14・中道くん②
あと数分で一〇時を回ろうかというとき、やっとインターホンが鳴った。いつの間にかモーツァルトに夢中になっていたぼくは慌てて玄関に駆けつけ、勢いのままドアを開く。「中道くん!」
余った勢いで名前を呼ぶと、中道くんは「うわっ」と声を上げて後退った。ぼくはすかさず彼のケースを持っていない方の腕を捕まえる。
「ああ、よかった。本当に、ぼく、あなたのことが待ち遠しくて。もうこちらには来ていただけないのではと……」
「
「さあ、入って! お話があるようでしたら、中でゆっくり伺わせてください」
にっこりのぼくは力みすぎないよう注意を払いながら彼を玄関に招き入れ、丁重に腕を放した。スタンドから取り出したルームシューズを床にセットして、あとは……そうだ。
「先週お伝えし損ねてしまったのですが、鍵は開けてありますから、次回からは直接研究室の方にいらしてください。ああ……えっと、来週も来ていただけるのであれば、ですが……」
中道くんは明け透けに目を逸らしたが、ひとまず気づかなかったことにする。
「たしか、中道くんにはまだアンリを紹介できていませんでしたね。レッスンの前に少しだけお時間を頂いても構わないでしょうか。みなさん、少々驚かれるので」
「噂には聞いています」と中道くんは言った。
噂。イタリアンの一件は瞬く間にCMV中に広まり、ここに通う数人の副科の学生がアンリと出くわしていることもあって、今や日本に、CMVに、白研に、アンリ・ルノワールがいる――という嘘のような事実は大学関係者だけでなく世界中にいる彼のファンの知るところだ。
ぼくに促されるまま研究室に足を踏み入れた中道くんは真っ先にピアノの方を見て「驚きました……。本物のアンリ・ルノワールだ」とどこか夢見心地に呟いた。その心境は察するに余りある。なんならぼくはこの一週間ずっとそうだし、いまだに毎朝、起きてからアンリの寝顔を見るまで疑心暗鬼になっている。
アンリは他のレッスンのときと同じようにちらりと視線だけよこし、会釈もせずにそっぽを向いた。中道くんからぎょっとした気配が伝わってくる。
「どうか気を悪くされないでくださいね。彼はいつ、誰に対してもああですので」
――悪かったな。 ……というアンリの呟きに中道くんが首を傾げる。特に伝えるほどの内容でもないのでスルーだ。
「もしかして、レッスンの間もずっとあそこに?」
「彼の気の向くままと言ったところでしょうか。差し支えるようでしたらぼくから言って退室いただきますが……」
「ああいや、俺は別に構いませんが……あの、白先生」
「はい」
「先生は、怒ってないんですか?」
「怒る? ぼくが、あなたにですか?」
きょとんと首を傾げたぼくの反応が意外だとでも言うように、中道くんは真顔で頷いた。
「そんな、とんでもありません。ぼくの方が自分の不甲斐なさに頭を下げたいくらいです」
「はあ……随分なお人好しなんですね。先生の経歴が不甲斐ないのは否定しませんが……そうですか」
どうやら彼は先週のレッスンを勝手に切り上げて出ていったことや、今しがた大遅刻してきたことを多少なりとも後ろめたく思ってくれていたらしい。先週に比べて元気がないというか、なんとなく威勢が欠けているように感じていたのだが「怒ってないなら、謝る必要もありませんね」とふてぶてしい口ぶりで、調子を取り戻しつつあるのかもしれない。
じっくり時間をかけて調弦したヴァイオリンを顎に挟んだ中道くんは、床に置いてあったリュックサックから教本を一冊抜き取って立ち上がり、閉じたまま譜面台に置いた。ヴァイオリンと弓を持ったままじっと床を見つめたり、不意にぎゅっと歯を食い縛ったり、彼の不本意は収まるどころか増すばかりだ。
譜面台に置かれた『三六の練習曲』のくたびれ具合を見て、カイザーが気乗りしないなら他の教本ならどうかと訊ねてみる。が、反応はない。何か言ってくれるか、エチュードの一番が開かれるのを根気強く待っていると――ヴァイオリンと弓をぶら下げる彼の両腕が次第にぶるぶると震え始めた。
「俺はいったい、いつになったら西岡先生に指導して貰えますか」ずっと躊躇していたであろう彼は、とうとうその言葉を口にした。「先生の言う通りにすれば……ここであなたにカイザーを教われば、本当に認めて貰えるのでしょうか。俺にはもう、厄介払いされているとしか思えない」
「厄介払いだなんて、そんな……」
否定する根拠を捻り出そうとするぼくを睨みつけ、彼はさらに言葉を続ける。
「
中道くんの吐露はひとつ言葉を紡ぐごとに荒んでいった。
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