第6話

 アオ。

 彼女との最初の出会いは、小学時代、地元にあるゲームセンターのビデオゲームエリアだ。そんな彼女との思い出を語る上で避けられない記憶があるのだとしたら、それは、僕らが愛してやまない落ちパズルゲーム、ぶよぶよだ。彼女と交えた戦いの日々は、たとえ僕が高校生になったとしても忘れることはないだろう。というか、現に忘れたことはない。

言ってしまえば僕らにとってぶよぶよは、姿形が変わろうとも、声が変わろうとも、たとえ人間でなくなっていたとしても、互いの身分を証明する手段になり得るのだった。

だからまあ、あれから文化祭を抜け出して僕らはゲームセンターに向かい、

「いや~相変わらず中盤戦弱いね~、五月に戦ったときから何も変わってないね~」

 結論から言うと彼女は、まごうことなくアオだった。

 それにしても強い、強すぎる。

 アーケードズの三階、ビデオゲームエリアの休憩用ベンチに腰掛けた彼女は、伸びをしながら僕にそう言った。というか、

「五月って……?」

「え? ああ、さすがに分かんなかったかー。五月にさ、ミオちゃんとゲームセンターに来たでしょう? あの時は、まだ人格そのものが完全に形成されていたわけじゃなかったんだけど、意識はあったからミオちゃんに頼んで、ちょっと、ほんのちょっぴり、啓一君とぶよ勝負させてもらったんだよねー」

「……あ」

 言われて僕は、その言葉と記憶を繋ぎ合わせ、そして気が付いた。

 あの日、ミオが突然強くなったことや、思い返してみればぶよぶよの機体を初めて見たはずの彼女が飛び跳ねて喜んでいたことを。

 いや、待て、もしあれがアオのせいなのだとしたら。

「なあアオ。お前、ショートケーキ好きだったりする?」

「めっちゃ好きだよー! え、今から買いに行くー? 買いに行こうよ、買うしかないっ!」

「……マジかよ」

 この反応は間違いなさそうだ、奈々子がラボでショートケーキを出してくれたときにミオがおかしくなったのは、アオのせいだったのか。

「アオが本物なのは、分かったんだけど……その、色々聞きたいことがあるというか何というか……」

 まず始めにぶよぶよをしようという話になったのは、まあ、僕らだから仕方がないとして、本来問いただすべき順序は、その「色々」が先のはずだった。一体全体、あの瞬間ミオの身体に何が起きたのだろう、彼女は無事なのか。

「ミオちゃんは、今はまだ大丈夫だよ。まだ、私の人格プログラム、そのOSとして機能してる。でもちょっと危ないかな、三日後には完全に消えてしまうよ」

「消える……? 消えるって、どうしたらいいんだよ?」

 発した僕の声は、変に上ずって動揺の色を露わにしてしまった。自分の悪い部分だ、何かある度に冷静さを欠いてしまっていては、話す側にも気を遣わせてしまう。

 気持ちを切り替えようとして僕が膝の上に置いていた拳を握り締めると、しかしアオは、包み込むように手を重ねて、宥めるように穏やかな笑みをこちらに見せた。

「大丈夫、ミオちゃんは、私が必ず守るから。私も彼女を助けたい気持ちは一緒だから、ね? 他にも、聞きたいことあるんだよね?」

 大きく息を吐いて、自分を落ち着かせる。それから。

「……アオは、どうしてミオの中に……?」

 アオは、人間だったはずだろう。その言葉を呑んで、しかし、その意味を込めて言った。

「んーとね、結論から言うと、私は本物のアオじゃないんだ」

「本物じゃない? え?」

「うん、私は武村博士が開発した人工知能、自動人格生成プログラム『アオイブック』により復元されたアオ。簡単に説明すると、以前ミオちゃんとさ、コードブック、携帯電話の合成音について話してたことあるよね? あの原理と一緒なんだけど、ええっと」

 コードブック、ああ、拾った人間の声を自動的に合成音として再現してくれるってやつか。思い出して僕は、視線で彼女に続きを促した。

「与えられた記憶データや生活環境データをベースにして、数百億通りの人格パターンの中から最も適した人格を作成し、呼び方はいくつもあるけど心として機械の身体に反映させる。まあ、心と言っても、これもプログラムなんだけどね……ねえ、こっち見て」

 そう言われて彼女を見ると、にこっと笑ったアオ、どういう意図があったのだろうと僕は首を傾げた。「私がこうやって笑えるのも」

「武村博士が世界中の被験者、いやまあ、殆ど犯罪というか犯罪なんだけど、世界中のカメラや収音マイク機能を持った通信媒体を通信会社経由でハッキングさせてもらって、通話機能を使用している人々のやり取りを盗み、そこから人間の思考や表情をパターン化し、それを人工知能に学習させたお陰なの。だから、相手の表情や感情を受け取ると、私のフィルター、言い換えると人格に基づいた表情や感情、言葉をパターンの中から検索して返すことができる」

 それから彼女は、きめ顔で、僕を見て言った。

「これが『アオイブック』……どうかな、理解できた?」

「……まあ、うん。大体理解できたけれど、それはミオの中にアオがいた理由になってないし、その、さっきの質問からは逸れるけど、一つだけいい……?」

 アオが僕の前に現れてからずっと気になっていたことを僕は、言葉にする。

「本物のアオは?」

「死んだ、自殺」

 どうするのが正解だったのだろう、言葉を返せなかった、瞬間的には出てこなくて。

「色々あってさ、言わなくても分かる、よね……」

 きっとそれは、僕のせいだ。僕が見捨てたから。助けなかったから。

「だけど啓一くんのせいじゃないよ、私が言うんだから間違いない。だから」

 元の話に戻ろうよ、と彼女は言った。「うん」

「ていうか、『アオイブック』の説明をしただけで、どうしてミオちゃんの中に私がいたのか説明になってないじゃんっ! それに気が付く啓一くん、やっぱ天才過ぎない!?」

「て、天才じゃないと思うけど……ええっと?」

 おいおい、おいおいおい、大丈夫なのかこのAI。

 ぶよぶよ偏差値だけやたらと高い彼女、そのアオらしさに僕は苦笑する。

「それで、どうして?」

「端的に言うと、ミオちゃんが表に出ていた頃は、私の人格が完全じゃなかったからだよ。逆に言ってしまえば、私の人格が完全になったから入れ替わったの。カチューシャの色が変わったでしょ? 赤が更新停止状態で、今の橙色が更新中、完了したら青色になるのかな。一世代前のパソコンみたいだね、我ながらすごく分かり易い説明だなあ……えっへん」

 カチューシャの色か、アオのきめ顔は、中々うざかったが、悔しいことに分かり易い説明なのも事実だった。けれど、それだけじゃまだ僕の知りたいことには、答えられていない。

「完全になったってそれは、その時間的なことじゃないんだろ? だって更新は停止されていたみたいだし、何がきっかけで」

「計画が完遂されたから」

 ミオちゃんは、とアオは続ける。

「コンピュータで言うところのOS。武村アオイの旧バージョン」

「武村アオイ……?」

「ん? 私の本名だよ、私は武村博士の実の娘。あれ、言ってなかったっけ?」

「は?」思わず間の抜けた声を漏らしてしまった僕だけれど、きっと僕が悪い訳でも言葉通りの間抜けという訳でもない。それくらいの驚きがあって当然の情報だった。

「え、そんなに驚くことかな? まあいいや、話し続けていい?」

 いいの? 本当にいいの? そんな僕の訴えにアオは、謎の快活な笑みで返し、続ける。

「ミオちゃんにはね、啓一くんから武村アオイに関する情報、君が忘却しつつあった私との記憶を思い出させ、それを電子データ化して収集する役割があったの。だからそのためにね」

 だからそのために、そこから続いた言葉は、僕が言葉を失うような内容だった。

「――君との信頼関係を築く必要があった。君がかつて私に抱いていた想いをもう一度蘇らせるために、人間の女の子らしい振る舞いをしてみたり――」

「――君と友達になってみたり、恋愛感情をちらつかせてみたり、ね」

「――アオイにとって啓一くんとの記憶が大きく人格に影響を及ぼしていると、武村博士は、考えていたみたい。だから計画の成功を私の起動条件としていたの」

「あ、あのさ……それって」

 自分の声が震えていた、ミオの役目を聞いてしまったからだ。そこから後のことは、頭に入ってこないくらい、考えて怖くなった。けれど、怖いもの見たさだろうか、僕は自分の心を止められず、尋ねてしまう。

「今までのこと全部、演技だったの……?」

 言って、自分で言葉を発して、ぞっとした。

「全部が全部、演技だったとは言わないけど、殆ど演技だったかな……でもね」

「……」

「ミオちゃんは、迷ってたよ。もしも、本当に自分のことを異性として意識させてしまったら、啓一くんを傷つけてしまうんじゃないかって。だから奈々子ちゃんと二人をくっつけようとしたりしてさ……ほんと、お人好しなんだからあの子」

 アオの飴色の瞳が貫くように僕だけを真っすぐに映す、思えばこの真っすぐさは、ミオのものではなく彼女のものだったのかもしれない。そう思ってしまうほどに、周囲の景色を置き去りにしてしまうほどに、吸い込まれそうな目だった。

「だから保証するよ。ミオちゃんは、本当の部分で君に惹かれていた」

 アオがそう言ってくれても、僕の胸の空白は、その弱さは、変わらない。

「……証拠は?」

「私は、ミオちゃんと意識を共有しているから……と言っても信用ならないよね。だから、私の本意ではないけどもう一つの事実を、啓一くんに伝えようと思う」

「……何?」

「奈々子ちゃんのこと。武村博士は、ミオちゃんが倒れたときに彼女を呼び出したの。どうしてだか分かる?」

 僕が黙り込んでいるとそれを返事と受け取った彼女が続けた。

「博士はさ、ミオちゃんが倒れたときにその原因を調べて、啓一君に本当の想いを寄せていることに気付いた。そこに計画が失敗に終わる可能性を予見した博士は、啓一君から私に関する記憶を思い出させ、それを電子データ化し収集するという役割を別の人に任せようとしたの――」

「――それが奈々子ちゃん。傷つかないで……って言っても無理だよね」

 そう言って、アオが僕の身体を抱き寄せる。

「でもこれでミオちゃんを助ける理由、出来たよね。あの子の気持ち信じられるよね」

 冷たい肌の感触の中で僕は、ついに言葉が出てこなかった。

「三日後のアップデートを一時的にだけど止める方法が一つだけあるの。知りたい?」

 その言葉に、僕は静かに、頷いた。


        ※


「おひさー奈々子ちゃんっ!」

「うわぁっ!? み、ミオさん……? だ、抱き着いてきたりして、ど、どうしたの?」

「やだな~私はアオイだよっ! 小学校ぶり、じゃなくて先週ぶり? まあいいや、こうやって触ってみるとおっぱい大きくなったね~もみもみ」

「やんっ……って、あ、アオイちゃん!? え、えっと、て、ことは……あ、か、加藤君?」

「…………」

「け、啓一くんっ!? は、鼻血が出てるよっ! ちょっと誰かティッシュ持ってきて!」

 ゲームセンターを出てアオに案内されるまま付いて行くと、そこは住宅街にある一軒家、奈々子の家だった。入って早々、とんでもない光景を目の当たりにした僕だったけれど、そのことと鼻血が関係しているのかどうかを科学的に証明することは、二〇四三年の技術をもってしても不可能だろう。だから僕は、その後も何事もなかったかのように振る舞い、奈々子の部屋で小さなウサギのテーブルを三人で囲み、交渉を始めることにした。

「あ、あのさ、奈々子ちゃんと啓一くん……もっと元気出していこうよ……ね?」

 横たわっていた重い沈黙、空気に文字が書いてあるなんて決して僕は、思っていないけれど、察するに奈々子も僕らがここへ来た理由を理解しているようだった。

 そして今、僕が彼女に対して、どういったベクトルの感情を抱いているのかも、きっと理解している。何も信じられない、彼女が今ここで何をどう釈明したとしても、僕は、その言葉の欠片さえも受け取る気になれなかった。僕の知る、彼女の全てが嘘だったのだから。

 だからそのことには、もう触れない方がいい。僕は、割り切って口を開いた。

「単刀直入にお願いするけれど、ミオの上書き、アオのアップデートを止めて欲しい。奈々子先輩なら、武村博士と共有している管理者権限でどうにかできるんですよね?」

 しかし、奈々子は俯いて、すぐには答えなかった。

「奈々子先輩……聞いてます?」

 こんなの僕らしくない、こんな問い詰めるような言い方、けれど焦燥が僕にそうさせる。間を置いて、ようやく奈々子が答えた。「い、い、い」

「何です?」

「い、嫌だ」

「は? 何で?」

 抑えきれず吐き出してしまった声は、酷く冷たいものだ。つい言ってしまった、そう思ったときにはもう遅く、奈々子のこちらを見る目は、怯えていた。

 怯えて、まるで僕が怖いみたいに震えている。

 どうしてそんな風に僕を見るんだ、何もかもが演技だろうに。そう思うと、静かに奈々子への怒りがふつふつと、その音を大きくした。

「わ、わ、わわ、私っはっ、み、みみみ、ミオさん、の、こと、ここ、ことっより……」

「もういいよ、二人でどうにかしよう、アオ」

「ちょ、ちょっと啓一くん……」

 話している時間が無駄だ、言って僕は、部屋を出て行こうと立ち上がる。そうして身を翻したそのとき、がたんっ、そんな音がして僕の腕を温かい何かが、きっと人の手に掴まれた。

「ま、待って……か、か、加藤君……」

震える声で、けれど僕を呼び止めようとした奈々子の行動にほんの少し驚いて、ちらりと振り返ると、彼女は机に身を乗り出していた。

 それは、泣き出しそうな真っ赤な顔で、けれどその気持ちを押し殺すように笑顔を張り付けていたことだ。

「お、お願い……」

 どうして今、この状況でそんなことができるのか分からない。必死になって呼び止めようとしていることも、きっと演技だ。

「い、いか、ない、で……」

 そんな気がして、そんな思考が不意によぎって、そんな不安がやがて僕の中に塊となって残ると、彼女の笑顔がいやに醜くいものに思えた。

「うるさい」

「ご、ごめん、ね」

 こんなときに、笑うなよ。

「どうせ、嘘なんだろ」

「う、う、嘘、じゃ、ない、よ」

 僕の腕を握り締める彼女の細い手、それを見つめて僕は言う。

「嘘だったんだろ……全部、男が苦手ってのも」

 そう、全部。

 何を信じればいい。

 僕は、奈々子の顔を見つめて、彼女との思い出全てを引き裂きたい、そんな衝動がふつふつと沸き起こってくる。引き裂きたい、無かったことにしたい。

 あの日、ラボで飲んだ紅茶の味も。

 僕のことを優しいと言った彼女の声も。

 観覧車の中で、一緒にいると楽しいと伝えてくれたことも。

 海も、岩場も、夜も。

 想いも全て、思い返すだけで……思い返すだけで。

「……信じてたのに」

 未練がましく女々しく、吐き捨てるように言って、彼女の手を振り払った。それから背後で彼女が崩れ落ちるような音がして、けれど僕は構わず家を出た。

 熱に浮かされたみたいに身体が熱くなっているらしい、そのことを夜風の冷たさに教えられて、歩き始めてからそう遠くないところで僕が立ち止まると、遅れて別の足音が後ろから聞こえた。アオだろう。

「どうするの? 奈々子ちゃんなしでさ」

「分かんないよ……何か、ないのか?」

「ない、あと三日じゃ、考える時間もないね。つまりこのままじゃ詰んでる」

 どうしたらいいんだよ、悩んで、それでもやっぱり分からない。「説得するしかないよ」

「説得って……一体どうやって」

「んーそうだね、実は、私には秘策がありますって言ったら知りたい?」

「秘策……?」振り返るとそこには、まるで僕がそうすることを予測していたかのように、目と鼻の先、アオの瞳がこちらを待ち伏せていた。

「教えてあげてもいいけどー、私的には、奈々子ちゃんとは仲直りして欲しいなあ」

 そんなの、今すぐには無理だ。きっと彼女だって、僕だって冷静じゃない。

「でも今すぐじゃないと啓一くんも、奈々子ちゃんも仲直りできないよ。多分。だって二人は、私がこうして啓一くんを無理矢理連れてこなきゃ会おうとしなかったでしょう?」

「それは、そう、だけど……」

「だけど? 学園祭でさ、あんな振り方しておいてまた会おうなんて言えた?」

「…………」

「私、奈々子ちゃんの従姉妹だから言っとくけど、あの子は自分から動いてくれるタイプじゃないよ。むかしっから臆病で、思っていることもまともに話せないタイプだった。でもさ、そんな子がさ、演技だったとしてもさ、あるいはそうじゃなかったとしても、誰かに告白したって凄く頑張ったんだと思わない? 一体、何が奈々子ちゃんをあそこまで動かしたんだろうね……ねえ」

 鈍感な啓一くん、と奈々子が三白眼の瞳で僕を見る。

「あ、もちろん、その理由も知った上で、あんな風に突き放したんだよね?」

「え、えと……」

「何で目を逸らすのかなあ、啓一くん?」

 言われて僕は、眉間に皺を寄せたアオの表情と、こちらに向けられていた感情の正体に気が付いた。思わず僕が一歩後ずさると、しかし彼女も一歩にじり寄ってくる。

 何だかすごく、

「ご、ごめん……僕が悪かった」

 アオは、怒っていた。


        ※


――一つの過ちを正さないでいると、人は多くの過ちを抱えて生きることになる。

 そんな言葉を何かの小説で読んだことがあるような気がしなくもないけれど、とは言え、仮にその通りなのだとしたら、失敗や些細な嘘を正さないで生きてきたであろう僕は、一体全体どれほどの過ち抱えているのだろうか。真面目に考えながら、奈々子の部屋で彼女が風呂から上がってくるのを待っていると、ふと見た壁掛け時計の短針が既に九時を示していた。こんな時間に、しかも入浴中にもう一度訪ねるだなんて、何だか申し訳なかったけれど、まあ、アオが半ば押しかけるように奈々子の元へ戻ったのだから僕のせいではないか。

「お、お待たせ……お、お風呂、な、長くなって、ごめん、ね」

 そう言って、部屋へと戻ってきた奈々子は、バスタオル一枚、というわけではなかったが、急いで上がってきたのか髪や肌、色々なところが乾き切っておらず、艶めかしく照っていた。二人きりで話さなきゃ駄目だよ、なんて言ってアオが出て行ったせいで、シュチュエーション的には恋人同士が初めての夜を、いや、何でもない。

「こちらこそ、さっきはごめんなさい。その、奈々子先輩の事情とか何も知らないで」

 気にしないで、と向かい合う位置に腰を下ろした奈々子が緊張した面持ちで言った。けれど、その言葉を素直に呑み込めるほど僕は要領がいい方じゃない。どうしてミオを助けることに協力してくれないのか、暫く間を置いて僕が話を切り出すと彼女は、胸の前で小さく拳を握り答えた。

「わ、私は、ミオさんよりアオイちゃんに、の、残って欲しい、から。叔母さんの、望みを叶えてあげたい……」

「叔母さん? 武村博士の?」

「うん……このまま、アオイちゃんが消えたら叔母さんは、む、報われなさ過ぎる。じ、自分の子供を亡くして、だ、旦那さんとも別れて、それから、ず、ずっと」

 彼女は、ことさらに拳を強く握り締めて続ける。

「ずっと、アオイちゃんに会いたくて、あ、アオイブックの開発に取り組んできた、の。た、たくさんの人も、お金も、時間も、掛けてきた、のに。それを覆すなんて、わ、私には、できない、よ」

 僕は、奈々子の歪められた表情に、一度しか会ったことがないはずの武村博士の顔を思い浮かべた。彼女は、綺麗な女性で、けれど、頬が痩せこけ、目の下に深いくまがあったことを記憶している。彼女が何を思い、何のために心をもったアンドロイドを生み出したのか、こんな僕でさえ、奈々子の言葉を聞いているだけでその気持ちを想像できた。

「ミオとアオ、二人の人格を残すことはできないの?」安直な質問に奈々子は首を横に振る。

「できない。い、今は何とかその状態を保っている、けど、ほ、本来は、すごく、不安定な状態、そ、それこそ、前みたいにエラーを起こして人格を破壊し兼ねない、から。も、問題は、そ、それだけじゃなくって……記憶領域の限界も抱えて、る。に、人間の脳の記憶領域は、約千テラバイト、時間にして十三年分の、出来事を蓄積できるんだけど、わ、私たちは物事を忘れられるから、それでいいとして、あ、アンドロイドの彼女たちは、違う。不要な記憶を判断、でき、ないから、二人分の感情とか、経験を蓄積し続けたら、すぐに、限界がきて、しまう、の」

 話を聞き終えて改めて僕は、この状況のどうしようもなさに溜息が漏れた。そんな僕の様子を見てなのか、奈々子が僕に言った。「ミオさんのこと、助けたいんだ、よね?」迷わず僕が首を縦に振ると、再び沈黙が横たわる。けれど、呟くような声で奈々子がそれを破った。

「それは、そう、だよね。だって、加藤君は……」

 ミオのことが好きだから、きっとそう言おうとして、しかしその言葉が続くことはなかったけれど、僕は黙り込むことでそれに答える。「わ、私、ね」

「う、嘘じゃ、ないよ」

「嘘じゃない……?」

「か、加藤君のことが、す、好きだってこと……さ、さっきは冷静じゃなかった、から、い、言えなかった、けど、この気持ちは、本当、だよ。だから」

 だから武村博士の頼みを受け入れたのだと彼女は、言った。いつかミオが上書きされて消えてしまうことを知っていたから、そのことで僕が傷ついてしまわないように、その傷が深くなり過ぎないように、誰も辛い思いをしなくていいように。

 奈々子は、考えて、考え抜いた結果、武村博士も僕のことも、助けたいと、そう思って行動していた。彼女が話してくれた事実に、思いに、胸が詰まる。

「私じゃ、駄目、かな……」

 その言葉に僕は、迷った。その言葉に僕は、揺れた。

 迷って揺れて、人間だから、すぐには答えられない。

 何より彼女を傷つけてしまうことが、怖かった。

 けれど、もう迷ってはいられなくて――ごめん、そう言おうとしたとき、

「奈々子……先輩?」

 彼女が僕の唇を奪った。

「……怒らないんだ、ね。やっぱり、優しいね加藤君」

 彼女は、どこか寂しげに笑う。

 張り付けられた感情の裏に見えるそれが、本当の感情なのだと思った。

「先輩……僕は」

「言わないで、いいよ……私、分かってるの。君は、優しいから、断れないんだ、よね。もう、甘えないから。今の、最後だから許して、ね」

 揺れるブラウンの瞳が真っすぐに僕を見て、どうすることもできず、ただ首を縦に振った。

 誰も傷つかない方法が他にはないのだろうか、この静寂を破れずにいると突然、奈々子の部屋の扉が開いた。そこに立っていたのは、廊下で話を聞いていたのだろうアオだ。

 そして彼女は、僕らを見て言う。

「あるよ、一つだけ。誰も傷つかないでミオちゃんを助ける方法……知りたい?」

 時間が止まったかのような錯覚、しかしはっとして僕と奈々子は、互いに見合い、それから頷いた。するとアオは、快活な笑みを浮かべて奈々子を見る。

「気が付いてるとは思うけど、今の私の見た目ってさ、多分、十六歳に成長した姿なんだよね。つまり武村博士、ううん、お母さんは、本当はあるはずだった私との五年間を取り戻したいって思ってるんだと思う。だから、そこで私は考えたの」

 彼女は、きめ顔で、続ける。

「五年分の誕生日プレゼントをお母さんに贈ろうと思う。そうしたら、失われた五年は、返ってくるし、お母さんもきっと満足してくれる。それでミオちゃんのことをお願いすれば、多分オッケーしてくれるはずだよ」

「……あの、一番部外者の僕が言うのも申し訳ないんだけれど、そんなに上手くいく?」

 いや、質問するまでもないことだ。そんな単純な方法で上手くいくはずがない、そう思ったのは、僕だけではないらしく奈々子もこちらに同調し、しかしアオは、

「大丈夫、大丈夫。お母さん、単純だから」

 何て単純なんだ、この子。そう思って、けれど、先程の空気を引きずっている僕は、言葉を呑む。というか、もしかしてそれが秘策、じゃないだろうな。

「そうして私が消えて、ミオちゃんが帰ってくると……我ながら完璧過ぎないか、これ」

「あ、あのさ」と自画自賛に耽っていたアオに奈々子が手を挙げる。

 そこから先に続いた言葉は、実のところ僕もずっと気になっていたことだった。

「あ、アオイちゃんは、じ、自分が、き、消えるの、い、嫌、じゃないの?」

「……」僕も静かにアオを見る。けれど彼女は、微笑みを崩さずに答えた。

「嫌じゃないよ、だって本当なら私、もう死んでるんだもん。いやまあ、死んだのはオリジナルだけど、でもそれってさ、ずるいじゃん? 強くてニューゲームとか卑怯でしょ?」

 そして、次にアオは僕を真っすぐに見て言った。

「私は、死んだ。その事実は決して消えないし、変えられない。だから私は、一生小学生のままだし、中学校も高校にも本当は通えないはずだった。啓一くんなら、失ったものは帰ってこないって、分かるよね?」

 事実は、消えないし、変わらない。

 彼女を見捨てた事実は、決してなくならない。

 僕は、そのことを。

「お母さんも、私も、そのことを認めないといけない。前に進まないといけない。だからさ、本当に申し訳ないけど、啓一くんと奈々子ちゃんには、私たち親子の尻拭いって言うのかな? 女子高生がこんな言葉使うなんて何かやだな……でもまあ」

 彼女は、僕らに向かってはにかむと、それから深々と頭を下げる。

「今は、人も時間も何もかも足りないんだ……だから、私を助けてください」

 僕にそれを断る理由は、ない。だから彼女の提案を実行するための実質的な決定権は、僕ではなく奈々子に委ねられていた。彼女がどう答えるか、僕は不安を隠し、言葉を待つ。

 そして。

「な、何週間、あったら、た、足りる? わ、私に出来るのは一応、四週間、までだけど」

「うん、じゃあ四週間で。お母さんの誕生日は、十月二十四日だけど時間が余っても困ることはないよね」

「わ、分かった。じゃ、じゃあ奥のラボで、すぐにメインファイルにアクセス、する」

 奈々子は立ち上がり、慌ただしく部屋を出て行くと、アオもその後に付いて行った。取り残された部屋の中、壁掛け時計の秒針が動く小さな音が聞こえる。

「はあ……どっと疲れたなあ」

 何かが、止まっていた物事が動き出した。そのことへの期待を吐き出した言葉の中に含めると思わず微笑みが浮かんだ。

「ああ、そう言えば啓一くんっ!」戻ってきた奈々子が僕に言う。

「プレゼント、何渡すか考えといてっ! 五個だかんね! んじゃ!」

「は? え? アオ!?」

 何にも考えてなかったのかよ、僕の一秒前の期待を返してくれ。

「はあ、誕生日プレゼントねえ。だけれどまあ」

 きっと、上手くいく。根拠のない自信が僕にはあった。

 大切な誰かを失っても、いつかまた人は前に進み始める。

 その日の夜、眠る前に僕は、ミオと訪れた夫婦の家のことを思い出して、そんなことを柄にもなく思ったのだった。

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