第二楽章
13・音話
音楽で言葉を伝えることは果たして可能なのか。
まず、声楽に限ればイエスと断言してよいだろう。
では歌詞を持たない器楽ではどうか?
もちろんノーだ。標題が示されなければ、曲が持つイメージを共有することすらできない。これはどれほど優れた指揮者や演奏家であろうと、言ってしまえばその曲を作曲した当人にすらも同じことがいえる。
つまり何が言いたいのかというと、ぼくとアンリがピアノの音を利用してコミュニケーションを図る行為は、断じて音楽ではないということだ。青く塗ったキャンパスに〝空〟と書いたものが美術ではなく単なる文字でしかないように、〝空〟と鳴る音もやはり単なる音でしかない。しかしどちらも紛うことなき言語であり、ぼくは後者を〝音話〟と呼ぶことにした。声も音であることにはどうか触れないで欲しい。
アンリがぼくの研究室に現れてから早一週間が過ぎた。一〇月に入って秋も盛り、山が色付き始めるまでもう一息といったところで、アンリは今朝も定位置で優雅なモーツァルトを奏でている。思い返してみれば、オーディオを流したのは一週間前のこの時間が最後だ。あのときはアンリ・ルノワールの演奏をオーディオで流すという日課が日課でなくなる日がくるとは夢にも思わなかった。
曲が終わり、ぼくが乾いた食器を片付ける音だけになる。
そこに〝ココア〟と鳴る音が聞こえてきた。素っ気ないピアノの音だ。
「はいはい」
――ホット。砂糖少なめ。
「いつもの、っと」
一階の研究室にいる彼はご所望だけ告げて再びモーツァルトを奏で始め、二階のぼくはキッチンでソーサーにチョコレートを乗せる。アンリの要望は間に床を挟んでもよく聞こえるが、ぼくの返事は大声でも出さない限り届くことはない。要は一方通行なのだが、困ることはあまりない。
〝ココア〟〝温かい〟〝砂糖〟〝少ない〟これらはぼくがアンリから音話を教わるようになって〝おはよう〟の次に習得した単語たちだ。もちろん、習得というからには斎藤さんが考案した暗号で一音一音鳴らしていているわけではない。〝
「おまちどおさま、アンリ」
――よし。
ぼくが淹れたてのココアとチョコレートをソーサーに乗せて差し出すと、アンリは「ありがとう」ではなく「良い」にあたる単語を使う。これはたぶん、言語的な都合ではなく、彼の性格の都合だろう。ぼくはぼくがイメージするままに彼の言葉を訳すわけだが「良い」を「よし」としたのは「いいね」や「よくできました」「でかした」あたりだと彼の素っ気無い印象にそぐわないし「良い」のままではいくらなんでも機械的すぎると思ったからだ。おかげで犬を褒めるみたいになってしまったが、これがいちばんしっくりきたのだから仕方がない。それにぼくは……別に、悪くないと思っている。
考えてもみてほしい。「悪魔に心を売った」との謂れをもつあのアンリ・ルノワールに御礼など賜った日には、お気に入りのブロマイドを賭けてもいいが、ぼくの情緒はただでは済まない。
アンリはいつものようにチョコレートとココアを堪能し、ソーサーをマホガニー製のサイドテーブルの上に置いた。彼がこの寮に独断で持ち込んだものは数知れないが、真新しいサイドテーブルもその一つだ。
――うまい。
アンリは口の中のチョコレートをココアで溶かしながらいう。上々の反応ににっこりなぼくは「よかったあ」と返す。
そんなこんなで、名前で呼び合うようになったあたりからずっと日本語で話している。その上、彼のしぶとい指摘により、ぼくの口調は敬語からタメ口にすっかり矯正されてしまった。日本語のタメ口なんて子供の頃に話したきりだったからか、妙に子供っぽくなってしまうのが難点だったりするのだが、敬語だろうがタメ口だろうが、アンリに通じなかったことは一度もない。もし彼に声があったなら、それはもう流暢な日本語を話したことだろう。
――これ。 とアンリは手にした自分のスマホの画面を指し示す。何だろうと首を傾げつつ覗いてみると、CMVポータルのニュースページが表示されていた。どうやら今年の講師演奏会の出演講師が決まったらしい。
「ああ。毎年年末にやってるんだよ。知ってる先生でもいた?」アンリは首を小さく横に振る。
――汎音、いない。
ぼくはふふと笑って答えた。「ぼくじゃ逆立ちしたって務まらないよ。講師演奏会は普通の興行と違って、聴きにくる受験生とCMVの未来がかかってるからね」
ぼくは専らコーヒー派だが、ついでに淹れた自分の分のココアを片手にデスクへ向かう。椅子に腰を落としてからちらりとアンリの方を窺うと、彼は何やら真剣そうにスマホの画面とにらめっこしていた。
ココアを啜りながら見つめていた壁掛け時計の針が九時を過ぎる。待ち人はまだ来ない。カップを口から離すと、ココアで堰き止めていたみたいにはああと辛気臭いため息が漏れた。
それを聞いてかたまたまか、止んでいた朝のモーツァルトが再開される。どうしようもないと思っていたぼくの憂鬱は、さっきまで彼の口にあったチョコレートのように転がされ、溶かされてゆく。頭が推しのことでいっぱいになる。
アンリが斎藤さんの暗号で話したことをきっかけに彼女との再会に希望を見いだしたぼくであったが、その先の糸口は未だ全くつかめていない。アンリとのコミュニケーションをまるっきり音話の習得に費やしていることも要因の一つではあるが、推しのプライベートに踏み込むなら慎重を期したかったし、仮に今訊いたとしても、あの戯けた感じの「ノー」が返ってくるのは目に見えている。
アンリははぐらかすのが上手い。それともぼくが流されやすいのか?
どうやら彼は、はぐらかされたぼくがしょげたりむくれたりするのを愉しんでいるふしがあるのだが「実はぼく、朝はいつもあなたのモーツァルトを流しながら支度をしているんですよ。至福のひとときといいますか」なんて告白してみると、なんとだ、毎朝欠かさずモーツァルトの生演奏をくれるようになった。そんなの、彼のピアノを魂の宝にしているぼくにすれば至福を通り越してもはや毒! 死んじゃう! ――と思っていたのだが、どうやらこの一週間で耐性を獲得しつつあるようで、朝のモーツァルトならかろうじて気持ちよく味わえるようになっていた。
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