閑話 若狐 夢幻の舞台で踊らされ

 萩尾丸の運転によって研究センターに戻ってきたのは、午後七時前の事だった。新入社員と言えども仕事が長引けばこれくらいの時間まで職場にいる事も珍しくはない。源吾郎はしかし、この日ばかりはすぐさまタイムカードを押し、そそくさと帰り支度を進めた。

 そんな源吾郎の挙動をとがめだてする者はいなかった。紅藤もまた玉面公主たちとの面談で疲労困憊の様相を見せていたし、萩尾丸や青松丸もまた事情を知っている。サカイ先輩は元より源吾郎たちにあれこれ口出しする性質ではない。

 一番源吾郎に興味を持って近付いてきたのは雪羽ではある。しかし彼も、源吾郎の表情を見て何か察したらしい。おざなりになってしまった挨拶にも腹を立てず、むしろにこやかに挨拶を交わすだけだった。


「雉鶏精一派内部の打ち合わせだけじゃあなくて、かなり年長の親戚のひとともお話なさったんすよね。そりゃあ緊張するのもやむなしっすよ」


 そう言って笑う雪羽もまた、実は年長の親族に会った事があるのだと教えてくれた。雷園寺家も十四世代まで続いた妖怪の名家である。代々の当主は早世しがちであるそうだが、当主の兄弟姉妹の中には、妙に長生きする者もいるのだという。そうなると、祖父母の弟妹である大叔父や大叔母どころか、曽祖父母の弟妹だとか更にその先祖の弟妹なども雷園寺家にはひっそりと暮らしているという。

 直系で無いと言えども五、六世代も前の先祖が存命というのは、人間社会ではそうそうお目にかかれないだろう。しかし妖怪の寿命を考えれば、何世代も先の子孫と相まみえる事は何らおかしな事ではないのだろう。生命を落とさなければ、妖怪は何百年でも何千年でも生きながらえる事が出来るのだから。その一方で、妖怪が大人と見做されるのは百年から二百年ほどであり、更に言えばもっと若いうちに仔を成す事もままあるくらいなのだから。

 それでも、曽祖父母やその先の先祖の兄弟たちと会うというのがどういう事なのか、源吾郎には上手くイメージが出来なかった。妖怪であっても家によっては事情が違うのだ。疲れ切っていた事もあり、最終的にそんな考えに落ち着いたところだった。


「ははは。毎度気遣ってくれてありがとうな、雷園寺君。今日はもう帰ってじっくり休むわ。それじゃあお休み」

「お疲れさん。また明日」


 ごくまれであるが、夢であると認識できる夢という物がこの世には存在する。

 今源吾郎が見ている物もまた、夢だと認識している夢だった。少なくとも、源吾郎はそう思っていた。だからこそ、落ち着いた心持ちで腰を下ろしていたのだ。

 今回の夢は、謎めいた宇宙空間に放り出されたなどと言う物ではない。気が付いたら小さな舞台の観客席に腰を下ろしているという、至極大人しい内容だったのだ。繁華街の場末に忘れ去られた劇団スタジオのような所だと、源吾郎は思った。仄暗く殺風景で、それでいて猥雑な空気に満ち満ちていたのだから。

 更に言えば、源吾郎が落ち着いた心地でいられるのは、玉面公主とのやり取りを覚えていたという事も大きい。彼女は去り際に、源吾郎に護符を一枚渡してくれた。夢の世界を楽しめるお守りだと彼女は言っていた。きっとよく眠れるための護符の類なのだろう。吉夢を見ようとする江戸っ子のように、今宵の源吾郎はこの護符を枕の下に敷いて寝に入ったのだ。それがこのような形で効力を発するとは。今度玉面公主に会ったら、お礼を言わなければ。

 さてそんな風に考えているうちに、小ぢんまりとした舞台にスポットライトの光が降り注ぐ。とうとう演目が始まったのだ。

 知らず知らずのうちに姿勢が前のめりになってしまい、源吾郎は慌ててふんぞり返るように背もたれに身を預けた。何処の馬の骨ともつかぬ輩の演劇に、熱を入れて見入るなど恥ずかしい事ではないか。そんな風に思っていたのだ。源吾郎は別段演劇を愛している訳ではない。おのれの能力を高めるための道具に過ぎないと割り切っていた。のみならず、演劇を含めた芸術の道に耽溺するのは、愚かな暇人の所業だと源吾郎は思っていた。

 奇しくも、観客席に座しているのは源吾郎だけだったのだが。


 舞台の上で始まった演目は、一つの劇ではなかった。数分で終わるような寸劇の集合体だった。言うなればある種のオムニバス形式とも言えるだろう。

 それぞれが独立し、互いの関連性も薄そうな物語たちである。しかし、演目が進むにつれて舞台となる時代も進んでいる事、つまりは遠い過去から過去、そして現在に近い過去へと演目が進められている事だけは何となく把握していた。

 源吾郎が知識として知っている物語の断片たちが、舞台の上で演目として行われていたからだ。

 ある話では、渾沌と呼ばれる堕ちた神が、ただただ何もせず彷徨うだけだった。

 別の話では、這い寄る混沌を喰らった九尾が、その力を得る代わりに這い寄る混沌に憑依されるという物だった。

 遠い異国のファラオと貌のないスフィンクスの話などと言った馴染みのない話もあるにはあったが、演目の多くは源吾郎にも馴染みのある、そうでなくとも知っているような話ばかりだった。

 舞台の上では金毛九尾が義妹たちを伴って王を惑わし、恐るべき哮天犬が九頭の怪物の首を咬み千切っていた。王朝を滅ぼし切った金毛九尾が、追っ手を撒くために自信の息子に化身して――その傍らには従者もいたのだが――逃げおおせていたし、義妹らと共に船に乗り密入国していた。玉面公主と思しき妖狐の娘が、恐るべき豚頭の妖魔と対峙する場面すらあったのだ。

 これは金毛九尾、玉藻御前とその血族にまつわる物語が演目になっているのだ。幾つもの演目を眺めていた源吾郎は、はたとその事に気付いたのだった。


「――レディース・アンド・ジェントルマン。この度の舞台はお楽しみいただけたでしょうか? 一旦アナウンスを入れておりますが、別にここで舞台が終わる訳ではありませんのでご安心を。

 ここからは、新しい演じ手をご紹介しまして、彼にも舞台で踊っていただこうと思っております!」


 何処からともなく聞こえてきたアナウンスは軽妙そのもので、まるで子供が嬉々として語っているかのような印象さえもたらした。

 だが、源吾郎がアナウンスについてあれこれ思案する暇はなかった。スポットライトの眩しい光が源吾郎の顔にまともに当たり、眩しさと驚きで思わず目をつぶってしまったからである。

 俺があの奇妙な舞台の新たな演じ手だと? ただただ、姿の見えぬアナウンスの言葉に、腑に落ちぬと心の中で思うのがやっとだった。


「さぁさぁ仔狐君。君もこの舞台に演じ手として選ばれたんだよ。おめでとう!」

「ねぇねぇ仔狐君。君はどんな演目を踊ってくれるのかな? どんな踊りでも、とっても楽しみだな」


 気付けば源吾郎は観客席を離れ、舞台の壇上に棒立ちとなっていた。何処からともなく現れたスタッフの二人が、源吾郎の両脇を固めている。スタッフと言えども異形である事には変わりはない。妖怪としての本性を露わにしているという意味ではない。彼ら(彼女らかもしれないが)は成人男性としては小柄な源吾郎よりも更に背が低く、尚且つその顔は面布と思しきもので隠されていた。黒服なのに顔を隠す布だけが白いので、ともすれば布だけが浮き上がっているようにすら見える始末だ。

 ともあれ源吾郎は、童子のごとき謎のスタッフの言葉に、チリチリとした怒りを感じていた。何故急に踊れだなんて命じられないといけないのか、と。もしかしたら、夢の世界であると解っていたからこそ、存分に怒りを抱く事が出来たのかもしれない。

 良いんだよ。スタッフの一人が甘やかな声を上げる。布の向こうにある顔が、にこりと笑みを作ったのを源吾郎は感じていた。


「仔狐君だって演劇や芸能がなんでしょ。だったらさ、その思いをぶつければ良いんだよ。自分の願いと一緒にね」

「仔狐君の願いは何だったかな。酒池肉林の夢? それとも最強の妖怪として世界征服する事だったっけ? 良いよ良いよ。演出なら僕たちがやってあげるから、存分に踊ってくれると嬉しいなぁ」

「ふ、ふざけるな!」


 ねっとりとしたスタッフの言葉に、源吾郎は思わず怒鳴り声を上げていた。二人の先の言葉が、源吾郎の内部に蓄積していた怒りの起爆装置だったのだ。

 繰り返すが、源吾郎はこの世界を夢であると何となく認識していた。だからこそ、普段よりも怒りをあらわにしても構わぬと思ってもいた。こいつらは現実にはいない連中なのだから、別に俺が何をしても問題はない。何なら怒りをぶつける位の事ならば問題は無かろう、と。


「野望云々はさておき、演劇が大好きだなんて勝手な事を言いやがって。確かに俺には野望はある。だけどな、演劇なんてものは俺にとって野望を叶えるためのに過ぎないんだよ。ははは、演劇だの芸術だの、そんなものにうつつを抜かして現実を見ないような間抜け共とはこの俺は違うんだ!」

「……本心を覆い隠したうえで吠えて咬みつくか。青いな、青いぞ仔狐よ」


 仔狐呼ばわりする声に、源吾郎はハッとして周囲を見渡した。声の主は源吾郎を取り囲むスタッフの物ではなかった。声音が違うし、何より源吾郎から離れた所から、舞台袖の黒々とした闇から聞こえてきたのだ。


「そもそもこの俺にしてみれば、お前の持つ野望自体も夢物語のようだがな。人生五十年、下天のうちを較ぶれば夢幻の如くなり――この言葉は、賢しい仔狐とて知っているだろう?」


 先程の声が再び聞こえ、のみならず闇が動くかのように声の主が姿を現す。それは黒々としたスーツ姿の男であった。織田信長だ。件の男を見るなり、源吾郎の脳裏には何故かそのような直感がひらめいた。酷薄そうな笑みを浮かべるその面は教科書で見た信長の顔そのもののように思えたし、スーツ姿ながらも彼が歩む時には、甲冑の物々しい響きを感じたのだ。

 それを皮切りに、舞台袖のそこここで闇が蠢き、そこから幾つかの人や異形の姿を吐き出した。渾沌そのものの化け犬やら逆に犬を連れた精悍な若者やらがいたが、いずれにせよ源吾郎をゆるく取り囲み、彼に向けて口を開いたのだ。


「気に喰わん小僧だ。混沌の遣いと称され神輿に担がれている割には単純すぎるんだ。こいつの心は足りなさすぎる! 混沌が、混沌が、そして悪の心が!」

「……全てを統治するという彼の野心もまた、この地の守護者になるという決意表明とも取れるでしょうな。もっとも、守護者になるならなるで、やはり腹をくくらねばならないのですが」

「いずれにせよこの小僧は金毛九尾の子孫であり、尚且つ我の力を宿してもいる。なればこそ、ここで舞い踊るしかないのだぞ」


 様々な言葉が源吾郎に向けられる。先程スタッフに向けていたような威勢の良さはもはや無かった。異様な空気と影たちの雰囲気に呑まれ、ただただ棒立ちになっていたのだ。いや……すぐ傍にいるスタッフに支えられ、立っているのがやっとと言った所であろうか。

 そしてそのスタッフたちすらも、源吾郎が踊る事を命じるのだ。


「ほらぁ、仔狐ちゃん。やっぱり君は踊るしかないんだよぉ。さっきまで踊ってた先輩たちだって、仔狐ちゃんを励ましてくれているんだからさぁ」

「そうだよ仔狐ちゃん。君だってね、所詮はこの舞台の……いやこの世界で舞い踊る踊り子に過ぎないんだよ」

「何だと」


 半ば虚脱状態であるはずなのに、それでも源吾郎はスタッフの言葉に反応した。左側にいたスタッフが頭を揺らし、声をたてて笑う。面布が揺れて、顔の下半分が露わになったような気がした。


「ふふふふふ。演劇なんて単なる道具だなんて突っ張っていたけれど、そう思うようにそう感じるように初めからそうなっていたって仔狐ちゃんは思わないのかな? 玉面公主ちゃんだって言ってたでしょ? 自分たちは結局天命に従って踊らされているだけだって、ね。その事をきちんと解ってもらうために、彼女は君にチケットを渡したんじゃあないかな?」

「チケットだって。そんなのは――」


 受け取っていない。源吾郎はそう言いかけて、かぶりを振った。こんな奇妙な場所に飛ばされるようなチケットは受け取ってなどいない。だが源吾郎は、玉面公主から確かにある物を受け取っていた。それは確か――


 目を覚ました源吾郎は、今見ているのが夢なのか現実なのかすぐには判断できなかった。奇妙で鮮明な夢を目の当たりにしていたせいで、却って頭の働きが鈍っているのだ。

 源吾郎はそれでも、自分の意識が現世に舞い戻った事を、夢から覚めた事をしっかりと認識できた。それは使い魔のホップのお陰だった。もちろんホップは鳥籠の中にいるのだが、既に起きていて普段通りに啼き声を上げていたからだ。

 半身を起こしホップを見やりながら、源吾郎は夢の事を思い出していた。演目を観客として楽しんでいたら、急に舞台に引きずりあげられて踊れと命じられた夢だった。結局のところ、源吾郎がどんな踊りを見せたのかは覚えていない。そもそも踊ったかどうかすらも解らなかった。だがその方が良かったような気もする。

 夢の内容を反芻していた源吾郎は、ふと思い立って枕の下を探った。玉面公主から受け取った護符を、枕の下に敷いていたのを思い出したのだ。護符は確かにそこにあった。昨晩、源吾郎が枕の下に忍ばせた場所に、そのままに。


「そんな――」


 だがその護符を摘まみ上げた源吾郎の顔は、強い驚きの念で強張った。漢字とも梵字ともつかぬ文字がびっしりと描かれていたはずの護符は、ただの白茶けた無地の紙切れに変貌していたからだ。

 紙片を摘まみ上げる源吾郎の指がかすかに震える。玉面公主はやはり、底知れぬ力を持つ女狐なのだと今一度実感したのだった。

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