6・おやつタイム

 都さんが研究室を去った後、ぼくはゴディヴァの棚を見つめ、首を傾げていた。とても一人では消費しきれない量のチョコレート菓子が毎月補充されてしまうので、レッスンを終えた生徒に少しずつ引き取ってもらっているのだが……さきほど都さんに渡そうとしたところ、なんと一つ残らず消えていたのだ。

 うーん、昨日見たときはまだまだ残ってたんだけどなあ……周囲の棚をあさっては頭を捻っていると、ルノワール氏がそっと立ち上がり、そのまま外へと出かけていった。

 ぼくはゴディヴァの謎をいったん放置し、たった今空いたピアノ椅子に腰を落とした。ほんのり温かい……ではなくて、今朝引き受けた伴奏のおさらいに取り掛かかるなら今のうちだ。

 途中、他学科の学生が受講する三〇分の副科レッスンをはさみ、おさらいに戻ってしばらくした頃、ベルギーのオリヴィエから返信があった。

『ぼくの研究室にアンリ・ルノワールがいる』

『可哀想に、とうとうイカれてしまったか……』

 期待通りの内容だが、ぼくの頭が正常であったことはオムライスと都さんが証明済みだ。

『失礼にも程がある』

『オフショットを送ってきたら信じよう』

『無茶を言うな』とやり取りをした直後、片手に紙袋二つを提げたルノワール氏が戻ってきた。大きい方の紙袋には、言わずと知れた高級ファッションブランドのロゴが印字されている。名だたる音楽家が多く住まう西鹿村なので、商業施設の品ぞろえは一般的に想像する山間の村とは一線を画しているのである。

「おかえりなさい、ムッシュ」

 ぼくはさっと椅子を空け、ピアノの上に置かれた小さい方の紙袋を見やる。こっちのロゴはなんだっけ……記憶を探りながら、雑用というメインの仕事が待っているデスクに向かう。

 椅子に腰を落としたところで、視界の端に赤いフィルムに包まれたビー玉とピンポン玉の間くらいのまんまるがころりと転がってきた。ぼくは目をぱちぱちさせて「チョコレート……?」とまんまるに正体を問いかける。ああ、そうだった。さっき見たのはフランスの有名な老舗チョコレートメーカーのロゴだ。

 状況的にそうとしか考えられないとは思っていたが、行方をくらませたゴディヴァたちは、十中八九、氏の胃袋に収められてしまったのだろう。それもぼくが雑用集めをしていた二時間ほどの間に。

「あの……これは……」

 振り返って訊ねると、ファッションモデルのような佇まいでピアノにもたれ掛かかった甘党――いや、チョコレー党の彼は「は?」とでも言いた気に眉をひそめた。そして、ピアノの屋根の上に置かれた透明なプラスチックの筒から同じまんまるを取り出してつつみを開き、ツヤっとしたミルクチョコレートをころんと口の中に放り込んだ。このサイズを一口とはなかなか……あえなく白い頬がむにっと膨らみ、先程まで鋭く見えていた目つきもこころなしか緩む。あー、見てはいけないものを見てしまったような気分。

「ありがたく頂戴します。で、よろしい……ですよね?」

 もちろん無視。ノーならまた「は?」の顔をすると思うので、イエスと解釈してよいはずだ。できるなら後生大事にとっておきたいところではあるが、食べ物を貰って手を付けないでいると余計な誤解を生みかねないし、勿体ないからとっておきますなんてわざわざ告げて引かれたくない。

 観念して包を開けようとしたとき、ぼくはこの場になくてはならないものが欠けていることに気がついた。チョコレートをいったんデスクに置いて二階に上がる。

 キッチンに立って取り出したのは、いたって普通の手鍋、そして黄金の筒――ヴァンホーテンココアパウダーだ。これが毎月欠かさずゴディヴァとセットで送られてくる。日本でも容易に手に入ると再三伝えているにもかかわらず。とどのつまり、師匠はぼくに忘れられたくないだけなのだ。齢六五にもなられて、なんとお可愛らしいこと。仮に何年音信不通になろうと、いちばんの恩人である師匠を忘れるはずがないのに。

 師匠がぼくに仕込んだ腕は、一にピアノ、二にヴァイオリン、三に至高のおやつタイムである。砂糖少なめで仕立てたこだわりのココアを磁器のカップに注ぎ、ソーサーに、そしてトレイに乗せ、研究室に戻る。

 ドアを開けた丁度そのとき、ピコンと軽い電子音が耳に入った。

 ぼくがココアを淹れている間に定位置に戻っていたルノワール氏は、そこに射るべき的でもあるかのように手元をじっと睨めつけている。ぼくの立ち位置からは死角になって見えないが、実際手元にあるのは的ではなく、何かを受信したスマホの画面であるはずだ。見慣れつつあった無表情とはまた違う、冷淡な視線についぎょっとしてしまう。

 トレイを浮かせたまま声を掛けるのを躊躇していると、不意に視線を上げた氏と目が合った。カップとソーサーがかたりと音を立てる。

 すると氏は長い瞬きをして、ふっと肩の力を抜いてスマホを譜面台に置いた。まだゆらゆらと湯気を立てているカップに視線を落とし、僅かに首を傾ぐ。

「チョコレートにはココアかコーヒーと相場が決まっています。丁度ココアのストックがあったので淹れてみたのですが、お供にいかがですか?」

 ことりと鍵盤蓋を開いた氏の返答はイエス。ぼくは先程の筒から赤いまんまるを拝借してソーサーに乗せ、ピアノ椅子に座ったままぼくの到着を待っている氏の傍へ寄った。

「もしよろしければチョコレートを先に一口ひとくち召し上がってください。それで、抵抗がなければですが……チョコレートが口の中で溶け切る前に、ココアに口をつけてみてくださいませんか? チョコレートを温かいココアで溶かしながら頂くと、口の中がとっても幸せになるんです」

 もしかするとぼくは、品性の化身のような彼にとんでもないことを口走っているのかもしれない。けれどどうか、今の彼にあの幸福を味わって欲しい。

 訝しげにトレイの上を見つめたルノワール氏は、真っ白のソーサーの上で存在を主張している赤い包を開き、先程と同じようにころんと口に放り込んだ。すかさずカップとソーサーを手に取り「熱いので気をつけてくださいね」と言うぼくに頷きつつも、心持ち急いた様子でカップに口を付ける。

 その次の瞬間、彼の瞳に浮かんだ色を、ぼくは死んでも忘れないだろう。

 真っ白の頬を薄ら桃色に染め、すうっと胸を膨らませた彼の真闇まっくらな瞳に、ほんの一瞬、きらりと一番星が輝いたように見えたのだ。この先のぼくが雲間から覗く星空を見上げる度に彼を思い起こすのは、間違いなく、この瞬間を見てしまったせいなのだ。

 ソーサーをそっとトレイに戻した氏は鍵盤に指を乗せ、ぼくの予想に近い言葉をつぶやいた。

 シファ、ドミ、シ――と。

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