第6話

 固いワーキングチェアの上から飛び起きた巧は、冷汗でぐしょぐしょになったワイシャツの心地悪さを覚えた。

 パソコンのディスプレイだけが不気味に灯る真っ暗なオフィスの中で、巧は荒くなっていた息を少しずつ整えながら、手元にあったミネラルウォーターをゆっくりと口に含んだ。

 あれから急いで月城市に戻った巧は、自宅付近の公園や繁華街を走り周って鈴花を探し続けた。

 無論、自宅にも鈴花の姿は無かった。

 しかし、彼女が働いている本屋の住所すら知らない巧には、彼女の行く宛など分かる訳もなかった。

 ―俺は本当に何も知らないんだな、鈴花のことを…。

 汗だくになった巧は、多くの人が行き交う夜の街並の中で呆然と立ち尽くした。

 本当であれば何を差し置いてでも彼女を探す時間に当てたい。

 しかし、休暇を取ってまでスライドしていた仕事を投げ出すこともできない。

 巧は様々な葛藤を抱えながら、深夜に職場を訪れてパソコンの画面を開いていた。

 ―嫌な夢を見た。

 巧は乱暴にキーボードを叩きながら焦燥に駆られていた。

 俺はまた、同じ過ちを繰り返そうとしているのか。

 俺は、また―

「没だな。」

 不意に後ろから声をかけられ、巧は驚きながら振り向いた。

「…香澄…さん。」

 香澄は憔悴しきった巧の横顔を一瞥しながらパソコンの画面を覗き込んだ。

「…心ここにあらずの酷い文章だ。こんなもの掲載させる訳にはいかないな。」

 巧は苦笑いを浮かべて天井を仰いだ。

「…ですよね。」

「お前に没を出すなんて、いつ以来だろうな。」

 香澄は少し嬉しそうな顔をしながらオフィスの照明を点けた。

 巧は照明の眩しさに目を防ぎながら、ワーキングチェアの上で大きく仰け反った。

 壁掛け時計の時刻は午前1時を指していた。

「香澄さんは、どうしてここに…?」

 巧の質問に香澄は何も答えず、巧に背を向けてブラインド越しの窓を眺めていた。

「…そんなに頼りない上司か?私は。」

 いつも悠々と勝ち気な口調だった香澄から聞こえてきた優しい声に、巧は驚いた。

 ああ、この人は全て見抜いている。

 それでいて、自分に助けの手を差し伸べようとしてくれている。

 巧は感慨深そうな表情を浮かべ、ゆっくりと言葉を発した。

「…香澄さん。俺は過去に、大切な人を失いました。…選択肢を間違って、酷いことをして。」

 巧の言葉を聞いた香澄は、巧の隣の席にゆっくりと腰掛けて耳を傾けた。

「その過去を引きずって、今に至っているんです。そして、また同じ過ちを繰り返そうとしている。…自分が嫌になります。」

 巧は弱々しい声を絞りだして俯いた。

「そいつらは口に出して言ったのか?お前が、酷い奴だと。」

 暫しの沈黙の後、香澄が口を開いた。

 香澄の強い口調に、巧はやや気圧された。

「…失礼を承知で断言する。私はな、会ったこともないそいつらに正直苛立っているよ。」

 香澄はため息をつき、チノパンのポケットから取り出した電子煙草を咥えながら言葉を続けた。

「私は、柏木の人柄はそこら辺の奴よりはずっと理解しているつもりだ。…そんなお前を苦しめる奴は、私が絶対に許さない。」

 戸惑う巧に顔を向けながら、香澄は言葉を続けた。

「…苛立ったか?」

「いえ。そんなことは…。けど、少し驚きました。」

「本当にお人好しだな、お前は。」

 香澄は微笑しながらゆっくりと立ち上がり、巧の顔を見つめた。

「詳しいことなど私には知る由も無いがな。どうせお前のことだ、手を差し伸べたのだろう?そいつに。」

「…まあ、自己満足の類いですけどね。」

 薄ら笑いを浮かべた巧に対し、香澄は更に言葉を続けた。

「仮にそうだとしてもだ。お前にここまで余裕の無い顔をさせてる時点で既に、私はそいつに対して憤りしか感じないが…。」

 電子煙草の煙を吐き出す香澄の顔を、巧は静かに見つめていた。

 場違いな感情だったが、とても綺麗な横顔だと巧は思った。

「そいつに多少なりとも良心が残っていたらだけどな、多大に世話になった奴にこれ以上の迷惑はかけられない、と思い直すタイミングがあるはずだ。…何が言いたいか分かるか?」

 巧は香澄の顔を真っ直ぐに見つめた。

「…今、お前がすることは、こんな所でつまらない原稿を書くことじゃない。今頃自責の念に駆られている馬鹿野郎を、なんとしても探し出して謝罪させろ。」

 巧は、心から信頼する上司に思い切り背中を叩かれたような衝撃を受けた。

「ありがとう、ございます。」

 そして、最大限の感謝の意を伝えるように、深く頭を下げた。

「…それとな。」

 自分に深く頭を下げ続けている巧に対し、香澄は言葉を続けた。

「そういう馬鹿な奴は、自分の都合で飛び出すくせに、心の奥底ではお前に見つけてほしいと、無意識に願ってるものだ。」

 巧は頭を上げ、再び香澄の顔を見た。

「必ずお前も知っている場所にいる。これは人生の先輩からのアドバイスだ。」

「…凄いですね、香澄さんは。」

 そう言いながら微笑した巧は、次の瞬間身体を硬直させた。

 香澄が優しく自分のことを抱擁してきたのだった。

「けどな、柏木…。私は、一人の女としては、お前に行ってほしくない。お前に辛い想いは、してほしくないんだ。」

 耳元で優しく呟く香澄の声に、巧は一瞬の快楽を覚えたが、静かに目を閉じて口を開いた。

「…すみません、香澄さん、俺は…。」

「行け。」

 巧の言葉を遮った香澄は、ゆっくりと巧から身体を離して言葉を続けた。

「今のお前に任せられる仕事なんて無いよ。明日も休暇をやる。やるべきことを片付けたら、存分に働いてもらうからな。」

「…はい、ありがとうございます。」

 身の回りの整理をして一目散にオフィスを飛び出していく巧の背を見送りながら、香澄はコンビニ袋から取り出した缶ビールの栓を開けて口に含んだ。

「…起きているんだろう?鷲見。」

 香澄が声を張ると、オフィス奥の会議室からガタン、という音がして罰が悪そうな顔をした鷲見がすごすごと現れた。

 オフィスに香澄を呼んだのは鷲見だった。

 妻と口喧嘩をしてたまたまオフィスを避難所代わりにしていた鷲見は、見たこともない表情をした巧が現れたことに驚き、会議室に隠れながら香澄に連絡したのだった。

「いやあ、俺が呼んだとはいえ、申し訳ないところを見ちゃったな。」

 苦笑いを浮かべながら頬をかく鷲見に向かって、香澄は栓の開いていない缶ビールをおもむろに突き出した。

「…慰めてくれたら許してやる。」

 目を赤らめた香澄の表情に一瞬驚いた鷲見であったが、静かに缶ビールを受け取り頷いた。



 巧は仄暗い社員駐車場に停められたシビックに飛び乗ると、勢いよくエンジンをかけた。

 香澄の言葉をきっかけに、巧の脳内で何かが繋がったような気がした。

 ―鈴花も来ていたんだ、近江町に。

 月城市では探すことすら困難になった公衆電話も、近江町には巧が覚えているだけでも数箇所心当たりがある。

 それに、浜辺で電話に出た上に動揺していたこともあって気づけなかったが、電話越しからも微かに波の音が聞こえたような気がしたのを、巧は今になって思い出していた。

 鈴花は近江町にいる。

 彼女がどうして泣いていたのかは分からない。

 どうして近江町にいたのかも分からない。

 もしかしたら自分が不意に彼女を傷付けてしまったのかもしれない。

 しかし今はそんなことどうだっていい。

 どこか大人びていて強い意志を持ちながら、それでいて儚げで危なっかしい彼女のことを、自分が見つけ出さなければいけない。

 その後のことは、それから考えればいい。

 巧は自分自身に何度も言い聞かせながら、アクセルを踏む足に力を込めた。

 



  




 

 

 

 

 

 

 

 


 


 

 


 

 

 

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移ろいの狭間で、君を想う。 やんわか @yanwaka

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