第二十四話 現実 -2

 病院について行くのを課長と三途川と自分の3人体制に決めた。課長にばかり負担が行き過ぎている。だからといって誰でもついていけることじゃない。三途川なら何に対しても充分対処できるだろう。忙しい二人だけでジェロームを見ていくのにも限界がある。

(三途さん、ありがとう!)

やはり彼女は頼りになる大人だ。

 そうやって日々が過ぎていく。

『このまま。このままでいいよ』

 誰もがそう思っていた。仕事は出来る、定時までできなくてもその中身は濃くて十分なほどだ。なら何も困ることはないじゃないか!

 ジェイの辛い顔を見ることがみんなの辛さになっていた。


「ジェロームくん、会社でどう?」

「大丈夫そうだ。不思議だよな、仕事してると何でもないんだから」

「そういうもんだよ、仕事って不思議な力をくれるもん」

 前から気になっていたことを思い出した。

「マリエさ、職場で何かあった?」

「え?」

 いきなりの質問に表情を誤魔化しきれなかったらしい。

「なんかあったんだな? なに? 俺に隠さなくちゃならないこと?」

「大したことじゃないし。気にしなくて大……」

「言えよ、俺が隠し事したらお前、どう思うの?」

「……今の職場、やめていい?」

「何があったんだよ! お前がそんなこと言うなんてよっぽどのことだろ!」

 言い淀む真理恵にキツい言葉を投げた。

「いい。今度お前の会社に行く。お前の上司に聞く」

「やめてっ!」

 震えている真理恵の肩を抱いた。ふわふわの髪を撫でる。額にキスを落とす。

「行かない。マリエのいやなことはしない」

「……あのね、その上司に何回か誘われてるの、一緒に夕食に行かないかって」

「なんだって?」

「残業が必要な時期があって……華くん遅いし私が残るって言ったの。聞かれちゃって……ご主人は帰りが遅いのかって。忙しい人なんですって答えた。それから始まったの」

 今の状態の自分に心配を掛けたくなくて、真理恵は我慢していたのだと思う。殴り込みに行こうかと思った。その気配を感じて真理恵が華の腕を掴んだ。

「辞めれば解決するから。他のところに移る。いい?」

「むしろそうしてくれよ。本当に大丈夫? 話しつけに行ったっていいんだよ」

「それ、怖い」

 笑う真理恵に反省した。

「気づいてたのに。ごめんな、ちゃんと聞かなくて」

「ううん、ちゃんと気づいて聞いてくれたんだもん、大変な時なのに。ありがとう。明日辞めるって言ってくる」

 ホッとした顔に、長いこと一人で悩ませてしまったことが申し訳なかった。

「大事にしたいんだ、マリエのこと。俺が忙しいのなんか別問題だから。もう何も隠さないで。俺が頼りにならないかもしんないけど」

『そんなことない』

 そう言いかけた真理恵の口を唇で塞いだ。

   


 課長が冷蔵庫にジェロームの物を買い過ぎるなと釘を刺した。

(確かにあれだけの量、困るよな)

ジェイを見るとそれを聞いてホッとした顔をしていた。

(あんなにデザートや飲み物が好きなのにどうしたんだ?)

 気になって課長席に近づいた。

「課長、昨日の病院で何か分かったんですか?」

「今休憩して来ようと思ってたんだ。一緒にどうだ?」

 ピンときた。課長は自分に用がある。

「何があったんです?」

「お前もつい買ってやるかもしれないからな。お前が一番ジェロームに甘い」

「え、そうですか?」

 女性陣だって甘いだろうに。

「ジョーグルをもう買うな。あいつには飲めない」

「飲めないって、一番好きに見えるけど」

 病院でのやり取りを聞かされた。主治医の友中がジェロームの心に近づいたこと。ジョーグルを飲むのは母に対する贖罪からだったこと。

「ジョーグルを飲むのが自分に対する罰だったってことですか?」

「そうなんだ。好きじゃないけれどお母さんがくれるものだからあいつはずっと飲んでいた。悪いことが起きるとお母さんに対して自分が努力不足だったからだと繋げてしまっている。そのせいでお母さんへの贖罪としてジョーグルを飲む。そうすれば今自分に降りかかっている悪いことから逃れられると信じていたんだ」

 嫌なことを避けたくなる度に『ジョーグルを飲んでいい?』と聞かれた。

(あれは自分に対する罰だったって言うのか?)

そこまで自分を追い詰めていた……

「あいつにジョーグルが回ってきたら俺が飲んでやります」

 課長が驚いた顔をする。

「お前の甘いもの嫌いは筋金入りだろう?」

「いいです。そんな思いしてまで飲むことないんだ。なんだよ、飲むことさえ罰にするなんて……なんでそんな苦しい真似するんだよ……」

 最後の方は呟きだ。

「ありがとう、華。俺がいろいろ気づかないこともあると思う。申し訳ないが頼むな」


 まだまだいろんなことが出てくるのだろう。

(よく屈折しなかったな……)

 ジェロームの入社時期を思い出した。誰も何も受けつける気の無かった顔。表情がほとんど無かった。

『いいのは顔だけよね。佐藤さんが一目惚れとか言って目の前で躓いて見せたらしいけど、落とした資料だけ拾って無言で突き出したそうよ』

『大学じゃないの? 頭はいいみたいだし。鼻にかけてるみたいに見えるけど』

 通りかかった新入社員のそんな声が聞こえた時があった。去年入社した者は少なかったのだから、あれはジェロームのことだったのだと思い当たる。

   


 とにかく忙しかった。だがジェロームが落ち着いてきたこともあり、仕事に集中できた。自分が指揮を執るということがこんなに大変だとは思わなかった。初めての経験に、池沢や野瀬、三途川の支えが有難い。

「華さん、疲れた顔してる」

「うん、疲れてる。けど充実してるんだ」

「そう? きっと真理恵さん、心配してるよ」

 その通りだ。あれから真理恵は仕事を辞め、華の勧めもあって家でのんびりしている。自分が忙しいからそばにいてやれることが減ったが、その分茅平のお母さんがよく遊びに来ているらしい。そのことにホッとした。

(これじゃ何のために結婚したか分かんないよな)

 早く今の仕事の目途をつけたかった。野瀬チームに完全に回してしまえば、そのまま中山に行き、しばらく手から離れる。

 それでもジェロームからは目を離さなかった。

 ジェロームが戦線復帰したことが大きかった。仕事に目途がついて来たのだ。前よりも早く帰ることが出来るようになり、真理恵に笑顔も増えた。週末は一緒にスーパーに行って買い物をする。遠出が出来るほどのゆとりは無かったが、夫婦らしい会話も増えご近所との付き合いにも加わった。

「お宅のいい男の旦那さん! 優しいわねぇ。羨ましい!」

 そんな風に言われたと、夕食時に話す真理恵は嬉しそうだった。



 ジェロームにも仕事も安心して任せられるようになってきた。今は新年度の新入社員のチーム分けにも力を注いでいる。けれどそれ以外はまだ不安定な部分があった。病院通いは当分続くだろう。

(忙しい課長が全部引き受けんのを見てらんない)

 業務とジェロームのことを一手に引き受けている課長のことも心配で堪らない。

 そんなある日、帰ろうと思った時に、疲れた顔の課長がソファで眠っているジェロームに何度も目をやるのに気がついた。

(確かこれからミーティングの資料を作るとか言ってなかったか?)

「課長、まだ残業するんですか?」

「もうしばらくかかりそうだ」

「俺、ジェローム送りますよ。ああやって寝てるの、窮屈そうだし」

「頼んでもいいのか? お前も残業続きだ、真理恵さん、心配してるだろう」

「大丈夫ですよ。マリエもジェロームのこと気に入ってますから」

「……じゃ、頼む。ちょっと今日は無理させてしまってるからな」

「了解です。ちゃんと送り届けますから」

 急いで資料の確認だけをし、帰り支度をした。

「おい、ジェロ―ム、帰るぞ」

「……やだ……ねむい……」

「こら、起きろ。送ってってやるから支度するんだ」

「……華さん? 課長は?」

「今日は華に送ってもらえ」

 課長の返事にジェロームが戸惑っている。

「課長はまだ仕事?」

「今日は遅くなる。しっかり食べろよ」

「……はい……」


 新入社員の面談も砂原と二人で乗り越え、だいぶ疲れが溜まっているらしい。車の中では何度も欠伸が出た。それでも、明日は華のスケジュールをまとめるのだと言う。

「ありがとな。休み休みでいいから。今ひと段落ついてるし」

「真理恵さん、元気!?」

「元気だよ。哲平さん帰ってきたらさ、お前んとこ押しかけてもいいか?」

 哲平は4月からインドだが、その前に数日本社に帰って来る。ジェロームはさっきの眠気も飛んだかのように、すっかりはしゃいでしまった。

(ちょっと煽り過ぎたかな。寝せなきゃいけなかったのに)

けれど嬉しそうな顔が嬉しかった。

「何か食うか?」

「真理恵さんが待ってるでしょ? いいよ、家にいろいろあるから」

「……そうだな。お前も早く寝た方がいいし」


 そんな話をしているうちにマンションが近づいてきた。

「本当にここでいいのか?」

「大丈夫。もう目の前だもん」

 華が車を止めやすいようにと、気遣ったジェロームが下りた。

「じゃ、また明日な」

「ありがとう、真理恵さんにもお休みなさいって言ってくれる?」

「ああ、伝えとくよ。お休み、ジェローム」

「お休みなさい」

(今日も無事に終わったな)

 相田の公判が近い。なるべく今の内に神経を休ませてやりたい。

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