29・愛の夢

 ドルチェ《優しく》・カンタンド《歌うように》で演奏されるこの曲は、リスト『愛の夢』三つの夜想曲ノクターンの第三番。原曲である歌曲の標題は『おお、愛しうる限り愛せ』といい、子供の頃のぼくは、精一杯、愛というものを想像しながら繰り返し弾いていた覚えがある。しかしぼくの胸裏にアンリ・ルノワールのピアノが降臨してからというもの、弾くのを避けていた曲であったりもする。

 彼がピアノで音にする愛がぼくに知らしめたのだ。ぼくの想像した愛が、いかに陳腐で薄っぺらな妄想であったかを。

 アレンジを変えながら同じ主題を三度繰り返すこの曲のクライマックスは、最後ではなく二度目の後半にやってくる。この世に永遠はない。別れは必ずやってくるのだと諭そうとするのが一度目なら、二度目は愛に尽くすとはこういうことなのだと、心を燃やす様を実演する一幕といったところだろう。転調を重ねながら高音域で情熱的に歌い上げるクライマックス、一度目と同じ変イ長調への回帰、燃やした心の灰が熱の気流に流されていく、そんな儚いカデンツァが過ぎると、三度目、成熟した愛が予期されていた終わりへと緩やかに進み始める。

 走馬灯を過ぎらせる休符の上のフェルマータ、想いを凝縮させたアフタクト。伴奏を奏でる左手と、主旋律と分散和音アルペジオを同時に奏でる右手が交差する――この瞬間に、つい顔を顰めたくなるくらい、きゅっと胸がつかえた。過去には数え切れないくらい弾いてきたはずだが、こんなことは一度だってなかった。一小節に一度、二拍目が来る度に、ぼくは死にそうになる。

 もし今、この左手を掴む彼の手がなかったら、ぼくはどうなっていたのだろう――

「あ……アンリ……?」

 左手首をぎゅっと掴まれたまま、何か言いたそうな顔でじっと睨み下ろしてくるアンリをあっけらかんと見つめ返した。これまでも演奏中に気づいたら現れていたことや、その逆もあったが、こう、藪から棒に曲を中断させられたのは初めてだった。

 ――なぜ? 彼の左手はぼくの左手を掴んだまま、右手が問いかけくる。そんなの、どう考えたってこっちのセリフだ。言い返してやろうと思うのに、どうしても左手の力みように思考が持っていかれる。それほどまでに、ぼくの『愛の夢』は彼の逆鱗に触れてしまったのだろうか――?

「……っ」痛みに耐えかねて片目をぎゅっと瞑る。アンリは目を見開き、その手が発揮している力をたった今自覚したみたいにはっと手を引っ込めた。開きかけた口は壊れたクラリネットみたいな掠れた音を立てただけですぐに閉じてしまう。

 ぼくは彼を怒らせているのが自分であるという事実を棚に上げ、いつもの無表情を取り繕えずにいる彼を、今すぐ慰めたいと思った。

 そこに、タイミング良くなのか、悪くなのか、突然の来客があった。

 微妙な距離感で膠着するぼくとアンリ、そして、顔面蒼白の都さんの視線が開かれたドアへと集まる。

 緊迫した空気をものともせず、一ケ月ぶりに研究室に足を踏み入れた彼女は、入ってきたドアをでんと塞ぐように仁王立ちした。

「きたわよ!」


「予め連絡をくだされば羽田まで迎えに上がりましたのに」三人分のホットドリンクをテーブルに並べながら言う。二階のダイニングで急遽開かれたエリーズ嬢を出迎える茶会には、主役たっての希望で都さんも同席し、アンリは――研究室に残って一人音楽の時間に浸っている。買い足されたチョコレートのお供にとホットココアを供じた際にはいつも通りの「よし」をくれたので怒りは収めてくれたものと思いたいが……先ほどの『愛の夢』の何がまずかったのか、訊けず終いになってしまった。

 それはさておき、エリーズ嬢だ。彼女は淹れたてのココアを一口啜り、事も無げに報告した。

「ワタシ、CMVに編入することにしたの」

 ぼくは口に含んでいたコーヒーを吹き出しそうになりながら返した。「へ、編入……ですか」

「することにしたというか、もう手続きは済ませてあるんだけど」「はあ……」「通訳」「あはい」彼女に言われるがまま、都さんの方を向いてから日本語にする。

 案の定、エリーズ嬢の隣でアンリが買ってきたチョコレートを咀嚼していた都さんも盛大に噎せ、ポンポンと胸の辺りを叩いた。

 エリーズ嬢は都さんの背中を甲斐甲斐しくさすりながら続ける。

「もちろんアンタたちと同じ弦楽科よ。そういうワケだから、よろしくね、ルツ! あと……アノン先生?」

「マダムに先生と呼ばれるのはどうも座りがよろしくありませんね。どうかこれまで通りでお願いできればと。それにしても、どうしてまたこちらに編入を?」コンビニのお菓子を制覇しきれなかったことをたいそう悔やんでいたのは記憶に新しいが、結局は買い漁ってルノワール邸まで航空輸送していたはずだ。「よくご両親がお許しになりましたね」

 エリーズ嬢は今朝焼いた苺のジャムクッキーをひと口かじってから答えた。

「っていうよりパパがね、勧めてくれたの」

「マエストロが?」

「そ。アンリのついでだってのは分かってるんだけど、例の配信を見てくれたみたい。悪くなかったから、しばらくここで学んでみたらどうかって」

 気恥ずかしそうに残りのひと口を頬張るエリーズ嬢。通訳するぼくと、それを聞く都さんの表情に自然と笑顔が浮かぶ。胸が温まるとはこういうことなのだろう。

「ママンは全然納得いってなさそうだったんだけど……まあ、ちょーっと強引に押し通して来たってワケ。コンクールで勝ったわけでもないのに、夢に一歩近づけた気がするわ」

「そういえば……夢の内容については内緒のままでしたね。幼稚だから話せないとおっしゃっていましたが、今も考えは変わりませんか?」

 エリーズ嬢ははっきり「スィいいえ」と言い、立ち上がった。

「ワタシは、世界が認める一流のヴァイオリニストになって、パパの指揮で協奏曲をする。ママンやアンリみたいに、立派なコンサートホールで、一流のオーケストラをバックにして、観客みんなをワタシの虜にしてみせるわ」

 エリーズ嬢は椅子に座り直し、翻訳そっちのけで感じ入るぼくに向かって言った。 

「でね、ピアノはアノンがみてよ。いいでしょ?」

「……ご冗談を。ぼくは弦楽科の講師ですので、残念ながら副科でもピアノの単位は出せません。個人的なレッスンでよければ考えなくもありませんが……ピアノよりもまず、あなたに指南すべきことがあります」

「……クワ?」

「日本語ですよ」とぼくは言った。日本語に切り替えて続ける。「都さんにはフランス語を」

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