カウント9:ボクがスマホを拾った日

青草

one

 ワンツー、ワンツー。ワンツーフック、そこからアッパー……。

 井ノ坂いのさかの目には、少年がシャドーボクシングをしている光景が浮かんでいた。ぎこちないフォーム。テレビで見た試合の見様見真似だ。それでも少年は楽しそうに同じコンビネーションを続ける。


「はぁ……」

 深く吐いた息とともに少年の姿は消えてしまう。


 灰色の雲に覆われた空の下。井ノ坂は公園のベンチにだらっと座り込み、ぼんやりしていた。負傷した右の拳が、かじかんで余計にズキズキと痛んだ。彼はそれをかばうように、左手のひらで覆う。


 井ノ坂はプロボクサーだった。いや、まだプロボクサーというべきか。

 三十六歳。プロキャリアは三十二戦十七勝十五敗。黒星より白星の方が多い。もっとも直近の三試合は、すべて黒星だった。


 もう一度返り咲くつもりで臨んだ大晦日の興行。そこで彼は初回三度のダウンを奪われ、気づいたときには控室にいた。

 そのあと妻の顔を見たとき、彼は自分がどれだけこっ酷くやられたのかを痛感した。

 井上でも、井岡でもなく、井ノ坂。彼は自分の名字に下り坂のイメージしか抱けなくなっていた。その坂をどこまでも転がり落ちていく石ころのような自分を思い浮かべてしまう。


 で、今は正月。実家に帰ってきている。

 休養のつもりの里帰りだったが、親や兄弟が妙に気を遣ってくる。

 二日目には、ついに居心地が悪くなり、この公園まで逃げてきたというわけだ。


「情けない奴」

 井ノ坂は誰もいない公園で独りつぶやいた。


 ふと幼い頃、誰かに同じことを言われたのを思い出した。確か、そう、この公園だ。直接じゃない。テレビ越しで言われたような気がする。


 ──いや、あれはビデオ通話か?


 しかし自分の子ども時代にスマホなんてなかったはずだと井ノ坂は思い直す。この記憶は夢の出来事だろうか。彼は首をひねった。


 頬にひんやりしたものが触れる。空を仰ぐと、大粒の雪がふわふわと舞い落ちてきていた。

 彼は仕方なく引き返すことにした。


 スマホがないことに気づいたのは、実家に着いてからだった。

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