30・レッスン

 ――というわけでぼくは、語学の指導を通してこの愛らしい二人の親交をより深めるお手伝いをさせてもらえることになった。といっても、約一ヶ月後に控えている講師演奏会を乗り切るまではお預けだ。少し前のぼくなら逃げる術ばかり考えていたはずだが、今のぼくは、この深淵から生還した暁には、何かが変わっているのではないかと思っている。いや、変えたい。

 そのためにぼくはまた、ピアノのレッスンを受けている。

 驚くことなかれ、背後に立って腕を組み、じっと聴覚を研ぎ澄ましているぼくの先生は、なんと五つも下の超絶美青年。それもこのCMVの学生だ。立場が完全に逆である。

「って――」後頭部を押さえるぼく。

 先生はぼくの演奏に異議があるとまず一撃かまし、右手で次々に捲し立てながら左手で譜面に赤を入れていく。使う手が反転するときもあるので、利き手という概念がないのかもしれない。必然的に彼の胸板がぼくの後頭部を掠めるほどの距離感になるが、これはもう慣れだ。赤を入れられる度に死にかけていたら、ぼくはとっくに天へ召されていることだろう。

 アンリの指導は感覚重視で漠然としているピエール師匠せんせいのとは正反対、具体的すぎるほど具体的だ。このスタッカートが鋭すぎるとか、この音符の長さが足りてないとか、ここはペダル禁止だとか。芸術というより数学や物理を教えているみたいに、音符の一つ一つをあるべきところへ導こうとしている感じ。冗談のつもりで「ラヴェルに直接聞いてきたみたい」と口にしたことがあったが、そのときアンリが返した反応はなんと――声が聞こえる、といったら信じるか? である。「ほんとうに?」思わず訊き返すと、彼はくいと口の端を上げてはぐらかしたのだった。

「いて」まただ。ぼくは後頭部を押さえる。

 ――集中。

「うう、はい」

 ――ここのフレーズ、聴いていてつまらない。もっとこう……

 彼がこうと言ったら手本を披露してくれる合図なので、ぼくは椅子から立ち上がる。ピアノがもう一台あればと思うが、あいにくここはピアノ科ではなく弦楽科の研究室だ。贅沢は言えない――って、いやいや、推しが目の前でお手本を披露してくれるなんて、こんな贅沢な話があるか?

 ぼくは神経を研ぎ澄まし、アンリの手本を脳に、指に、インプットする。ピアノを交代し、上手く再現できると「よし」が貰える。もしくは背中に小さなまるが貰える。今回賜ったのは後者だ。

「擽ったいよ!」心臓まで擽ったい!

 椅子の後ろの縁に両手を引っ掛け、背中を思い切り反らせて抗議する。下から見上げても変わらず綺麗な無表情につい見惚れていると、彼は鍵盤ではなくぼくの肩の上に指を置き、そこで何かいった。

 ぼくは左手で上半身を支えたまま、右手で訊ねる。

 ――なんていったの?

 訓練すればあるいは……と思わなくもないが、ぼくはそこまで狂ってない。と思いたい……っ!

 さすがに心は読まれていないはずだが、彼はわずかに笑い、真っ直ぐに天井を向くぼくの額を中指の背でぱちんと弾いた。それでひらめいたと言わんばかりに、ぼくは哀れな額を押さえながら強請ねだる。

「あっ、じゃあさ、さっきので教えてよ。あのときあんなに笑った理由」

 ――またそれか。いい加減忘れろ。

「アンリがそうやってはぐらかすから余計に気になるんだよ。確かにあの部屋を当の本人が見ちゃったのは面白い……かもしれないけど、そうならそういってくれればいいだけだし、お腹抱えるほど笑ったのだって、あのときくらいだよね」

 ――人生、後にも先にもあの一回きりかもな。

「ああもう! そんな言い方されたら余計に気になるってば」

 ――集中。 と彼がいうと、ぼくは考えるより先に「はい」と応えて神経を研ぎ澄ます。あれ、どこからだっけ。訊ねようとしたぼくの肩に、彼の指先が乗る。その指が施しのようにひとつひとつ丁寧につぶやく旋律を、ぼくはリアルタイムで復唱する。

「今日……夕食……オムライス……?」

 ――お前は、アホなくせに油断ならないな。さ、遊んでいる時間はない。まっすぐ座って、譜面を見る。第一楽章の初めからだ。

 

 アンリのレッスンもそうだが、講師演奏会までの日々は特別な出来事が目白押しだった。中でもピエール師匠せんせいのレッスンを受けにアンリと二人、ブリュッセルまで弾丸旅行したことは特筆すべき例だろう。なぜだか妙にアンリと師匠の折り合いが悪く、ひやひやさせられっぱなしだったのも今となっては良い思い出だ。

 秋も真っ盛りなとある日には「紅葉狩りに行くわよ!」と意気軒昂のエリーズ嬢がおろおろする都さんを引っ張ってきて、急拵えのお弁当を携えて、西鹿村の外れまで出かけたこともあった。出発間際、リサイタルの準備でせわしないはずのアンリが空いていた車の助手席にしれっと乗り込んできたのがなんだか愛らしく、紅と金のコントラストを舞台に楽しげなヴァイオリンを奏でる二人の尊さはなんとも筆舌に尽くし難かった。

 そうこうしているうちに秋も過ぎ去り、運命の師走某日。CMV講師演奏会は、ここ、CMVホールにていよいよ開演してしまった。全二〇一二席ある座席は例年通りの完売。ぼくの出番はまだもう少し先、特別枠として用意された演奏会の取りだ。

 下ろし立ての黒いドレスシャツを着たぼくは、ピアノが備わっている広めの楽屋で一人、死刑宣告を受けた囚人のようにその時が来るのを待っている。

 なぜシャツを黒にしたかって? ぼくだって別に気取りたかったわけじゃない。無難にスーツを用意していたのに、今朝になってアンリが「お前が着るのはこれ」といって譲らなかった。胸ポケットに生地と同じ黒で高級ブランドのロゴが刺繍されているが、いつの間に用意したのだろう。自前のよりぴったりなのが釈然としない。

 ステージモニターがヴァイオリンの音を流している。曲は――バッハの無伴奏ソナタだ。頭にストレートに流れてこなくて、音を曲として理解するまでにタイムラグがある。今はそれどころではないのだと、耳が音を突き返しているみたいで気持ち悪い。

 ぼくは「あー……」と呻きながら目の前の鍵盤で『水の戯れ』冒頭二拍目裏に出てくる三二分音符をひたすら繰り返す。が、この行為は指慣らしでもなければ特に深い意味があるでもない。知人が来ているから少し会ってくるといって出ていったアンリが一向に戻らない、それだけの理由でこの奇行に及んでいるのである。ステージという脅威を目前にして、恐怖のあまり頭がどうかしてしまったのだろう。

 彼の名前を連呼するのをやめて、何度目かしれないため息を鍵盤に落とした――ちょうどそのとき、楽屋に控えめなノックが響いた。

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