7・イタリアン

 その日の夜、ぼくとルノワール氏は約束通り西鹿村内のレストラン街へ赴き、イタリアンの店に入った。

 この店の厨房にはちゃんとしたピザ釜があって、片田舎にしては随分本格的なピザが提供されることで知られている。チーズとオリーブオイルの香りが立ち込める店のフロアはやや狭く、例えるなら小学校の教室くらいだろうか。繁華街のど真ん中であれば長時間並ぶことになりそうだが、よりリーズナブルに腹を満たしたい学生は学食や定食屋に集まりやすく、よほど特別な日でもない限りすんなりテーブルに着くことができる。

 二人用の狭いテーブルを挟んでルノワール氏と向かい合う。注文したのは、彼の指がメニュー表で示した二人用の簡易コースだ。サラミ、ボロネーゼ、アクアパッツァ、パンナコッタ、お酒は不要とのことなので、飲み物は食後のエスプレッソのみ。無料のお水に瞠目するあたりいかにも西洋人である。水を運んできた女性店員にいたってはうっかり彼の美貌を直視するなり蝋人形だ。ぼくなら卒倒していただろう。

 沈黙を乗り切る方法ばかり気に病んでいたあまりにも迂闊なちょっと前の自分に鉄槌を下したいのだが、唐突なスターの来店に店内は騒然としている。機関銃の玉のような会話が四方八方から飛んできて、沈黙を気にするどころではない。

 例えばぼくから見て右隣の女子学生二人組。

「ねっ……ねえ、隣の席にいるのって、特別生のアンリ・ルノワールじゃない?」

「は? そんなことあるわけ……って、うっそ! マジじゃん、どうなってんの?! ……ってかビジュが爆発しすぎなんだけど! この世のもんとは思えん……あの顔面で天才ピアニストってあり?!」

「ちょっと、気持ちは分かるけど興奮しすぎだって! でもなんでいるはずない特別生がいるんだろ。もしかして公演でもあるのかな? CMVポータルには――あー、なんも書いてないかあ」

「え、じゃあもしかして講義に出たりする? うわ、どうしよ、同じ教室にいたらだよ、絶対集中できないじゃん」

「あんたが実技以外で集中してるとこ見たことないけどね」

 色めき立つ彼女らの眼中に同席しているぼくの存在はない。

 しかしながら、左隣の男子学生三人組は様子が違った。

「隣のテーブルにさ、天才イケメンピアニストの――あー……なんだっけ。うちの特別生?だった気がすんだけど」

 人差し指でこめかみをぐりぐりするパーカーの学生に銀縁メガネの学生が言った。

「アンリ・ルノワール? いる訳ねーよ、ただ顔が良いだけの留学生だろ」

「いや、ピアノ科の掲示板に貼ってあるポスターと全く同じ顔っすよ……あんなの世界に二人もいませんって」おそらくスマホの画面と氏の顔面を見比べながら言ったのは三人目、こちらは後輩と呼ばせてもらおう。

「おおー、マジだ。てか、一緒にいる白いのってうちの弦楽科の講師だよな? 経歴ゼロのコネ講師って噂の」と銀縁メガネ。

「え、あの人講師だったんですか?」後輩が丸聞こえの忍び声で疑問を重ねる。この手の勘違いはされない方がむしろ珍しい。「この間うちの教授の雑用してたから、てっきり院生だと思ってました」

「講師が雑用なんかしねーだろ。歳だって俺らと変わらなそうだし、せいぜい助教だって」

「いやいや、助教どころか音大も出てないらしいよ。西岡門下に知り合いがいんだけど、同じ門下の二年があの人の研究室に左遷されたんだって面白がってた」

「左遷って、会社かよ」パーカーが吹き出す。「てことはさ、何の実績もないヤツが高卒で講師ってことだろ? やってらんねえよな。こっちは毎日努力して、金もねえのに浪人もして、やっと受かっても気い抜きゃ留年、無事卒業できたところで音楽で食っていけんの?って話なのにさ」

「そんくらいにしとけ、アホらしくなんぞー」

「てかなんでそんなコネ講師と世界のアンリ・ルノワールが一緒に飯なんか食ってんすかねー。あれもコネ? コネっすか?」

 学生たちにすれば思いもよらないことだろうが、ぼくはもうルノワール氏が日本語を解せることに気づいている。しかし周囲がいくらアンリ・ルノワールを讃えようと、目の前の氏が動じる様子はない。慣れているのだろう。ぼくだってそうだ。いくら貶されようが、慣れているので動じない。くるくるとフォークにボロネーゼを絡めながら、図らずも彼の耳を汚してしまったことを残念に思うくらいだ。

 この店にいまだかつてなかったであろう頻度で賛辞と中傷が飛び交っている。噂を聞きつけて覗きに来る学生もいる。ぼくだってこの西鹿村にアンリ・ルノワールがいるなんて噂を耳にしたら、ぜひ一目見たいと駆けつけるかもしれない。

 ぼくたちが終始無言なのも相まって、浮き足立った周囲の話し声がやけに耳に入ってくる。目の前でスマートかつナチュラルな所作でアクアパッツァにナイフを入れている彼が、何か、一言でいいから何か話してくれればと思ってしまう。この良くない思考を埋めて欲しいのに、ぼくがいくら念じても、勇気を振り絞ってこの後の予定を訊ねてみても、彼はずっと黙ってばかりだ。もしここに鍵盤があったなら、少しは違ったのだろうか。

 狭い店の中で誰かが言った。酔いが回っているのか、やや品に欠ける若い男の声だった。

「つかさあ、コネっつーかアレなんじゃね? 若えしさ、やっちゃってんよアレ。なんかエラい、理事長?とかとさ」

 枕――とそれなりの声量で言ったものだから、場が一瞬にして静まり返った。すぐに「聞いてたらまずいって!」「うわあ、さすがに引いたわー」と周囲の友人たちが窘め始める。しかしぼちぼちウケはしたみたいで、窘めている数人もけらけらと笑っていた。

「申し訳ありません。お食事中に、あまり面白くない話を聞かせてしまって」

 ぼくは真っ赤な野いちごが乗ったパンナコッタを見つめながらフランス語で呟いた。昼間の赤いまんまるが乗ったソーサーを思い出す。

「不要かもしれませんが、念のため本人から補足させて頂きますね。彼らが噂している内容は概ね事実です」

 枕という発想には驚かされましたが――とはにかむぼくの目の前でアクアパッツァを平らげたルノワール氏は、意にも介さずもう次のパンナコッタを口に運んでいる。まるで最初からお一人様であるかのように、黙々と。

 なんだろう、このなんとも言えないありがたさは。本当に興味が無いのか、無いふりをしてくれているのか、どちらにしたってありがたいものはありがたい。手を合わせて拝みたいくらいだ。

「ひとりごと、よろしいでしょうか。こんなぼくが、どういった経緯で今の職に就けたかの話です。つまらない上に、少々長くなりますが」

 ぼくはそう言ってフォークを置いた。氏は感情の読めない視線を返すだけで、やはり何も言わない。それをよいことに、ぼくは勝手に口を開く。

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