妖狐はおのれの系譜を思う

 週明け。普段通りに源吾郎が出社すると、雪羽がそそくさと近付いてきた。源吾郎にとっても雪羽にとっても、普段通りの朝の光景である。雪羽は既に源吾郎の事を仲間のように思っており、出社したのを見届けるや近付いてくるのが日課になっていた。そしてそんな雪羽を出迎えるのが、源吾郎の日課であると言っても良い。


「おはよう雷園寺君。ははは、やっぱり週明けだからしんどいんだろう」


 気軽に挨拶を返した源吾郎であるが、その両目は注意深く雪羽の様子を窺っていた。いつも元気な雪羽であるが、流石に週明けは彼もテンションが低い事が多いためである。週末や休日は三國の許に戻る事が認められているのだが、月曜日になると萩尾丸の屋敷に戻らざるを得なくなる。萩尾丸の許で過ごすというのも大変なストレスのかかる事であろうから、テンションも下がるであろうと考えていたのだ。

 そのように気遣う源吾郎の前で雪羽は微笑んだ。


「大丈夫ですって島崎先輩。俺だって、月曜になれば仕事に戻らないといけないって事くらい知ってるんですから。

 それに土日はチビたちの姿を見て、それで元気をもらったんだ。だから俺は大丈夫」


 雪羽の笑みが一層深まるのを源吾郎は見た。彼も彼で、土日は叔父一家の許でしっかり休めたし、幼い弟妹達との触れ合いも十分にできたのだ。その事が解ったので源吾郎もほっとしていた。

 そんな風に思っていると、雪羽は興味深そうな眼差しを源吾郎に向けた。


「俺の事はさておき、島崎先輩はどうだったんです? 米田さんとも親交を深める事が出来たんですか?」


 まぁな。あからさまに野次馬根性を丸出しにしている雪羽に対し、源吾郎は落ち着き払った口調で頷いた。前回の初デートの件について相談したためか、雪羽は源吾郎が米田さんと会っているのか、何処まで進んでいるのか隙あらば聞き出そうとしてくるのだ。

 何かと聞き出そうとする雪羽の事が若干暑苦しく思う源吾郎であったが、それもまぁ致し方ない事なのだろうと半ばあきらめてもいた。親しい相手に対して、雪羽は物理的にも心理的にもを詰めようとするタイプである事は源吾郎も既によく知っている。パーソナルスペースと呼ばれるものが雪羽は極端に狭いのだ。

 それに何より、米田さんの事について相談を持ち掛けたのは源吾郎の方なのだ。その後について雪羽が関心を抱くのはおかしな事でも何でもない。源吾郎が逆の立場だったら、やはりあれこれ問いただすであろうし。


「米田さんとなら日曜日に会う事が出来たんだ。といっても、前と違って会って話したのは一時間足らずだったんだけどね。別れ際に、俺がどれだけ名残惜しい思いをしたか、雷園寺君には解るかな?」

「ははははは。島崎先輩ってば時々詩人みたいになるんだなぁ。とはいえ良かったじゃないか。短い時間だったとしても、二度目のデートにもこぎつける事が出来たんだからさ。

 それにね、時間が短かろうと頻繁に顔を合わせた方が、無駄に間を置いた長時間のデートよりも効果的だって世間では言われているし」


 雪羽はそう言うといたずらっぽく微笑んだ。その笑顔は年相応の子供らしさを具えており、それでいて何処か世慣れした雰囲気を漂わせてもいた。

 そう言えば雷園寺は女の子と付き合ったりはしないのだろうか。そんな考えが脈絡もなく源吾郎の脳裏にふっと浮かんできた。雪羽自身はそもそも女の子と遊ぶ事には色々と慣れているようであるし、次期当主候補になってからはオトモダチだった女の子たちから時々連絡が入るようになったのだという。しかしそれでも、雪羽が誰かと交際しているという話は耳にしない。

 きっと自分の事で忙しいし、何より雪羽は自分と違ってまだなのだ。源吾郎はそう思って勝手に納得していた。

 それから四尾のうちの二本を蠢かせ、近寄る雪羽をそれとなく制した。


「雷園寺君。そろそろ萩尾丸先輩の所に行きたいんだけど、良いかな?」

「べ、別に、構わないけれど……」


 萩尾丸の名を出すや否や、雪羽の面に渋い表情が浮き上がっていった。おのれの教育係である萩尾丸を雪羽は畏れているのだ。もっとも、雪羽が渋面を見せるのは何もそれだけでは無いのだが。


「先輩ってば月曜日の朝から、それも仕事が始まる前に萩尾丸さんの所に向かおうと思うなんて、度胸があるぜ。まぁ、先輩はそう言う振る舞いも笑って許してもらえるような何かがあるんだろうけれど」

「何とも大げさな話だなぁ」



 羨望とも呆れともつかぬ表情で瞳を輝かせる雪羽を見やり、源吾郎は静かに微笑む。相談したい事があるんでね。源吾郎は包み隠さずに雪羽に打ち明けた。


「内容的には、本当は紅藤様にご相談しようと思っていたんだ。だけど紅藤様は先週から少し気が立っておられるみたいだし、それで萩尾丸先輩にに話を聞いてもらおうと思ってね」

「紅藤様の代わりとして萩尾丸さんを選ぶだって。そりゃあ大した話だぜ」


 雪羽はそう言うと、驚いたと言わんばかりに肩をすくめた。実際に驚き呆れているのはその表情からも明らかだ。


「確かに紅藤様は色々と物識りなお方ではあるよ。だけどそれは萩尾丸先輩だって同じ事なんだ。考えてみれば、今回俺が相談する事は萩尾丸先輩でもお答えできると思ったから……」


 何とも言えない表情で源吾郎を見つめていた雪羽であるが、ややあってから口を開いた。


「それで、先輩はどんな相談事をするつもりなの?」

「ご先祖様の……金毛九尾の過去の事さ」


 怪訝そうな表情になる雪羽をそのままに、源吾郎は言葉を紡いだ。源吾郎の曾祖母、玉藻御前とも蘇妲己そだっきとも呼ばれた事のある金毛九尾が大妖怪だった事には変わりはない。元々は女媧じょかの許で修行に励む千年狐狸精だったのだから。玉藻御前の名で知られるようになった頃には、三大悪妖怪の一体として名を馳せるようになったではないか。

 無論源吾郎はその事を知っている。だが彼が知りたいのはそれよりもさらに昔の事だった。


「実は俺さ、米田さんと会っただけじゃなくて萩尾丸先輩の許で働いている狐たちとも遊んだりしたんだ。あれだ、野柴君とか豊田君とかあの辺の狐たちとね。そうしたら、皆何世代も続く妖狐の家系の狐たちだって事が解ったんだ。

 知っての通り、俺にも立派なご先祖様がいるけれど……玉藻御前は四世代前の先祖に過ぎないし。だからその、ちょっと気になってね」

「気になるも何も、金毛九尾って天地開闢てんちかいびゃくの頃に陰の気が凝って生まれた存在じゃあなかったっけ。それだったらさ、別に玉藻御前に親とかご先祖様とかがいなくてもおかしくないし、世界の始まりの頃からいたんだったらそれはそれで凄い事だと思うけどな」

「……雷園寺君も、絵本三国妖婦伝えほんさんごくようふでんの事は知っているんだな。ははは、君も案外勉強熱心なんだな」


 源吾郎の口から出てきたのは世辞であり、その面に浮かぶのは苦笑いに近い愛想笑いだった。金毛九尾の直系の子孫である源吾郎もまた、もちろん絵本三国妖婦伝の事は知っている。そこに記された来歴についてもだ。

 しかし源吾郎はより突っ込んだ事をも知っていた。金毛九尾の異常な来歴は、あくまでも後世の妖狐たちがそれらしく付け加え、人間たちにもその通りだと思わせたものに過ぎないという事を。他ならぬ王鳳来おうほうらいからその事を聞き出したのだから。

 雪羽がその事を事実だと思って信じているのもまた、ある意味彼らしい事だと思っていた。雪羽は意外と読書を好むところがあり、従って色々な書物の知識を蓄えている側面もあるにはある。しかし古代の伝承や物語となると、出鱈目な物や荒唐無稽な物まで無邪気に信用している節があったのだ。

 源吾郎は敢えてその事は指摘せずに、そのまま萩尾丸の許に向かう事にした。指摘する事で費やす時間と労力が惜しかったのだ。雪羽も雪羽で、機器の日常点検を行うと言って源吾郎の許からすっと離れていった。


 萩尾丸の姿はすぐに見つけ出す事が出来た。何という事はない。休憩時に使うデスクでビジネス誌の類を広げ、気付けとばかりにコーヒーに口を付けていたのだ。萩尾丸は元々が人間だったために、人間向けの飲食物であっても気にせず口にするのだ。妖狐や雷獣などと言った獣妖怪と異なり、ネギ類で貧血になる事も、コーヒー等のカフェインで神経を過剰に刺激される事も無いのだろう。

 人間向けの食事に対して、気構えなく飲食できるのは羨ましい事だ。源吾郎の脳裏にはそんな考えさえ浮かんでいた。源吾郎にも人間の血が混ざっているが、妖狐の血が濃いために、完全に人間向けの食事を摂る事は危険な場合がある。源吾郎ほどの妖気があれば、実はネギやチョコ類の持つ毒による害からすぐに回復する事も出来るのだが……危険な成分が入っていると解った上で飲食するのは楽しい食事とは言い難い。

 さてお目当ての萩尾丸を見かけた源吾郎であるが、声をかける事にためらいを感じてしまったのだ。難しい表情で紙面に視線を走らせているのを目の当たりにしたからなのかもしれなかった。

――朝っぱらの、始業時間前から萩尾丸さんにお会いしようとするなんて、先輩も肝が据わってらっしゃるなぁ

 笑い声交じりの雪羽の声が、源吾郎の脳内で反響したような錯覚を抱いた。セシルからの意味深な予見を受け取ってからというもの、紅藤は確かに何処か浮足立っているような雰囲気を見せていた。しかしそれは紅藤だけでは無かった。萩尾丸や青松丸だって、何処か落ち着かない様子を見せていたのだ。

 もっとも、萩尾丸は落ち着いた素振りを作るのが得意だったし、青松丸は初めからのんびりとした気質ではあるのだけれど。

 緊張してしまったから出直そうか。そう思っていたまさにその時、何気なくこちらを向いた萩尾丸と目が合ったのだった。

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