第5話

――今朝、昨晩の憂鬱が目を覚ましても残っていて、結局赤い腕時計を外して家を出た。

 人間不思議なことに分からないことを延々と考えていると、それが自発的な思考であったならば、まだどうでもよくなってしまう程度のところに落ち着くのだが、他人によって植え付けられた悩みの種だったりすると、どうしてこんなことを考えさせられているんだろうなと、いつしか冷静になって、しかし、手放せないものだから、やがて問題に対する感情の色が怒りに変わってしまうことがあるらしい。

 情報ソースは、この僕だ。

「おはよー加藤君、今日も良い天気だね」

「……」

 あの海での一件、一体全体ミオは、どうして僕を拒絶したのだろうか。その理由を夏休みが終わるまでずっと考えていたのだけれど、九月一日から九月九日の今に至るまで、そんな僕を待ち受けていたのは、「あれ、元気ないねー笑ってなきゃ。あ、加奈ちゃんおはよー」こんな風によそよそしい表向きの態度で話しかけてくるミオだった。

 登校してきた彼女は、教室の席に着くなりクラスメイトに快活な笑顔を見せる。ほとんどの生徒がスマートフォンそっちのけでミオの元へ集まってきたことには、まあ、驚いたが何が、元気ないねー、だよ。彼女があの一件をなかったことにしようとしてくれているのだとしたら申し訳ないけれど、僕にはそんな何でもないふりをして生きる根性も精神も備わっていない。寧ろ、訳が分からなさ過ぎて腹が立つばかりだった。

「おはよ、啓一……お前、なんかすげえ不機嫌そうな顔してんぞ?」

「そうか、そう見えるなら不機嫌なのかもしれないね」

 直接彼女にそれを言う勇気がなかった僕は、あえて大きな声でそう言ってやったが、くそ、無視されちまった。そんなこんなでフラストレーションが溜まりまくりの毎日を過ごしていた僕は、けれどまあ、日々自分のネガティブさに耐え続けてきた薄っぺらいが丈夫な雑巾精神で学校を休むまでには至らないでいる。

しかし、ある日、というか今日。

 そんな僕にとどめを刺すような事件が起きてしまった。

「じゃあ、日野宮高校文化祭の実行委員は、武村と加藤で決定するぞ」

 朝のホームルーム、夢じゃないだろうな、大いに夢であって欲しいが、体育会系担任の野太い声が電子黒板に書かれた多数決の結果を読み上げたのだった。


        ※


「はあ、困っちゃったね。どうしよっか加藤君」

 放課後のプログラミングルーム、いくつものデスクトップパソコンが設置された教室の中で二人きりの僕らは、いや、僕としてはミオがいつまで経ってもその心優しき優等生みたいな態度で接してくることに困っているのだが、一応。

「何が困ったんだよ、第一学年の中から二名が選出される実行委員に選ばれちゃったことか? それとも、多数決で僕みたいなポンコツが相棒になったことか?」

 そうもそうなんだけどー、と目にもとまらぬ速さでキーボードを叩きながらミオは唇を尖らせた。いや、ポンコツのところは否定して欲しかったけれども、実際問題、頼れそうなミオとは違って、僕は嫌な役を押し付けられた感あったけれども。

 そんなことはさておいて。

先ほどから何を作っているのだろうか、液晶画面に体育館の構造が映し出されているけれど、隅の方には無数のプログラミング言語が組まれ続けているし、マルチタスクなんてレベルじゃない、百人分くらい平気で働いていそうだけれど。

「日野宮高校第一学年と言えば、入学してから九月までに学んだプログラミングだったり、ホログラムとかプロジェクションマッピングとか、CG系の技術を駆使して開催する第一学年の3Dアート祭が有名でしょー? その準備をしなくちゃいけないんだけどね」

 3Dアート祭であればさすがの僕でも知っている、日野宮高校の生徒であれば誰もが一度は聞いたことがあるくらいに有名な学園祭のイベントであり、簡単に説明すると体育館まるごとキャンパスにして描く3Dアートの催しだ。しかし、僕の聞いた噂が正しければ去年は、作業ペースが追い付かず中途半端な演出で外の人、来賓として招いた企業さんを怒らせてしまったとか何とかで、次回の開催が危ぶまれていたような、いなかったような気がする。「その通りで困ってるの……でもやらないわけにはいかないよ、だってこれ見て」

 そう言って彼女は、赤いカチューシャを変形させてその液晶画面を僕の前に突き出す。そこに映っていたものは、SNSの情報系アプリ「ヅイッター」で、多くのユーザーからアンドロイド女子高のミオが運営する3Dアート祭に対する期待の声が書き込まれていた。

 なるほど、そうなってくるとやらないわけにもいかないということか。状況を理解して、ミオの態度には未だ納得がいっていないけれど、今はそんなことを言っている場合ではなさそうだ。僕も彼女の隣に座ってパソコンを立ち上げる。

 そこまでして気が付いたのだけれど、

「3Dアート祭って、まさか僕ら二人でやるの?」

「本当なら毎年CG技術とかそっち方面に就職したい生徒が立候補して、実行委員と協力する形らしいけど、去年の失敗もあって人が集まらなかったみたいなの……でもほら、さっきも話したけど、やらないわけには、ね」

 マジかよ、詰んでんじゃん。いや、でもまあミオがいれば何となるか。

「……分かった。んで、どんなやつ作るの? 僕は何をすればいい?」

「とりあえず、この街の海辺、海浜公園作ろうかなって、綺麗だし。プロジェクションマッピングのレンダリング作業をお願い。一週間後には間に合わなさそうなの」

「あーレンダリングね、レンダリング……ぼ、僕だって伊達に半年近く、この学校のプログラミング授業へ通ってるわけじゃないってところ見せてやるよ」

 そうして僕は、約半年の実力、たどたどしい手つきでプログラミング言語を打っていく。


        ※


「あれ、ういどずって何だっけ……?」

「ういどず……? ああ、Widthね! 横幅の値を設定するときに使うプロパティだよ、あれ、ていうかそれ知らずにどうやってたの?」

「な、何を言ってるんだ! ミオを試しただけに決まってるだろ。ええと、それで進捗は?」

 僕らが二人で作業を始めたのが二日前、全体作業のうち進捗具合は二割らしい。そのうちの何パーセントが僕の組んだコードなのか、いや、そんな割合を算出したところで何か意味があるわけじゃないだろ、今は、素人の僕からしても逼迫している現状を打開しなければ。

「あのさ、ミオ」

 僕が手を止めて呼びかけるも、疲れないのかな、彼女は手を止めずそれに応じる。身体的には、疲労を感じていないのだろうけれど、彼女は産業アンドロイドではない、心まで無尽蔵の体力をもっているというわけじゃないはずだ。そうした心配も込めて僕は言う。

「僕が言うのもあれだけど、いや、こればっかりは本当に申し訳ないと思ってるけど、このペースだと間に合わないんじゃないかな」

「んーやっぱりそうだよねー。あーあ」

 そこでようやく手を止めて、彼女は誰に言うでもなく呟くように言う。「どうしよ」

 どうするもこうするも、この状況を打開するために今の僕らが出来ることは、作業人員を増やす、その選択をとることだけだろう。「それこそ我が校の公式ヅイッターとか使ってさ、去年の舞踏会開催に携わった二年生たちへ協力を求めてみるとか」そのことを伝えるも、しかし彼女は、周囲に助けを求めたことで期待を寄せてくれていた生徒たちに不安を感じさせてしまうのではないか、そんなことを気にして決めきれない様子だった。背負った期待の重みに耐えきれず心が疲労しているのかもしれない、ぼんやりと画面を眺める彼女の横顔に僕は、そんなことを思った。「ミオ、疲れてるなら一回休んだ方がいいよ」

 このところずっと作業に没頭しているのだ、無理もない。

「ううん、でもありがとう。優しいね……でもさ、どうしてかな?」

「どうしてって?」

 言ってミオは、首をこちらに向けて僕を見た。

「加藤君が私のことを心配してくれるのは、どうしてかな」

 そうして浮かべられた、どこかいたずらな笑顔。

「もしかしてさ――」

「――私のこと好きだったりして?」

 どきりとした。

 唐突で、無防備だった僕は、すぐに返す言葉が見つからず、けれど、

「なーんてね」

 あの海での一件以降、ミオがどうして僕を拒絶したのかについて考えながら、同時に自分が彼女の態度にどうしてあれだけの熱量をもって傷ついてしまったのかも考えていた。

 そうして、僕は気が付いた。気が付いてしまっていた。

「加藤君……?」

「好きだよ、ミオのこと」

 隠す理由なんてどこにもなかったから、そう、言った。

 寧ろ、言い終えてようやく高鳴りだした心臓の音を隠したいくらいだ。それから僕は、真っ直ぐに、ほんの少し驚いたように目を見開いていたミオを見る。

 やがて彼女は、はあ、と息を吐いて作り物みたいに綺麗な微笑みを浮かべた。

「ごめんね、私は加藤君のことそういう風に見てなかったの」

 言葉が僕の中に響いて、その音が消えきる前に彼女は首を横に振って、続けた。

「きっと、私のノルマ、友達作りと恋人作りのこと憶えててくれたんだよね。でも……大丈夫だから」

「そういう理由じゃないよ。ノルマとか、そういうんじゃない」

 咄嗟に言葉が出てきて、

「僕は、心からミオのことが好きなんだよ。だから、僕と、付き合って欲しい」

 言えた、伝えた、数秒の沈黙が過ぎるまで、僕は自分の鼓動の音を聴きながらこれが現実であることを実感する。

「加藤君……」

 こんな僕でも誰かを好きになって、傍にいて欲しいと思えたのは彼女だからだ。

 この想いを伝えられたのは、

 僕のことを肯定してくれた、ミオだから。

けれど、彼女は張り付けたような笑みを崩すことなく、

「ごめんなさい。それでもアンドロイドと人間は、本当の意味で情を育むことはできないから。見えていることも、聞こえていることも、感じていることも、きっと違う」

 だから、と彼女が言葉を紡ぐ。

「加藤君は、人間の女の子を好きになった方がいいよ」

「……」放心状態に近かったのかもしれない、僕はただ、自分が息をしている、その音を聞いていた。「話、私のせいで逸れちゃったね……それでさ」

 胸の中で膨らんでいた蕾は、いつの間にかに萎んで空っぽになった。そんな僕から液晶画面に視線を戻して、どこか空っぽな声で彼女は言う。

「やっぱり助け、求めてみようかな」

 力のない、そんな横顔だった。


        ※


「啓一、お前なんか最近疲れてね? 目の下のくまとかやべえぞ」

「ああ、僕ほどになると眠ることも忘れて勉強してしまうからな。危ない危ない」

 言われなければ、うっかり死ぬところだった。

「さっきの授業で居眠りしてるように見えたんだが」

「き、気のせいだろ……」

 渉とそんな会話をしたのが今日の昼休み。どうやら僕の疲労は表情に出てしまっているらしい。それじゃあいけないな、そう思った放課後、僕はプログラミングルームの扉を開く前に自分の頬を軽く叩いた。「遅くなってごめん。今、進捗はどう?」

 プログラミングルーム、数日前までは僕と彼女だけの寂しいコンピューター室だったが、SNSでミオが呼びかけた甲斐あって、数人の生徒が集まってくれている。僕が中に入るとミオは、作業していた手を止めて表情を綻ばせた。

「みんなのお陰で順調よ、これなら何とか間に合いそうだね。本当に頼って良かった……。加藤君の方はどうだった?」

 実行委員が受け持つ業務は、なにも3Dアート祭の準備だけではなく各教室の出し物、その予算管理や資材の準備までを担当している。けれどまあ、こちらの作業に比べれば随分と楽なもんだが。「僕の方は、まあ一通り。そっちの作業に合流するよ」

とは言え実際問題、人員が増えたことは喜ばしいことだけれど、まだまだ人手が充足しているとは言えない状況だろう。その欠員を僕なんかが補えるだなんて、そんな驕りはないのだけれど、一人でも作業員は多い方がいいはずだ。徹夜明けの脳みそがどこまで頑張れるのかは分からないけれど、昨晩だってプログラミングを頭の中に叩きこんでいたんだ。

 これだけやったんだ、少しくらいは力になれるはずだろう。

 そう信じて僕が席に着いたそのとき、

「あんたら、上手くやってんのー?」

 扉が乱暴に開かれたと思うと、何の躊躇いもなく踏み入ってきた金髪の女子生徒。

相変わらず着崩した制服がダサいな、忘れもしないよ。その不愉快な存在は、僕を見るなり下卑た笑みを浮かべる。

「おひさー、あんた実行委員だったんだ」

「……僕は、てっきり退学になったと思っていたんだがな。親のコネでも使ったか?」女を睨みつけて僕は言う。「何の用だよ、用がないなら帰ってくれ」

「こわーい、手伝って欲しいって言うから来てあげたのにー」

「手伝うだって? お前みたいなのは、願い下げだ」そう言いかけて、しかし、

「手伝いに来てくださったんですね、先輩。凄く助かります」

 ミオが僕らの間に割って入り、女を宥めるように微笑みを見せる。果たしてミオの笑顔でこの場を収めることができるのだろうか、僕らはこの女に復讐されたっておかしくないくらいのことをしている、二人が視線を交わしている間、緊張で手が汗ばんだ。

 またしても一触即発の事態、しかしそれは、僕の杞憂だったようだ。

 突然に女は、気分良さげに笑って言った。「あー良かった。まともな子がいて」

どういうことだろう、あまりにショックが大き過ぎて記憶を失くしてしまったのだろうか。そうならば、ぜひともそのままにしておきたいところだが、考えて僕は「……あ、なるほどね」あることを思い出した。あの日、女と対峙していた僕と奈々子の前に現れたのは、ミオではなく紙袋仮面だったのだ。抜かりないな、さすが過ぎる。

 ミオは、女が席に着くのを見守ってそれから僕に言った。

「そうだ、加藤君。少し休憩してきたら? 可愛いお客さんも来てるみたいだしさ」

 目で扉の方を指した彼女、僕がそれに従って視線を動かすとそこには、

「奈々子先輩……?」

 気まずそうに俯いていた奈々子が、けれど真っすぐに僕の名前を呼んだ。

「加藤君、い、今……いい、かな」


        ※


――難しいことは、考えたくない。難しいことしか考えられなくなるから。

「と、突然、ご、ごめんね……あ、あの子に跡、つけられてたみたい……」

 高い空に秋の静かな雲が斜めに流れる放課後のひととき、大きな桜の木が一本、中庭の中心で赤く色付いたそれを眺めながら、僕と奈々子はベンチに腰を下ろした。

「え、えと……思えば、ひ、久しぶり、だね」

 緊張しているのか上ずった声で話し出した奈々子。確かに僕らは海での一件以降、電話口で感謝を伝えたきり直接話したのは、今日が初めてだった。彼女からは、あまり気にしなくていいと言われていたが、そうもいかないだろう、改めて僕は感謝を伝えた。それと、

「おめでとうございます。男性への苦手意識を克服できたみたいで……その色々ありましたけれど、結果的には」

 夏休みの目標を達成できたのだ、色々、あったけれども。

 色々、なんて言い方をした僕の意図としては、お互いの気まずさを軽減するためだったのだが、しかし返ってそれが良くなかったのだろうか、奈々子は頬を赤くして俯いてしまった。

「そ、そそ、そうだねっ、た、達成できたね……ちゅ、ちゅ、ちゅー」

「……」隠したのに。まあ、命の恩人である奈々子のことを咎めるような真似、僕にはできなかったけれど。「あ、あのさっ」

「今日、か、加藤君を呼んだのは、そのことじゃなくて、ね」

 勝負の、こと、憶えているかな、と彼女は一言挟んで続けた。

「も、もし私が、勝ったら、い、言うことを一つ聞くって、約束」

 約束、そのことは、僕も憶えていた。既に何をしなければならないのかまで記憶している。

 大きく息を吸って――吐き出すまでの間に僕は、自分の心に問いかけた。

正直なところ、文化祭の準備に追われていたこともあり、あの日の失恋のことも、そして、今の自分がミオのことをどう思っているのかも、しっかりとは考えられていなかった。

 いや、考えないようにしていた。

「そうですね……僕は、答えなければならない、ですね」

 考えて――アンドロイドと人間は、本当の意味で情を育むことはできない、そんなミオの言葉を思い出す。

 言われてみれば、まったくもってその通りだろう。僕はずっと、消しゴムを拾ってもらったあの日からミオのことを意識してしまっていたけれど、冷静になってみれば彼女は、アンドロイドなのだ。

「僕と彼女は、人間とアンドロイド、ですから」

 そんな正論が、僕の中にあったぼやけた感情を、彼女と重ねてきた日々を覆い隠す。

 隠して、見えないように、見えていないように、僕は答える。

「そこに恋愛感情は、ありませんよ」

 考えないようにするのは苦手だが、無かったことにするのは得意だ。

 親友を見捨てたときのように、ミオへの想いも、きっといつか消えて無くなる。

「そ、そっか。あ、ありがとう……教えて、くれて」

 迷いを断って隣を見ると奈々子は、膝の上で重ねていた手をじっと見つめていた。この間から気になっていたのだけれど、彼女はどうしてそんなことを知りたかったのだろう。

「それは、その……」

 彼女は、解いていた手を握り締めて、

「好き、なんだ――加藤君のこと」

 不安気に瞳を揺らし、僕を見て言った。

 告白されたのか、あまり実感はなかったけれど、遅れてそのことを理解する。それは、何でもない言葉のやり取りみたいだった。

「どうして、僕なんですか……?」

 僕にはきっと魅力なんてないはずなのに、心の中の黒い部分が漏れ出したみたいに言っていた。自信のなさが露見してこんな自分が嫌になる、告白してくれた彼女に申し訳なくて思わず僕は俯いてしまった。

 すると奈々子は、そんな僕の手に自分の手を重ねて、

「わ、私、ほ、本当はまだ、克服、できてない、の」

「克服できてない……?」

うん、彼女は呟いて続ける。

「男の人に触れられた、のも、加藤君だったから、できた。私を助けてくれた加藤君だったから、いつも優しくて、一緒にいると楽しくて、安心できる、の」

 奈々子を助けた僕、彼女の言葉を反芻して、しかし僕は、彼女が見ている僕は。

 きっと、本当の僕じゃない。

 彼女が思っているほど優しくないし、面白い人間じゃない。

 ネガティブ思考で、卑屈で、面倒臭い人間だ。

「か、加藤君……」

 嫌な沈黙が続いて、何かを答えなければならない、そんな思いが僕を追い詰め始めたとき、

「へ、返事は、いつでもいい、なんて、言うと、少し、怖いから、文化祭が終ったら」

 彼女が、ぎゅっと、僕の手を強く握る。「奈々子先輩……」

 それでも、心の黒い何かが消えてはくれなかった。


        ※


「あれ、啓一。お前、昨日にも増して疲れた顔してんな。息抜きしてたんじゃねえの?」

「息抜き? 何言ってんだ、忙しすぎてぶよぶよしてる暇もないよ」

 翌日、そんな会話を渉とした日の放課後、いつも通り実行委員の管理業務を終えて僕がコンピューター室を訪れると、そこにはただ一人、立ち尽くしたミオがいた。昨日は集まってくれていた先輩方の姿もないし、何かあったのだろうか。「あれ? みんなは、いないの?」

 そんな僕の問いかけに、しかしミオは、答えることなく慌てた様子で部屋を出て行ってしまう。何かがあったのは間違いなさそうだ。

ミオの後を追いかけて、そうして行きついた先は第二学年の教室だった。「ちょっとミオ、どうするつもりだよ」そのままの勢いで扉を開くのかと思い彼女を宥めようとした僕だったけれど、彼女は自分を落ち着かせるように立ち止まって、それから、

「突然ごめんね、ちょっと先輩に用事があって。加藤君は、ここで待ってて」

 教室で見せている優し気な笑みを作った。隠し事をしている、たとえ僕じゃなくたって察しがついてしまうくらいに不自然な笑顔を見せた彼女を放っておけず、僕は、文化祭のことならば自分にだって関係があると引き下がらなかった。

「……分かった。でも、その代わり何があっても、何を言われても反応しないで」

 意味深な言葉、その意味を考えているとミオが一人、僕を残して教室の中へと入ってしまう。訳が分からない、何を心配しているんだ。結局、思考がまとまらないままに彼女の後を追いかけると、文化祭の出し物を準備していたのだろう、他の生徒も大勢、教室に残っているようだったけれど、そこには、金髪の嫌な女がいた。「あれえ、実行委員の加藤君じゃん」

 女は、何やらミオと話していたようだが、僕を見るなりわざとらしく大きな声でそう言ってこちらを指さした。

 腹の立つ笑みだ、そう思って、しかし僕は、自分に向けられた視線が彼女だけではないことに気が付く。

 自分に集まっていた視線、それは、

「あんたさあ、自分がしでかしたこと分かってんの?」

 この教室の生徒全てが僕に注目している。その目に浮かぶ感情は、はっきりと分かるくらいに負の感情だった。「僕がしてしまったこと……?」一体全体、何のことを言っているんだ、混乱して首を傾げると女がミオを差し置いて、僕の前まで来たと思うと立ち止まった。

「これ、あんたでしょ」

 そう言って女は、僕の前にスマートフォンを突き出す。そこに映っていたものは、

「奈々子先輩……僕?」

 中庭。ベンチで隣り合うように座った二人の男女、手を重ねている僕と奈々子の写真だった。「あんた実行委員でさあ、二年の先輩たちに手伝ってもらってたんだよね」

 女は、周囲へ聞こえるように声を張って続ける。

「自分だけ遊んでんじゃないよ」

「違う、これは、遊んでたわけじゃ……」

「じゃあ何してたの……? 言ってみなよ」

 少し休憩していた、いや、それを素直に言ったところで見苦しい言い訳にしかならないだろう。考えて、思いつかず無意識に視線が泳いでしまい、そして僕は見てしまった。

「ちが、う」

 遠目に僕を見て、ひそひそと口を動かす生徒の姿、僅かに歪んだ眉根、重い空気、教室中から向けられる視線が突き刺さるように鋭いものへと変わっている。

まるでそれは、僕が小学生だった頃、親友の教室に足を踏み入れたときみたいに。

「何が違うのか、言えよ。何も違わないよね」

 女が一歩進み出て、そうすべきではないのに、僕は一歩後ずさってしまう。

 逃げ出したい、この場所から。僕は、またそんなことを、妙な脂汗が額に浮き出てくる。

 教室の壁がいつの間に迫っていたのだろうか、気が付けば追い詰められていたそのとき、


――がしゃんっ。


 激しい衝撃音、視線の先には女の席を蹴り倒したミオの姿があった。

 こちらを見る彼女の表情には、先程まで張り付けていた笑みなどどこにもなく、見る者を貫くように鋭い、剣呑な目が光っている。思わず、冷たいものが背筋に走った。

 ぞっとするほどの、物言わぬ怒りを前に教室が静寂に包まれると、そこでようやくミオは、口を開いて、

「本当に、これだから無能は」

淡々と呟いた。

 その声を聞いて、女は小さく肩を震わせる。まるで怯えるように一歩後ずさって、そんな彼女を追い詰めるようにミオは、一歩距離を詰める。凄惨な笑みを浮かべながら。

「無能は無能でも、記憶力は良い方なのね。まるで脳みそが入っているみたいよ」

「あ、ああ、あ、あ……あなたは」

「やめてちょうだい、それ以上話さないで。こんなしょうもない画像をネットに上げることが復讐になるとでも誤解しているあなたとは、口を利きたくないの」

 ミオは、女を壁際まで追い詰めてもなお鋭い剣幕で捲し立てる。

 冷たい声と言葉、それは今まで学校で隠し続けていた本性だった。

「大体、一年前の実行委員を担当したのは、あなたらしいじゃない。自分が取り返しのつかないことを起こした主たる原因でいながら、尻拭いをしてあげようという後輩の足を引っ張るなんて無能以外の何ものでもないわ。この間は、なまじ立場が偉いばかりに退学を免れたようだけれど、消えてしまった方がまだ全体のためになったんじゃないかしら」

 骨を抜かれてしまったかのように腰を抜かしていた女を見下してミオは言う。「さっさと投稿を取り消しなさい。さもないと、本当に地獄を見ることになるわ」

 それから、女が言う通りにしたのを見て、彼女は呟く。

「あなたたちみたいな無能は、手だけ動かしていればいいのよ」

――はあ、ほんと疲れる。

 沈黙に包まれた教室で、彼女の声がこだまするみたいに暫く残った。

「戻るわよ、加藤君」


        ※


 そのままコンピューター室に戻った僕らだったけれど、廊下を歩く間、何と言うべきなのか思いつかず終始無言だった。恐らく奈々子と僕があの女に嵌められてしまったのだろうけれど、元はと言えば話し合うのにあんな開けっ広げな場所を選んだ僕の責任だ。後で奈々子にも謝っておかなければならない、けれど一番の被害を被ったのはミオだ。

 彼女はきっと、僕を庇って隠していた性格を曝け出したのだから。

 僕のせいだ、それもあって何と声を掛けるべきなのか分からなかった。

 けれど、部屋の扉を閉めて振り返ったそのとき、

「え、何やってんの……」

 彼女は、入学初日に僕が拾った黒いメモ帳を目の前で引き裂き、それが紙くずになると宙へ放り投げた。そこには、ミオの目的が、ノルマが記されていたはずだろう、そんな言葉は、目前の光景へ吸い込まれて儚くも消えていった。

 舞う紙吹雪、部屋の明かりが反射して光の粉塵にも見えたその情景へ呆気に取られていたけれど、次の瞬間には、本物の桜吹雪のように澄んだ甘い香りがして、

「ごめんなさいっ……私」

 舞い散った紙切れが床に積もる頃、僕は彼女に抱きしめられていた。

「ミオ……?」

「もう……ノルマなんて、達成できない、から」

 各学年に友達を三十人ずつ――。

――恋人を一人。

一体どうするべきなんだろう、その声が怯えているかのように震えていて、僕は黙ってその言葉を聞いた。

「せっかく、ここ、までやってきたのに……きっと、誰かが、教室でのことも、撮影、していたでしょうし、明日になれば私は、みんなからの信頼をなくして、しまう」

 僕らが積み重ねてきたもの、いや、彼女が懸命に積み上げてきたもの、それが崩れるのは一瞬だった。その重みは、元々一人だった僕なんかには計り知れないもので、だからこうして僕は、黙ってその話を聞くことしかできないでいる。

僕のせいなのに、その悔しさで拳が震えた。

「私っ……何も、できなかった……ごめん、なさい。ごめん、なさい」

 その謝罪は、誰に向けられたものなのだろうか。きっと、僕ではない。どこか遠くにいる存在へ向けられているような、そんな気がした。けれど、それが誰に向けられたものであったとしても僕には関係ない。

「……僕のせいだよ」

 震える彼女を見ていられなくて、きりりと痛む胃を抑えて声を振り絞る。

「だから、最後まで手伝わせて。失敗したって、その責任は僕が持つから」

「加藤君……」

 そうして顔を上げた彼女は、涙のない綺麗な顔している。

 けれど、それは胸を締め付けるような泣き顔でもあった。

 彼女は、僕に言う。「一つだけ、面倒なことを、聞いても、いい?」

「こんな私でも、あなたは、あなただけは、友達で、いてくれる……?」


 答える代わりに僕は、彼女を抱きしめた。


        ※


 翌日、教室に入って僕らというよりミオを迎えたのは、彼女と仲が良かったはずのクラスメイトから手の平を返したような拒絶態度だった。僕とってはまあ、日常的なことではあるのだけれど、今まで人気者だったミオにしてみればかなりキツイ仕打ちだ。挨拶したって無視をされ、普段は携帯ばかりいじっているような連中が、教室の隅でくっついてひそひそとミオに嫌な視線を向けている、不幸なことにアンドロイドの聴覚をもってすればその会話の内容も聞こえているのだろう、彼女は塞ぎ込むように俯いていた。

 そんな教室の様子を見ているだけである程度の確信はあったのだけれど、

「えっと、か、加藤君。ミオさんの、動画、あ、あれって、多分、私のせい、だよね」

 自分では確かめる決心のつかなかったSNSの情報を奈々子に伝えられたことで、ミオの予想が正しかったことを僕は知る。いつの間に撮られていたのだろう、ネット上では人間を罵倒するアンドロイド女子高生の動画が注目を浴びていた。

 もちろん、ネガティブな意味で。

「気にしないでください、休憩場所に中庭を選んだ僕の責任ですから」

 協力できることがあれば何でもする、そう言って奈々子は電話を切った。

「はあ、どうするかなー」

 大体3Dアート祭って二人で出来るものじゃないよな、無茶なこと言ってんじゃねえよ、と今更ながらそんな不満で頭がいっぱいになっていると午前中の授業が終わって昼休みになった。

「なあ啓一」いつもならばすぐに食堂へ行ってしまう渉が珍しく振り返って僕に言う。その後に続いた言葉は、ミオの動画に関する真偽確認だった。聞かれて僕は、彼もまた表向きの彼女を信頼していた外部の人間であることを思い出す。だから、

「渉には、関係のない話だよ。アート祭の手伝いをしているわけじゃないしさ」

 そんな風に彼を遠ざけようとしてしまう自分がいた。言い終えて、きょとんとした彼の表情に罪悪感を覚えてしまう僕は、聞かれたことだけを答えれば良かったと少し後悔する。

「そうか、だよな。んじゃ、食堂行ってくるわ」

 気に掛けてくれたのかもしれなかったのに、僕って嫌な奴だな。

 けれど、嫌な奴でいい。そんなことを気に掛けている余裕なんてない。ミオのためにも、僕のためにも、アート祭を成功させなければ。自分に言い聞かせる、そのとき隣の席にいたミオが僕の名前を呼んだ。「ん?」ぼんやりと返事した僕だったけれど、続いた言葉で思わず彼女の方を見た。

「もう諦めよっか」何も書かれていない黒板を真っすぐに見つめて、ミオは言う。

 どんな言葉を返しても届かないのではないかと、そんな気さえする虚ろな目に、しかし僕は黙ってなどいられず言及する。「何で急に?」

「……思い出して、私たちがアート祭を成功させようとしていた理由」

「理由……あ」

 僕が思い出して間の抜けた声を漏らすと、彼女が続けた。

「これは、みんなの期待に応えたくて始めたこと。でも、もう誰も私に期待なんかしてない。言ってしまえば、ここで投げ出したとしても失うものは何もない」

「……」

「だから、今日の帰りのホームルームでそのことをみんなに説明しようと思うの」

 目的を果たさなければならない理由も、意思も、僕たちには残っていない。その事実をようやく理解して、僕は黙って彼女の言葉に頷くことしかできなかった。


        ※


 六限が終っていつも通り帰りのホームルームが始まると思っていた僕だったけれど、今日に限って担任教師が出張だとか何とかで不在らしく、マジかよ、そのせいで僕らは生徒だけでホームルームを終えなければならなくなった。誰が教師役、つまり進行するのかというちょっとした話し合いでさえ、クラスメイトたちはスマートフォンをいじっていて、一向に進む気配がない。その雰囲気を察したのだろう、僕の隣で控え目に手が挙がった。

「加藤君も」ミオの目がそう言っているのを感じて、人前に立つのは慣れていなかったけれど、僕もそれに続いて教壇に上がる。ミオは、伝達事項をまとめた紙を手に取って「ホームルームを始める前にみなさんに伝えたいことがあります」と話し出す。

 彼女の声は充分に届いていたはずだけれど、聞こうという気がないのだろう、教室中の誰もが自分の携帯を見るのに夢中だった。

 こんな風に誰も気が付かないうちにアート祭の準備は、打ち切られる。そう思うと一体全体、僕とミオが掛けてきた時間は何だったんだろうと、心の中に空白が広がっていく。

「簡潔に言うとアート祭のことですが」

 申し訳なさそうにクラスメイトたちを見て、それから小さな声で言いだしたミオ。今の声は届かなかったかもしれないし、あるいは席の最前列にならば届いていたのだろうか。性格の悪いクラスメイトたちだ、昨日まではミオと仲良さげにしていたくせに。そう思って、まあ友達などいない僕にとっては、やっぱりそんなことどうでもよかった。けれど彼女にとっては、僕の前では包み隠さずに冷たいことを言い放題な彼女だけれど、その内心では、自分と仲良くしてくれていたクラスメイトのことを大切に思っていたのかもしれない。

 中々続きを言い出せない彼女の、僅かに開いて動かない唇を見て、どうしてだろう。

「み、みんなさ、手伝ってくれない、かな」

 ミオのように話しながら、クラス全体を見上げる勇気はなかったけれど僕は言っていた。言い切って、落としていた視線を上げると、

「え、えっと」

 誰一人として僕のことなんて見ちゃいなかった。分かっていたさ、届かないことくらい。

 けれど、それでも、分かっていながら期待してしまう僕がいたのだろう。段々と胸が痛くなって、この教室に、教壇に立っているはずなのに、ここで傷ついている自分を遠くから見ているような、そんな意識になっていく。

 怖いと思った。

 誰かに話しかけることが、期待することが、全部、怖い。

 その怖さが空っぽの胸を通り過ぎて、何でこんなところに立ってるんだろう、やがて僕は面倒臭くなってきた。

 ミオは、今の僕をどんな風に見ているのだろう。考えたくもないな、もう一度視線を足元に落とした、そのときだった。


「おい、窓の外見ろ! 赤いぶよぶよが飛んでんぞ!」


 叫ぶように誰かが言って、マジで!? 咄嗟に僕は窓の外を見る。

「そんなもんどこにもないじゃないか! 騙しやがって……あれ、渉」

 食い気味に声がした方へ言うと、そこでは、渉がにっこりと笑って立っていた。それだけじゃない、クラス全員が声に反応して彼の方を向いている。

「……」空を見ていたのは僕だけかよ。

 いや、そんなことはいいとして。

「いやー良かったー。とりあえずみんな、声は聞こえてるみたいでさ。なあ、啓一――」

「――もっかい話してもらっていい? 俺の答えとしちゃ、もちろん手伝うぜ。だってお前が毎日、目の下にくま作って頑張ってたの、俺知ってっから。それと、みんなのことは、責めないでやってくれ、話し聞こえてなかっただけだからさ」

 そうだった、渉は毎日、僕の顔を見てそれを気に掛けてくれていた。「渉……」

 水面に波紋が広がるように、渉の声と笑顔が僕の心の中で響く。お前、すげえ良い奴じゃねえかよ、そう思うと自然と口元が綻んで、ふっと体が軽くなって感じた。

「アート祭の準備で人手が足りてないんだ。手伝ってくれる人、いませんか?」

 しかし、クラスメイトの反応は芳しくない。それもそのはずだろう、彼らの目に映るミオへの誤解は未だ解けていないのだ。どうすればいいのだろう、そう思っているとミオが「ごめんなさい」と話し出す。

「動画のこと……全てが嘘だったとは言えない。だけど私、みんなの期待に応えたくて……どうしてでも、アート祭を成功、させたくて……だから、わた、し、のために頑張ってくれた人が、馬鹿にされたのを、許せなくて、それで」

 風船が萎んでいくように彼女の声が小さくなっていく、またしても感情的になってしまわないように自分を抑えているのだろう。続きは僕が話そう、そう思ったとき女子生徒が一人、手を挙げた。「加奈ちゃん……?」

「あたし、手伝うよ……ごめんね、今まで全部任せきりで。去年、大変なことになってたって聞いたから、少し自信なかったんだ。だけど、ミオちゃんとなら出来そうな気がしてきた」

 それを皮切りに続々とクラスメイトたちが手を挙げていく。その様子を見てミオは、その大きな目を細めて、

「みんな……ありがとう」

 きっと心からの言葉を、クラスメイトに贈った。


        ※


「おい、啓一! 大変だ!」

 文化祭当日、クラス一丸となって完成させた3Dアートを体育館に投影させようとミオと僕がPCなどの機材をセッティングしていると、慌てた様子で渉が駆け込んできた。

「え? マジで、ホログラム映写機が全部なくなってる?」

「上級生の仕業だと思うの、きっと私の邪魔をするために……ごめんなさい」

 ミオの誤解が解けたのは、あくまでこのクラス内でのことだ。その可能性は、充分ありえるが、そうなってくるとどうしたものか。考えて、考えて僕は、あることを思い出して携帯電話のアドレス帳を開き、ある人の名前を探す。いやまあ、借り物の携帯には三人程度の電話番号しか東麓されていなかったのだからすぐに見つかった。

「あ、もしもし、奈々子先輩。少し、お借りしたい物がありまして。あ、でも、運搬はどうしましょうか……ええ、あ、分かりました」


        ※


 後日談、というほど時間が経っているわけでもないので事後の話になるのだけれど、何度か奈々子のラボを訪れたことがある僕は、偶然たまたま、何というご都合主義か、彼女のラボには設計図を投影するためのホログラム映写機がいくつも設置されていたことを思い出したのだ。床への設置型から壁に掛け型までその種類は様々で、それを借して欲しいとお願いしたところ、彼女は快諾してくれた上に、それだけの機材を旧校舎から体育館まで移動させるのに運搬用ロボットのロボタンを寄越してくれた。

 ここだけの話、紅茶しか運べないポンコツロボットだと思っていた僕だけれど、指示通りに体育館内に機材を設置までしてくれて、これからはロボタン様と崇めることにしよう。

 そうして事は順調に運び、体育館の天井一面に広がった夜空、入り口から一面に広がる浜辺と暗く静かに揺れる海、向こう岸に見える飴細工のような東京の夜景、息を呑むほどに美しい、ようやく僕らは、この街の海辺を体育館全体に巨大な3Dアートとして描ききった。

 一息つけるかな、来賓の方々やクラスメイト、上級生たちが口々に3Dアートへの感想を漏らす様子を見ながら思っていると、誰かが後ろから僕の肩を叩いた。

「か、加藤君……おめでとう……えっと、その」

「奈々子先輩……一度、体育館を出ましょうか」

 告白の返事をしなければならなかった、体育館を出る前に意味はないはずなのにミオの姿を探して、結局見つけられないままに体育館の裏へ出る。

 九月下旬、秋めいてきた空が暗くなってもまだ、もう少しだけ文化祭は続くのだろう、校舎の方ではちらほらと明かりが見える。とは言え、今から文化祭を訪れる人の姿は見えず、体育館を出て行く人の方が多い上に、きっと人は来ないだろう場所、体育館の影が伸びる入り口とは正反対の位置まで彼女を連れて歩いた。

「告白のこと……ですよね」

「う、うん……」

 緊張した面持ちで奈々子は、静かに頷いた。

「……先輩の気持ちは、凄く嬉しいです」

 だけれど、正直に言わなければならない。

「でも僕は、先輩が思っているような人間じゃない。ネガティブだし、卑屈だし、それに友達だっていないようなやつです」

「それでも、加藤君が、いい、の」

 だって、と彼女は表情をより一層強張らせて僕に言う。

「私を助けてくれた、から……しょ、正直、自分でもた、単純だなって、思う、けど、けど、それでもいい、の……あなたが好き」

「先輩……」

 僕は、口ごもった。彼女のことは嫌いじゃなかったし、寧ろ好きな方だ。振る理由なんてどこにもないけれど、それでも僕は、思われているほどかっこいいやつじゃない。

 奈々子を助けたのだって、自分が苦しむ誰かを放っておけない要領の悪い奴だからだ。

 いや、本当はそんな部分で迷っているんじゃない。

 きっと、僕はまだ。

「嫌よ、そんなの自分でも分かってる!」

「……誰だ?」

 それは突然のことだった、体育館の裏の物陰から叫ぶような声がしてそちらへ向かうと、曲がってすぐのところで僕は、

「ミオ……? どうしてここに?」

 目が合うと彼女は、自分の口を塞ぎ、こちらに背を向けて走り出した。どうして、理解が追い付かず、しかし彼女を追いかけなければならない、そんな気がして走り出そうとした僕を「待って!」小さく震えた声が呼び止める。奈々子だった。

 振り返るべきか迷って、しかし手の平で空を握りつぶした僕は、そのままに答える。

「ごめんなさい。僕は――」

「――あいつのところに行かないと」

 それだけ言って、彼女を見る勇気が沸かなかった僕はミオの後を追った。


        ※


 何度かミオを見失ってしまったが最終的に僕は、こんなところにいたのか、薄っすらと月明かりが差し込み始めた教室、自らの席で顔をうずくめる彼女を見つけた。扉を開けて、僕はそのまま静かに隣の席、僕自身の席に腰を下ろす。

「……もしかしてさ、奈々子先輩との話、聞いてたの……?」

「見てない……何も」

「そっか、じゃあ話すよ。僕、奈々子先輩に告白されたんだ。嬉しかったけれど、断った」

「答えなんて、聞いてない……」

「……ミオのことが好きだったから」

 もっと、聞かれていないことを、求められていないことを、銀色に光って見える彼女の黒髪に向けて僕は言った。

そうしてゆっくりと顔を上げた彼女は、予想していなかったのだろうか、僕と視線が重なって驚いたように目を見開く。その一瞬の間を縫うように僕は言葉を紡いだ。

「だから、僕と恋人になってほしい。アンドロイドとか人間とか関係なく」

「加藤君……私も、本当は、あなたのことが好き……」

 だけど、と彼女は続ける。

「ごめんなさい、あなたとは付き合えない……」

「どうして?」

「理由を話すことはできないわ……だけど、これ以上関係を深めればきっとあなたを傷つけてしまう」

 彼女の想いを知りながらにして、その言葉を受け止めるなんて納得がいかず、その理由を探ろうと口を開いたそのとき、ひんやりとした彼女の肌の感触が僕の頬に触れた。

 抱きしめられて、耳元で彼女の弱々しい声が囁く。

「お願いが二つあるの。一つは、奈々子さんのことを、ううん、人間の女の子をちゃんと好きになって……それから」

「何で……?」

「それから、あなたはきっと憶えてる……思い出して、武村アオイさんのこと」

 武村アオイ、それが誰のことを指しているのか僕には見当もつかないでいると、そっと彼女が身体を離し、自らの髪を後ろで一つに束ねてみせた。

 艶やかな黒髪ポニーテール。

 僕は、その姿を鮮明に憶えていた。頭の中の、引き出しの最奥で眠っていながらも、決して消えてはくれない過去の人、僕が見捨てた親友のことを。

 しかし、そんなはずはない。

 彼女は、人間でアンドロイドじゃない。

 それなのに、どうしてか、彼女の姿とミオの姿が重なって見えてしまう。

「え……」

 動揺して漏れた声、それを聞くと彼女は一瞬、優しく微笑んで、

「私のことは、どうか忘れて」

 そう言って、自らの額を僕の額と合わせる。

 その一瞬、親友との記憶が、アオとの記憶が走馬灯のように頭の中を駆け巡って、そのことに呆気に取られていると、ばたり、そんな軽い音が教室に響いた。

「ミオ……? なあ、ミオ……ミオ!」

 倒れた彼女の身体を抱き起し、訳も分からないままに僕は叫ぶ。閉じられたその瞼に、そのまま彼女が消えて行ってしまうのではないかという不安を覚え、ふと、涙が零れ落ちる。

 彼女の白い頬に涙が一つ流れて、どうすればいいんだ、僕はその頬に手を滑らせた。

 そのとき、彼女の額を飾っていた赤いカチューシャがゆっくりと、やがて橙色に変わっていき、そして、

「やっと会えたね、啓一君」

 突然に目を覚ました。けれど、声の調子も、浮かべられた笑顔の色も、何もかもがミオとは違う。何が起きているんだ、置かれた状況を理解するよりも先に僕の頭は、耳は、目は、彼女のことを理解していた。だから僕は言う。

「アオ……?」

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