃の必死の叫びも、人々の叫びや怒号に消されてしまう。かすかに「志乃!」と呼ぶトミの声は聞こえるものの、その姿は見えない。


 空を見上げると、カモが隊列を組んで空を渡るように戦闘機が何十機と飛んでくる。が、鳥が飛ぶような、そんな穏やかなものではない。爆弾を降らせる戦闘機は、人の命を奪う恐ろしいもの。志乃は、自分の体がまた熱くなるのを感じ取っていた。


「あいつらが、お父ちゃんや兄ちゃんを連れていったんだ!」


そう叫ぶと、志乃は自分の体が間違いなく変わっていくのを感じていた。


「絶対に許さない!」


目から熱い涙が流れる。額には、まぎれもなく二本の角が現れている。


 と、その瞬間、志乃の体を抱きしめる者がいた。


「鬼風さん」

「だめです。憎しみの心は!」


そう言うと、鬼風は志乃をふわりと抱き上げて風のように消えていった。

 戦闘機が去った夜空には、無数の星が輝いていたが、地上では恐ろしい炎が町を飲み込もうとしていた。


 志乃を見失ったトミは、一晩中志乃を探しまわった。が、見つからない。志乃が言ったとおりに、早く非難していれば人ごみに押されて離れ離れになることはなかったと、悔やんだ。

 東の空が明るくなり、力も尽き果て家に向かうと、幸いにも家の周りは焼けずに残っていた。慌てて玄関を開けると、


「お帰り!お母ちゃん!」


志乃が笑顔で飛び出してきた。


「あんた、どこ行ってたの?」


と、同時に自分でも思わず志乃を抱きしめた。


「お、お母ちゃん?」


戸惑いの声をあげた志乃に、我に返ったかのようにトミは志乃の体を突き放し


「本当に心配かけんじゃないよ」


投げ捨てるように言った。


 田舎の軍需工場で、これほどの攻撃をうけるとは、誰も想像していなかった。それこそ、まさに戦局は危うい方へと向かっている。が、誰もそれを口にはしない。工場は、燃え尽きた。幸い、町への被害は最小限に抑えることができた。が、慣れない空襲に、人々の心は抑えきれない不安でいっぱいだった。避難する際に、たくさんの人たちがケガをしたり、中には、亡くなったりした人もいた。



 軍需工場が焼き落ちたため、トミは仕事を失った。


「今日は、お母ちゃんが壮太おじさんのところへ野菜をもらいに行くから、志乃はちゃんと留守番しておいで」


朝早くそう言って、トミは出かけていった。


 一人で何をするわけでもない一日を過ごすことは、苦ではなはない。縁側に腰かけて、空を飛ぶ鳥や流れる雲を見ているだけでも、楽しめる。


 あの空襲以来、トミが少しずつ志乃を気にかけてくれるようになったことも、志乃の心を落ち着かせる。

 が、しばらくして勢いよく玄関の戸が開く音が聞こえた。


「あっ!お母ちゃんだ」


笑顔で迎えた志乃の目に飛び込んできたのは、トミの吊り上がった目。


「お前!いったい今まで、どこから野菜や砂糖なんかもらってきたんだ!まさか、盗んできたわけじゃないだろね!」

「盗んでなんかない…おじさんから…」

「どこのおじさんだって言うんだ!知らないないおじさんが、くれたとでも言うのか!」

「だって…」

「壮太おじさん、亡くなってたじゃないか。あんた、いつもどこへ行ってたんだよ。お母ちゃん、恥かいたじゃないか!」


 鬼風のことは言えなかった。

「私は鬼じゃない」そう何度も言い聞かせてきた。あの日から、遠くの物までよく見える。今まで聞こえなかった遠くの人の話し声まで、よく聞こえる。そして、何よりも、危なくなると、鬼風と名乗る男の人が、いつも助けてくれる。鬼風が、本当のお父さんなら、自分は鬼の子。


 違う!絶対に、私は鬼じゃない!


 優しかったトミは、再び志乃に厳しく接するようになった。遠い隣村に野菜をもらいに行く仕事はなくなったが、今度はすぐ近くの家の井戸まで、毎朝もらい水に行く仕事が任された。まだまだ春は遠い。井戸から水を汲んで、小さな体で、持ち上げられる分だけバケツに入れる。できるだけこぼさないように、家まで運ぶのを4回。昼と夜は、トミが行く。が、朝のもらい水は寒さに指先が凍え、バケツを握ることさえつらい仕事だ。途中、何度も休憩をして4回の水運びを終えると、指先のしびれがしばらくおさまらない。火鉢に指をかざすと、ひりひりと痛みを感じながらも少しずつ指先に感覚が戻ってくる。そうすると、やっと深く息を吐きだすことができる。


 志乃の一日の始まりが、そのような辛い仕事になって一月ほど過ぎた頃。トミは朝早くから、新しい仕事に行くと言って出かけた。志乃は、一人でいつものように縁側に腰かけていた。

 向かいの家の庭の桜の枝先に、花の芽が膨らみ始めていることに志乃は気が付いた。春の訪れが、さほど遠くない。春が来れば温かくなって、朝の水くみも楽になる。そうしたら、兄ちゃんが帰ってくるかもしれない。いいことが、いっぱいある。


「春よ来い。早く来い」


 庭先の向こうには、城山しろやまの中腹から立ち上る煙が見える。いつも、あの煙がどこからあがっているのか気にはなっていた。


「見に行ってこよっかなぁ」

小さな水筒に、水を入れ。防空頭巾をかぶって、志乃の小さな冒険が始まった。


 家の裏手には、細い道が山の中に続いている。お父ちゃんと兄ちゃんと、よく山菜取りに行った。楽しかった。そんな思い出が詰まった山道を登っていくと、見覚えのある炭焼き小屋や、桑畑、農機具小屋がある。三人でおにぎりを頬張った土手も、何も変わらずそこにある。変わったのは、人間だけ。


「こっから先は、行ったことないけど…」


いったん立ち止まって、来た道を振り返って見た。もう少し行ったら、あの煙の正体がわかるかもしれない。

「30歩だけ、行ってみよ」そう決め、「一つ、二つ…」数えながら、歩みを進めた。


 歩き辛いの細い山道は、少しずつ周りの木々に光を遮られ暗く、そして空気が冷たくなってくる。地面を見て歩かなければ、石につまずいて転びそうになる。


「三十!」


その声と同意に、視線をあげた志乃は、少し先に小さな家を見つけた。小走りに進んだ志乃は、その家の前で足を止めた。茅葺屋根の古い家の庭先で、薪をわる鬼風がいたからだ。


「ようこそ、志乃さん」


志乃が声を掛ける前に、鬼風が笑顔で振り返った。


 家の中に通された志乃は、きれいに整えられた部屋を見渡した。小さな台所は土間になっており、すぐ横の板の間には囲炉裏がある。自在鉤じざいかぎには、湯気が立ち上る鉄瓶がかかっている。


「鬼風さん、一人で住んでいるの?」

「ええ、そうです」

「寂しくない?」


志乃の心配そうな顔を見て、鬼風は優しく微笑みを返した。


「ずっと一人でしたから、大丈夫。寂しくないですよ。志乃さんは、優しいですね。さぁ、こちらに来て座ってください。ちょうど、芋を蒸かしたところです。食べてください」


 夢中でサツマイモを頬ばる志乃に、鬼風は尋ねた。


「毎朝、水を運ぶのは辛いでしょう」

「うん。でもお兄ちゃんがやってきた仕事だもん。私、頑張ってやってるよ。あれ?鬼風さん、何で水運びしてるの知ってるの?」

「志乃さんのことなら、何でも知ってますよ」


志乃は迷いながらも口を開いた。


「鬼風さん。本当に私のお父さんじゃないよね」

「ええ、前にも言ったとおり、残念ながら、私には子供はおりません」

「私は、鬼じゃないよね。本当にお父ちゃんとお母ちゃんの子だよね」


志乃のすがるような目に、鬼風は答えに迷った。


「そうです。お父さんとお母さんの、本当の子です」


志乃の安心する顔を見て、鬼風は心に決めた。


「もう二度と、鬼風は志乃さんの前に現れません。でも、万が一、志乃さんがどうしても辛くて辛くて仕方がなくなったときは、鬼風を呼んでください。必ず、助けに行きますから」


鬼風は優しく志乃を抱きしめた。


「うん、わかった。鬼風さんって呼ぶね」


志乃はそう言って、目を閉じた。鬼風から、優しく穏やかな香りがした。


 温かい春の日差しに包まれるような心地よさを感じていたが、次の瞬間、その温かさが消えたことに気が付いた。目を開いた志乃は、家の庭に立っていた。


「やっぱり鬼風さんは、鬼なんだ」


口の中には、サツマイモの甘さが残っていた。



 戦禍が厳しくなってきたのか、近頃ぐっと増えてきた空襲警報は、志乃の心に突き刺さるように響く。そのたびに、志乃の体中に駆け巡る熱い血を、志乃は自分で抑えられるようになった。が、トミは、変わらず志乃と言葉を交わすことを避けているように、志乃は感じていた。



 春の訪れは、季節の花で感じることができるが、人々は花を愛でることも忘れるほど、心がすさんできていた。どこの家でも、誰かが命を落とすことが当たり前になっていた。

 志乃は、家の縁側から城山の中腹からのぼる煙を、毎日確認した。

「今日も、鬼風さん。元気かな」

そう口にすることが、日課になっていた。


「志乃!お前、代わりに配給の米をもらいに行ってくれるか。お母ちゃん、田沢まで、野菜もらいに行ってくるから。ジャガイモがもらえるかもしれないからね」


トミに言われて、小さな布袋を渡された志乃は、配給切符を握りしめ、家を出た。


 米の配給所には、すでに数人の人の列ができていた。志乃は、その最後尾に並んで、配給が始まるのを待っていた。


「ちょっとどいとくれ」


そう言って、志乃の前に割り込んできたのは、隣の中山のおばさんだった。大きな目玉で、志乃をぎろりと睨むと、


「いいだろ。あんたの所は、母一人子一人なんだから」

「でも、順番だよ…ね」

「はっ?何か言ったか?全く、鬼っ子だよ。あんたは」


中山のおばさんの口から、驚く言葉が飛び出した。


「『鬼っ子』って何?私、鬼の子じゃないよ」


「ふふふ…」不気味に笑うその顔を見た志乃は、


「おばちゃんの方が、鬼だ!」


言い放った志乃は、自分の血が熱くなるのを感じた。「いけない!」そう思ったが、怒りが抑えきれない。米を入れるための布袋を、志乃は急いで自分の頭にかぶせた。


「誰が、鬼だって!」


おばさんは袋を被った志乃の肩を、思い切り突き飛ばした。


「鬼っ子だよ。本当におまえは!」


布袋を被ったままの志乃は、地面に倒れたままあふれる涙をぐっとこらえていた。すると、体がふわりと抱きかかえられるのを感じた。


「鬼風さんだ!」


鬼風からは、いつもいい匂いがしている。


「失礼ですが、とても大人がする行為とは思えませんな。志乃さんに詫びてもらえませんか」


鬼風に睨まれたおばさんは、返す言葉もなく、体を小さくし「悪かったね」とつぶやくように言い残して、かけ去っていった。



 配給所から少し離れたバス停のベンチに、鬼風は袋を被った志乃を座らせると、ゆっくり布袋を取った。志乃は、自分の額を両手で隠した。その手のひらに、わずかではあるが、角のようなものを感じる。


「ずいぶん、ひどいことをする人がいますね。これも、戦争のせいです。あの人も、それほど悪い人ではないと思います」

「鬼風さん!おばちゃん、私のこと鬼っ子って言ったんだよ!」


袋を取られた志乃の顔は、涙でぐちゃぐちゃだった。


「鬼っ子って、おばちゃん、私が鬼の子だって知ってるんだよね!」


志乃は再び顔を覆って泣き出した。


「違いますよ。鬼っ子っていうのは、親に似ていない子のことを言うのです。志乃さんは、間違いなくトミさんの娘です」

「だって、あのおばちゃん。本当のお母ちゃんじゃないって、前にも言ってたもん!」

「わかりました。では、あの方にもう一度話を聞いてみましょう。大丈夫、角はなくなっていますよ」


 鬼風は、志乃の手を引いて、隣の家を訪ねた。


「何だよ。まだ、私に詫びろって言うのかい。しつこいねぇ、あんたも。どこの人だ?ここらじゃ、見ない顔だね」

「詫びてもらいたくて来たのではない。あなたが、志乃さんに言った言葉、覚えていますか?」

「何だよ。鬼っ子ってことか?悪かったって言ったじゃないか」

「違うよ!おばちゃん、言ったじゃない!トミさんは、本当の母ちゃんじゃないって!」

「ああ、あのことか。本当だよ。鉄ちゃんは、前の奥さんの子だよ。鉄ちゃんだって、そんなこと知ってるさ。あの子が、三つくらいのときに亡くなってるからね」

「お兄ちゃんのお母ちゃん、死んじゃったの?」

「本当に、うるさい子だね。もういいだろ!早く、帰っとくれ!」


そう言いながら玄関を閉めようとしたが、鬼風はその戸をつかんでさらに問い続けた。


「鉄夫さんは、先妻のお子さんで、志乃さんは、間違いなく、トミさんのお子さんですね。鬼っ子だといった根拠を、お話いただけますか?」

「もう、本当にしつこいね!トミさんが、言ってたんだよ。自分が産んだ子だけど、とても我が子とは思えないってね。そういう親に似ていない子のことを、鬼っ子っていうだろ。トミさんが、そう言ったわけじゃないけどね」


鬼風は、何かを納得したように何度か頷いたあと、


「わかりました。今後、志乃さんにひどいことを言ったら、私が許しませんから」


そう言って、右手の拳をぐっと握った。それを見た、おばさんは顔色を失い、慌てて戸を閉めた。



「志乃さん、わかりましたね。志乃さんは、お父さんとお母さんの大事な娘さんです。だから、自分が鬼だなんて思わないでください」

「うん。でも、お母ちゃん。我が子だと思えないって、私のことをよその子だと思ってるんだよ」


鬼風は跪いて、志乃の頭を優しく撫でた。


「良いですか。よく聞いてください。志乃さんのおばあちゃんのそのまたおばあちゃんは、鬼だったかもしれません。ほんのちょっとだけ、鬼の血が流れているかもしれないです。でも、普段はもちろん角もないし、牙もありません」


志乃は、そう言われて自分の体の中で感じた熱い血の流れを、何度か経験したことを思い出した。


「戦争がいけないのです。穏やかに暮らしていれば、自分の体の中の鬼の血に、気が付くことなく生きていける。志乃さんだって、戦争さえなければきっと、こんなに悲しい思いをしなくて済んだと思います」


「私、鬼は嫌だ!」


鬼風は、一瞬悲しい表情を見せたが、もう一度志乃の頭を撫でて


「そうですね。鬼は嫌ですよね。でも、人を憎んだりしなければ鬼の血は沸き起こってきません。鬼風が、いつも遠くで見守っていてあげますから、志乃さんは、人を恨んだり憎んだりすることをしないでください」


そう言って優しく微笑んだ。鬼風の優しい笑顔は、志乃の心を包み込むようだった。


「わかった。鬼風さんが、志乃のことを見ていてくれるなら、志乃、鬼にならないように頑張るよ!」


鬼風は志乃のその言葉を聞き届けたあと、ゆっくり立ち上がった。


「それでは、もう一度配給に並びに行きましょう」

「うん」


配給に向かった志乃の背中を、鬼風はしばらくの間見送った。



 まもなくして戦争は終わった。鉄夫は帰って来なかった。かわりに、小さな骨箱の中に小さな石が一つ。カラコロと音がする。それが、お骨のかわりだとトミは教えてくれた。


「本当に二人だけになっちゃったね。志乃、これからは、二人で力を合わせて生きていこう」


トミは右手で骨箱を抱えながら、左手で志乃を抱き寄せた。そして、全身を震わせて泣き続けた。


 「もう二度と、戦争はいやだ。もう二度と、鬼にはならない」


視線の先の城山には、立ち上る細い煙。「祖母からだよ」と鉄夫から言われた櫛を握りしめた志乃は、もう一度つぶやいた。


「鬼にはならない」


 




 



  






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