そして若妖怪たちは日常に戻る
喉元過ぎればなんとやら、ということわざが世間にはあるが、今の源吾郎の心境はまさにそのようなものだった。
主に妖狐たちが集まる打ち上げが終わってからというもの、源吾郎の暮らしは平和で平穏そのものだったからだ。平穏が続くと退屈さに変質してもおかしくはないのだが、幸い今の源吾郎にはそうした事とも縁遠かった。日課の中には、もはや米田さんとの連絡も組み込まれていたからだ。
メッセージ等の連絡に気の利いた文言は不要。米田さんの側はそんなスタンスでいるようであるが、それでも源吾郎はあれこれ思案を巡らせ、メッセージを送るのが常だった。そして、そうやって思案する事が、源吾郎を退屈から遠ざけてもいたのである。
ちなみに、大阪へのデートは三月の第一日曜日に持ち越された。今度の週末は米田さんの都合が合わなかったためだ。
実を言えば、週末の出勤の埋め合わせなのか、米田さんには平日でフリーな日があるにはあった。源吾郎はしかし、その日をデートに充てなかった。デートの為だけに有給を取るなんて真似はやりたくなかったし、何より米田さんが良い顔をしないであろう事は明らかだったからだ。
米田さんは彼女なりに源吾郎を愛してくれている。しかしそれ以上に、仕事も大切に思っているのだ。そして仕事に勤しむ態度を大切にするようにと、言葉にはせずとも源吾郎に示している。そのように感じ取る事が、源吾郎にはしばしばあった。
※
「そうか、そうか。飛鳥……いや鳥園寺さんから話は聞いていたけれど、島崎君にも彼女が出来たんだな。良かったじゃあないか」
昼休み。源吾郎は研究センターに併設されている工場棟の休憩スペースに足を伸ばしていた。研究センターも工場棟も雉鶏精一派が管轄している組織になるため、研究職の面々が工場棟に足を運ぶ事は特に問題視されていない。
何となれば、雪羽は不足妖員を補うために度々派遣されているし、青松丸は工場の設備メンテナンスの業務も兼任しているらしい。
そう言う事情もあったために、源吾郎は堂々と工場棟の休憩スペースに出向く事があったのだ。しかも最近はスペース内の売店で護符やら簡単な魔道具も販売され始めたようなので尚更だ。
今回も、冷やかし半分で雪羽と共に売店に向かっていた。そんな折に柳澤に発見され、そのまま雑談へともつれ込んだのである。
源吾郎に彼女が出来た。その事を口にする柳澤の態度には、嬉しさと安堵が入り混じっていた。それは柳澤が、純粋に源吾郎に恋人が出来た事をわがことのように喜んでいるだけではないためだ。実のところ、柳澤は源吾郎が鳥園寺さんに色目を使わないかどうか、密かに警戒してもいたのだ。だが源吾郎に恋人が出来てしまえば、もはや関心はそちらにしか向かわないだろう……そのような考えを、未だに柳澤が持っている事も、源吾郎はきちんと知っていた。
柳澤の心中について、腹立たしく思ってなどはいなかった。自分の恋人が、他の男に興味を持たぬように気を揉むのはごく自然な事だと思っているためだ。むしろ源吾郎だって、鳥園寺さんと接触する時は彼なりに気を遣っている訳だし。
「そうっすよ、柳澤の兄さん。この前のバレンタインだって、米田の姐さんがわざわざこっちまで来て、それで島崎先輩にプレゼントを渡したりとかしたらしいんすから」
柳澤の言葉に、何故か雪羽が意気揚々と応じていた。何で雷園寺がノリノリやねん、とは思うものの、別段悪い気はしない。
一方の柳澤は、バレンタインという単語を聞いて相好を崩していた。
「バレンタインかぁ。俺は鳥園寺さんからウィスキーボンボンを貰ったかな。ちと値の張る貰っちゃったからちょっと申し訳なかったんだが……でも彼女も自分で食べる分も兼ねてるって言ってたからまぁ良かったんだろうけれど」
「柳澤さんは、鳥園寺さんからバレンタインチョコを頂いたんですね。一緒に楽しめたのなら良かったじゃあないですか」
穏やかに告げる源吾郎の隣で、雪羽はにわかに興奮した素振りを見せていた。
「柳澤の兄さんはウィスキーボンボンを貰ったんですね。良いなぁ、俺もウィスキーボンボンとかまた食べてみたいんすけどねぇ……」
「何をアホな事言うてんねん。ウィスキーボンボンとかツーアウトだろうに」
雪羽の興奮がウィスキーボンボンによるものだと気付いた源吾郎は、呆れ顔で彼をたしなめた。ウィスキーの入ったチョコレート菓子など、子供雷獣である雪羽が口にして良い代物ではない。というか護符に付与された呪いによって、酒類は雪羽が摂取しようとすると酢に変化するのではなかっただろうか。
源吾郎たちのやり取りに、柳澤は口を挟まなかった。それでも、源吾郎が言わんとしている事は察してくれているらしかった。
「そう言えば、鳥園寺さんは俺だけじゃなくてマリンにもバレンタインプレゼントを用意してくれたんだ。そっちはもちろん粟穂とかカトルボーンなんだけどな」
カトルボーンとは、コウイカなどの背中に入っている甲羅を取り出して干したものである。ペットショップや小鳥屋などでは、カキの殻を砕いたボレー粉と共に、カルシウムを摂るための副食として販売されている。
いずれにせよ、鳥園寺さんがマリンの為に粟穂なども購入してプレゼントしたという話に、源吾郎は心が暖まっていた。
鳥園寺さんが、婚約者の愛鳥であるマリンを可愛がっている事は、彼女の話からも解ってはいた。それでも、イベントの折にマリンにもプレゼントを渡しているという所から、本当に可愛がっているのだという事が伝わったように感じたからだ。
或いは単に、源吾郎も小鳥を飼っており、それ故に知人の飼い鳥の話が聞けたから、少しテンションが上がっているだけなのかもしれないけれど。
「粟穂とカトルボーンですか。うちのホップもカトルボーンは良く突いてますね。でも時々、寂しいのか寄り添ってる時もあるんですよ。粟穂の方は……前買って見せた時はちょっと怖がってた感じだったんですけれどね」
「そうか。島崎君のホップ君も、何だかんだで元気にやってるんだな。まぁ、妖怪化していると言えども元が小鳥だから、何かに怖がったりしてしまう事もあるにはあるさ」
「ですよねぇ」
案の定、源吾郎と柳澤は、しばしの間小鳥談義で盛り上がったのだった。柳澤と話す場合は、鳥園寺さんとは異なりさほど気を遣う必要も無いのだから、尚更だ。
互いの飼い鳥の話から端を発し、そこからは源吾郎は柳澤と世間話に洒落込む事と相成った。もちろん、同席する雪羽も交えてだ。
話の内容は多少取っ散らかっていたが、その事は特に気にはならなかった。
それよりも、鳥園寺さんが源吾郎たちとダブルデートを目論んでいた事に、源吾郎は面食らってしまった。ダブルデートの件は丁重に断ったのだが、柳澤もむしろホッとした様子だったので話はそこで一段落出来た。
そして世間話の中でも、比較的真面目な話も飛び出してきた。売店で護符や簡易魔道具も販売しだした理由だとか、夜間に啼く鳥の種類の話などである。
売店にて護符や簡易魔道具の販売が始まったのは、敷地内で働く従業員たちの安全をサポートするためであろう。
そして夜間に啼いている鳥は、サギ類やカモ類だけではなく、夜鷹の類も泣いているのではないか。そんな事を柳澤は教えてくれた。
「夜鷹ですか。サギ類とかカモ類ならどこでも一杯いますけれど、吉崎町には夜鷹もいるんですねぇ」
「見ての通り、吉崎町は自然が一杯残っているからな。そりゃあまぁ、夜鷹だろうとトラツグミだろうと沢山生息しているのかもしれないな」
まぁ、そう言う鳥たちが啼いている夜は、俺も飛鳥も外を出歩かないようにしているんだけど。吉崎町の自然の豊富さに源吾郎が驚く中で、柳澤は呟くような声音でそんな事を言い足しているのだった。
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