若狐 がっつく余りに空回り

「あ、おいし……」


 米田さんと落ち合った源吾郎は、彼女に導かれるままに喫茶店に入っていた。

 ウェイターが運んできたキンカン湯を一口飲むと、源吾郎は思わず声を漏らしていた。実のところ、源吾郎は普段は柑橘類の類は進んで口にする手合いでは無い。人間の父と祖父を持つ半妖ではあるのだが、妖狐の血が濃いために酸味の強い物が苦手なのだ。

 これは獣特有の特質と言うよりも、特に肉食獣で見られる傾向なのだという。確かに妖狐たちはミカンや柚子の類を好む個体は少ないが、化け狸は時々ミカンを食している。雪羽に至ってはミカンを喜んで食べている所は何度か見た事もある。肉食性の強い妖狐とは異なり、化け狸も雷獣も雑食性が強いという動物的な違いによるものだろう。

 そんな源吾郎であったが、今回は何となくキンカン湯の気分だった。柚子茶と言うのもあったのだが、そちらは何となく酸味が強そうなのでキンカン湯をチョイスした次第である。冬の味覚と言う感じでもあるし。

 そして注文したキンカン湯は想定通りに、いや想定以上に甘いものだった。蜂蜜が含まれているであろう事、隠し味に多少すりおろした生姜が入っているであろう事を、飲みながら源吾郎は感じたのだった。

 気に入ってくれたのね。正面から女性の声が聞こえてきた。鈴を転がすような美しく凛とした声の主は、もちろん米田さんである。ハッとして源吾郎が顔を上げると、湯気の向こうにある米田さんが微笑んでいるのが見えた。


「はい……このキンカン湯、とっても美味しいです!」


 源吾郎は普段よりもやや大きな声で告げた。もちろん米田さんの呼びかけへの返答ではあるのだが、立ち働くウェイターやウェイトレスに伝える意図もあった。美味しい飲み物を提供してくれたのは喫茶店のスタッフである。デキる男を目指している源吾郎は、もちろんその事も見逃してなどはいない。

 米田さんは微笑んだまま、ゆっくりとマグカップを傾けていた。ホットミルク(ミルクと言っても牛乳ではなく山羊ミルクであるが)で口許と喉を湿らした彼女は、湯気の向こうでしっとりと微笑んでいる。


「うふふ。良かったわ島崎君。私と会ってから、ずっと何か緊張しているみたいだったから」

「すみません。気を遣わせてしまいましたよね……」


 源吾郎はそう言って笑い返した。しかし頬の筋肉が引きつっているのを感じてしまう。違う。こんなはずじゃあないんだ。いびつな笑顔の裏で自問自答してみるも、何かが変わる気配はなかった。

 それでも源吾郎は喉を鳴らし、伝えるべき事を伝えようと決意する。


「でも米田さん。さっきもお伝えした通り、僕は米田さんにお会いできて本当に嬉しいんです。年末は僕も実家に戻らないといけませんでしたし、米田さんだってお忙しかったみたいですし……」

「島崎君は、年末はご実家に戻っていたのね?」

「ええ、そうです」


 関心を示したかのような米田さんの声音に、源吾郎は臆せず頷いた。


「お盆休みは実家に戻らなかった事もあって、両親や兄姉たちが戻って来るのを心待ちにしている事は流石に解っていましたからね。

 特に父は末息子である僕を何かと気にかけてくれていますし、長兄などは保護者気分で僕の事を心配していましたから……」


 年末休みの過ごし方について言及した源吾郎であったが、ここで米田さんに親兄姉の事を口にする事への抵抗は一切無かった。源吾郎の親族について米田さんが知っている事が解っていたからだ。昨年の夏は源吾郎の姉である双葉の開いた対談に出席していたし、父である幸四郎とも面識があるようだったから。

 父や長姉の事を知っている米田さんならば、源吾郎が家族からどのように扱われているかはおおよそ察しはついているであろう。そんな風に源吾郎は考えていたのだ。


「それじゃあ島崎君は、ご家族と一緒にお正月を過ごしたって事なのね。ええ、とっても良い事だと思うわ」

「これも家族サービスの一環ですので。でも、有意義な正月休みでもありました」


 米田さんの声は特に柔らかな物であったが、口にした言葉から一般的な事として褒めてくれたのだろうと源吾郎は早合点していた。だからこそ、実家に帰ったのは家族サービスだとちょっとお堅い事を言ってみたのだ。


「米田さんは年末年始はどうされていたんです?」

「どうって言われてもねぇ……普段と変わらずずっと仕事ばかりやっていたかしら。普段通りの、どうって事ない過ごし方よね」

 

 事もなげに告げる米田さんの顔を、源吾郎は半ばぼんやりしながら眺めていた。仕事の話をすれば敬遠されるだろうか。そんな事を雪羽に尋ねた事が脳裏に鮮明に浮き上がってもいた。

 だが今回は、むしろ米田さんの方が仕事の話をしているではないか。そうなれば、源吾郎が仕事の話をしても聞いてくれるかもしれない。

 ごめんね島崎君。米田さんが唐突に謝ったのは、ちょうどその時だった。


「休みの日なのに仕事の話なんかしちゃって。退屈だったかしら」

「そんな事ありません。僕だって――」


 仕事の話をしちゃいそうですし。その言葉を源吾郎は飲み込んだ。仕事の話もおいおい行うかもしれないが、それ以上に気になった事があったのだ。まずそれを訊いてみようと思い直したのである。


「お仕事と言っても、流石に年末年始の間中では無いですよね? やっぱり米田さんも、ご実家に帰省したりご家族にお会いしたり――」

「私はずっと一人よ。特にここ五十年ほどはね」


 源吾郎の言葉を遮るような形で米田さんが応じる。その声は淡々としていて、そして乾ききっていた。口許に浮かぶ笑みの意味に戸惑いながらも、源吾郎は言葉を重ねる。


「お一人だったんですか?」

「野良妖怪ならよくある事よ。それに、私ももう百年くらい生きてるし……それなら五十年前から一人でもおかしくないでしょ?」


 しまった、深入りし過ぎてしまっただろうか。はぐらかすような米田さんの言葉を受け、源吾郎はおのれの言動の迂闊さを密かに反省した。家族の事について話したくないのだと、或いは今の源吾郎に語って聞かせる時期ではないと思っているであろう事を悟ったためだった。

 それに確かに、生後五十年ほどの妖怪が独りで生きていくというのもおかしな話ではないというのも、源吾郎は大体解っていた。純血の妖怪はおおよそ百歳程度で肉体的に大人と見做され、二百歳を迎えたあたりで心身ともに大人の妖怪であると認められるらしい。しかしながら、妖怪たちはそれよりもうんと若い頃から仕事に励みだすのだ。例えば萩尾丸が従えている珠彦や文明などの若狐たちは六、七十の若狐であるし、雪羽などに至っては四十年しか生きていない子供に過ぎないではないか。

 どの道妖怪は寿命が長いし人間のように厳格に学校に通う事が定められていないから、ある程度育てば働いたり野良妖怪になったりするのだろうと、源吾郎は源吾郎なりに解釈していたのだ。

 更に言えば、動物などが変化して後天的に妖怪になった個体は、生まれつきの妖怪よりも若干大人びている事が往々にしてあるというし。もちろん、それが米田さんに当てはまるか否かは別問題であるけれど。


「それにしても……お一人だったんですね」


 これ以上詮索しないつもりだったにもかかわらず、源吾郎の口からは呟きがまろび出てしまった。米田さんは怒りもせず、小さく頷き口を開いただけだった。


「私はどうも、一人でいる方が性に合うみたいでね。前も言ったとおり、組織とかしがらみ何かに縛られるよりも、自由でいる方が肌に合っているの」


 米田さんの言う前がいつの事だったのか。源吾郎はすぐに思い出せずに視線を彷徨わせてしまっていた。米田さんの顔に視線を戻した時、彼女は源吾郎をじっと見つめていた。


「だからね、私は寂しくないから大丈夫よ。島崎君は優しい子だから、私が寂しい思いをしていないか、心配してくれているのかもしれないけれど」

「いえ米田さん。貴女が平気だと仰るのならば、僕もその言葉が真実だと信じます。ただ――」


 源吾郎は何度か瞬きをした。最後の瞬きで米田さんに焦点を当てたのだが、そのせいで派手に眼球が動いたような気がした。そんなのは些事だと脇に押しやり、源吾郎は浮き上がった質問を素直に口にした。


「ずっとお一人だったなんて本当ですか? 米田さんは、その……とっても魅力的なお方ですから……」


――会って間がない女性を相手に、一体俺は何を聞き出そうとしているのだ! 内なる声の容赦ない叱責を前に、源吾郎は顔を火照らせつつ目を伏せた。米田さんの過去に、男の影が無いか。源吾郎はそのような事を詮索しようとしていたのだ。

 全くもって愚かしく、つまらぬ男の所業ではないか! 心中でおのれを面罵しつつ、源吾郎は愕然としていた。男が気になる女性の過去を、要は他の男に心身を赦した経歴は無いか。そんな事を気にするのは阿呆の所業だと源吾郎は常々思っていたのだ。

 元より源吾郎は、ハーレムを構築するなどと豪語するような手合いだ。おのれが気に入った娘がいたならば、自身に惚れさせた上で自分の女にする。過去の事なんかは気にしない。そのような豪胆さを持ち合わせていたのではないか。ましてや、米田さんはまだ自分に気があるかどうかすら解らないし……思いがけず噴出したおのれの度量の小ささに源吾郎は落胆していた。

 幸いな事に、米田さんはそんな源吾郎の心中に気付いていないらしい。目が合うと照れたように笑みを浮かべ、特にこだわりもなく口を開いた。


「魅力的だなんて……島崎君も言うじゃない。でもね、私も恋愛事にはあんまり興味が持てなくって、そう言う事にはあんまり関わらなかったのよ。仕事とかに一生懸命だったの。そもそもからして玉藻御前の末裔を名乗る道を選んだから、それだけでもライバルが多かったものね」

「確かにそうですよね……」


 玉藻御前の末裔を名乗り始めたがために、他の野狐とは異なる苦難があり、それを乗り越えるために努力していた。米田さんの述懐を、玉藻御前の真なる末裔である源吾郎は耳を傾けていたのだ。

――思い出したぞ。俺は元々玉藻御前の末裔を名乗る連中が集まる裏初午がどんな会合なのか、それを訊くという名目で米田さんに会っていたはずなのだ。

 そして源吾郎はここで、当初考えていた米田さんとの会話のネタを思い出したのだった。

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