第49話 今、ここを楽しむ

 サザエさんシンドロームって聞いたことがありますか? 日本の多くの地域では、サザエさんは日曜の夕方に放送されていて、それが休日の終わりの代名詞になり、明日からまた学校に職場に行かねばならないと憂鬱になること…だそうです。


 まさに私がそうだった。日曜どころか土曜の夜、ドリフターズの8時だよ!全員集合が終わると暗くなる。薄墨色の雲がムクムクと広がり、週明けの学校できっと起こるであろう怖いこと、嫌なことで胸がいっぱいになる。まだ日曜という日が1日あるというのに無邪気に楽しめずに、あぁ終わってしまうと思いながら過ごす。サザエさんはまさに蛍の光だった。    


 私がそうだったと過去形で書いたが、今も…学校も職場もなくなった今も、ふと気がつくと同じようなことを考えている。怖いことや嫌なことが起こらない時間、楽しいときを過ごしていても、あぁこれはあと少しで終わってしまうんだなって、常に終わりを意識している。だからと言って昔みたいにどよーんと鬱になる訳ではないのだが、なぜなのだろうか、終わるのが怖いと思っている。


 もう65歳になる。行かねばならぬ学校も職場もない。親も子もなく夫と二人暮らし。今年から二人で年金をもらうことになる。つましい生活に入る前に、貯金を下ろして旅行に来ている。半年前から計画していた旅行だ。差し迫った心配はなく楽しく過ごしているのだが、日程が1つ終わるときゅーんと寂しくなる。


 2泊した旅館を去るときにリュックに付けた鈴が鳴った。カラカラン。涼やかか、うるさいかは心模様によるが、私はこの旅館に初めて足を踏み入れた日を鮮やかに思い描き、あの時に戻りたい、ひとつ終わってしまったと暗くなった。


 旅館は信州の山のなかにあり、JRの駅から市街地を抜けて30分、迎えのバスは右に左にくねくねと登っていく。道の脇は片方は落ちたら死ぬって様相で、もう片方は70度近い傾斜なのに杉の木が真っすぐ空を指している。熊がいても転げ落ちると思いながら旅館に招き入れられると最初に言われた。熊鈴ですかぁ、ここは熊はいません。鹿がいます。お風呂に入っていると鹿が覗くかも、楽しんでくださいね…。


 思うに私は、ボートを漕いでいる人みたいに後ろ向きで進んでいる。過ぎ去った景色ばかりを観ているのだ。意識をここに戻して、今を生きたい。今の私の器量で楽しみたい。ものを書くことを始めた昨今は、自分の器がさらけ出されるようで恥ずかしい。書くということはそういうことだから、多少歪んだ器でスカスカでも仕方なかろう。それが今の私なのだから。


 「今、ここを楽しむ」には、目の前のことに集中すること。過去は戻らず、未来は今が作りあげる。先のことを心配するのなら、今、できることをやりたい。今、聴こえる自然の声を、目の前にいる人の声を、我が身が発する声を、心に沸き起こる声を集中して聴きたい。


 ここまで書いてきて、かつて或る言葉を調べたことを思い出した。

「メメント・モリ」である。ラテン語で「死を想え」を意味するそうだ。古代ローマ帝国でいくさで勝利をおさめた兵士に対し「いつか自分も死ぬのだから謙虚であれ」という意味を込めた言葉とされている。


 日常によくある終わりで憂鬱になる私が書くのは気恥ずかしいのだが、本当の終わりは、全ての人に訪れる終わりは「死」である。受け入れざるを得ない本当の終わり「死」を受け入れるということは、恐れおののくことでも、自暴自棄になることでも、諦めることでも、努力を無駄だと思うことでもない。「今、ここに在る」ことを感謝すること、怖れや寂しさをいまだ抱える私の器で精一杯楽しんで生きることなのかも知れない。


 



 


 

 

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